第18話:隠された歴史
地下の巨大な空洞から地上へと戻ったルークたちは、夜の冷たい空気を深く吸い込んだ。
肌を刺すような夜風が、さっきまで目の前にあった巨大な亀裂——『裂け目』の放つ異様な熱と瘴気を、ようやく忘れさせてくれた。
「……信じられない。あれが、僕たちの足元にあったなんて」
ガレットが壁に寄りかかりながら、荒い息を吐き出した。
彼の顔には、まだ恐怖と驚愕が色濃く残っている。剣織りの使い手として、常に前衛で戦う彼でさえ、あの圧倒的な『ほつれ』の気配には圧倒されていた。
「私もよ。まさか、紡術院の地下にあんなものが隠されていたなんて……」
ミーシャも眼鏡のブリッジを押し上げながら、震える声で同意した。彼女の腕には、地下で急いで写し取った古代の記述が抱えられている。
「ルーク」
ガレットが真剣な表情でルークを見た。
「このことは、絶対に他言無用だ。誰かに知られれば、ただじゃ済まない」
「わかってる。……誰にも言わないよ」
ルークは頷いた。
左目の奥が、まだ熱を持っている。
地下で見たあの封印。無数の魔糸が複雑に絡み合い、空間の亀裂を縛り付けていたあの巨大な結界。
あれは間違いなく、『継ぎ接ぎ』の魔術だった。
ルークしか使えないはずの、出来損ないの魔術。
それが、どうしてあんなところに?
* * *
数日後。
放課後の図書室の片隅で、ミーシャが分厚い古書を広げていた。
机の上には、埃を被った古い文献が山のように積まれている。
「ミーシャ、それは……?」
ルークが声をかけると、彼女は周囲を警戒するように見回してから、小さな声で言った。
「図書室の奥にある禁書庫のデータよ。私の『記述魔術』で、こっそりアクセスして書き写してきたの」
「禁書庫のデータを!? 見つかったら退学になるぞ!」
ガレットが身を乗り出して小声で叫ぶ。
「背に腹は代えられないわ。あの地下の封印、そしてルークの魔術。その繋がりを調べるには、表の歴史だけじゃ足りないのよ」
ミーシャは眼鏡を光らせ、古書のページを指差した。
「見て。これは、約八百年前に書かれた紡術院の創設に関する非公開の記録よ」
彼女の指先が、かすれた文字をなぞる。
「『大裂け目』——それが、あの地下にあった亀裂の本当の名前。かつて世界を滅ぼしかけた、巨大な空間の綻びよ」
「世界を滅ぼしかけた……」
「そう。そして、この紡術院は、その『大裂け目』を封印し、監視し、維持するために、意図的にその真上に建てられたの」
ルークは息を呑んだ。
つまり、この学校自体が、巨大な蓋のような役割を果たしているということだ。
「ここからが本題よ」
ミーシャの表情が、さらに真剣になった。
「その『大裂け目』を封印した人物。つまり、紡術院の初代大院長の名前は、歴史の表舞台から抹消されているわ。でも、この記録には残っていた」
「なんて書いてあるんだ?」
「……『彼の手は、切れた糸を結び、破れた布を縫い合わせる。彼の技は織るのではなく、繋ぐことにある』」
心臓が、大きく跳ねた。
「繋ぐこと……」
「そうよ、ルーク。初代大院長は——『継ぎ接ぎ』の使い手だったの」
ミーシャの言葉が、重く響いた。
「嘘だろ……」
ガレットが呆然と呟く。
「ルークの魔術が、初代大院長と同じ……? じゃあ、なんで『継ぎ接ぎ』は出来損ないなんて呼ばれてるんだよ!」
「それが、三代目大院長以降の歴史改ざんよ」
ミーシャは別のページを開いた。
「初代が残した封印は、定期的なメンテナンス——つまり『修繕』が必要だった。でも、『継ぎ接ぎ』の適性を持つ者は極めて稀だったの。二代目まではなんとか繋いだけど、三代目の時代には、もう誰も『継ぎ接ぎ』を使えなくなっていた」
「……」
「そこで彼らは、思想を変えたの。傷を直すのではなく、最初から傷のない完璧な布を織ることこそが至高である、と。それが、現在の『完璧な織り』を至上とする紡術院の教義の始まりよ」
「自分たちが使えないからって、歴史から抹消したってのか……」
ガレットが怒りに震える声で言った。
ルークは、自分の両手を見つめた。
指先には、いつも嵌めている古びた指貫。
物心ついた時から、ルークは壊れたものを直すのが好きだった。
孤児院の破れたシーツ、壊れたおもちゃ、ほつれた服。
周りのみんなからは「そんなの直すより新しいのを買えばいい」と言われた。
紡術院に入ってからも、「魔術の出来損ない」と嘲笑われた。
でも、ルークの魔術は、かつて世界を救った正統な技法だったのだ。
