第16話:決闘のあとで
消毒薬のツンとした匂いが、鼻腔をくすぐった。
ゆっくりと重い瞼を持ち上げると、見慣れない真っ白な天井が視界に広がる。
ここは、王立紡術院の保健室だ。
窓から差し込む朝の光が、白いシーツを眩しく照らしている。遠くから小鳥のさえずりと、中庭を行き交う生徒たちのざわめきが微かに聞こえていた。
身を起こそうとすると、全身の筋肉が軋むような痛みを訴えた。特に両腕と肩のあたりが、鈍く焼け付くように痛む。
ヴァルドの放った圧倒的な雷撃の衝撃波。それを『裁糸』で解体し、継ぎ接ぎで再構成して受け止めた時の負荷が、肉体に重くのしかかっていた。
「……うぐっ」
「あ、ルーク! 気がついたか!」
ベッドの脇から、聞き慣れた元気な声が上がった。
丸椅子から勢いよく立ち上がったのは、赤毛の長身——ガレット・ドーンだった。
その隣では、薄紫色の髪をおさげにしたミーシャが、抱えていた分厚い資料を落としそうになりながら駆け寄ってくる。
「ルークさん! 無茶しすぎです! 丸一日も眠り続けていたんですよ!?」
「ミーシャ……ガレット……。僕、一日も寝てたの……?」
「ああ! 決闘が終わった瞬間、お前がその場にバッタリ倒れた時は肝が冷えたぜ! だがな、ルーク……お前、今や院内中の一番の英雄だぞ!」
ガレットが興奮を抑えきれない様子で身を乗り出してきた。
「決闘の結果は『引き分け』ってことになったがな、実質的にお前の勝ちだって皆が噂してる! あの傲慢なエリートのヴァルド様を相手に、攻撃魔術を持たない出来損ないが互角以上に渡り合ったんだ! しかも、相手の雷を空中で解体して、綺麗に『直して』撃ち返したんだぞ!? 全校生徒が度肝を抜かれたんだ!」
「相手の魔術を裁ち、継ぎ接ぎで再構成する……。あの瞬間、観客席の教官たち全員が椅子から立ち上がっていました」
ミーシャが眼鏡を押し上げながら、熱っぽく語る。
「紡術の常識では、一度放たれた他者の術式に干渉することなど不可能です。それをルークさんは、まるでほつれた衣服を仕立て直すかのようにやってのけた。……私の原初の紡ぎ手に関する研究ノート、昨夜だけで三十ページも進みました!」
「二人とも、ありがとう。……心配をかけてごめんね」
ルークは苦笑しながら、包帯の巻かれた右手を見つめた。
指貫は無事だった。
あの極限の状況の中で、ヴァルドの雷を解体し、黄金の魔糸で縫い直して放った一撃。
不格好だったが、確かに自分の魔術が通用したという確かな手応えが、胸の奥底に残っていた。
「……あ、そうだ。セラさんは?」
ふと気になって尋ねると、ガレットがニヤリと意味深な笑みを浮かべた。
「おっ、やっぱり気になるか? セラならな、昨日の夕方、お前が倒れてここに運ばれた直後に真っ先に来たぞ。顔を真っ青にしてな、『ルークは大丈夫なの!?』って、あの氷の令嬢が取り乱して保健医の先生に詰め寄ってたんだから!」
「えっ……セ、セラさんが!?」
「ええ、本当に驚きました」
ミーシャも眼鏡を押し上げながら、小さく笑って頷いた。
「今朝も朝一番に、廊下の陰からこっそり保健室の様子を窺っていたんです。目が合うとバッと顔を背けて逃げようとしたんですが、追いかけたら林檎の皮を綺麗に剥いた差し入れの籠を押し付けられて。『目が覚めたら食べさせてあげて。……べ、別に心配したわけじゃないんだから! 私の歪みを直すって約束、果たしてもらう前に倒れられたら困るだけよ!』って、耳まで真っ赤にして去っていきました」
ベッド脇の小さなサイドテーブルを見ると、銀の小皿の上に、芸術品のように美しくウサギ型に剥かれた林檎が並べられていた。
不器用なほど几帳面に整えられたその切り口には、セラの細やかな気遣いがそのまま表れているようだった。
ルークは胸が温かくなるのを感じ、林檎を一つ口に運んだ。
シャキシャキとした瑞々しい甘みと、ほんのりとした冷たさが、疲れた身体と乾いた喉に心地よく染み渡っていく。
「……セラさん、優しいな」
「優しいってか、完全に素直じゃねえだけだな!」
ガレットが肩を竦めて笑った。
