04 転換
噂は一夜のうちに宮城を伝い、翌朝には政庁に仕える者の多くが耳にしていた。アタラリックが母の前で打たれたという話は、語る者ごとに形を変えて囁かれる。
アマラスンタは、それらを確かめようとはしなかった。噂を追えばかえって形を失う。今なすべきは王たるべき者の歩みを正すことであった。
その日も彼女は政務の席に着き、法に関する巻物や各地からの報告に目を通す。署名を記し、印を押し終えたところで、戸口の侍従が歩み寄った。
「お目通りを願う方々がございます」
アマラスンタが顔を上げると、侍従は頭を垂れる。
「ヴィドリック殿、グンダルムント殿、グディラ殿がアマラスンタ様を訪ねておいでです」
名を聞いた瞬間、アマラスンタの眉がわずかに動いた。いずれもゴートの中で名を知られた男たちである。その三人が連れ立って訪れたとあれば、単なる挨拶で済むはずがない。
「ここに通せ」
彼女は姿勢を正し、机上の文書を片づけさせた。侍従が退き、ほどなく扉が開く。
先に入ってきたのはヴィドリックであった。広い肩に濃い髭をたくわえ、迷いなく歩み寄る。そのすぐ後ろに続くグンダルムントは、警戒気味に部屋を見渡している。最後に姿を現したグディラは細身で、目元に人を計るような色を宿していた。
「用向きは何であろう」
アマラスンタが声を掛けると、ヴィドリックが口を開く。
「我らはアタラリック陛下の学びについて申し上げたく参りました」
アマラスンタは表情を変えず、声の調子に耳を澄ました。
「陛下は日々、老人たちの教えのもとにおられると聞きます。ですが、それはゴートの王にふさわしい道とは申せませぬ」
言葉に力を添えるように、グンダルムントが笑う。
「書物など握っていては槍も馬も身につきますまい。そのような者が戦場で剣を掲げられるはずがない」
アマラスンタは心で反論を構えつつも、それを顔には出さぬ。
ここでグディラが一歩進み出た。
「アマラスンタ様、我らが申すのは陛下の将来を慮ってのことにございます。書の教えは慎みと遠慮を説きますが、それは裏返せば臆病と卑しさを育てる種ともなりましょう。将たる者が恐れや遠慮を先に立てていては、戦士たちの盾となることは叶いませぬ」
彼は声を落とし、別の名を持ち出した。
「先王テオドリック陛下はいかがでございましたか。文字を学ぶことはほとんどなさらずとも、その才覚ひとつで広い地を治めておられた」
ヴィドリックがうなずき、言葉を継ぐ。
「先王陛下は我らにこう諭されました。子を教師のもとへやるな。鞭の恐ろしさを知れば、剣や槍を尊ぶことはなくなる、と。実際、その教えのとおりに育った戦士たちが軍を支え、イタリア中に名を馳せたのです」
グンダルムントも顎を上げる。
「ところが今の陛下は、朝から晩まで師たちに囲まれ、書や言葉ばかり教え込まれておられると聞く。このままではいざという時に誰の背に従えばよいのか、戦士たちにも惑いが生じましょう」
アマラスンタは三人の顔を順に見た。その背後に、それぞれの一族の戦士や家の者たちの思いが重なっているのを感じる。
「そなたらは、王に何を求めている」
彼女の問いかけに三人は互いに視線を交わした。その目には同じ思惑が潜んでいる。
ヴィドリックがゆっくりと口をひらいた。
「我らが望むのは、陛下が真のゴートの王としてお育ちになることにございます。そのためには、今のような学問と老人どもの説教から御身を遠ざけねばなりませぬ」
グンダルムントが机の前に一歩踏み出し、拳を固める。
「剣を執る手は、書板をなぞる指とは鍛え方が異なりまする。戦で名を上げたいと願う若者は、同じ年の仲間と肩を並べ、汗と血を分かち合ってこそ鍛えられるもの。鞭を恐れ師の顔色をうかがう日々からは、将たる心は生まれませぬ」
