10 齟齬
水時計が朝を告げても、政務の席に着いているのはアマラスンタひとりであった。
それでも巻物と報告書は机に積まれていく。王の名で記される文が増えるばかりで、呼び出してもアタラリックは現れぬ。昨夜も友と杯を重ね、戻ったのは夜半を過ぎてからだと侍従が報告した。
ペンを置いたアマラスンタは息をつく。先王が守った坐に、なぜ息子は背を向けるのか。王たるべき者がなぜ民より遊びを選ぶのか。
「陛下のもとへ行く」
傍に控えていたトゥルウィンが、うなずいて後ろに続いた。
廊を進むうち、笑い声が耳に届きはじめる。王宮に似つかわしくない喧騒が石の壁に響いていた。
扉の前で従者があわてて姿勢を正す。アマラスンタはうなずき、そのまま戸を押し開いた。
部屋の中で、卓を囲んで数人の若者が坐っている。卓の上には壺と杯、それからとりどりの馳走が並び、その中央でアタラリックが背凭れにもたれていた。顔は赤く、目の焦点は定まらぬ。
「陛下」
呼びかけに少年たちが立ち上がった。アタラリックは視線を母に向け、口の端を上げる。
「珍しいこともあるものだ。政庁の女王陛下が、こちらへ足を運ばれるとは」
アマラスンタは一歩踏み出し、卓を見やった。
「訴えを携えた者が政庁の前で列をなし、王の名を待っている」
アタラリックは杯を持ち上げ、残りを一息に飲み干す。
「俺の名は母上がお使いでしょう」
「名のみでは国は保てぬ。王の顔を見てこそ言えることもある。そなたが席に着かぬ日が続けば、民はやがて誰を王と見るか」
そう告げると、アタラリックは身を起こした。卓の横を回り、母の前まで歩み寄る。
「本当の王は誰かと問われれば、みな答えましょう。命じ、裁き、印を押しているのはアマラスンタであると」
彼は鼻で笑い、声を強めた。
「この宮城で王と呼ばれているのは俺ではない。母上です」
アマラスンタは表情を動かさぬ。
「わたくしは王の務めを支えているに過ぎぬ。先王の後を継いだ者はそなただ」
「そう言いながらも坐は離さぬではありませぬか」
アタラリックは卓を手で叩いた。
「みなが母上を何と呼んでおるか、知っておりますか! ゴートの装いをまとった帝国の狗、です!」
少年たちは息をのみ、トゥルウィンは半歩前に出る。
「陛下」
アマラスンタの声が揺れた。
「王の口から発するにはあまりに酷い言ではないか」
アタラリックはなおも踏みとどまらず、一気に距離を詰めた。伸ばされた手がアマラスンタの衣の胸もとをつかもうとする。
その瞬間、トゥルウィンが身体を滑り込ませた。片腕でアタラリックの手首を押さえ、もう一方の腕でアマラスンタを庇う。
「陛下」
怒りを帯びた力が腕の中で震えたが、やがてアタラリックは手を振りほどき、一歩退いた。
杯が床に転がり、赤い滴が石に散る。アマラスンタはその跡を見下ろし、踵を返した。
戸口へ向かったアマラスンタの背に声が飛ぶ。
「逃げるのですかあ、母上!」
アタラリックは柱を支えに立っていた。顔色は赤黒く、目には酔いと怒りが混じる。
「……この俺を作ったのは誰だ」
アマラスンタは歩みを止めた。
「王として立つ日を思い、そなたに学びを与えた」
「学びの名を借りた枷だ」
アタラリックはふらつく足取りで近づいてくる。
「俺が政庁を避けるのも、夜ごと酒に頼るのも、みな母上が望んだ形の果てだ。俺をこんな風にしたのはお前だ」
その言葉が胸を刺した刹那、アタラリックの膝が折れた。肩が卓にぶつかり、杯が床を転がる。次いで、その身体が前へ倒れ込んだ。
「アタラリック!」
アマラスンタが駆け寄るより早く、トゥルウィンが飛び出してその身を支えた。腕の中に抱える身は思いのほか軽く、衣越しに骨ばった感触が伝わる。王の頭ががくりとうなだれた。
「医師を呼べ!」
アマラスンタの命に、戸口の従者が走り去る。
やがて医師が呼び入れられ、アタラリックは隣の部屋の寝台に移された。額には熱がこもり、息は浅い。医師は脈をとり、胸に耳を当て、瞼と舌の色を確かめたのちに顔を上げた。