「それにしてもルーク、朝から廊下が騒がしいぜ。お前のおかげで『繕組』の看板が一気に跳ね上がった。落ちこぼれどころか、『仕立て屋のルーク』って異名までついて、壊れた魔導具の修繕やら、魔糸の調整を頼みたい連中が列を作ろうとしてるんだからな」
「仕立て屋……?」
「ああ。相手の魔術すら綺麗に直してしまう、最高の仕立て屋だってな」
コンコン。
その時、保健室の扉が控えめにノックされた。
三人が顔を見合わせると、ゆっくりと扉が開き、長身の少年が姿を現した。
金髪の端正な顔立ち。制服の肩口には、まだ微かに包帯が巻かれている。
「……入ってもいいか」
「ヴァルド……!?」
ガレットが咄嗟に警戒して立ち上がる。
「待て、喧嘩をしに来たわけではない」
ヴァルドは静かに片手を上げてガレットを制し、ルークのベッドの足元まで歩み寄ってきた。
その瞳には、決闘の時のような刺々しい敵意は完全に消え去っていた。
「体調はどうだ、ルーク・アスキス」
「うん、もう大丈夫だよ。ヴァルドこそ、怪我は……」
「大したことはない。我が家の専属治癒術師に魔力を流させれば、一日で治る」
ヴァルドは腕を組み、視線を窓の外へと向けた。
何かを言い淀むように唇を引き結び、それから小さく息を吐き出してルークに向き直った。
「……昨日の決闘、見事だった。俺の放った『雷鳥』……あれを空中でバラバラに解体し、あまつさえ俺の魔力回路より洗練された雷に直して撃ち返してくるとはな。完敗だ」
「引き分けだったよ。最後は僕も魔力が尽きて倒れちゃったし」
「結果はどうあれ、精神的に敗北したのは俺だ」
ヴァルドは自嘲気味に口元を歪めた。
「俺はこれまで、父上から教え込まれた『完璧な力で敵をねじ伏せること』だけを信じてきた。だが、お前の魔術は違った。……俺の雷を受け止め、傷を塞ぐように繋ぎ直してくれた。あの瞬間、俺の中にあったくだらないプライドが、粉々に砕け散ったよ」
ヴァルドはルークの目を真っ直ぐに見据えた。
そして、声を一段低く落とした。
「……忠告に来たのだ」
「忠告……?」
「父上——アーヴェル・グラン大院長のことだ」
ヴァルドの表情が、かつてないほど険しく引き締まった。
「昨夜、父上の執務室に呼ばれた。父上はお前との決闘の結果に、酷く失望していた。……だが、それ以上に、お前の『継ぎ接ぎ』という力に対して、異様なまでの警戒心を露わにしていた」
室内の空気が、急激に張り詰めた。
「父上はお前を、単なる落ちこぼれの出来損ないなどとは見ていない。……自らの崇高なる理念を脅かす『異端の害毒』として、排除する機会を伺っている。お前が目立てば目立つほど、父上の放つ罠は深く、冷酷なものになるはずだ」
ヴァルドはルークの肩にそっと手を置いた。
「気をつけろ、ルーク。……俺は、お前のような面白い男が、父上の暗闘に巻き込まれて消されるのを見たくはない」
「ヴァルド……君は、大院長の息子なのに……そんなことを僕に話して大丈夫なの?」
ルークが問うと、ヴァルドはふっと不敵な笑みを浮かべた。
「俺は父上の所有物ではない。……俺の雷を直してくれたお前に、借りを返しただけだ」
ヴァルドは踵を返し、足早に保健室を出ていった。
残された三人は、重苦しい沈黙の中にいた。
「大院長直々の警戒か……」
ガレットが苦々しげに頭を掻いた。
「とんでもねえ大物に目をつけられちまったな」
「ええ。ですが、それはルークさんの力が、それほどまでに本物であることの証明でもあります」
ミーシャが真剣な眼差しでルークを見つめた。
「……うん。僕にできることを、一つずつやるだけだよ」
ルークはサイドテーブルの林檎を飲み込み、力強く頷いた。
しかし、その平穏な休息は長くは続かなかった。
その日の深夜。
退院して自室のベッドに横たわっていたルークの足元から、再びあの不気味な地鳴りが伝わってきたのだ。
ゴゴゴゴゴ……と床を震わせる異様な振動。
ルークの金色の左目が、熱を帯びて激しく疼き始めた。
(地下だ……! 地下深くで、また何かが引き裂かれようとしている!)
ルークは跳ね起き、革の指貫をポケットに突っ込んで部屋を飛び出した。
紡術院の深淵に隠された秘密へと通じる、暗い夜の階段へ向かって。




