王子様
イーズは宿のソファにぐったりと沈んだ。教会の木でできたベンチと違い快適過ぎる。そろそろ立つかともう少し、を何往復かして、急ぎの用事もないのでいいか、と寛ぐことにした。
「お疲れだね」
「何故服屋と武具屋を1日にまとめて行ったんだ。別日でもよかっただろう」
「注文してから受け取るまでに時間がかかるものなんだよ。それならなるべく早めに行っておいた方が良いでしょ」
「イーズより僕の方が元気なの、何か変な感じです」
「頑張ったわけだし明日はご褒美の日にしようか。喫茶店巡りでもしようよ」
「いいですね!」
「2人で行ってくれ。俺は今日の1軒で満足だ」
「ええぇ、そしたらイーズはどうするんですか?」
イーズはぼうっと窓の外を眺めた。何故夜なのにこんなにも明るいのか、何故夜なのに灯を点けてまで活動するのか。まるで理解ができない。夜になれば多少落ち着いた空気感になると思っていたのにそんなことはなかった。
イーズは昔のことを思い出した。教会には数冊の本が置いてあって、神父が文字が分からないイーズに教えながら読み聞かせてくれた。暗くなれば神父はランプを点けて居座ることを許してくれた。結局それに甘えることはなかったものの、その光は自身の生活にないもののはずなのに不思議と違和感なく受け入れられる色をしていた。
「ある程度大きい街になると、ほとんどに本を読める場所があると聞いたことがあるんだがどうなんだ」
「図書館のことかな。もちろんあるよ」
「トショカン。そうか、あるのか。ならそこに行く」
まだ何か言いたげなユノの顔から目を逸らして、イーズはようやくソファから立ち上がった。お風呂に入ってくる、そう言って去ろうとするイーズをリュカが引き止める。
「はいこれ、月桂樹の油」
「……何故そんなものを俺に?」
「そりゃあもちろん、君の髪のお手入れ用! それか僕用のつもりだったんだけど薔薇の香油の方がいい?」
「どっちでもいい」
イーズの顔が心底面倒臭そうに歪んだ。そしてふいにボアの肉を諦めたことを思い出した。馬車に積めないのは理解も納得もできたが、自身にとってあまり価値のない荷物が増えているのを目の当たりにすると、どうにも複雑な気持ちになる。とは言え疲れていたため抗議するような気力は残っていなかった。
その晩、イーズは再び夢を見た。
髪に誰かの指が絡み付いている。するすると手櫛で溶かして撫でられている。これは誰だろうか。自分にこんなことをするのはリュカくらいだろうが、彼ではないことは分かる。節張っていない、滑らかで細い指。女性の手だ。されるがまま髪を委ねていると名前を呼ばれた。イーズ、と。
違う、それは俺の名前じゃない。否定しようとしてイーズは目を覚ました。同室のリュカはぐっすりと眠っていて彼に呼ばれたわけでもなさそうだ。胸の内にもやもやしたものが残り、気持ちのいい目覚めではなかった。
イーズは窓の外を眺めた。この街も早朝は静かで穏やかなものらしい。ぼんやりしているとリュカも目を覚まし、朝の挨拶の後に身支度を整え始めた。
「イーズ、髪結んであげる」
「もう自分で結べる」
「いいからいいから。えーと、服はこの組み合わせにしようか。あと今男性用の髪飾りが流行ってるんだって。買っておいたからこれも着けようか」
イーズには何がそんなに楽しいのか分からないが、リュカが楽しそうなのでそのままにさせておく。結んでいるはずなのに首元に髪が垂れ下がり、いつもの適当に括っただけの髪型と何かが違うことは分かったが、質問すると嬉々として長々とした回答が返ってくるのが予想できて口を閉じた。部屋を訪ねてきたユノが、今日のイーズは王子様みたいですね、と目を輝かせた。
「で、本当に行かなくていいの?」
「俺はいい」
「君、生存の心配がいらない場だとそうなんだね。意外だなあ、まさか読書を嗜む部類だとは」
「それならせめてお土産買ってきますね。美味しいお菓子探しておきますから」
宿を出てから2人とは別の方向に歩を進め、イーズはふう、と息を吐いた。2人といるのは嫌いではないが、久しぶりの1人の時間、それも食う食われるの心配がない状況下。イーズはらしくなく浮き足立った。
途中で本屋を見付けたので気紛れで入り、ずらりと並んだ商品の中に見覚えのある絵本を見付けた。イーズも読んだことのあるものだ。昨日散々色んな店を連れ回され、一通りものの値段の相場を見せ付けられたイーズは、絵本の値札を見て驚いた。本とは意外に高いものらしい。神父はいつも貧しい暮らしをしていたようで、だからイーズも肉の差し入れをするようになっていた。もしや神父の貧しさの理由は。答え合わせのできない疑問だ。イーズは考えるのを止めて本屋を出た。
ごぉん、と突然大きな音が鳴った。イーズが驚いて顔を上げると大きな鐘が揺れていた。どうやら時刻を知らせるもののようで、同時にミサと説教の時間でもあるらしい。昨日も聴いていたはずのその音が随分大きく聴こえた理由は、単純に音源が目と鼻の先にあったからだ。広場の中央にシンボルのように設置されている。そして広場に面するようにして、すぐ近くに教会がある。
イーズは懐かしくなった。村を出て以来ミサに参加してもいなかったし、神拝もしていない。特に信仰があるわけでもないが久しぶりの思い出に浸るつもりで爪先を向けた。説教を聞くのも悪くないだろうと階段に足をかけた時、教会奥から女性が現れた。そしてその女性は盛大にコケた。
神官服に身を包んだ女性が勢いよくつんのめって落ちてきたのを、イーズはつい受け止めた。避けるという手もあったはずだが街中で油断していたこともあって、突然のことに固まってしまったのだ。驚いて固まるのは狸くらいかと思っていたがどうやら自分にもそういうことがあるらしい、とイーズは予想外の場面で己をひとつ知った。
「ああぁ、やだやだ、歩きっぱなしだったから……すみません、ありがとうございます」
「いや、気にしなくていい」
女性が顔を上げて硬直した。イーズはじっと顔を見詰められて、かつてないほどの気まずさを覚えた。
「えっ……!? もしかして運命の出会いだったりする……!?」
「何の話だ」
「えっ嘘、ついに私の人生にも現れちゃったってこと? 白馬の王子様」
「俺は馬には乗っていないし王族でもない」
イーズは多くの少女が一度は通るであろう類の物語を読んだことがなかった。そのため女性が何を言っているのかまるで分からない。しかし王子様という単語には聞き覚えがある。今朝ユノに言われたばかりだった。




