06 打診
宮城の廊を行き交う足音が増え、印を押して書記官に言葉を告げるたび、アマラスンタの耳は廊の向こうの気配を拾う。戸口で交わされる囁き声、侍従が一瞬ためらってから歩みを進める様子が胸に引っかかっていた。
ヴィドリックら三人を遠い守りにつけてから、王宮は穏やかになったかのように見える。しかし日を追うごとに、別の名が囁かれはじめた。彼らの親族や旧い友、同じ宴に列したことのある戦士たち。アマラスンタへの敵意は、三人の追放で尽きたわけではない。
「この訴えは、ここまででよい」
書簡の言葉をしめくくると、アマラスンタはペンを置いて羊皮紙を書記官に渡す。退く書記官の視線がわずかに揺れた。
「何かあるのか」
問いかけると、書記官は頭を垂れる。
「おそらく取るに足らぬ噂にございます。ですが、アマラスンタ様の御耳には入れておくべきかと存じまして」
「申してみよ」
促すと、書記官は声を落とした。
「ヴィドリック殿らの甥御と名乗る者が、城下で人を集めていると。グディラ殿の縁者と称する者が戦士たちの酒席を巡り、先王の御代を懐かしむ話ばかりをしているとも」
アマラスンタは目を閉じる。
追いやった三人の姿が、別の形で戻りつつあった。
「ほかには」
「宮城に出入りする者の中にも、先王の御名を借りてアマラスンタ様をあげつらう声があるとか。真偽定かならぬゆえ、今は名を挙げることをはばかります」
慎み深い言い回しの奥に、アマラスンタは別の色を見る。自分を慕う者ですら全てを打ち明けることをためらっていた。
「そうか。しばらくは耳を澄ませておけ」
そう告げて書記官を下がらせると、部屋には彼女ひとりが残る。
アマラスンタは窓の外に目をやった。海からの風が高窓を通り抜け、巻物の端を揺らす。
息子の名で勅を下し、帝国の法を支えとして国を治める。その務めを果たそうとすればするほど、ゴートの戦士たちは彼女を遠ざけようとする。
アマラスンタの思いは海の向こうへと向かった。
まず、退き場を確かめねばならぬ。
アマラスンタはそう定める。王の血を乱れた憎しみの刃に渡さぬための道を、あらかじめ押さえておく。それがかなわぬのであれば、この先に打つ一手一手がすべて無謀な賭けとなる。海の向こうにいる皇帝に、ひとつ問うべきことがあった。
アマラスンタの視線が羊皮紙の上に止まる。ここに記す言葉ひとつで、自らの歩む道が変わる。王国の外へ向けて手を伸ばすのは、テオドリックが慎んできた術でもあった。
侍従からペンを受け取り、束の間空中で止めたのち、羊皮紙の端にゆるやかに運ぶ。
『テオドリックの娘アマラスンタが、ユスティニアヌス陛下に申し上げます。』
まず名と礼を記す。次に続くべきは、自らの願いである。
『先王亡きあと、わたくしは幼き王の後見として国を治めております。しかしながらなお人心は定まらず、この身の行く末も安からぬものとなっております。
わたくしを陛下の御もとへ迎えられる御心があるか否か、お聞かせ願いたく存じます。』
書きつけた文を読み返し、嘆きに傾きがちなところを削っていく。余計な怨み言を連ねれば、かえって相手の目を曇らせるだけである。訴えねばならぬところと飲み込むしかないところとを切り分けるのもまた、今の彼女に課された務めであった。
『もしお召し寄せの御心あらば、陛下の御支配の地のうちに、わたくしが身を移す場をひとところお定めください。そのときはイタリアを去り、陛下の御前に参上いたします。』
そこまで書き終えると、アマラスンタはペンを置き、全体にゆっくりと目を通した。王国を売る文ではないかと己を責める声が胸に立ち上がるが、それを押し退ける。
王と国を守るためにこそ、退き場を確かめるのだ。
そう自身に言い聞かせると、彼女は書記官を呼んだ。
「これを清書せよ。言葉を変えることは許さぬ」
書記官はひざまずき、一行一行を慎重に写していく。ほどなくして書簡が書きあがり、海路に通じた従者が戸口に姿を現すと、アマラスンタはその手に封書を渡す。
「この書簡を、ユスティニアヌス陛下の御手に直接渡せ。道すがら誰にも見せてはならぬ。返書を得たのちには、いかなる風と波に遭おうとも、この城まで持ち帰れ」
従者は胸に手を当ててうなずいた。己の命だけでなく、王家の今後を負う旅であることを悟る。
封書はやがて、城門を出て港へ運ばれた。船が帆を上げても、アマラスンタは立ち会わぬ。王国の内側に向けてペンを執りながら、海の彼方へ放った書簡がやがて国の行く末を決めることになることを覚悟していた。
× × ×
幾日かのち、ユスティニアヌスの前に一通の封書が差し出される。
報告書に目を通していた彼は、それがイタリアからの文であることを知ると、机の上に羊皮紙を置いた。
「誰からだ」
「東ゴートの王女、アマラスンタ殿からにございます」
その名にユスティニアヌスの眉がわずかに動く。前ゴート王の娘であり現ゴート王の母であるアマラスンタのことは、当然すでに知っていた。
しかし、そのアマラスンタが帝国に何の用向きか。
ユスティニアヌスは自ら封泥を割り、記された行を追ってゆく。幼い王の後見として国を支えているが、人心の乱れが増し、自らの身にも危うき兆しが迫っている、といった、読む者に現状の険しさを伝える文であった。
最後の行でアマラスンタは、もしユスティニアヌスが情けを寄せるなら、自らイタリアを去り、皇帝のもとに身を移す覚悟があると記している。
ユスティニアヌスは口の端を吊り上げた。
「この女、血筋を誇るのみの者ではないな」
傍らの重臣が、うかがうように口を開く。
「陛下の御心はいかに」
「ゴートの王の血筋が、私のもとに歩み寄る道を求めておる。これは剣のみでは得がたい機会だ」
古きローマの地を取り戻し、帝国の名を西に鳴り響かせる。そのためにはゴートの王家を敵として押し返すより、己の傍に引き寄せておくほうがよい。
「アマラスンタが手中に入れば、やがてはイタリアのことを語らざるを得なくなろう」
ユスティニアヌスはそう告げると、さらに続けた。
「まずはエピダムヌスに最上の邸を用意させ、彼女が望むだけそこに滞在できるようにし、そののち、私のもとへ送り出すよう手筈を整えよ。かの地はイタリアからの道の途上にあり、海と陸の要でもある。私の手の届く地に身を置かせることが肝要だ。それでいて、表向きは最大の礼として示せる」
それは帝国の厚遇のかたちを取りながら、同時にアマラスンタの歩みを皇帝の支配の内に取り込む策でもある。
「返書にはこう記せ。我、ユスティニアヌスはテオドリックの娘アマラスンタの訴えを聞き入れる。汝が身を移すことを望むときは、エピダムヌスに備えた邸に入るがよい、と」
重臣が皇帝の言葉を写しとり、封書の支度が進められていった。あわせてエピダムヌスの長への命令書もしたためられ、港に近い邸宅のうち、もっとも豪奢な家を準備するよう命が飛ぶ。
ビュザンティオンの宮中を出た返書は、やがて海を渡り、イタリアへと向かった。




