ぽわぽわ
「呼び名がないと困るんだ。イーズじゃ駄目?」
「それは適当な名前なんだ」
「そう、じゃあ別の名前でいいよ。村で暮らしていたんだろう。呼び名くらいあったんじゃないのかい」
「いくつか。よく呼ばれていたのは、ドブネズミ、寄生虫、馬糞野郎。このあたりか」
リュカは沈黙した。村でのイーズの立ち位置がなんとなく見えたからだ。リュカはベッドに寝かされている少年を一瞥した。何故イーズはこの少年を連れてきたのだろう、と改めて疑問に思った。話したこともないというなら、少なくともこの少年はイーズを助けたり寄り添うことはしてこなかったはずだ。
「親は」
「いない」
「1人暮らし? どうやって暮らしてたの」
「もう使われていない馬小屋があったのでそこに住んでたんだ。食事は狩りをしたり、野生の果物をとったり、芋を育てたりしていたな」
馬小屋。だから馬糞野郎か。分かりたくもないことが分かって、リュカは頭を抱えたくなった。イーズの村に孤児院があったかは分からないが、彼自身がそうであるのにそう扱われてこなかったのだ、発想としてなくてもおかしくはない。
「名前を」
「ん?」
「貰ってくれないかと言われていたんだ。俺の村の神父に。きっと困る時が来るからと。いつも断っていたんだが、貰っておけば良かったと思う。俺には不要なものだが、イーズと名乗るくらいなら」
「そんなに嫌いな名前ならどうしてそう名乗ったの」
「その場限りの付き合いだと思ったんだ。長い付き合いになるなら名乗ってなかった」
リュカは疲れていた。なので早く休みたかった。しかしここで切り上げて部屋に戻るのも何か違うよな、とも思った。
「お風呂行こうか」
「お風呂?」
「裸の付き合いってやつ。悪いけど、君がどういうつもりであっても、分かりましたそれじゃあさようならと手放すわけにはいかないんだ。僕に付き合ってもらうよ。お風呂くらい一緒に入れなきゃね」
イーズは頷いた。これからリュカと共に行動するのを想像してみたが、不思議とこれっぽっちも嫌な気分にならなかった。
「ところでお風呂というのは何か必要な準備はあるか」
「えっ?」
前途多難、がリュカの頭を過った。
浴場に入ってまず、イーズはまとわりつくような湯気を首を振って払おうとした。リュカはそれを野生の動物のようだと思った。放っておくと何をするか分からないので、つん、つん、と浴槽の湯をつついてじっと見つめているイーズの腕を引き椅子に座らせる。
「お湯かけるよ」
「え」
ざば、と頭から勢いよく湯を浴びせらせ、イーズは驚いて身を跳ねさせた。
「お風呂入ったことないの?」
「ない」
「身体汚れたらどうしてたの」
「川で水浴びをしていた」
「身体とか髪とか、何で洗うの」
「灰で洗う」
「冬はどうしてたの」
「冬もそうしていた」
「うわぁ」
リュカは泡立てた石鹸でイーズの髪を洗ってやった。ろくに手入れされていない、褪せたようなくすんだような、傷んだ髪だ。イーズは案の定石鹸についても知らず、リュカは訊かれれば答えてやった。
「僕は身嗜みにはうるさいんだ。僕と一緒に旅するからには身なりは整えてもらうよ」
「変な気分だ」
「そのうち慣れるよ。君、多分ちゃんと綺麗にすればちゃんと格好いいよ。目閉じて。石鹸は目に入ると痛いよ。さ、お湯かけるよ」
「ん」
「ほら。綺麗な金髪じゃないか、勿体無い。身体は自分で洗っておくれよ。石鹸はこうやって、濡らしてから擦れば泡立つから」
イーズはずっと落ち着かなかった。大量の湯気も石鹸も浴槽も記憶にある限りでは今日が初めてだ。なんとなく居心地が悪くて気を逸らしたくなった。
