壊滅
彼は荷車を引きながらふと、荷台で眠る少年は一体誰だろう、と考えた。分かるのは同郷の出身ということくらいだ。名前も知らぬ間柄ではあるが、わざわざ見殺しにすることはないだろうと思った。そして彼にとって連れていく対象はこの少年だけだった。
端的にいうと、彼の故郷は壊滅したのだ。
彼はいつも通りの日々を過ごしていた。朝起きたら川に顔を洗いに行き、得物と共に村の裏山に入る。兎を仕留めようと弓を引き、放たれた矢は兎の後ろ脚に直撃した。致命傷を負いながらも逃げようとする兎の首根っこを掴んでかき切った。
やはり弓は難しいと独りごちて、それでも成果を得たのだからいいだろうと引き返す。道中の木に柑橘がなっているのを見付けて投石で落とし、歩きながら実を食べる。
運動と朝食を一緒に済ませたら、うさぎの血抜きをしている間に薪を割り、育てている野菜を収穫する。毛皮を剥いだ肉をいくつかに切り分けたら教会に行く。
村にある教会は古びていて小さい。早朝のミサに参加しているのはいつも彼だけなので、神父とたった2人の男声合唱が毎日の光景だ。
彼が肉を差し入れると、神父は彼の頭をぽんと撫でながらありがとう、と言う。たまに渡したはずの肉が塩漬けになって返ってきたり、甘味が振る舞われることもある。
「何度も聞いてしまって申し訳ないんだが」
この切り出し方をする時の話題はいつも決まっている。
「名前はいらないのかい」
彼には名前がない。推定4歳の時に教会の前に捨てられていた彼にも、記憶がないだけで実は親から授かった名前があるのかもしれない。神父はそれを無碍にしてしまうのではと危惧していたが、それにしても名前がないまま過ごすのはあまりに不便だろうと心配してもいた。
彼が首を横に振ればこの話はそこで終わる。だがこの日の神父は違った。
「私は生涯独身の身だし養子をとることもないが、もし私に子どもがいたら君のような感じだったのかな。だから君が名前を貰ってくれたら嬉しいと思ったんだ。それだけさ、気にしないでくれ」
彼は名前を欲しいと思ったことはなかった。それは嫌いだとか忌避だとかそういうものではなく、自身には不要なものだと感じていたからだ。人から名前を貰うことに違和感もあった。
しかし名前がないとなると渾名が増えるものだろうか。仮に名前があったとしても同じことだろうか。彼はいつも沢山の渾名で呼ばれていた。ドブネズミ、馬糞野郎、寄生虫。彼の村での呼び名は様々だった。
「貰ってくれないかな」
神父は封筒を差し出した。いつになく真剣そうな顔をしていたので彼はつい受け取った。
「もうこれは君のものだ。だからこの後どうしようが私が口出しすることはない。いらなければ捨ててしまって構わない。贈り物というのは受け取って貰えるだけで嬉しいものだからね」
彼は小さく頷いた。
教会を出て住処に戻る途中、少し遠くから同年代の少年たちの笑い声が聞こえたので彼は封筒を抱えて走った。
彼に汚水を浴びせて笑うのが、少年たちがよくやるお遊びだ。水浴びと共に洗ってしまえばいいと思っているので、彼は汚水を避けないことも多い。彼が避けると「何やってんだよお前」「しくじりやがって」の声と共に暴行が始まるから、というわけではない。この日は神父からの手紙があった。これを濡らすわけにはいかなかった。
住処に着いて手紙を読む。彼はそれをどう受け止めるべきかすぐに判断できなかった。神父の口ぶりからして、てっきり考えられた自分の名前が書かれていると思っていたのだ。ひとまず小さな鞄にしまい込んだ。
村が炎に包まれたのはその夜だ。いつもは昼寝などしないのに、どういうわけかその日だけ妙に眠気に襲われた。ふと目が覚めたら外は暗く、だと言うのに少し離れた彼の小屋からもはっきりと惨状が見えるほどの大火。
