使命感
お互い見覚えくらいはあるものかと思っていたが、少年の反応からするとどうやらそうではなかったらしい。イーズは身体を起こしてやって、水の入ったコップを手渡した。丸っこい目がぱちぱちと瞬いた。
「ありがとうございます。あなたは一体……」
「イーズと呼んでくれればいい」
「イーズですね。僕は」
少年は口を閉ざした。不自然に言葉が途切れた。目線が落ち着きなくあちらこちらに散り、そわそわと不審な挙動をし始めた。
「ええと、僕は……すみません、頭がぼうっとして。ええと、あれ? ここはどこでしたっけ?」
少年は混乱しているようで、顔がどんどん青褪めていく。ぶつぶつと誰に向けてでもない言葉を発して、イーズはどうすべきか分からないのでそれをじっと眺めていた。
「え、あ、誰、誰ですかあなた、どこですかここ!」
少年がわあわあと騒いでイーズに毛布を投げ付けた。痛くはないので問題なかったが、イーズは反応に困ってだんまりを決め込んだ。騒いでいるだけなら放っておいてもいいだろうと、イーズもベッドに腰掛けた。しかし少年が次に手に取ったのは枕元のランタンだった。
がこん、という衝撃と高温。イーズの額に当たったランプが床に落ちた。しっかり痛かったので手を当てると、右手の指が血で濡れた。胸のぽわぽわを忘れ去るほどの妙な高揚と共にイーズの脳の髄が冷めていく。
殺してあげなくては。イーズは何故かそう思った。あまりに唐突で心が着いていかない。
イーズはまず毛布を投げ返した。重い布に引っかかってもたつく少年の腕を押さえ付け馬乗りになる。少年は小柄なこともあってイーズに比べれば随分と非力なもので、片手だけで両腕をまとめて拘束できた。イーズはもう片方の手を一瞬だけどうすべきか迷って、それでも結局首へと持っていった。
「わああ! やだ! 嫌だ!」
「うるさい」
イーズが手に力を込めれば、少年は叫ぶこともできずに苦しそうに潰れた声を漏らすだけだ。代わりにばたばたと身体が跳ねて、イーズを押し戻そうと大して意味のない抵抗をした。壁にぶつかる音とベッドの軋む音、それらが段々と弱くなり始めた時、部屋の扉が叩かれた。
「ちょっと、どうしたんだい。入るよ、いいね!」
リュカの声だ。勢いよく部屋に入ってきたリュカは驚きながらつんのめって、イーズと少年を見ると更に驚いて目を丸くした。
「やめろイーズ、やめるんだ!」
リュカがイーズを引き剥がそうとしたものの、少年の抵抗と合わせてもイーズの手は動かない。こんなに怪力だったのかと驚いたが、とにかく止めねばならない。リュカは後ろからイーズを羽交い締めにして、全体重かけて後ろに引っ張った。さすがに少年の拘束は解けたものの、リュカはそのまま床に落ちてイーズの下敷きになった。
「いててて、ほら、落ち着けイーズ」
「何故止める」
「逆に何でこんなことしてるのさ!」
少年はげほげほと咳き込んで、今度はぐずぐずと泣き出した。リュカが宥めてやると泣き疲れて眠った。その間それを眺めているイーズの顔には警戒の色があった。
「殺そうとしてただろ。どうして?」
「攻撃された」
「だからって。猶予ってものがあるだろ」
「様子見してたら痛い目に遭う。攻撃してくるなら敵だ」
イーズは自身が落ち着きを取り戻しているのを自覚した。これが本音で間違いないはずだ。あの衝動的な、使命感のような殺意はとうに消え失せていた。
行動基準がまるで違うイーズを前に、リュカは風呂に入る前に過った前途多難の文字を早速味わうことになった。ランプを拾い上げると暗がりに隠れていたイーズの顔がよく見えて、リュカはそこでイーズの額に血が滲んでいることに気付いた。
「あの子がやったの?」
イーズは頷いた。リュカの評価では、イーズは野生の小動物並みの瞬発力と反射神経がある。それが額に傷を負わされているのだ。おそらく不意打ちか何か、ともかく先に手を出したのは少年の方だろうと判断した。
「イーズ、そこ座って。これ薬箱? 使わせてもらうよ。手当てするから」
「これくらいならいらない」
「いいからほら。痛かったね」
箱の横に手紙らしきものが置かれているのを見付けたが、リュカはまずイーズの血を拭いてやった。ぽんぽん、と優しくガーゼを当てられて、イーズはまた得体の知れないぽわぽわが胸の内に湧き上がるのを感じた。
「村で相当恐ろしい目にあったんだ。錯乱しちゃったんだろうね。許してあげられない?」
「許す得がない」
「イーズは力が強いからどうとでもできる。そう思うとちょっとは余裕を持って見てあげられないかな。この子の周りに投げられるものは置かないようにしてさ」
イーズは頷いたが渋々といった様子だ。リュカは困ったように頭を掻いた。
「部屋を交換しよう。イーズは僕の部屋で寝て」
リュカはぐいぐいとイーズの背中を押した。その間もイーズが不服そうにしているのは見ないふりをした。それじゃあおやすみ、と部屋に押し込めてそこで、リュカは先程扉が簡単に開いたこと、イーズのかつての住処が馬小屋であることを思い出した。
「そうだ、戸締りはちゃんとしないといけないよ。扉を閉めたら金属の棒を横に差し込むんだ。いいね?」
「分かった」
「よし」
重い金属の擦れる音が止まるところまで見守ってリュカも2人部屋に戻った。
リュカは少年が眠っているのを再度確認して、薬箱の横にある手紙を手に取った。他人の手紙を読むなど不躾極まりないが、寝ている間に指輪の適合を試すくらいのことはするリュカである。神託に関する情報収集の一環だと自身に言い聞かせた。
「主神ゼ・アの神託か……」
リュカはふむ、と腕を組んだ。果たして神託を受けた勇者は何名いるのだろうか。火の神ヴァルマと風の神フィニからの神託があったのだ、水の神ミュリと大地の神ドルゴからもあっておかしくないだろう。
この世界で信仰される神のうち、特に力を持ち信仰組織が形成されるほど信徒がいるのは6名だ。筆頭の主神ゼ・ア。主神に次ぐ地位と言われる祈りの女神リナト。そして4属性の神々。他国や別大陸にいる可能性もあり、そうなると情報が伝わってくるまで時間がかかっても不思議ではない。
兎にも角にも眠気に従って休みたくなり、リュカはもう一度少年の様子を窺った。深く眠っているようであるし、これならば自分も眠っていいだろうと横になった。リュカもまた、襲われたら襲われたでどうにでもできると自負していた。
末っ子の四男坊である彼の才は、家や領地の運営とはなんの関係もない魔法だった。両親や上の兄弟姉妹はそれを大層褒めて誇ってくれたものの、リュカはどうにも空虚だった。これが役に立つような事態は起きない方がいいのだ。そういう意味でも、リュカは神託に従って巨悪を討つことに乗り気ではない。
おやすみ。誰にでもなく呟いてリュカも目を閉じた。




