08 討滅
グディラは井戸の縁に腰を下ろし、簿を膝に乗せて兵と麦の数を書きつけていた。王宮であれば客の名や席の順を並べたであろう指が、今は数字を追うばかりである。
門のほうで槍の柄が石を叩く音がした。見張りの兵が土塀越しに道をうかがう。
「騎馬の列が近づいております」
従者が駆けてきて告げると、グディラは簿を巻いた。
「どこの旗だ」
「旗は立てておりませぬが、王宮の印を掲げております」
グディラは立ち上がり、外套の埃を払った。
「ようやく都が私を思い出したか。中庭へ通せ」
門が開き、鎖帷子をまとった数騎が入る。先頭の男は手綱を引き、無言で馬を降りた。
グディラは笑みを作り、歩み寄る。
「ここを預かるグディラでございます。遠い守りの場までご苦労なことです」
男は軽くうなずき、腰の袋から巻物を取り出した。
「王宮から託された文を持参しました」
グディラは巻物を受け取り、印の跡を確かめる。
巻物を広げると、兵の数と備蓄の状況を速やかに報告せよとあった。いずれも日ごろ簿に記していることばかりである。
「これだけですか」
思わず漏れた言葉に、自らうなずく。
「よいでしょう。すぐに書き上げます」
彼は従者に合図し、館の中へと向かった。使いの列は中庭に留まり、馬を引き立てて待っている。
館の一室に入ると、卓の上には今しがたまで使っていた簿とペンが置かれていた。グディラは巻物を横に広げ、その文言に従って数字を書き写し始める。
扉の外で足音が二つ、三つ重なった。砦の者の歩みとは音が違う。グディラはペンを止めず、耳をそちらに向けた。
戸板が開き、さきほどの先頭の男が入ってくる。同行していた者がふたり、その後ろに続いた。
「報告の文でしたら、もうじき出来上がります」
グディラは顔を上げて言う。男たちは返事をせず、部屋の中に入り、両脇へ散った。
グディラはゆっくりと立ち上がる。
「なぜ、そのような?」
問いかけに答えは返らなかった。
先頭の男が一歩踏み出して腰に手をやる。鋼のわずかな反射が、狭い部屋の空気を変えた。
グディラは壁際の棚へと身を寄せる。そこには巻物の箱が積まれていた。かつて王宮で扱った法の書に似た形をした箱を見て舌の先に浮かんだ言葉は、声になる前に喉に戻る。
兵たちには、彼の長々しい弁舌を聞く理由はなかった。
× × ×
山裾を伝う風が砦の柵にかかった旗を揺らす。グンダルムントは広場に立ち、兵たちの腕の振りを見ていた。刃を振るう音と掛け声の中で、彼は腰の剣に手を置き、足運びの甘い者を目で拾う。
「腕が落ちておるぞ。木剣はそこで終いだ。次は鉄を持て」
彼は自ら剣を抜き、前に出た兵と打ち合った。刃がぶつかり、押し返された兵がたたらを踏む。
言い添えようとしたとき、門のほうで槍が二度打ち鳴らされた。
「何だ」
グンダルムントは剣を収める。
「騎馬の一隊が参りました。都の印を掲げております」
見張り台から声が降ってきた。
「ここまで来る物好きがいるか」
広場の隅に兵を寄せ、列を崩さぬよう合図する。
柵が開き、鎖帷子の男たちが馬を進めてきた。先頭の者は砦をひと通り見回し、鞍を降りる。
グンダルムントは腕を組んで迎えた。
「山の果てまで何の用だ」
先頭の男は口を開かず、腰の袋から巻物を取り出した。施していた封泥は砦への道のどこかで改められたのか、土の小片だけが残っていた。
グンダルムントはそれをつかみ、目を走らせる。
巻物には備えの兵と武具の数を改めるよう記されていた。
「視察か」