「リュカはどうやって暮らしてたんだ。俺はあまり詳しくないんだが、こうやって旅して俺と一緒にお風呂に入っててもいいのか。貴族ってもっと、統治? そういうことをしてるんじゃないのか」
「ああ、僕? 貴族といってもそんなに大きな家ではないんだ。せいぜい小金持ちってくらい。まして僕は末っ子の四男坊だからね、もう家にほとんど仕事は残ってないんだ。兄たちも優秀だし」
「旅は仕事にはならないのか」
「うん。活動支援金くらいは出るけど神事に分類されるらしくてさ。政治に絡めてはいけないし、旅の合間のことも成果も、僕の家の利にはならない。まあ栄誉みたいな、そういう雰囲気はあるかな。正直乗り気ではなかったけど」
気楽なものさ。そう言ってリュカはふふ、と目を細める。
「僕に弟がいたらこんな感じだったのかな」
何と返せばいいか分からなかったので、イーズは返事をしなかった。
「僕の名はリュカだけど、親戚や姉にはリューちゃんと呼ばれていてね。僕はそう呼ばれるのが好きではなかったけど、向こうは気軽なもので、ぱっと思い付いただけのそれをいつまでも使ってくるんだ。渾名ってそういうものなんだろうね」
イーズは人の心の機微に疎い。分かるのはリュカの機嫌が悪くないということくらいだ。自身を見つめてくる瞳には既視感があった。ふと、亡くなった神父が脳裏を過った。
「イーズ、君のこれは渾名だ。嫌なら別の呼び方をするけど、できれば君のいた村の人たちと同じようには呼びたくないな。いつか君の本名が決まったら、その時はその名で呼ばせてくれるかい」
イーズは少しばかり間を置いて頷いた。
風呂からあがって部屋に戻ると、リュカはイーズの髪に花の種子から採れるという油を塗り込み櫛で梳かしてやった。イーズにはなんと表現すればいいか分からなかったが、胸の内がぽわぽわして、雲の上にでも立っているような心地だ。おやすみ、また明日。そう言って部屋に戻るリュカを見送ってから、何か別のことを考えようと薬箱の中から神父の手紙を取り出した。
まず最初に謝らせてほしい。君を欺くような形になってしまったことを、主の御前においても悔いている。
しかし私は神に仕える身だ。主の御心に背くべきではないと信じ、このような形を取らせてもらった。
昨晩私は神託を受けた。意識が白に包まれ、私は何もない空間に立っていた。私は直感的にこれが主のお力によるもので、これが神託だと分かった。
主神ゼ・アは仰った。この世の悲劇を終わらせろと。そしてこれを君に伝えるようにと。ゼ・アは君に名がないことも知っていて、名乗らなければならないならイーズと名乗ればいいとも仰った。
私は君に名を与えようとした己の傲慢を知った。思えば、君に名がなかったのはこのためなのかもしれない。ゼ・アが君に授ける、最も尊く神聖な名だ。君のこれからが輝かしいものであることを願っている。
ゼ・アのお導きに従えば、万事は進むべき方向に進むだろう。この神託は、我々が神の子だということを証明してくれる。汝が出会うべき者たちと出会い、為すべきことを為す時、汝と他者が繋がり新しい世界が拓ける。その時汝は初めて本当の自分になり、神の子になるのである。
イーズはふと手紙を握り潰したくなった。神父はイーズという名を神聖なものと思ったらしいが、イーズ自身はそう思わなかった。適当に何かから取った特に意味のない名前に違いないと思ったが、何故そんなことを考えたのかは自分でも分からなかった。
「ううん」
唸り声。イーズが顔を上げて見てみると、またも少年が身動いでいた。そっと覗き込んでまたしてもペチペチと頬を叩く。開いた目蓋は今度はすぐには閉ざされなかった。
「……誰?」
少しの間ぼうっとして、少年は寝起きのがさついた声でそう言った。がさついていても高い響きの、いかにも少年らしい声だった。




