序章 「夜半の河原」
永禄十年(1567年) 信濃国・千曲川の夜半の河原。
静まり返る水面の向こう、月明かりを浴びてひときわ異様な存在が立っていた。
夏の終わりを告げる生暖かい風が、湿った土と草の匂いを運んでくる。
男の身長は六尺ほど。
肩幅は広く、胸と腕の筋肉は岩のように盛り上がっている。
首の筋まで浮かび上がり、骨格そのものが力強さを主張していた。
黒髪は無造作に後ろで束ね、額や頬にかかる髪が月光をわずかに遮る。
顔には無数の深い傷跡。鋭い眼光は闇を切り裂くかのように光っていた。
ただ、その厳つさの奥には、かすかな人間味も残っている。
男の名は――石動玄斎。齢三十八。
山で育った修験者であり、祈祷や護符、結界の術を自在に操る。
闇に潜み、人ならざる化生を祓うことを生業とする者。
人は彼を「闇修験者」と呼んだ。
だが、畏れと蔑みを込めてこうも言う。
――闇を行くもの。
――闇行。
闇行、石動玄斎。
闇に身を沈め、誰にも頼らず生きてきた孤独が、その背に染みついている。
彼は腕をだらりと垂らし、無造作に歩く。
ただそれだけで、川辺の小石を踏む音すら、彼の歩調に合わせて震えるようだった。
そのとき。
水面の向こうから黒い霧が立ちのぼる。
やがて人の形を――いや、子どものような姿を作り出した。
だが、それは人ではない。
ぐにゃりと伸びた手足。
赤く光る瞳。
口から漏れる、不気味な笑い声。
「ンギャー、ギャッ、ギャァー……」
玄斎は歩調を変えず、その影に近づく。
一間の距離をとったところで立ち止まった。
もわりと熱気が立ち上がり、彼の体のまわりの空気が揺らぐ。
月明かりに照らされたその肉体は、まるで岩の彫刻が動き出したかのような威圧感を放った。
影は歪み、ねじれるように手足を伸ばしながら空中に揺れる。
月光に浮かんだ顔は――幼い容貌をしたまま、微妙に歪んでいた。
「ヒヒッ……ヒヒッ……」
赤い瞳。裂ける口。乾いた泥のような皮膚。
子どもの姿なのに、恐怖と嫌悪しか抱かせない異形。
「夜泣き童子……」
玄斎が低くつぶやく。
「ばかし遊ぶだけなら、よかったものを」
異形が一気に飛びかかってくる。
伸縮する手足が鞭のようにしなり、宙を切り裂いた。
玄斎は――微動だにしない。
手首ひとつ、肩ひとつで攻撃線を外す。
空振りした異形はたたらを踏む。
その瞬間、玄斎の前蹴りが閃いた。
「――っ!」
異形は鞠のように吹き飛び、川の浅瀬へ転がり落ちる。
それでもよろよろと立ち上がり、再び跳びかかる夜泣き童子。
だが玄斎は流れるように回り込み、右拳を胴に叩き込んだ。
水しぶきが夜空に舞い上がる。
「……飯のためだ。仕方ねぇ。これで数日は食いつなげる」
低い呟きが、川のせせらぎに混ざった。
その目には確かな殺意と――そして哀れみが宿っている。
夜泣き童子は絶叫し、ねじれた手足を突き出して突撃する。
玄斎は正面から突っ込んだ。
「オン・アグニ・ソワカ!」
両掌に、紅蓮の炎が灯る。
夜の川面が、赤い光を反射して揺らめいた。
「ふんっ!」
右足を踏み込み、双掌を異形の胸に叩き込む。
炎に貫かれた夜泣き童子は、赤子の泣き声、女のすすり泣き、老人のうめき……。
幾つもの声を重ねながら、やがて川面に溶けて消えていった。
静寂。
せせらぎと夜風の音、そして秋を先取る虫の声が戻ってくる。
玄斎は掌を下ろし、濡れた川石を踏みしめて呟いた。
「……もう、迷い泣くんじゃねぇぞ⋯」
遠くで鈴虫の音が静かに響き、夜空の闇へと溶け込んでいった。
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