ショックと共に、胸の奥で何かが静かに燃え上がるのを感じた。
「……ルーク」
ミーシャが心配そうにルークの顔を覗き込む。
「あの封印、ルークが直したんでしょ? でも、私、もう一つ恐ろしいことに気づいてしまったの」
「恐ろしいこと?」
「あの封印の劣化……ただの経年劣化じゃないわ。誰かが、意図的に外側から魔術の構造を破壊している痕跡があったの」
背筋に冷たい汗が流れた。
「誰かが、封印を壊している……?」
「ええ。しかも、紡術院の内部の人間よ。あの地下にアクセスできる権限を持った、ごく一部の人間……」
* * *
その日の夕方。
ルークは一人で、教官室に向かっていた。
ミーシャから聞いた話を、どうしても伝えたい人がいたからだ。
「レイラ先生。少し、お時間よろしいですか」
教官室の奥、書類の山に埋もれていたレイラ先生が、顔を上げた。
彼女は鋼織りの使い手であり、ルークをこの紡術院にスカウトしてくれた恩人だ。
「ルーク。どうしました? そんな深刻な顔をして」
「……地下のことについて、お話ししたいんです」
その言葉を聞いた瞬間、レイラ先生の目の色がわずかに変わった。
彼女は無言で立ち上がり、「こちらへ」とルークを別室へと促した。
防音魔術が施された小さな面会室。
レイラ先生は腕を組み、静かにルークを見た。
「地下へ行ったのですね」
「はい。……先生は、知っていたんですか?」
「ええ。知っていました」
あっさりとした肯定に、ルークは驚いた。
「私は、特務教官ですから。あの地下の封印の存在も、それが限界を迎えつつあることも、全て」
レイラ先生は、少し寂しそうに微笑んだ。
「私があなたを辺境のエッジタウンで見つけ、この紡術院に推薦した理由。それは、あなたが『継ぎ接ぎ』の使い手だったからです」
「!」
「数年前から、封印の綻びは深刻な状態になっていました。このままでは『大裂け目』が完全に開き、世界中に無数の『ほつれ』が溢れ出す。しかし、紡術院にはそれを修繕できる人間が一人もいなかった」
先生の言葉が、真っ直ぐにルークの心に刺さる。
「私は世界中を探しました。失われたとされる『継ぎ接ぎ』の適性を持つ者を。そして、あなたを見つけた」
——『見つけた』。
入学式の前、初めて出会った日にレイラ先生が呟いたその言葉。
ただの才能の原石を見つけたという意味ではなかった。
世界を救う唯一の鍵を、見つけたという意味だったのだ。
「先生……僕を、利用したんですか?」
少しだけ声が震えた。
レイラ先生は、悲しそうに目を伏せた。
「そう思われても仕方ありません。あなたに過酷な運命を背負わせることを、私は黙っていたのですから」
「……」
「ですが、私はあなたの優しさに賭けたのです。壊れたものを放っておけない、あなたのその心に。……本当に、ごめんなさい」
先生が深く頭を下げる。
ルークは慌てて首を振った。
「頭を上げてください、先生! 僕は……怒ってなんかいません。むしろ、少し安心しました」
「安心……?」
「僕の魔術が、誰かの役に立つかもしれないって分かったからです。僕はずっと、自分の力が何のためにあるのか分からなかった。でも、もし僕の力が、世界を直すために必要なものなら……僕は、やります」
レイラ先生の目が、驚きに見開かれ、やがて優しく和らいだ。
「あなたは……本当に、強い子ですね」
だが、その直後、先生の表情が再び引き締まった。
「ルーク。あなたに伝えておかなければならないことがあります」
「何ですか?」
「封印が弱まっている原因についてです。あれは単なる寿命ではありません。何者かが、意図的に封印を削り落としているのです」
「ミーシャも、同じことを言っていました。先生は、犯人の心当たりがあるんですか?」
レイラ先生は、重々しく口を開いた。
「証拠はありません。ですが……この紡術院で『継ぎ接ぎ』を歴史から徹底的に抹消し、『完璧な織り』だけを正統とする教義を広め、維持し続けてきたのは、歴代の『大院長』です」
心臓が、早鐘のように打ち始めた。
「まさか……アーヴェル大院長が?」
「分かりません。しかし、彼は現在の紡術院で最も強い権力を持ち、最も地下に近づける人物です」
レイラ先生の瞳に、鋭い光が宿る。
「気をつけて、ルーク。もし彼が本当に封印を壊そうとしているのなら、それを直すことのできるあなたは——彼にとって、最大の『障害』になる」
背筋を這う悪寒。
世界を覆う見えない脅威が、ルークのすぐそばまで迫っていることを、ルークはっきりと理解した。




