09 野心
秋。葡萄棚と橄欖の木立がトスカーナの丘陵を覆っている。その多くはひとりの男の名と結びつけて語られていた。
先王テオドリックの甥テオダハド。彼は若き日に帝国におもむき、ラテンの学問を学び、プラトン派の教えにも耳を傾けた。羊皮紙を繰り思弁の言葉を追うことを楽しみとし、馬上で槍を構えるよりは書斎の椅子に身を埋めるほうを好んだのである。
やがて髪に白いものが混じるころには、戦場の砂とは縁のないまま老境に足を踏み入れていた。仲間と肩をならべて出陣したこともなく、軍旗の下で命を賭したこともない。ゴートの戦士たちが語り合う武勲は、彼にとって遠い物語の一節にすぎぬ。
しかしテオダハドには、別の熱があった。金と土地に向けられた執念である。
トスカーナの良田と村々の多くが、今や彼の支配のもとにあった。買い集めたものもあれば、貸し付けを口実に取り上げたものもある。名義だけを改める取引もあれば、境界の石をずらしてしまうようなやり口もあった。時には武装した従者を連れ、境を示させて相手をおじけさせたことさえある。
テオダハドは、夕刻に館の高台からあたりを見渡すのを常とした。視界に入る畑や村落のほとんどが自らの手の中にあることを確かめるたび、見えぬ勘定が増えてゆく。
それでもなお、彼には足りなかった。地図にペン先を落としたとき、そこに他人の名がひとつでも残っているのが気に入らぬのである。
「隣人というものは、どうにも気分を損なう」
ある日、土地管理を任せる書記に向かって、彼はそう言った。その眼差しは遠くの境界線を睨んで離さぬ。
書記は返す言葉を選びかね、手にした羊皮紙を持て余した。ここで主に逆らえば、明日は自分の名がどこかの目録から消えるやもしれぬ。そう思わせるほどのものが、テオダハドの眼差しにはあった。
彼は幼いころから、ものが己の手の中にあるかどうかを数える癖を持っていた。巻物の束から庭の石にいたるまで、目につくものは全て勘定にかけてきたのである。
戦場に立たぬことを、テオダハドは恥とは思わなかった。剣を振るうより印を押すほうが危険が少なく、得るところは大きいと考えていたからである。戦士たちが血と汗で築く名誉を、彼は冷ややかな目で見ていた。傷つき老いてゆく身に対して、土地は年ごとに実りを増し、金貨は箱の底で減ることがない。
アマラスンタが国を預かっていることは、当時の状況を鑑みればやむを得ぬこととして彼も承知している。ラヴェンナでどのような裁きが日々行われているかも、おぼろげには耳に入っていた。それでもテオダハドは、トスカーナの丘を見下ろす高台から、都のほうへ視線を向けることは少ない。
彼にとって世界とは、自らの館を起点に広がる所領の輪であり、その輪を少しずつ塗りつぶしていくことこそが、生涯をかけるに足る務めと映っていたのである。
そんなある日、テオダハドの館にラヴェンナからの使いが馬を飛ばしてきた。王宮の印を封泥に押した巻物が、従僕の手から主の机の上へと渡る。
「アマラスンタ様からの文にございます」
従僕の言葉にテオダハドは眉をひそめた。印章を改めて見やり、刃物で封を切る。巻物をひらくと、端正な筆致で綴られた文が目に入った。
『トスカーナの地における近年の所領の移り変わりについて、王宮には幾たびか聞こえが届いております。もとより諸侯が財を増すこと、それ自体を咎めるものではありません。しかし境を乱し、弱き者の土地が行き場を失うのであれば、王国にもひびが入ることとなりましょう。王家の一員たるテオダハド殿におかれては、先王の御代より守られてきた法と慣わしを思い起こし、行いを正しく測っていただきたい。』
そこまで読み下すと、テオダハドは羊皮紙を握りつぶした。彼には、行いをあらためよという声が、巻物の行間からこちらを射てくるように思われた。
わたくしの裁きの目が、そなたの地にも届いておる。
