02 善政
海に面した宮城の回廊を、潮の香を含んだ風が吹き抜ける。アマラスンタはその日、政務を執るための小広間にいた。壁際の棚には法に関する書が並ぶ。父テオドリックが国を支える柱と呼んだものを、彼女もまた支えとして手放そうとはしなかった。
机上には、各地からもたらされた訴えの文が幾通も置かれている。ゴート人の将が領内で徴発した穀物の扱いに都市の施設の修繕、それから税の取り立てに関する嘆願。ひとつひとつに目を通しながら、アマラスンタはペンを進めていった。
「この徴発は、定められた分を越えているな。余分に取った分は農民へ返し、将には口頭で戒めよ」
傍に控える書記官が、素早く羊皮紙に記録する。
「ローマ市民から新たな罰金を取ることはせぬ。既にある法に従い負担を正しく分け合うように、と付け加えよ」
ゴート人とローマ人とが同じ地を踏んで暮らすこの国で、どちらか一方にだけ肩入れすれば必ずひずみが生まれる。ゆえに彼女は、ローマ人に身体刑を加えることを命じず、罰金を増やして民を追い詰めることも許さぬ。むしろ、ゴートの戦士たちが力を笠に着て市民を悩ませることがあれば、直ちにそれを制するよう命じていた。
同じ束の中には、土地の境界や公共の建物をめぐる争いの報告も並んでいる。アマラスンタはそれらに対しても、王の名を口実として他人の財を奪うことのないよう、慎重に返答を書き記させた。
書記官はうなずき、文をまとめていく。幼王アタラリックの名を掲げ、その後見人として判を押すのはアマラスンタである。
机の端には別の巻物の束が置かれていた。そこには帝国の賢者たちが記した歴史や政治の書が選び分けられている。いずれもアタラリックに学ばせようと彼女が選んだものであった。
帝国の支配者が身につけた礼と知恵をあの子にも授けねばならぬ。ゴートの血を引く王として立つにせよ、法と理を知らぬ者に国は保てぬ。
その日の訴えに目を通し終えると、アマラスンタは机の引き出しから別の紙を取り出した。かつて没収された貴族の財産が一覧として記されている。項目の一つに視線が止まった。
シムマコス家、ボエティウス家の領地と邸宅。
その一文を読み上げると、胸で古い痛みがうずいた。テオドリックの治世は誉れ高かったが、この二人を誣告により処刑し、その財を国庫に編入させたことだけは、忘れ難い刺となっている。
「この項を二人の子らに返還せねばならんな。返還の文書を用意せよ。わたくしが署名し、印を押す。それから先方の邸へ向かう。使いを先にやり、訪問を告げよ」
彼女は書記官に命じた。
× × ×
町が緋色に染まるころ、アマラスンタは少人数の供回りと共に市中の邸宅を訪れた。門には元老院の名門であったことを示す紋章が掲げられている。
門番が来客の名を聞き、慌ただしく奥へと走った。やがて、年長の男と弟と思しき若者が現れる。彼らがシムマコスとボエティウスの子らであることを、アマラスンタは一目で悟った。
「先王テオドリックの娘、アマラスンタと申します」
彼女は自ら名乗り、頭を下げる。王の母がみずから門をくぐったことに、二人は言葉を失い立ち尽くした。
「本来ならば、先に父がここに立つべきであったのでしょう」
アマラスンタは口を開く。
「しかしその機会は失われました。我が父、テオドリックは誤った訴えを信じ、あなた方の父を罪に問い罰を与えました。その報いとして奪われた財が、今なお王国の名の下にとどめ置かれている。娘であるわたくしが、その過ちをこのままにしておくことはできません」
彼女は供の者に合図し、封を施した文書と物件の一覧を書きつけた巻物を差し出させた。
「ここに、領地と邸宅をあなた方に返還する旨を記しました。小さき者のつぐないにすぎませぬが、どうかお納めください」
年長の男は束の間文書を見つめ、それからアマラスンタに視線を戻す。胸に積もった思いがあるのだろう、目には言葉にならぬ色が浮かんだ。それでも彼は礼を失することなく言う。
「我らの父がどう裁かれたかは、すでに過ぎ去ったことでございます。恨みを語ろうとすればきりがありません。けれども、今この場に立っておられるあなた様には罪はない」
若い弟も、うなずいて言葉を添えた。
「父が守ろうとしたのは、この国の理であり人の道でした。あなた様がそれを継ぐおつもりならば、それで十分にございます」
アマラスンタの胸にあった霧がわずかに晴れる。彼女はあらためて二人に頭を下げた。
「謝罪の言葉を受け入れてくださり感謝いたします。あなた方の家が、再び理と正義の名と共にこの地に立たんことを願っております」
邸を辞して乗り物に戻るとき、アマラスンタは門に刻まれた紋章をふり返った。父が残したものの光と影、その両方をこの身で引き受けねばならぬ。
× × ×
夕暮れ、アマラスンタは執務の合間を縫ってアタラリックの居所へ向かった。王宮の一角に設けられたその部屋は、幼い王とその教育を託された者たちのための場である。
廊を進みながら、彼女は先ほどまで読んでいた訴えの文を思い返した。ゴート人とローマ人の争いも税の嘆願も、やがてはアタラリックが受け継ぐ政の責である。
扉の前で護衛が姿勢を正した。
アマラスンタはうなずき、扉を開くよう合図する。
奥では幼い王が椅子から立ち上がった。母の姿を認めると、駆け寄って笑顔を向ける。
「母上!」
アマラスンタは子の肩に手を置いた。
「学びの時を妨げてはならぬな。様子を見に参っただけだ」
部屋の奥には三人のゴートの長老が控えている。白髪の多い痩せた一人は言葉少なに物事を見極める冷静な男、隣のややふくよかな長老は人にも事にも角を立てぬ温厚な気質、残る一人は姿勢を崩さぬ厳めしい風貌で、若者にはとりわけ律を重んじる者であった。
この三人は、ゴート族の中でも理と節度をわきまえた者として選ばれ、アタラリックと共に暮らすことを命じられている。
冷静な長老が一歩進み出て頭を垂れた。
「アマラスンタ様。陛下は教えをよくのみこまれます。問いを発すれば、筋道を立てて答えようとされるところ、見事にございます」
温厚な長老も笑みを浮かべて続ける。
「人の言葉をさえぎることなく、まず聞こうとなさるところがございます。怒りを示すより先に道理を問おうとなさるところは、先王陛下を思わせます」
厳格な長老は顎に手を当てて言った。
「まだ子どもらしいところも多うございますが、我らが期待をかけてよい器にございましょう」
アマラスンタは三人の言葉を聞きながら、傍らに立つ息子を見やる。アタラリックは照れたようにうつむき、それでも母の目を避けようとはしない。
「そう評していただけるのは、この子にとっても励みとなりましょう」
アマラスンタは言った。
「先王陛下が愛しこの国が仰いだ徳を、孫の代にも宿らせねばなりません。どうか、これからも目を配ってやってください」
三人の長老は胸に手を当てる。
「承りました」
アタラリックは母の袖を見上げた。
「母上。わたしはおじい様のような王になれるでしょうか」
アマラスンタは、その問いを真っすぐに受けとめた。
「先王陛下と同じ道を歩む必要はない。けれども守ろうとしたものを忘れてはならぬ。そのためにこそ、学び、聞き、考えるのだ」
アタラリックがうなずく。
アマラスンタは息子と三人の姿を目に焼きつけてから部屋を辞した。背後で交わされる師弟の声を耳にとどめつつ、彼女は再び政務の場へと歩を返す。




