05 堕落
老人たちが宮廷から去ると、アタラリックのまわりには同じ年ごろの仲間たちだけが残った。
学問の間の机には、もはや羊皮紙と書板が並ぶのみである。かつてそこに寄り添っていた白髭の教師たちの姿はなく、慎みを説く声も途絶えていた。
「ねえ陛下、本日はもうよろしゅうございましょう」
ひとりがペンを持つアタラリックの肘にそっと触れる。
「文字ばかり追っていては腕も鈍ります。馬場へ出て、風に当たりとうございます」
別の少年が笑いを含んだ声で続ける。
「書板を閉じられたとて、誰が鞭を振るいましょう」
アタラリックは書板の上の文字を見つめた。
「しかし、母上は学びを怠るなとおっしゃる」
ためらいを含んだ声に、少年のひとりが肩をすくめる。
「アマラスンタ様は賢き王を望んでおられるのでしょう。けれど戦士たちが仰ぐのは、書の上手さではございませぬ。槍を構えたときに誰が陛下を見るか、誰が巻物を見るかは、申すまでもないことでしょう」
別の少年が言った。
「若き日のテオドリック陛下は、書よりも先に馬を駆け、戦場で名を上げられたとか。陛下が部屋に籠もっておいででは、その跡には続き難うございます」
指先に残るペンの感触が急に心細くなる。アタラリックはペンを置いた。
「では今日は、ここまでとしよう」
そう告げると、少年たちの顔に明るさが走る。
「さすが陛下」
「馬も、陛下のお出ましを待ちわびております」
彼らは手早く書板を重ねて巻物を端に寄せた。丁寧に巻き直す者もいないまま、学びの道具は机の隅へ追いやられる。
学問の間を出ると、中庭には従者が控えていた。少年のひとりがそのうちの一人を呼び止める。
「陛下の馬を用意せよ。それと、喉を潤すものも持って参れ。……分かっているな」
従者は一瞬目を伏せたが、王の傍に仕える若者の命に逆らうことはしなかった。
やがて馬場に出ると、アタラリックは手綱を受け取り、鞍に身を預ける。駆け出せば風が頬を打ち、胸に張りついていた憂いがいくぶんかやわらぐように思えた。仲間たちの笑い声が周りを巡り、頭の中の喧騒を押し流していく。
ひとしきり走ったのち、彼らは塀際の木陰に集まった。従者が小さな壺と杯を運んでくる。
「ほんの一口でございます」
少年が壺を傾け、赤い液体を杯に注いだ。
「陛下は日々難しいことばかりお考えでしょう。たまには胸の苦しさを洗い流さねばなりませぬ。師たちも去った今、杯の数を数える者はおりませぬゆえ」
アタラリックは差し出された杯を見つめる。母の声と仲間の囁く声とが胸の内でぶつかり合った。
「このくらいなら」
自らに言い聞かせるようにつぶやき、杯を唇に運ぶ。甘い香りののち、喉を焼くものが落ちていった。
「いかがにございますか」
少年たちが期待を含んだ目で見つめる。
「悪くない」
アタラリックがそう答えると、仲間たちはほっと息をつき、杯を持ち上げた。
笑い声とともに壺の中身は減っていく。師たちが言葉を尽くして教えた時間は、こうして別の習いに置き換えられはじめていた。
× × ×
アタラリックの変わりようは、宮城の廊を行き交う者たちの口に上る。
学びの間に師の姿は戻らず、若い王が仲間たちと馬場に出て、夕刻には杯を重ねていることが、侍従や従者のあいだで囁かれた。
その噂は、やがてヴィドリックら三人の耳にも届く。以前アマラスンタに言を向けて教師を退けさせた彼らは、今度は別の的を定める。
ある夕刻、政務を終えたアマラスンタの部屋の戸前に再び三人の姿があった。
「何の用か」
アマラスンタが坐したまま問うと、ヴィドリックで進み出る。
「先頃は、陛下の学びについて口をはさみ、無礼をいたしました」