アマラスンタの声がそう耳もとで囁いたかのように感じられ、彼の口の端が歪む。
「出過ぎた女だ。権威に驕っておらねば、とてもこのような文は書けまい。王を盾に、王宮の書斎からトスカーナの畑にまで目を届かせるつもりか」
すぐにテオダハドは母アマラフリダの部屋を訪れた。窓際の椅子に身を預けていた老いた母は、息子の顔を見るなり目を細めた。
「ラヴェンナから何か言ってきたのだね」
テオダハドは黙って折れた巻物を差し出す。アマラフリダはそれを読み終えると、長く息を吐いた。
「やはりあの女は、父親と自分を同じ器とでも思っているのだろうよ。王を隠して、国を自らの意のままに操ろうとしている。政の隅々にまで口を出さねば気が済まぬのだろう」
「私も母上と同じ意見です」
テオダハドは肩をすくめる。
「トスカーナを守ることが、どうして非難されねばならぬのか。我らが汗を流して築いた所領を、ラヴェンナの机上で量られる覚えはない」
巻物はそのまま卓上の燭台の脇に置かれた。王宮から届いた諌めの文は澱のような反発を残して、テオダハドの心にふつふつと怒りを呼ぶ。
× × ×
その折、ローマの大祭司のもとへビュザンティオンからの一行が姿を見せた。元老院議員アレクサンダーが先に立ち、その後ろにヒパティオスとデメトリオスという二人の祭司が従っている。
彼らは皇帝ユスティニアヌスの名を帯び、教義をめぐる争いについて意見をあわせるために遣わされた者たちであった。人の世のことすら量りかねる身でありながら、神のありように言葉を尽くそうとする者はいつの時代にも絶えぬ。祭司らは、もっぱらその論じ合いを取り持つ役を負っていた。
ローマに到着すると、アレクサンダーは祭司たちを大祭司のもとに送り届けたのち、皇帝から預かった書状を携え、すぐさまラヴェンナへと向かう支度にかかる。アマラスンタに手ずから文を渡すことこそ、アレクサンダーの真の務めであった。
ヒパティオスとデメトリオスの二人はローマに残り、大祭司や聖職者たちとの話し合いに日々を費やす。論じられている事柄の細かな中身はいかなるものであれ、皇帝の命はその有り様を見聞きして報告することであった。
ビュザンティオンからの使節団がローマに着いたとの報せは、程なくトスカーナの館にももたらされる。王宮からの書状に胸につかえを覚えていたテオダハドにとって、それは思いがけぬ道がひとつ開いた報のように響いた。
「ビュザンティオンの者がローマにいると申すか」
報せをもたらした従僕を退けると、テオダハドは机に肘をつく。ラヴェンナとビュザンティオン、そのあいだに自らの名を置くことができぬかと考えたのである。
ほどなくして、テオダハドはローマに滞在していたヒパティオスとデメトリオスを、人目の少ない屋敷の一室に呼び入れた。皇帝に近い者たちとひそかに言葉を交わすには、今をおいてほかはない。
テオダハドは口を開き、自らが胸中で練っていた思いを二人に打ち明ける。トスカーナの地を帝国に譲る用意があり、その代わりとして多額の金銭と元老院議員の地位を賜り、残りの生涯をビュザンティオンで過ごすことを望んでいると、順を追って語ってゆく。
ヒパティオスとデメトリオスは互いに顔を見合わせたが、反対の言葉を挟むことはしなかった。彼らは使節としてここにある。主君の耳に届けるべきなのは、何よりもまずこの男の企てそのものであった。
テオダハドは、二人に向かって皇帝への伝言を念押しする。自分が語ったことを余すところなくユスティニアヌスに伝えるよう、あくまで内密の話として扱うようにと念を押してから肩の力をゆるめた。
かくしてテオダハドの計画は、ビュザンティオンへと通じる道に乗せられる。トスカーナの丘とラヴェンナの王宮と、そのはるか先の皇帝の都とが、ひとりの男の欲望によって見えぬ糸で結び合わされていこうとしていた。




