18 使節
春の海がようやく船を許したころ、皇帝の印を帯びた使節が港に姿を現す。
波止場には久しく絶えていた船影が戻り、その一隻から紫の縁をまとった男が降り立った。皇帝ユスティニアヌスの名を帯びてイタリアへ遣わされた使節、ペトロスである。
桟橋に足をおろしたとき、彼は視線をこちらに注ぐ一団に気づいた。
ゴートの男たちが数名、桟橋の根元に列をなし、来る船ごとに何事かを確かめている。
「帝国の印を帯びた方はどなたか」
ひとりが進み出て声を上げた。
「私だが、何用か」
男たちがどよめく。先に声を掛けた男が胸に拳を当てて頭を垂れた。
「かつてアマラスンタ様の護衛隊長を務めていた者で、トゥルウィンと申します」
トゥルウィンは港の端の棚材の陰へと場所を移すよう促す。人通りが薄れたところで、声を潜めて言った。
「アマラスンタ様は今、ボルセーナ湖のマルタナ島に幽閉されております」
ペトロスはその言葉で、この国にただならぬ変が起こっていることを察する。
「誰の命によるものか」
「アマラスンタ様の従兄弟、テオダハド。今イタリアで冠を戴いている者にございます。私どもは王宮を離れ、アマラスンタ様を救う道を探しておりました。どうかユスティニアヌス陛下にこのことをお伝え願いたい。できうるなら、アマラスンタ様をお守りくださる道をお開きいただきたいのです」
帆柱のあいだから海風が入った。帝都を出るとき、ペトロスが託されたのは岬と港に関わる書簡のみである。しかし今ここで差し出されたのは、一人の女の身と国の行く末にかかわる訴えであった。
「アウロンの町で陛下に書簡を送る。見聞きしたことはすべて、私の名で書き記そう」
「ありがとうございます」
トゥルウィンの顔に、緊張と安堵が入り交じった色が浮かぶ。
港に着いたときとは比べものにならぬ務めを自らの肩に感じながら、ペトロスは出立の支度を急がせた。
× × ×
イオニア湾に面したアウロンの町へ着くと、ペトロスは宿の戸口で外套の留め金を外す。帝国の印章を示すと、宿の主人は声を落とした。
「丁度ビュザンティオンへ向かわれる使節の方々もこの館に滞在しておられます」
道が重なる町である。ペトロスはトゥルウィンらを背後に控えさせ、広間へと向かった。今は余計を言わず、耳と目を働かせる。
卓の傍には二人の先客がいた。年長の男がペトロスに気づくと、立ち上がって礼をとる。
「ローマ元老院議員のリベリウスにございます。こちらは同道のオピリオ殿」
「帝国の使節、ペトロスでございます」
互いの行程を確かめると、リベリウスらはイタリアからビュザンティオンへ向かう途中であった。ペトロスはすぐに問う。
「町でアタラリック陛下の崩御を知り、驚いているところです。起こった次第をお聞かせ願えますか」
リベリウスはうなずき、述べた。
「先王陛下が病で崩御されたのち、王国はアマラスンタ様とテオダハド陛下がお二人で治めるはずでした。されど誓約は破られ、陛下が王位を独りでお取りになった。まもなくアマラスンタ様は政から退けられ、トスカーナの島に移されたのです」
オピリオが硬い声で受ける。
「テオダハド陛下はアマラスンタ様に不正など働いておられません。御移りは療養のためであると、私は申し上げます」
ペトロスは二つの言い分を胸に収めた。いま必要なことは、筋を先に立てることである。
「お二人のお話、まこと参考になります。私はここに留まり、いま伺った話を書簡にまとめましょう。リベリウス殿とオピリオ殿は帝都へ進み、御前でお述べください」
ここでペトロスは背後へ目をやり、ようやく合図した。トゥルウィンが一歩進み、二人へ礼を作る。
「トゥルウィンと申します。かつてアマラスンタ様の護衛隊長でございました。いまは宮城を離れておりますが、マルタナの島に留め置かれた御身を見捨てることなど出来ませぬ。ゆえに、帝都へ赴き皇帝陛下に訴え出るため、リベリウス殿らに同行させていただきたいのです」
リベリウスはうなずき、オピリオは口を結んだまま視線を外した。
× × ×
アウロンで封じられた羊皮紙は、馬の背に括りつけられ、海辺の道を抜けて港へ急ぐ。ペトロスと別れたリベリウスとオピリオ、そしてトゥルウィンもまた、同じ湾から東の海路へと身を投じた。風向きと潮に恵まれれば幾日か、逆らえばさらに日を費やす。距離は海が埋め、陸の報せは遅れた。
紫の城壁が海から立ち上がるころ、最初の使者が門をくぐる。ペトロスの名が記された一通の書簡が、ユスティニアヌスの前に置かれた。アタラリックの崩御、テオダハドの即位、アマラスンタがボルセーナ湖のマルタナ島に移されたことなどが綴られている。皇帝は行の端々を追い、知らぬまま過ぎた日々を測った。
ほどなくして第二の封書が届く。差出人はテオダハド。王位は正しく継がれ、国は安定しており、アマラスンタは自ら療養を望んで島へ移った、とつまるところは弁明である。皇帝は書簡に目を留め、裏に潜む焦りを読み取った。
三つ目はアマラスンタの書簡である。封泥を割ると、末尾近くに気になる一行が置かれていた。
『兼ねてからの望み通り、名のあるゴートの者にイタリアを任せることが出来て安んじております。』
皇帝は指先でその句に触れる。かつてアレクサンダーを介し、アマラスンタは法と人々を守るためにイタリアの統治を帝国に託す覚悟を示した。その者がわざわざ皇帝への文に、ゴートに任せて安んじていると書き添えるなら、それは徴発であり、皇帝の望みを踏みにじる行為である。自由にペンを執れる身でないことを報せるため、あの一句は置かれたのだ。ユスティニアヌスはそう悟る。
数日ののち、港に新たな船影が入り、リベリウスとオピリオ、そしてトゥルウィンが宮廷に召された。トゥルウィンは礼を尽くし、マルタナの門が固く閉ざされ、出入りが許されぬと述べる。リベリウスは、分割統治の誓約が立てられたのち破られたことを伝え、さらにテオダハドから弁護を頼まれた旨も隠さなかった。彼の高潔な人柄が現れた応対である。
しかし、オピリオだけは違った。
「アマラスンタ様は療養のため、自らマルタナ島に御移りになられました。テオダハド陛下は正統な手続きで王位に就かれたのです」
同じ句を重ね、皇帝の目を避けぬ構えである。
ユスティニアヌスは三通の書簡と三者の口から出た話を繋ぎ合わせた。テオダハドは、アマラスンタと比較することさえ腹正しいほどの男である。情で動きはせぬが、情を乗せても構わぬ。ゴート族とテオダハドのあいだに裂け目を生じさせ、帝国に有利な風を起こす。そう心に定めて書記官に羊皮紙を二枚取らせた。
一枚はアマラスンタへ。彼女を保護する意志があると明言し、帝国の手は見捨てぬと記した。もう一枚はペトロス宛。前の書簡の趣旨を隠さず、テオダハドと全てのゴート族に報せよ、と命じる文である。
封泥が固まるなり使者は港へ走り、二通の書簡は海路へと載せられた。




