第12話:氷の孤独
冷たい月の光が、白大理石の床に青白い影を落としていた。
王立紡術院の女子寮、その最上階にある特別個室。
名門貴族ヴァルシュタイン家の令嬢にのみ与えられたその部屋で、セラ・ヴァルシュタインは机の上に置かれた一通の手紙を見つめていた。
封蝋に刻まれているのは、ヴァルシュタイン家の家紋——氷の結晶と剣。
父であり、現当主である公爵からの親書だった。
『中等部セカンドクラスの月例考査、首席の維持は当然である。
だが、実技における魔力収束速度にコンマ三秒の遅れがあったとの報告を受けた。
ヴァルシュタインの名を冠する者が、不完全な魔術を披露することは許されない。
完璧であれ。完璧であることのみが、お前が我が家に存在する唯一の価値である』
紙を握りしめるセラの白い指先が、微かに震えていた。
文字の一つ一つが、凍りついた刃となって胸をえぐる。
幼い頃から、この言葉だけを聞いて育ってきた。
食事の作法、立ち居振る舞い、学問、そして何よりも『氷織り』の技術。
九十九点は零点と同じ。百点満点でなければ、存在を否定される。
失敗した夜には、暖房のない氷の礼拝堂に閉じ込められ、夜通し完璧な結晶を織り上げるまで出してもらえなかった。
「……完璧、でなければ」
セラは自嘲気味に呟き、手紙を机の引き出しの奥深くへと押し込んだ。
引き出しの隅には、古びた小さな木彫りの小鳥が隠されていた。
羽の一部が欠け、素朴な塗料が剥げかけた、不格好な小鳥。
それは、彼女が七歳の時に病で亡くなった母が、遺してくれた唯一の形見だった。
『セラ、無理をして泣くのを我慢しなくていいのよ』
『不完全だからこそ、人は誰かと手を取り合えるの。完璧じゃなくても……あなたの氷は、こんなにも綺麗よ』
そう言って頭を撫でてくれた母の温もり。
だが、母が亡くなったその日から、父は母の遺品をすべて焼き払い、セラから「弱さ」を許す余地を完全に奪い去った。
以来、セラは心を凍らせた。
完璧な仮面を被り、誰にも隙を見せず、氷の天才として君臨し続けることだけが、自らを守る唯一の術だった。
それなのに——。
『あなたの氷織りは、とても美しかったです。でも……少しだけ、「歪み」が見えました』
あの少年の言葉が、耳の奥から離れない。
ルーク・アスキス。
魔術の出来損ないと呼ばれ、誰からも嘲笑されていたはずのオッドアイの少年。
彼が中庭の練習を見ただけで見抜いた、自分自身すら気づかないふりをしていた魔糸の窒息。
完璧に織ろうとするあまり、糸と糸を力任せに締め付け、悲鳴を上げさせていた心の歪み。
「……あんな出来損ないに、私の何がわかるというのよ」
セラは外套を羽織り、部屋を飛び出した。
部屋に一人でいると、息が詰まりそうだった。
* * *
夜の冷気が肌を刺す中庭。
生徒たちの誰もが眠りについた深夜、セラは一人、石畳の中央に立っていた。
右手を掲げ、青白い魔糸を紡ぎ出す。
「——《氷結の糸、五の綾。結びて華となれ》」
空中に青白い結晶の華が咲き誇る。
いつも通りの完璧な構築。寸分の狂いもない魔力比率。
だが、ルークの言葉を意識した瞬間、指先に迷いが生じた。
花びらの根元——魔糸を緩めようとすると、全体の均衡が崩れ、パリンッ! と甲高い音を立てて氷の華が粉々に砕け散った。
「くっ……! もう一度……!」
再び魔糸を繰り出す。だが、次も砕ける。
三度目も、四度目も。
完璧を求めれば息が詰まり、緩めようとすれば形を維持できない。
十何年も積み上げてきた自分の魔術の基盤が、音を立てて崩れ去っていくような恐怖。
「なぜ……なぜ織れないの……!?」
冷たい夜風の中、セラの額に脂汗が滲む。
肩で息をし、震える膝に手をついた。
砕け散った無数の氷の破片が、月明かりを浴びて足元に散乱している。
それはまるで、自分自身の壊れた心そのもののように見えた。
「……セラさん?」
不意に、暗闇の奥から柔らかな声が届いた。
ビクッと肩を震わせて顔を上げると、回廊の柱の陰から、黒髪の少年が恐る恐る姿を現した。
ルークだった。
手には、図書室から借りてきたと思われる分厚い魔導書を抱えている。
「……あなた、なぜここにいるの」
セラは咄嗟に氷の冷淡な声を取り繕い、背筋を伸ばした。乱れた前髪を払い、弱みを見せまいと睨みつける。
「あ、すみません。夜遅くまで図書室でミーシャと文献を調べていて……部屋に戻る途中、中庭で魔力の光が見えたので」
ルークは足元に散らばる氷の破片を見て、それからセラの青ざめた顔を見つめた。
「……また、一人で練習していたんですね」
「関係ないでしょう。私の勝手よ」
セラは冷たく言い放ち、踵を返そうとした。
「あなたに私の魔術を見るなと言ったはずよ。……それとも、完璧に織れなくなった私を、嘲笑いにでも来たの?」
「そんなわけないよ!」
ルークの強い声が、セラの足を止めた。
振り返ると、ルークは真っ直ぐに澄んだ金と銀の瞳で、セラを見つめていた。
