1話「角兎、二つの月」
ジュウッと肉の脂が火に落ち、焚べた枝がパチパチと爆ぜた。
生木に刺し通された獣肉が、香ばしい匂いを漂わせ始める。
「……兎か」
石動玄斎は腰袋から岩塩を取り出し、指で欠いて振りかける。
指先が、何気なく塩粒を砕いて擦りつけるさまは、それだけで尋常ならざる力を感じさせた。
焦げ目がついた肉を火から下ろし、足をもぎ取って豪快にかぶりつく。
獣脂が顎を伝い落ちるのも構わず、むしゃぶりついた。
「……うまい!」
山で育った彼に兎肉は珍しくもない。
だが、この旨味は格別だった。
夢中で食い尽くし、ようやく腹の虫が収まると、玄斎は夜空を仰ぐ。
そこには、『月が二つ』。
さらに──喰らった兎の頭には、角があった。
そしてーーー玄斎は『若返って』いた!
身の丈は六尺(約185㎝)あった巨漢が、これはおおよそに、五尺四寸五分(約165㎝)だろうか。
腕、足、胴⋯鍛え込まれたものではあるが、かつてのものが年を経た巨木であるなら、これは小枝に若木。
全身に刻まれた傷も無くなっている。
見た目はまだ青年にすぎぬが、その風貌には獣のような獰猛さが宿り、筋肉はまるで鋼の蔦が絡み合ったような力強さを思わせる。
それでも、鋭い目差しの奥には、どこか優しさが漂っていた。
先刻まで着ていた行衣。
下は袴に脚絆。
そして、草履に至るまで身から余りきっていた。
腰紐で上下を捲りあげて、ようやく衣の体裁を保っている感じだ。
その腰紐には、短刀が差され、あと腰袋、そして紙を束ねた冊子がぶら下がっている。
「……さて、どうしたものか」
玄斎は、ここに至る経緯を思い出す。
とある寺から助力を請われた。
異形退治の依頼など日常茶飯事。
だが、今回は相手が悪かった。
鬼。
しかも長き年月を生き延びた、老いたる大鬼である。
石動玄斎の修めるは「闇修験法」。
身法・真言・符術・結界術──合わせて闇修験の四法と呼ばれる。
そのすべてを尽くしても、鬼の力は圧倒的だった。
ゆえに、玄斎は踏み込む。
四法の裏に秘されし禁忌、『死法』の領域へ。
己の血肉を削り、命を代価に振るう、破滅の術。
死闘の果て──。
鬼が吠えた。
「鬼道、神隠し!」
玄斎が血反吐と共に吐き叫ぶ。
「オン・ジャクン・バザラ・キリカ・ウン!」
玄斎の頭上に金色に輝く輪環が顕れた。
鬼の咆哮と玄斎の真言が重なった刹那。
玄斎の背後で黒き帷が落ちて、世界が裂けた。
刹那、鬼に向かって金色の輪環が走る。
勝ちを悟った鬼の顔が、ニヤリと笑う。
鬼は見ていた。
男が自らの放った黒き帷に飲み込まれていく様を。
……だが、男の体の半分以上が闇に呑まれるそのとき。
鬼の見ている景色がぐらりと揺れ、そして反転した。
玄斎は見ていた。
己の血肉を代価にして顕現させた死法の一つ。
金剛すら切り裂く金色の刃が、鬼の首を落とした様を。
闇に飲まれながら⋯。
ただ己が仕事の終わりを見届けるように、満足そうに。
そして──石動玄斎の姿は忽然と消えた。
そして今──。
異なる月の下、角兎を喰らいながら──石動玄斎は異世界にいる。
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