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07 凶刃

 アマラスンタは政務の間を出て、寝所へ向かう通路を歩いていた。先ほどまで羊皮紙と向き合い訴えに印を押し続けていた指先には、まだ感触が残っている。古き習わしを持ち上げ、自分を貶める言葉が巻物の外で育ちつつあることを思えば、休息のための歩みでさえ心を軽くはしなかった。


 列の先頭に立つトゥルウィンは、いつもより歩幅を小さくしている。肩にかかる鎖帷子がわずかに音を立てた。彼は廊の角ごとに視線を送り、柱の上から下へと目を走らせている。


「何か見えるのか」


 アマラスンタが問いかけると、トゥルウィンは首を振った。戦場を越えてきた者だけが知る気配というものがあるのだろう。自分の目に映らぬものまで見ようとすれば、かえって足を取られる。


 曲がり角をひとつ過ぎると、右手に小さな扉が続く区画に出た。内勤の者が出入りする物置である。普段なら昼の支度で開け放たれている扉が、このときばかりは固く閉ざされていた。


 アマラスンタの肩が扉の前に差しかかるその瞬間、木戸が内側から押し開けられる。


 暗がりからひとりの男が半身を滑り出させた。粗末な上衣に身を包み、腕には布束を抱えている。下働きに見えなくもない姿であったが、布からのぞく指は何かを握りしめている。


 トゥルウィンが振り返るより早く、木戸の陰が動いた。布束の下から鋼がのぞき、男の腕が前へと伸びる。標的はただ一人、列の中央にいる女王の胸元であると、その伸び方が物語っていた。


 アマラスンタはまだその意図を飲み込めていない。しかし次の瞬間、肩を強く引かれて視界がぶれる。


 トゥルウィンが横からぶつかるように身を入れ、彼女の体を石壁側へ押しやった。入れ違いに彼の腕が前へ伸び、鞘から抜かれた刃が男の手首を狙って走る。


 金属がぶつかる高い音が狭い廊に響いた。布束とともに刃が床へ落ち、男の手から血が散る。悲鳴を上げる暇もなく、男は反対側の物置の扉を蹴り開け、暗がりへと身を投げ込む。


「追え!」


 トゥルウィンの声に後列の護衛が動いた。左右の扉が次々と開け放たれ、中から怯えた顔がのぞく。血の跡だけが、先ほど男が通った道を示していた。


 アマラスンタは思わず外套の胸元に手を当てる。布越しに伝わる鼓動が自分のものであることを確かめるように、指に力がこもった。


 王の居所へ通じる通路にまで刃が運び込まれた。噂で形をとらえていた憎しみが、いま刃となって目の前をかすめたのである。巻物の上で法を正すだけではもはや足りぬ時に入ったのだと、アマラスンタは息を落ち着かせながら思い知った。


 アマラスンタは足早に政務の間に戻ると、机上に新たな羊皮紙を置かせる。人心の乱れが言葉の域を越えた以上、このままにしておけば次に狙われるのは自分だけとは限らぬ。


 トゥルウィンに声を掛けると、彼は机の前に膝をついた。


「さきほどの者、捕らえられそうか」

「逃げ道を使い慣れております。すぐには難しいかと」

「そうであろうな」


 アマラスンタはペンを取り上げ、羊皮紙の上に三つの名を書きつけた。ヴィドリック、グンダルムント、グディラ。王を惑わし、アマラスンタを退けんとした者たちの名である。


「彼らは遠い守りに出したのちも、なお親族や旧い仲間を使って、宮城の内外に火種をばらまいている。今日の刃がこのうちの誰の命によるものかは知らぬが、根を断たぬかぎり、同じ種の刃が幾度でも現れよう」


 ペン先が止まり、やがて再び走った。


「トゥルウィン。お前の隊からもっとも忠義深い者たちを選び出せ」

「何人ほど」

「任務に必要なだけだ」


 アマラスンタはそう告げると、羊皮紙を折り畳み、トゥルウィンの前に置く。


「これに記した者たちのもとへ、密かに赴け。分かっているだろうが、言葉で説くためではないぞ」


 トゥルウィンの視線が羊皮紙の上を探る。


「承りました」

「彼らが二度と王家に刃を向けられぬようにせよ。誰の目にも触れぬうちに終わらせるのだ。勝手を許すのはこれまでのことであると知らしめねばならぬ」


 アマラスンタはペンを置き、指先から力を抜いた。自らが今、何を命じたのかは分かっている。追放というかたちで遠ざけていた者たちを、ついにこの世から退けよと命じたのであった。



  ×  ×  ×  



 宝物庫に続く扉が開き、松明の火が積み上げられた箱の列を照らす。


 アマラスンタは戸口に立ち、棚ごとに並べられた器や布を見渡した。先王の代から守られてきた贈り物の数々、その中から今、何を持ち出すべきかを選ばねばならぬ。


 侍従長が簿を広げる。


「ご下問の金貨は、四百センテナリアまで数え終えております」

「そのすべてを一隻の船に積め。他の貴品も、必要と見たものを選び出せ」


 アマラスンタは答え、視線を外へ向けた。港に近い倉からは、遠く波の砕ける音が届いている。財を移す先は、帝国の領土へ通じる道筋の上にある港町であった。


「船には信の置ける者たちのみ乗せよ」


 命を受けた男たちが動き出し、金貨を詰めた箱が次々と運び出されてゆく。ひと箱ごとに封が改められ、印章の跡が確かめられた。王家の財を託すなら、もとよりこの程度の手間は惜しめぬ。


 アマラスンタは、積み込みの様子を最後まで見届けるつもりはなかった。港で帆柱が並ぶ姿を思い描きつつ、宝物庫をあとにする。


 そうして、港に選び抜かれた船が一隻用意された。甲板には鎖帷子ではなく布衣をまとった男たちが立つ。剣ではなく、縄と帆を扱い慣れた手である。しかしその胸には、王家の行く末を預かった責務がのしかかっていた。


 アマラスンタは岸壁に立ち、船長と目を合わせる。


「この船をエピダムヌスへ送る。港に着いたのちも、わたくしからの報せがあるまでは、荷を一つも下ろしてはならぬ」

「港に停泊し続けよ、との仰せにございますか」

「そうだ。誰が何を言おうとも従うな。合図を携えた者を遣わす。その者の言葉のみを聞け」


 船長は頭を垂れた。


 廊で振るわれた刃の記憶が胸に浮かぶ。ヴィドリック、グンダルムント、グディラ。その名が消え去れば、王国の内で恐れるべき敵は減る。船は、国を守るための備えとして財を戻せる。


 やがて縄が解かれ、帆が引き上げられた。船が岸を離れてゆく。甲板の上の男たちは振り返ることはしない。任を帯びた者にとって、今見るべきはこれから目指す先である。


 エピダムヌスの港に着いたのち、彼らは女王の命じたとおりに振る舞った。船は岸辺に横付けされたまま、荷は一つとして降ろされぬ。港の者たちが不審の目を向けても、彼らは答えを濁し、海と町の様子を見計らいながら、遠い主からの報せを待ち続けた。


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