11 密約
昼もすでに半ばを過ぎていたが、政務の机の巻物の山はなお低くならぬ。
アマラスンタは一通の書簡を書き終えると、封泥の乾きを確かめてから手を離した。名の上では王の裁きであっても、その行間を負うのは自分である。昨夜、寝台の脇で触れたアタラリックの手首の細さは、まだ掌に残っていた。
その折、戸口のほうで足音が止まり、侍従が進み出て膝をつく。
「ビュザンティオンより参られた元老院議員のアレクサンダー殿がお目通りを願っておられます」
アマラスンタは巻物の山から視線を上げた。
「ここへ」
間を置かず、紫の縁取りをほどこした衣の男が政務の間に入ってくる。アレクサンダーは礼を尽くして頭を垂れると、一通の書簡を両手に掲げた。
「陛下より預かって参りました」
封泥には帝都の印章が刻まれている。アマラスンタはそれを一瞥し、侍従に目で合図を送った。封泥が割られ、文が読み上げられる。
「リリバイウムの要塞を、もとより帝国の地と見なしておられます。そこを我らの軍が占めているゆえ、改めよとのことにございます」
侍従は羊皮紙に目を落とし、言葉をついだ。
「また、帝国の軍より逃れた者どもを受け入れ、返していない、とも。国境近くの町を敵のように扱い、損害を与えたとも記されております」
読み上げが終わると、室内にいる者たちは思わず互いの顔を見合わせる。アマラスンタは席を立ち、侍従の手から巻物を受け取った。行を追うにつれ、眉のあいだに皺が刻まれていく。
イタリア周辺でのゴートの振る舞いが、一つ一つ勘定にのせられていた。アタラリックの名で押された印が、遠い高殿の卓の上で札のように数えられているさまが胸に浮かぶ。
「返書を記す」
アマラスンタのひと言で、書記官たちは新しい羊皮紙を広げた。羽根の軸を握った手が、主の言葉を待って静止する。
アマラスンタは息を吸った。
「まず、王のことを書け。アタラリックは遺児であり、全てを測り得ぬ若さにあると伝えるのだ。徳を誇る皇帝であれば、そのような少年を矢面に立たせるより、歩みを支えるのがふさわしい」
羽根の先が音も立てずに走る。
「次に、ヴァンダルとの戦を書き添えよ」
アマラスンタは視線を落とし、言葉を選んだ。
「陛下が海を渡る折、こちらがどれほど道と港と馬を差し出したか記せ。シチリアの岸なくして艦隊は進めず、我らの助けなくして勝利はおぼつかなかったとな」
そこで一息つき、巻物に視線を移す。
「最後にリリバイウムの名を挙げる」
顔を上げ、書記官たちを見渡した。
「古くからゴートが守ってきた岬であり、その岩そのものは銀一片にも値せぬと書け。それでも、もし帝国のものと主張なさるなら、争いの種とするのではなく、危うい折に陛下を助けた王への礼としてこそ与えるべき地であろう」
まとめ上げられた文を書記官は小声で読み返す。アマラスンタは耳を傾け、調子を測ってうなずいた。
アタラリックの名が末尾に記され、王の印章が封泥の上に置かれる。アマラスンタは手を添えて押し、ゆるやかに離した。
封じられた巻物はアマラスンタ自らの手でアレクサンダーの前に差し出される。彼はそれを両手で受け取ると意味ありげに視線を交わし、頭を垂れた。
アレクサンダーが政務の席を辞したのち、アマラスンタは手の内にある紙片を握って確かめる。
それは返書を手渡した刹那、アレクサンダーの掌から忍ばせられたものであった。密かに開けば、今宵海に面した回廊の西の端、と簡潔な一文が記されている。
× × ×
その夜、灯が減った廊をアマラスンタは外套の頭巾をかぶって進んだ。
約された場所には、すでにアレクサンダーが待っている。
「昼の書簡におきましては、随分ときわどき言を並べ立てました。まずは、その無礼をお許し下さいますよう」
アマラスンタは首を振った。