「その後の陛下のご様子は、すでにお聞き及びかと存じます。陛下は今、同じ年ごろの仲間たちの中で、ゴートのならわしにふさわしい日々をお過ごしにございます」
グンダルムントが言葉を添えた。
「槍を構えて馬を駆けるお姿に、戦士たちも喜びを覚えております」
アマラスンタは三人の顔を順に見る。
「それがそなたらの望んだ形であろうとは理解しているが、だからといってわたくしの務めが終わったわけではない」
彼女が言い返すと、グディラが口元に笑みを浮かべた。
「若き王の側には、血を分けた者よりも同じ戦場に立つ者がふさわしいとも申します。母君が長く宮殿にとどまり、陛下のすべてに目を光らせておられては、陛下ご自身の御心も伸びようがございませぬ」
ヴィドリックが言葉を継ぐ。
「戦士たちの中にも案ずる声がございます。帝国の法を尊ぶあまり、アマラスンタ様がいつまでも宮殿におわし、王の行き先までもお決めになるのではないか、と」
グンダルムントが、あえて素朴に見せる調子で付け加えた。
「陛下はもう男の御年頃。そろそろ御自ら決めることのほうが多くともよろしゅうございましょう。母君は少し離れた地から見守られるのが、お二人のためにもなるやもしれませぬ」
それが宮殿から退けと告げる言葉であることは、聞くまでもない。
「そなたらは、わたくしに城を去れと申すのか」
アマラスンタの声に三人は目を伏せ、すぐに顔を上げる。
「誰も無礼を望んではおりませぬ。王と国のためにふさわしい形を、と願うばかりにございます」
アマラスンタは三人の言葉を最後まで聞き終えると、ひととき彼らを見据えていた。
「そなたらの申すことは分かった」
そう告げると、三人は安堵とも期待ともつかぬ色を顔に浮かべる。
「なるほど、尤もである。……それならばわたくしもまた王と国のために動かねばならぬな」
アマラスンタが立ち上がると、三人は思わず姿勢を正した。
「今日はここまでとしよう。進言はしかと聞き届けた」
下がれの一言で、三人は形式どおりの礼をとり、扉の向こうへ消えていく。
扉が閉まると同時に、アマラスンタは侍従を呼んだ。
「政務の席へ戻る。書記官を集めよ」
ほどなくして、政庁の机の上には羊皮紙と印章とが並ぶ。アマラスンタは椅子に腰を下ろし、書記官に向かって言った。
「命を書き記せ」
彼女はゆっくりと言葉を区切る。
「ヴィドリック、グンダルムント、グディラの三名を、それぞれイタリアの果ての守備の任に就かせる。互いに離れた地とし、決して一ところには集わせるな」
書記官が頭を垂れ、文言を書きとめてゆく。
「名目は、外つ国より迫る敵への備えとする。王の名のもとに、危うい境を守らせよ」
書き上がった羊皮紙が差し出されると、アマラスンタはそれを確かめ、印章を手に取った。
これまで無数の詔に押してきた印である。されど今、封泥の上に刻む印は、息子の周りから三つの影を断ち切る証ともなる。
指先に力をこめ、一つひとつに印を落とした。
「使者を立てよ。三人にはただちに任地へ赴くよう伝えるがよい」
命が外へ運び出されると、宮廷のあちこちで三人の名が交わされた。外見だけ見れば、ゴートの戦士にふさわしい務めを与えられたと取ることも出来る。しかし互いに遠く引き離された任地が、宮城からの追放であることを読み取れぬ者はいなかった。
やがて詔は各地に届き、三人はそれぞれ別の日に旅支度をすることとなった。迎えの馬車も供回りも、互いの列が交わらぬように定められていた。廊に立つ従者たちは、その背を目で追うだけである。
アマラスンタは窓際に歩み寄り、遠く城門の方角に目をやった。
王の道を乱す者を王の側から遠ざける。それもまた、わたくしに課された務めだ。
自身にそう言い聞かせると、彼女は再び政務の席へ戻り、積まれた文書の束に手を伸ばした。