「嘲笑うなんて、絶対にしない。……僕には、セラさんがどれだけ必死に魔術と向き合ってきたかが、その氷の破片を見るだけで分かります」
ルークは足元に落ちていた氷の欠片をそっと拾い上げた。手のひらの熱で溶けていく破片を見つめながら、静かに語りかける。
「僕の継ぎ接ぎは、壊れたものを直す魔術です。だから、壊れそうなものが放つ悲鳴が、金色の左目を通して痛いほど伝わってくるんです。……セラさんの氷は、泣いていました。完璧でいなきゃいけないって、自分をギリギリまで締め上げて……今にも壊れそうだった」
「っ……!」
セラの胸の奥で、何かが激しく軋んだ。
誰も気づいてくれなかった。
父も、教官たちも、級友たちも、誰もが彼女の「完璧な結果」しか見ていなかった。
その裏で、どれほど心を削り、血を吐くような孤独の中で氷を紡ぎ続けてきたのかを——。
出会ったばかりの、この出来損ないの少年だけが、正確に見抜いていた。
「余計な……お世話よ」
セラは唇を強く噛み締めた。油断すれば、涙が零れ落ちそうだった。
「私には、完璧であることしかないの。完璧でなくなったら……私には、生きている価値なんてないんだから……!」
「そんなことない!」
ルークは一歩、セラへと近づいた。
「完璧じゃなくたっていい。傷があっても、歪みがあっても、セラさんが一生懸命紡いだ氷は、誰よりも綺麗です。……壊れたら、直せばいいんだから」
「……直す……? 壊れた心を、直せるというの……?」
かすれたセラの問いに、ルークは温かく微笑んだ。
「僕が、何度でも繋ぎ直します。セラさんが望んでくれるなら」
その言葉は、凍てついていたセラの心の奥底に、小さな、だが決して消えない春の陽だまりのような熱を灯した。
セラは何も言い返せなかった。
ただ、震える拳を胸元で握りしめ、溢れそうになる感情を押し殺すように俯いた。
「……明後日の決闘、負けたら許さないんだから」
セラはそれだけを絞り出すように呟くと、外套を翻して早足で回廊の闇の中へと消えていった。
残された中庭で、ルークは彼女の去った方向を静かに見送った。
拾い上げた氷の破片は完全に溶け、ルークの手のひらに、温かい雫となって残っていた。
空を見上げると、群青の夜空に浮かぶ銀の月が、どこかセラの冷たく澄んだ瞳に似ている気がした。
* * *
石造りの男子寮に戻り、軋む階段を上がって部屋の扉を開けると、室内にはまだランプの明かりが灯っていた。
ガレットがベッドに腰掛け、魔導砥石で愛用の大剣の刃引きを丹念に手入れしていた。
金属と砥石の擦れ合う乾いた音が、静かな部屋に小気味よく響いている。
「おう、遅かったじゃねえか。図書室の虫になってたかと思ったら、中庭の方から微かに冷気が流れてきてたからよ。……セラと会ってたろ」
「えっ……ガレット、気づいてたの?」
ルークが目を丸くすると、赤毛の親友はニッと白い歯を見せて笑った。
「当たり前だろ。あのお嬢様の氷の魔力は、遠くからでも肌がピリつくくらい鋭いからな。……で、どうだったんだよ。『直すのは、相手が望んでくれないとできない』って、昼間にミーシャの前でカッコつけて言ってたくせに」
「からかわないでよ……。そんなつもりじゃなかったんだけど、中庭で一人、壊れそうになりながら練習してるのを見たら……放っておけなくて」
ルークは手洗いの水差しで顔を洗い、タオルで拭いながら小さく息を吐いた。
「ハッ、やっぱりな! お前はそういう奴だよ」
ガレットは大剣を手入れ布でひと拭きすると、鞘に収めてカチャリと音を立てた。
「頼まれてもいねえのに、壊れちまいそうな奴が目の前にいたら、勝手に針と糸を引っ張り出して縫い合わせちまう。……お前のお節介は筋金入りだ。だがよ、ルーク」
ガレットの表情から冗談の色が消え、真剣な眼差しがルークを捉えた。
「明後日は、あのヴァルド・クレインとの決闘だ。お前がセラの心配をしてる場合じゃねえぞ。あいつの雷は本物だ。紡術院でも一、二を争う攻撃力だ。下手をすりゃ命に関わる」
「……うん。分かってる」
「分かってねえよ。お前はすぐ他人の心配ばかりして、自分の身を後回しにする。……いいか、ルーク。セラの心を直すのも、壊れた世界を繕うのも、全部お前が生きて立ってなきゃ始まらねえんだ。明後日の決闘、何が何でも生き残れ。俺たち繕組の意地を見せてやれよ」
「……ありがとう、ガレット」
ルークの胸の奥に、じんわりと温かい誇りが広がっていく。
出来損ないと呼ばれ、誰からも見向きもされなかった自分が、いまこうして背中を預け合える友人と出会えた。
机の上には、マルタからもらった年季の入った銀の指貫が、ランプの火を浴びて静かに鈍い光を放っている。
完璧を求められ、心を凍らせたセラの氷。
己の誇りと大院長の影を背負って立ちはだかるヴァルドの雷。
そして、壊れたものを繋ぎ止めるためにしか使えない、ルークの継ぎ接ぎの針と糸。
それぞれの想いが交錯する決闘の刻は、もう目前に迫っていた。