「ユスティニアヌス殿の意を運ぶのがそなたの務めであろう。あの文が形ばかりの咎めにすぎぬことくらい、わたくしも承知している」
ひと息おき、アレクサンダーは周囲をうかがってから声を落とす。
「真に賜っている勅命は別にございます。陛下は港に泊まっている船とラヴェンナにとどまっておられるアマラスンタ様のお心を案じておられます。私はそのお覚悟を直接うかがえとの命を受けて参りました」
アマラスンタの胸に、エピダムヌスの岸辺が浮かんだ。反乱に備えて用意させた船は、今もなお波間に揺れている。
「ユスティニアヌス殿はわたくしを疑っておられるか」
「疑いというより、先を知ろうとしておられます。アマラスンタ様が法を掲げて国を支えておられる限り、イタリアを剣で奪うことは望まぬと仰せです。ゆえに、どのような終わりをよしとされるのか、その御心を確かめよと」
寝台に横たわるアタラリックの顔が浮かんだ。冠を支えるには頼りなく、かといってゴートの長たちに王坐を渡せば、民の血が地を洗うばかりであろう。
「わたくしも、そのような終わりは望まぬ」
アマラスンタは欄干越しに町並みを見おろした。
「この地を争いで焼くつもりはない。名ばかりの王をいただいて内を空にすることも望まぬ。もしユスティニアヌス殿が法と平和を尊びここに住まう者らを護ると誓われるなら、イタリアをその手に委ねる覚悟はある」
アレクサンダーは頭を垂れる。
「その御言葉、ひと言も違えず陛下に伝えましょう」
「約を違える気はない。……残念なことだがな」
そう告げる声には倦みが混じっていた。父が守り続けてきたものを自らの手で手放す重責は、アマラスンタの肩ひとつに圧し掛かっている。
× × ×
幾日かのち、帆をふくらませた船団が風を背に受けてアドリアの海路を北から南へくだって行った。
アレクサンダーは甲板に立ち、遠ざかるイタリアの地を眺める。手にはアマラスンタの返書と夜の回廊で交わした言葉が残っていた。彼女は国を託す道を選んだ。その覚悟をどう伝えるべきか、彼は幾度も心で確かめている。
ヒパティオスとデメトリオスもまた、トスカーナの丘とテオダハドの館、そこで耳にした言葉を胸で反芻していた。土地を帝国に譲り、金と地位を求めた男の願いである。
やがて船はビュザンティオンの港に入り、使節たちは紫の城壁の内へと召し出された。高い天井の下、ユスティニアヌスが玉坐にある。法典の編纂を進める皇帝は、眼光炯々としている。
まず進み出たのはアレクサンダーであった。ラヴェンナでの謁見の次第、アマラスンタが法と民を守るためにイタリアの統治を帝国に委ねる覚悟を固めていることを述べる。
次いでヒパティオスとデメトリオスが前に出た。彼らはローマでテオダハドと会い、彼がトスカーナの地を帝国に売り渡す用意があると語ったことを報告する。元老院議員の位と多額の金とを求め、ビュザンティオンで余生を送ることを望んでいたと付け加えた。
ユスティニアヌスは報を聞き、口の端に笑みを浮かべる。アマラスンタの譲渡の覚悟とテオダハドの打算は、ともに帝国の利に通じている。どちらの道に転んでも、イタリアはやがて帝国の手中に収まる。
「イタリアに使者を遣わす」
皇帝はそう告げた。
名を呼ばれたのはペトロスである。テッサロニキ出身の弁論家にして、柔らかな物腰と理を尽くす言葉で知られた男であった。彼は玉坐の下に進み出て膝を折り、命を賜る。
「アマラスンタとテオダハド、いずれの心をも探り、帝国の益となる道を開け。言葉をもって、血を流さずに済むならばなおよい」
ペトロスは頭を垂れた。
こうして、新たな使者はイタリアへ向けて立つこととなる。アマラスンタは血を避けて法を守る道を思い描き、テオダハドは利と安住の坐を胸に描き、ユスティニアヌスは帝国の栄えを計っていた。その三つの思惑が、ひとつの地で間もなくぶつかろうとしている。




