夢
名前を呼ばれている。女性の声だ。何と呼ばれているのかは分からないが、それが自分の名前だとは分かる。縋るような声だ。何か求められている。しばらくして女性の声は俺を責め始めた。俺は女性の求めに応じなかったのだろうか。
ねえ×××、あなたと話しているととても悲しい気持ちになるの。私があなただったら絶対にこんなことしない。だから思うのよ。
激昂はしていない。どちらかと言うと冷たい、滴り落ちるほどに軽蔑を含んだ声だ。
私が×××になれればいいのにって。
イーズの身体が跳ねて、座席がガタガタと音を立てた。向かいに座っていたユノは少しだけ驚いた。
「おはよう」
隣に腰掛けていたリュカに声をかけられて、イーズは一気に覚醒した。
「よく寝てたね。あんまり夢見は良くなかったのかな。難しい顔をしてるよ」
空は茜色の縁に暗闇が滲み始めていた。イーズが最後に見た時にはまだ空は青かったはずで、自分で自分が信じられなかった。リュカに関してはもう仕方がないと受け入れつつあるが、ユノの前、いやそれどころか他にも乗り合わせの乗客もいる、この状況で眠るなど考えられないことだ。
「どんな夢を見てたんだい」
リュカに訊ねられて、イーズは夢の内容を思い出そうとした。しかしどういうわけか先程まで見ていたはずのものを思い出せそうになかった。頭の中に霧がかかっているかのようだ。
「憶えていない」
「まあ夢なんてそんなものだよね」
バルサムを経った馬車は、もう少しで中継地点の町に着くとのことだ。リュカはイーズが動物に対してどういう反応するかを心配していたのだが、予想外に大人しいものだった。馬は好きらしい。
「そうだ。聞いてみたかったんだけど、ユノはいつから魔法が使えたの?」
「結構昔から使ってたような気がします。なんとなくって言ったらあれだけど……けど本当にそんな感じで使えてたんですよね」
「あー分かる! イーズは何か使えたりしない?」
「俺は魔法は分からない」
「そうなの? 一応魔力に関しても僕と合致する項目があるはずなんだけどなあ」
「ないものはない。俺は体内の魔力操作だけだ」
魔法を使える人間は飛び抜けて珍しいものでもない。割合で言えば200人に1人といったところで、普段の生活で出会うことは少ないだろうが探せばいくらでもいる。その多くは薪に火をつけたり風で蜂を追い払ったり、生活に多少役立てる程度のものだ。リュカのように魔物を相手にできるほどとなれば魔術師と呼ばれるようになり、その数は更に少なくなる。そこまでいけば希少と言ってもいいだろう。
「リュカ、これから会いに行く人はどうなんだ」
「彼女は凄いよ。なんていうのかな、職人? みたいな」
「なんだそれは」
「いやあ、でも本当にそんな感じなんだよね。魔法の扱いで彼女を超える人はそういないと思う。前に会った時よりもっと面白いことになってるんだろうなと思うと、彼女に会うのが楽しみだよ」
火の勇者と風の勇者に関しては魔法に長けていることが分かった。イーズ自身は魔法を使えるような気はしなかったが、勇者とはそういうものなのかもしれない、と考えた。
「おっと」
「わっ、なんでしょう」
馬の鳴き声と共に突然馬車が止まった。急なことで車内は大きく揺れ、他の乗客たちからも動揺の声があがった。直後に御者が大声で叫ぶ。
「ブライトボアの群れだ! 皆さん避難して!」
乗客たちがざわめく。だが避難すると言ってもどこに、追い付かれるだけだ、そんな会話をイーズは不思議そうに聞いていた。
「全員戦わないのか」
イーズは馬車を降り、馬を捨てて逃げ出そうとしている御者の襟首を掴んだ。
「お前も逃げるんだな」
「あああ当たり前だろ! 離してくれよ!」
「なら俺が貰っていいな」
「は?」