アマラスンタは唇を結んだまま、視線を彼らに向けた。
グディラがその隙を逃さぬように言葉を継ぐ。
「今、陛下の傍らにおられる師たちは、みな帝国の法と書物を尊ぶ者どもにございます。彼らは慎みを語り、柔らかな道を勧めましょう。ですが、それは戦士にとっては鎖にほかなりませぬ。陛下が剣を掲げんとされるとき、その鎖が足を絡め取るやもしれませぬ」
ヴィドリックがうなずき、話をまとめにかかった。
「ゆえに、我らは願い出るのです。今ついている教師たちを退け、陛下には同じ年ごろの仲間をお付け下され。共に成長する友こそ、ゴートの掟に従い、王を徳と勇気へと押し立てるものにございます」
アマラスンタの思いの内側で、師たちと向き合うアタラリックの姿と、昨夜酒に乱れていた顔とが合わさる。
「そなたらは師を遠ざけて友と戯れさせれば、それで王の徳が備わると申すか」
問いかける声にはわずかな冷たさがこもった。
グンダルムントが言い切る。
「戦士の列に立つべき者は、幼き日より戦士の環の中に置かれるべきにございます。槍と馬に囲まれて育てば、自ずと胆は据わりましょう」
グディラも続けた。
「学問をすべて捨てよとは申しますまい。ですが、今は秤が片方に寄り過ぎております。陛下の耳には、ゴートの掟よりもローマ人の言葉のほうが多く届いている。その偏りを正していただきとう存じます」
アマラスンタは心の内では否を突きつける。法を知らぬ王はいずれ国を損なう。父テオドリックが担った血と鉄の軛を、息子にそのまま負わせる気はない。しかし三人の背後には多くの一族と将兵たちがいる。ここで正面から退ければ、その不満は目に見えぬ刃となって王宮をさまようであろう。
アマラスンタは一息つき、声を落として言った。
「よく分かった。……そなたらの言葉を聞き捨てには出来ぬな」
三人の視線が彼女に注がれる。
「そこまで申すならば、陛下から今の師たちを離し、同じ年の仲間と過ごす時を与えよう。その上でそなたらは自らの言葉どおり、王を勇気と徳へと導く責めを負うがよい」
ヴィドリックの顔に、満足げな色が浮かんだ。
「ご英断、まことに恐れ入ります」
グンダルムントが胸に手を当て、グディラが深々と頭を垂れる。
三人が退室の作法を終えると、扉は冷たく閉まった。
政務の間に、巻物の置かれた机と椅子に腰をおろしたアマラスンタが残される。彼女は椅子の背にもたれると、指先で眉間を押さえた。譲歩した言葉が口から離れた瞬間から、その代償を数える作業が始まっていた。
父上はあのような者らをこのような場に立たせはしなかった。
心の内でそう言い切ると、アマラスンタはゆっくりと上体を起こす。ここで崩れれば、今しがたの決定までもが揺らぐ。彼女は椅子の肘に置いた手に力を込め、近くに控える侍従に声をかけた。
「聞いていたな」
侍従が一歩進み出て、黙ってうなずく。
「陛下につけていた教師三名に伝えよ。わたくしの力およばず、これまでの務めを続けさせることは出来なくなったと。彼らの労をねぎらい、礼を尽くして暇を取らせよ」
口にした一つ一つの言葉が胸に刺さる。アマラスンタは唇を引き結び、侍従の返答を待った。
「かしこまりました」
侍従は頭を下げると、足早に戸口へと向かう。その背が廊の向こうへ消えるのを見届け、アマラスンタは視線を机上の印章へ落とした。
自らの手で押してきた印が、今度は息子から師を遠ざける詔となる。父の遺した国を守るために選んだ道が、王の魂を傷つける刃ともなりかねぬ。
「アタラリック」
小さく名を呼び、アマラスンタは瞼を閉じた。母として抱き締めたい思いと、後見人として退かぬ覚悟とが、胸中でぶつかり合う。その痛みを押し包むように、彼女は再び目を開き、政務の席に戻るべく立ち上がった。




