第19話:迫り来る試練
平穏な日常ほど、時に最も恐ろしい隠れ蓑になる。
レイラ教官から、大裂け目の封印を意図的に壊している黒幕が大院長アーヴェル・グランである可能性を告げられてから、三日が過ぎた。
王立紡術院はいつも通り、魔術の訓練と座学に励む生徒たちの活気に満ちていた。
晴れ渡る青空、中庭の芝生で談笑する生徒たち、噴水の上で舞う美しい魔導の光。
だが、ルークの金色の左目には、この学舎全体を覆う巨大な世界帷の微かな揺らぎが、日増しに大きく、脆くなっているのが視えていた。
「ルーク・アスキス。大院長がお呼びだ」
昼休み。繕組の教室に現れたのは、大院長直属の白法衣を纏った二人の上級審議員だった。
冷たい仮面のような無表情。
ガレットが咄嗟に椅子から立ち上がり、ルークの前に立ち塞がろうとしたが、ルークは静かにガレットの手を制した。
「大丈夫だよ、ガレット。……逃げてちゃ、何も始まらないから」
「ルーク……気をつけろよ。何かあったら、大声で叫べ! 壁をぶっ壊してでも突っ込んでやるからな!」
「あはは、ありがとう」
ルークは二人の審議員に挟まれ、本棟の最上階——雲海を見下ろす巨塔へと案内された。
* * *
重厚な白大理石の扉が開かれた先。
大院長執務室は、息が詰まるほどの静寂と冷気に支配されていた。
足音一つ響かない絨毯の向こう、豪奢なデスクの前に、一人の男が立っていた。
アーヴェル・グラン。
背中まで流れる銀白の長髪、透き通るような白い肌、そして底知れぬ深淵を湛えた氷藍色の瞳。
第五階位『天衣』の領域に達した、大陸最高峰の紡術師。
彼の全身からは、目に見える魔糸など一本も放たれていない。
だが、ルークの左目には視えていた。
アーヴェルの全身を取り巻く空間そのものが、寸分の狂いもなく、完璧な純白の神気によって統制されていた。
歪みも、ほつれも、結び目すらも存在しない——絶対の完全無欠。
「……よく来たね、ルーク・アスキス君」
アーヴェルの声は、驚くほど穏やかで、慈愛に満ちていた。
しかし、その優しさは、生きた人間のそれではなく、精密に作られた神像が語りかけてくるような異様さを孕んでいた。
「君の活躍は耳に入っているよ。ヴァルドとの決闘で見せた、相手の術式を解体し再構成する技術……実に興味深い。失われたと思われていた太古の異端技法——『継ぎ接ぎ』だね」
「……買いかぶりです。僕は、正規の紡術が使えない出来損ないですから」
ルークは背筋を伸ばし、慎重に言葉を選んだ。
「謙遜する必要はない」
アーヴェルは窓辺へと歩み寄り、眼下に広がる広大な王都を見下ろした。
「だがね、ルーク君。物は壊れるからこそ美しい、などという感傷は、弱者の慰めに過ぎないのだよ。……君も見たはずだ。この世界を満たす、無数の理不尽な破綻と、ほつれの恐怖を」
アーヴェルが振り返った。その瞳の奥に、凍てつくような狂信の光が揺らめいた。
「この世界『テクストゥーラ』は、不完全な大地を無理やり継ぎ接ぎして作られた、欠陥品だ。だからこそ、人は傷つき、不条理に命を奪われる。……直すのではない。一度すべてを綺麗に解きほぐし、至高の天衣によって、傷一つない完璧な世界へと織り直さねばならないのだ」
「……そのために、世界の裂け目を広げているのですか?」
ルークの問いに、室内の空気が一瞬で氷点下へと凍りついた。
二人の審議員が腰の魔導剣に手をかけたが、アーヴェルは手を挙げてそれを制した。
「君には、才がある」
アーヴェルはルークの鼻先まで歩み寄り、その金と銀のオッドアイを覗き込んだ。
「君のその目と、継ぎ接ぎの力……私の下で、正しく役立ててみないかね? 古き世界を解体し、新世界へと魂を移行させるための『解糸』の鍵として、君を私の筆頭弟子として迎え入れよう。……君の未来を、私が完璧に保障する」
甘美な誘惑。世界最高峰の権力者からの、直々のスカウト。
だが、ルークの心は、微塵も揺らがなかった。
「お断りします」
ルークは真っ直ぐにアーヴェルの瞳を見据え、言い放った。
「僕の継ぎ接ぎは、壊すための力じゃありません。……どんなに不格好でも、傷だらけでも、今ここで一生懸命生きている人たちの暮らしを繋ぎ止めるための力です。世界を壊して作り直すなんて……そんな悲しいこと、僕にはできません」