「ここしばらく、陛下の暮らしぶりはいかがに」
問う声に、アマラスンタは答えを飲み込みかけたが、隠しても意味はない。
「夜ごと友を集め、杯を手放さぬ日が続いていた」
医師は息を吐く。
「若き身ながら、内から力を削られております。酒と遊びに明け暮れれば、肉は痩せ、骨と皮ばかりの身になる。すでに消耗性の病を負うておられましょう」
アマラスンタの指が、寝台の端をつかんだ。
「癒す道は」
「今からでも酒を断ち、働きを減らし、養生するほかはございません。それでも取り戻せる力には限りがありましょう」
医師は頭を垂れ、薬湯の支度を命じるために下がる。
アマラスンタは、眠るとも昏れるともつかぬ息子の顔を見下ろした。かつて師の横で羊皮紙に向かっていた少年は消え、残ったのは杯と叫び声に身を委ねる若者の姿である。
これを帝国の者が見れば、これこそ蛮族と蔑むに違いない。父の築いた安寧も、このままでは笑いものとなろう。
怒りが胸に込み上げた。アタラリックを誘った若者たちへの怒り、放埒を止めようともしなかったゴートの長たちへの怒り、そして流れを断ち切れなかった自らへの怒りである。王と国のすべてが遠く感じられた。
傍らで気配が動く。トゥルウィンが口を開こうとしたのを感じ、アマラスンタは片手をわずかに上げた。
「構うな」
その一語に、護衛隊長は膝を折り、持ち場へと戻る。アマラスンタは姿勢を崩さぬまま、指先にこめた力で震えを押しとどめた。
アタラリックの寝所を辞すれば、宮城の灯はすでにまばらである。
× × ×
アマラスンタは私室に戻り、椅子に腰を下ろした。耳にはなお医師の言葉が残っている。
王として、この先どこまで歩めるのか。寝台に横たわる息子の顔には、疲れと荒みが濃かった。
このまま王位にとどまらせれば、国は名ばかりを掲げて内を空洞にするだろう。かといって、アタラリックをここまで追い詰めたゴートの男たちに冠を渡すことも出来ぬ。彼らは王の放埓を笑い、焚きつけてきた。
誰にこの国を託すべきかという問いは、以前から胸にある。今夜、息子の脈の弱さを指先に感じたとき、その予感は形を取った。
ふとひとりの名が浮かぶ。王家の血を引き、若き日に帝国で学び、法の文にも通じている従兄弟テオダハド。巻物を読み解き、帝国の言葉で人と渡り合える者としては貴重な存在である。
アタラリックに代わり政務の席に坐らせれば、帝国とのやり取りはたやすくなろう。父が守った法の柱も、表向きは保たれるかもしれぬ。
しかし、テオダハドの領地から上がってくる訴えを思い返すと、アマラスンタの眉は曇った。土地を集め、民の嘆きを顧みぬと記された書簡が幾通も届いている。
そのような男を王坐に据えれば、今度は別の歪みが国を侵す。帝国の法の名を借りながら自らの利を肥やすだろう。領民は疲れ果て、父が築いた名も別の形で汚される。
「あれはすぐには難しい」
アマラスンタはつぶやいた。胸に浮かびかけた望みを、自らの手で断ち切る言葉である。
ゴートの戦士にそのまま託すことも出来ず、法を知る王族も信じられぬとすれば、残る道はどこにあるのか。王の名と国の形を守りながら、この地にローマの知を留める術は。
思いは東の皇帝へと向かった。ユスティニアヌス。帝国の法を誉れとする男。彼のもとにはまだ、ローマと呼べるものの残り火がある。
ゴート族とイタリア人の支配権をその皇帝に譲り渡すという道。父の守った地を娘の手で帝国へ返すという選び方。多くの者が耳にすれば、裏切りと呼ぶであろう策である。
されどこのまま息子の名を旗に掲げて日々を過ごせば、王宮に渦巻く憎しみがいつか自分を呑み込むだろう。父の名も法も、酒と血にまみれた物語のひとつに堕ちてゆく。
そうなる前に、何を守るのか。
アマラスンタは椅子から立ち上がった。闇の向こうには塔と屋根が重なり合う王都の姿がある。テオドリックが選び、守り抜いた地であった。