言って、彼は巻物を返す。
「ならば好きなだけその目で見るがよい」
顎で広場を示すと男たちは視線を動かしたが、目は兵よりも、門と見張り台と出入り口へと向かっている。グンダルムントの眉が寄った。
「視る所を間違えておるぞ」
先頭の男の肩がわずかに動き、次の瞬間、手が剣の柄をとらえていた。鞘走りの音が等しく響き、後ろにいた者も刃を抜く。
グンダルムントは体をひねり、傍の兵から剣を奪った。
「なるほど」
唇に笑いを浮かべながらも、目は土塁と柵の切れ目を測る。
「散れ」
命じると、自ら前に出た。刃がぶつかり火花が散る。王宮からの一隊も訓練は積んでいるが、肩をぶつけ合う近さなら粗い力もまた武器であった。
ひとりの胸を肘で突き飛ばし、もうひとりの剣をはじき上げる。振り下ろした刃が鎖帷子をかすめ、相手の体勢が崩れる。
段差で踏み加減を誤ったとき、横から突き出された槍の柄がグンダルムントの腰を打った。彼は槍を払おうとしたが、前からも刃が迫る。剣で受けるたび、腕は痺れ、重さがのしかかった。
グンダルムントは膝をつくまいと踏ん張る。しかし段差が三度目に足を取ったとき、体はもはやそれを越えられなかった。揺れた視界の中で振り上げた剣は、相手の鎧に浅い傷を残しただけに終わる。横合いから走った刃が脇腹を断ち切り、力が抜けていった。
土の上に片手をつきながら、彼は空を仰ぐ。砦の行く末を決めるのは都の意志であった。
グンダルムントの掌から剣が滑り落ちる。
× × ×
ヴィドリックの砦は海風の当たる丘の上にあった。土塀を歩きながら、彼は水面を見下ろす。王宮であれば耳に届く噂も、この地では道を行く者の口から断片ばかりが聞こえてくる。槍の柄を打ち合わせる音の陰で、兵のひとりが隣に囁いた。
「別の守り場で、亡くなられた方がいるとか」
「誰だ」
足を止めると、兵は目を伏せる。
「道を過ぎた隊が申しておりました。真かどうかは分かりませぬ」
ヴィドリックは言葉を足さず、土塀から下りた。
遠い守りに出された名は三つである。
館に戻ると、粗末な卓の上に砦の兵と穀物の数を記した羊皮紙が広がっていた。彼はその端に書き添える。
『辺境に不穏の噂あり。備えの兵、なお増すべし。』
ペンを置いたとき、戸口で足音が止まった。
「王宮の印を掲げた騎馬の列が近づいております」
従者の声にヴィドリックは羊皮紙を巻き、卓に置いたまま外へと出る。
広場に鎖帷子をまとった男たちが馬を下りていた。先頭の男は砦を見回し、最後にヴィドリックに目を向ける。
「ここを預かるヴィドリックだ」
彼が名乗ると、男は腰の袋から巻物を差し出す。文には砦の備えの改めが命じられていた。兵と武具の数を確かめよという、表向きは何の変わりもない文である。
ヴィドリックは巻物から目を離し、男たちの立ち位置を見た。門と通用口のあいだに抜けられる隙はほとんどない。
巻物を丸めながら、彼は笑みを作った。
「ここは海と土塀しかない砦だが、しばし休まれると良い」
言葉とは裏腹に、足は館のほうへ向きかけている。裏門から丘を下り、海辺へと出る道が頭に浮かぶ。
その一歩が終わる前に、先頭の男の腕が動き、左右の者が通用口と門の側に回る。鞘走りの音がして、光がかすかに揺れた。
ヴィドリックは片手を挙げる。
「まあ待て。話をしよう。お前たちには悪くない話だ」
返事は戻らぬ。目の前の男が一歩踏み込み、無慈悲に短剣を突き出した。肉が避ける感触が走り、世界が傾く。膝が地を打ち、視界の端に海の景色がぼやけた。