沈黙が落ちた。
アーヴェルの顔から、一切の感情が消え失せた。
「……そうか。実に、残念だ」
アーヴェルの声は、氷の底よりも冷たかった。
「不完全な泥濘にしがみつく者は、泥と共に沈むしかないのだよ。……下がりなさい」
* * *
執務室を辞し、夕暮れに染まる回廊を一人歩くルークの全身は、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
アーヴェル・グランの底知れぬ狂気と、圧倒的な力の差。
だが、自分の選択に後悔はなかった。
「……ルーク」
回廊の曲がり角。
夕日の影の中から、銀色の髪を揺らして現れたのは、セラだった。
彼女は不安そうにルークの顔を見つめ、駆け寄ってきた。
「無事だったのね……! 大院長室に連れて行かれたって聞いて……!」
「セラさん……うん、大丈夫だよ。心配かけてごめん」
安堵の息を吐いたセラだったが、ふいにその碧眼を伏せ、居心地悪そうに指先を絡め合わせた。
普段の毅然とした氷の令嬢の姿はどこにもない。
迷いと、祈るような切実さが、彼女の小さな肩を震わせていた。
「あのね……ルーク」
「ん?」
「……私の魔術を、見てほしいの」
セラは静かに右手を持ち上げた。
指先から紡ぎ出されたのは、一本の淡い青の魔糸。
空中で幾重にも交差したそれは、小さな雪の華を形作ろうとしていた。
だが——根元の結び目が、無理に締め付けられ、微かに軋んでいる。
「教えて……。あなたが見た、私の『歪み』を。……私、今まで完璧であることだけを求められて、糸を締め付けることしか知らなかった。でも……それじゃ、いけないのよね」
セラの大きな青い瞳から、一筋の涙が頬を伝って零れ落ちた。
彼女の指先で震える氷の糸は、あまりに張り詰めすぎて、微かな吐息ですらプツリと切れてしまいそうだった。
「直して……ルーク。私の魔術を……私の心を、縫い直してほしいの……!」
プライドをすべて脱ぎ捨てた、少女の魂の叫び。
ルークは胸が締め付けられるのを感じ、そっとセラの震える両手を包み込んだ。
「喜んで。……セラさん、少しだけ力を抜いてみてください。深呼吸して」
「ふ、深呼吸……?」
「そうです。完璧に織ろうとしなくていいんです。糸に、息を吸わせてあげるように」
ルークは右手の指貫を触れ合わせ、金色の左目でセラの魔糸の『糸目』を見つめた。
極限まで張り詰めた結び目。ルークは『解糸』の魔力をごく微かに通し、張り詰めた繊維の隙間に指先を滑り込ませた。
力づくで引っ張るのではなく、頑なに絡まり合った糸の緊張を、優しく撫でるように解きほぐしていく。
「ここです。この三番目の交差……少しだけ余裕を持たせて、風が通る隙間を作ります」
「あ……っ」
セラの唇から小さな吐息が漏れた。
強張っていたセラの魔力回路が、すうっと温かい風に撫でられたように緩んでいく。
次の瞬間、二人の手のひらの上で、奇跡のような光景が広がった。
カチリ、と心地よい結晶音が響き、淡い青の魔糸がふわりと丸みを帯びた。
それは今までセラの放っていた冷徹な氷の刃ではなく、春の陽光を透かしたような、優しく透き通る六花——美しく咲き誇る氷の百合だった。
「……これが、私の氷……? 壊れない……こんなに柔らかいのに、少しも砕けないわ……!」
セラは自らの手の中で咲く氷の百合を見つめ、信じられないように瞳を輝かせた。
「完璧じゃなくてもいい。傷があっても、歪みがあっても……セラさんの氷は、こんなにも温かくて綺麗です」
ルークが微笑んだ、その瞬間だった。
ドォォォォォォンッ……!!
大地を引き裂くような爆音と、凄まじい地鳴りが紡術院全体を襲った。
回廊の窓ガラスが一斉に粉々に砕け散り、夕空が赤黒い光によって引き裂かれていく。
校舎の至る所から、生徒たちの悲鳴が響き渡った。
『非常事態警報! 地下最深部結節点の崩壊を確認! 全生徒は直ちに地上広場へ避難せよ!』
けたたましい警報音が鳴り響く中、ルークの金色の左目が、地下から吹き上がる巨大な虚無の暗黒を捉えた。
ついに、その時が来てしまったのだ。
「ルーク……!」
「行こう、セラさん! 僕たちの手で、この学院を守るんだ!」
二人は固く手を繋ぎ、崩壊が始まった地下大空洞へと駆け出した。




