03 休暇
アマラスンタは政務の席にあった。訴えの文と報告書が積まれ、その一つ一つに目を通し、署名を入れて指示を書き添えていく。アタラリックの名のもとに行われる決裁は、すべて彼女の手を経ねばならぬ。
先王が世を去ってから数年が過ぎていた。アマラスンタは父の跡を継ぎ、亡き夫の役目をもその身に負っている。ゴートの戦士たちが仰いだ名を汚さず、幼い王を育て上げることこそが自分に課された務めと定めていた。
書記官が新たな束を机に運び、控えめに頭を下げる。
「本日の訴えは、ひとまずこれで最後にございます」
アマラスンタはペンを置き、すべての文書に印が押されていることを確かめた。
「外の評議はどうなっている」
「先ほど伝令が参りました。本日お出ましのはずであった公務は、先方の事情により数日後に延ばされるとのことにございます。新たなご予定はお入れしておりません」
思いがけない報告に、アマラスンタは息をつく。朝から夕まで埋まっていたはずの日程が、ふいに軽くなった。
「そうか。では午後は政務の席を閉じるとしよう」
言葉にしてみると、張り詰めていたものが少し緩む。ここしばらく休むことなく、テオドリックの娘として、王の後見人として、彼女は自らを抑え、法と文書をもって国を支えていた。
「陛下は今、どこにおられる」
書記官が答える。
「今朝は早くからご学問の間におられ、その後も師たちと共にお過ごしと伺っております」
アタラリックもここ数年で背を伸ばし、幼子だったころの丸みは薄れた。政と軍のいずれにおいても、いずれは彼が決を下さねばならぬ。
「午後は陛下と共に過ごしたい」
自らの口から出た願いに、アマラスンタはわずかに微笑んだ。政の場では男たちに侮られぬよう声を抑え、身振りもあえて剛く保ってきたが、アタラリックの前では母としての顔に戻りたいと思う。
「城の外へ出るつもりはないゆえ、乗り物は要らぬ。城の庭を歩き、陛下と言葉を交わす時を設けたいのだ」
傍に控えていた侍従たちの表情がやわらぐ。幼い王と母が言葉を交わす姿を見られることは、宮仕えの者にとっても励みであった。
アマラスンタは机上の印章を片付けさせる。
「衣を改めよう。政務の席にふさわしい装いよりも、陛下と歩きやすいものがよい」
立ち上がると、肩にかかる重さが幾分か軽くなった。父が残した王国の責務は消えぬが、その中でひととき母として息をつくことを、自らに許してもよいと考える。
侍従たちに囲まれながら、アマラスンタは居館の奥へと歩を進めた。政務の場から離れ、母としての装いに身を包み直すために、自らの私室へ向かっていく。
扉の脇に控えていた従者が慌てて身を正した。
「いま中は、その……」
言い終える前に、アマラスンタは扉に手をかける。
扉が内側へ開いたとたん、鼻を刺す酒の匂いがあふれ出した。
部屋の床には、倒れた盃と壺がいくつも転がっている。赤い液が敷物の上に染みをつくり、果物の皮やちぎれたパンが踏みにじられて散乱していた。その中に、少年たちの足が投げ出されている。
アタラリックは寝台の端にもたれかかるようにして崩れ落ちていた。頬は上気し、口元にはこぼれた酒が乾きかけている。隣には同じ年頃の少年が横向きに倒れ、さらに数人、仲間とおぼしき者たちが床に身を投げ出していた。
「陛下……」
侍従の一人が思わず口元を押さえる。誰かが盃を拾おうとしたが、水気に足を取られそうになり、あわてて踏みとどまった。
アマラスンタの胸中で、先ほどまでの期待が冷たいものに変わる。王の名を背負うべき者がこの有り様か。
「アタラリック」
濃密な緊張感が部屋を支配した。
反応はない。アマラスンタは裾を払って歩み寄り、寝台にもたれた息子の肩をつかむ。強く揺さぶると、アタラリックは目をしばたたかせ、うめくような声を漏らした。
「母上……?」
酒の匂いが息とともに立ちのぼる。アマラスンタは平手で思い切り子の頬を打った。ぱあん、と乾いた音が私室の中に響く。