彼は村人の悲鳴を遠くに聞いても取り乱すことはなかった。狩猟のための弓矢とナイフを携え駆け足で教会へと向かう。道中魔物に襲われている者がいたが、一瞥だけ寄越してすぐに目線を前に戻した。右側の腕と脚が既になくなっており、彼が助けたところで失血死は免れなさそうだった。
彼が教会に着いた時、神父は外で倒れていた。幸いにも周りに炎はなく多く出血しているようにも見えなかったので急いで抱き起こすと、神父の首はあらぬ方向にガクリとへし折れてぶら下がった。首の骨が折れていて既に息はなかった。彼は一呼吸置いて、炎がまだ迫っていないのを確認して神父の顔を拭いた。神父が生前そうしていたように両手を祈りの形にして組ませ、散々読み込んだ死者への一節を捧げた。
彼はそう言えば聖書を読めるのは神父のおかげだった、と思い出した。身寄りのない孤児である彼に文字を教えてくれたのは神父だった。
大きく息を吐いて彼は元来た道を戻った。神父の死亡を確認し終えた彼に急ぐ理由はない。道中魔物に襲われていた村人は、腹を食い破られて事切れていた。
気付けば悲鳴は聴こえなくなっていた。パチパチと散る火花の音、燃えた家が崩れ落ちる音、魔物たちの行動音ばかりが耳に届いた。さて、ここからどうしようかと考えて、彼はナイフを鞘から抜いた。比較的大ぶりの刃が炎で煌めいた。
全速力で走ろうが恐らくすぐに追い付かれる。仮に気付かれず村を出れたとして、食糧や水を用意できないまま田舎の広大な草原に飛び出せば結局は自殺行為だ。しかし魔物が蔓延っている状態では食糧や金目のものなど探せない。魔物を全て倒すのが生き残るために最適な道ではないだろうかと考えたのだ。迷いはなかった。
魔物の姿が見えた。幸い煙のおかげで彼の匂いは感知されにくいようだ。家屋が崩れる音にオークが反応した。その瞬間にすぐ近くの商店の柵から屋根へと飛び移り、飛び降りた勢いのままオークの頭にナイフを振り下ろす。深々と脳髄に刺さったそれを引き抜くには時間が足りない。そのまま弓を構えてゴブリンの頭を矢で射抜いた。
魔物たちが気付いてざわめき出すその間にナイフを回収する。飛びかかってきたフェザーウルフに対しては武器を構えて待ち、ナイフに飛び込んできたのをそのまま刺す。暴れようとしたところで鼻を叩き潰す勢いで殴り、地面に落ちて戦意喪失したその頭を思い切り踏み潰す。パキャ、という音がした。
雑魚と獣が多い。彼は魔力を肺と喉に集めた。すう、と大きく息を吸い込んで、ちょうど別のフェザーウルフが飛びかかってこようとしたところで解放する。木々が軋み地面が揺れるほどの咆哮。雑魚たちは目を回して気絶し地面に倒れ伏した。ウルフは至近距離だったためか耳から血を流し痙攣している。鼓膜が破れたのだろう。辛うじて気絶はしなかったもう1体のオークが慄くように後ずさった。ついでの作業かのように雑魚たちの首を刎ね、とどめをさしながら近付いてくる彼を、オークは強者と認めて逃げ出した。そして彼はその首を後ろから矢で射抜いた。魔物の声は未だ響く。まだ他の場所にもいるのだろう。ならばやるまでだった。
魔物を殲滅し終えて、彼はようやく地面に腰を下ろした。空は白み始めておりさすがに疲れていた。げほ、と咳き込んだ喉に煙の残り香が滲みる。少し加減を誤ったかと喉を押さえた。
ふと朝の静けさの中に聴こえるものがあり耳を澄ます。それは魔物ではない。動物にしてもゆっくりな、呼吸の音だった。顔を上げた先にあったのは死体ではなかった。頭から血を流した少年が、意識のないまま転がっていた。
彼は僅かな時間、少年を観察して独りごちた。そうか、生き延びた1人なのかと。