「奴らの肉は美味い」
イーズは脚に魔力を集め駆け出した。だん、と大きく踏み込んで身体を跳ね上げボアの上をとる。10匹と少し、20匹はいない。とは言えこの数だとナイフを刺して抜いてを繰り返す暇は貰えそうにない。着地地点にいたボアの頭を突き刺し、見せびらかすかのようにその身体を持ち上げる。そのままボアを振り回して投げ付けると、イーズの目論見通り他のボアは警戒して距離を取った。
全てのボアがイーズだけを狙っているわけではない、他の乗客を狙うボアをリュカが対処している。イーズは叫んだ。
「耳を塞げ!」
「え、ちょ、まさか」
リュカが他の乗客たちに耳を塞がせようとしているのを待たず、イーズは喉と肺に魔力を集めた。すう、と大きく息を吸い込んで解放する。
音の波だけで痺れるような衝撃がボアの身体に走る。強大な捕食者、まるで神獣。そう錯覚するような咆哮が、ボアの鼓膜に突き刺さる。驚愕して硬直する個体、気絶する個体、逃げ出す個体。反応は様々だが、そうなってしまえばイーズの独壇場だった。
「あのさイーズ、見てごらん、あのザマを!」
戦闘の後のリュカは不機嫌そうだ。イーズが言われた通りにリュカが指した方を見ると乗客が数名気絶していた。他の乗客もふらついている。馬も様子がおかしい。
「耳を塞げと言っただろう」
「あのね、彼らはそう言われてすぐに反応できないの!」
「手が動かないやつがいたのか。魔力で耳を守ればいいものを」
「違うそうじゃない、それに魔力操作が得意な人ばかりじゃないんだよ」
リュカは大きな溜息を吐いた。
「ユノに感謝しなよ」
ユノはボアの攻撃を受けた人々の治療をしたり、気絶した者には気つけの処理をしているようだった。馬に対しても治療ができるようで、馬の耳に手を当てている。
「すみません、夫の腕もお願いしていいですか」
「今行きます!」
男性の腕はあらぬ方向に曲がっていたし、一部骨が皮膚を突き破っていた。それが時間でいうなら1分半ほどでみるみる治っていく。イーズは素直に感心した。そうしているとリュカに腕をぐいぐいと引かれ他の乗客の前に連れ出された。
「イーズ、復唱」
「え」
「私は!」
「わ、私は」
「皆様の安全を優先せず」
「皆様の、安全を、優先せず」
「大声を出してしまいました! 申し訳ありません!」
「大声を、出してしまいました。申し訳ありませ、っん!?」
謝罪の最後にぐい、と後頭部を押されて頭を下げさせられる。そんなイーズに対する恐怖の眼差しが、徐々に変なものを見る目に変わっていく。
「お兄ちゃんおっきいのに怒られてるの? 駄目じゃん」
幼い男児が容赦なく放った一言に、イーズは返事をしなかった。
ユノが乗客の手当てをする間、リュカはボアの死体処理だ。一箇所にまとめて焼こうとするのをイーズがおろおろと眺める。
「1匹だけでいいから」
「こんなに肉持っていっても食べ切る前に腐るよ」
「し、塩漬けにするから」
「ワガママ言うんじゃありません。そもそも乗り合わせの馬車なんだから」
結局イーズはボアの肉を諦めることになり、落ち込むその背中を先程の男児がぽんぽんと叩いた。
「ああそうだ……リュカ、ユノのことなんだが。珍しい魔法で、しかもあれだけ回復ができるんだ。勇者という可能性はないのか」
「えっ?」
「ユノは多分神託があったとしても忘れているだろうし」
リュカはその可能性を考えていなかった。勇者と言うにはあまりに戦闘能力が低過ぎる。だが集団戦ならば戦闘力だけが戦力ではない。リュカは乗客と一緒にいるユノを一瞥した。
「イーズ。宿の部屋割りのじゃんけんなんだけど、ずっとチョキでお願いできる?」
何故寝ている間に試したがるのか。そう思いはしたもののイーズは深く突っ込まずに頷いた。