「目を覚ませ! そなたは誰なのだ! これが王の名をいただく者のすることか!」
突然の痛みに、アタラリックはようやく事態を理解したようだった。半ば眠りから引きずり出された顔に、怒りと羞恥が入り混じる。
「なぜ人前でこのような真似を」
言いかけて、彼は周囲の少年たちが身じろぎしているのに気づいた。ここが自分の母の部屋であり、その母が今、自分を睨みつけている。
「わたくしは陛下の母であり、この国の後見人でもある」
アマラスンタは言葉を切り分けるように告げた。
「友と戯れるのを禁じはしない。が、この有り様で王の居を穢すことは許さぬ」
アタラリックは立ち上がろうとしてよろめき、寝台の柱をつかむ。
「私は、誘われてほんの少しだけ……みなも……」
「言い訳は聞きたくない」
アマラスンタは息子だけを見据えた。
「そなたが誰と親しもうと勝手だが、王たるべき者の身を自ら辱めることは、国そのものを辱めることと同じと知れ」
アタラリックの目に涙が浮かぶ。
「母上はいつだって私の話など聞こうともしない! すべて咎め立てなさる!」
震える声でそう吐き出すと、彼は袖で涙を乱暴にぬぐった。
「もうよい! こんな部屋にはいたくない!」
アタラリックは寝台から身を離れ、足下をおぼつかなくさせながらも扉のほうへと歩く。床に転がっていた少年たちも慌てて起き上がり、その背を追った。
「陛下、どちらにいらっしゃるのですか!」
侍従の呼びかけを振り切るように、アタラリックは扉を開けて廊へ飛び出す。
開け放たれた扉の向こうを見やりながら、アマラスンタは動かなかった。部屋には酒の匂いと散らかった器物と、侍従たちの気まずそうな姿が残る。
先ほどまで床に転がっていた少年たちが、乱れた衣のままアタラリックに続いた。
「今日はもう城にはいたくない。みなで集まって話せるところへ行こう」
アタラリックの言葉に少年たちはうなずき合い、そのまま城門へと向かう。護衛たちはアタラリックの険しい顔つきを見て、頭を垂れるほか口を挟むことも出来ぬ。やがて一行は市中の一角にある友人の邸へ入り、人目の少ない一室に落ち着いた。
腰をおろすなり、ひとりが口火を切る。
「アマラスンタ様はひどすぎる。みなの前で陛下を打つなど」
別の少年が続けた。
「陛下が少し杯を嗜まれたくらいで、そこまで怒られなくともよいものを」
アタラリックは腕を組み、視線を落とす。
「母上はいつもそうだ。私には書物と法の話ばかりで、槍も馬も後まわしだ。お爺様は戦場に立たれたのに」
少年たちはうなずき、母への不満を代弁するように言葉を続けていった。
「アマラスンタ様はローマ人の言葉ばかりお好みだ。帝国の賢者だの使者だのと話しておられるところを何度も見た」
「そのうち帝国の貴族と手を結び、陛下を邪魔者あつかいなさるのではないか」
ひとりが、からかうように笑って言う。
「いっそ陛下がおられぬほうが、アマラスンタ様にはご都合がよいとお考えかもしれぬぞ。遠い土地へ追いやって、ローマ人の夫でも迎え、ゴート人もローマ人も思いのままに治めるのさ」
「ばかを言うな!」
アタラリックは顔を上げた。
「母上がそのような真似をするものか!」
言い切ったものの、頬に残る痛みがよみがえり、何かが囁く。自分のために父の役目までも負おうとする母が、いつしか自分より国と法を選ぶこともあるのではないかと。
少年たちは冗談だと言いながら、その話を形を変えて繰り返した。廊に通じる戸口は半ば開いたままで、邸の召使いが行き来している。
「……おまえ、聞いたか。陛下がアマラスンタ様に打たれたのだとよ。やがて遠くへやられ、ローマ人が代わりに王坐に並ぶのだとさ」
誰かが笑い混じりに漏らした言葉を、召使いが別の者に語る。そのたびに尾ひれがつき、噂は別の家へ、宮城の従者たちの耳へと運ばれていく。




