17 虚言
アマラスンタがボルセーナ湖のマルタナ島へ移されてから、数日が過ぎていた。
ラヴェンナの宮城では、政庁へ向かう者と自室へ戻る者とが石の廊を行き来している。その一角をテオダハドもまた衣の裾を引きつつ歩んでいた。
曲がり角にさしかかったところで、柱の陰から押し殺した声が洩れる。耳をかすめたその響きに、テオダハドの足が止まった。
「こんなことが帝国に知れたらどうなるか」
「少し前にアレクサンダー殿がアマラスンタ様のところに皇帝の書簡を持ってきたばかりであったのに」
政務官ふたりの言葉はそこで途切れた。誰かの気配に気づいたのか、巻物を抱えた姿が柱の向こうへ退いていく。
額に油汗が滲んだ。マルタナへの幽閉は、自らの坐を確たるものとするために選んだ一手である。しかしその報せがビュザンティオンへ届けば、王坐を奪うため親族を押し込めたとのそしりは免れまい。そう見通した刹那、テオダハドは踵を返し、政庁とは別の廊へ向かった。
自らの居間に入ると、テオダハドは戸を閉ざさせてから侍従を呼び寄せる。
「急ぎ伝令を二人選べ! ローマまで走れる者だ。その者らをここへ通せ!」
命を受けた侍従が駆け出していく。テオダハドは卓の前に腰をおろし、組んだ指を一度強く握りしめたのち、膝の上に下ろした。先ほど耳にした一句がなお胸で鈍い音を立てている。
ほどなくして革の外套を身につけた若者が二人、戸口に姿を現した。膝をついて頭を垂れた彼らを見下ろし、テオダハドは身を乗り出す。
「そなたらはローマへ走れ。元老院議員リベリウスとオピリオを訪ね、言伝を伝えるのだ」
若者たちが顔を上げると、テオダハドは声を落として続けた。
「こう申し伝えよ。テオダハドは正しく王位を継ぎ、諸都市と軍はこれに従っている。内乱の気配は無い。アマラスンタは療養のため自らマルタナに移ったのだ、と。そして、皇帝の御前に出たなら、この言葉を少しも違えずに申し述べるよう求めよ」
二人は言葉を記憶に刻もうとするように、唇をわずかに動かした。テオダハドはひと息おき、なお念を押す。
「言い回しをわずかに変えただけでも疑いを招く。一語たりとも取り落とすなと、強く申し含めよ。ビュザンティオンで王を弁ずるのは、この言葉にほかならぬと伝えるのだ」
若者らが頭を下げるのを見届けると、テオダハドは戸口を指さした。
「すぐに馬屋へ行け。馬は自由に選ぶがよい。道の途中で無用に足を止めることは許さぬ」
伝令役たちは踵を返して部屋を辞す。戸が閉じられたのちも、テオダハドの掌にはじっとりとした嫌な汗が残っていた。衣の裾でそれを拭い取りながら、帝国の都に思いを走らせる。
テオダハドは卓の上に並べられた羊皮紙に目を落とし、傍に置かれたペンを手に取った。指先で軸の感触を確かめ、インク壺に軽く浸すと、滲まぬよう縁で一度すべらせる。
羊皮紙の上に黒い跡が走りはじめた。冒頭にユスティニアヌスの名と称号を書き記し、続いて自らの名を書き添える。定められたあいさつの文を置き、そのあとにアマラスンタの名を挙げた。
アマラスンタは先王が崩御したことで心を煩い、政務と人々の目から離れることを望んだ、とペンを運ぶ。彼女が自ら療養の地を求め、ボルセーナ湖のマルタナ島に身を移したと記す。王宮の務めと争いの声から身を遠ざけるために道を調えたのであり、誰かが力ずくで連れ去ったのではない、と行を改めて書き連ねた。
次に、自らの坐について言葉をつなぐ。王国の法に従い、平和裏に王位を継いだと記した。諸都市は命に服し、軍は指図に従い、街道にも市にも騒擾の兆しは見えぬと続ける。
インクがかすれ、テオダハドはペン先を再び壺に浸した。アマラスンタの暮らしについても触れねばならぬと考え、文を改める。マルタナでの衣と食と住まいには欠けるところはなく、療養にふさわしい扱いを与えていると書き添えた。島へ送られた者に粗末な暮らしを強いていると思われてはならぬ。
一通り書き終え、行の初めから目で追った。帝都でこの文を読む者がどのような顔をするか、たやすくは思い量れぬ。自らの正しさを並べ立てた弁明と見るか、それとも事の次第を告げた報せと受け取るか。どちらに傾くにせよ、ユスティニアヌスの心に疑念を呼ぶことを避けられまい。
テオダハドはペンを持つ手をとどめた。アマラスンタ自身が自ら望んで湖の島に渡り、今も変わらぬ敬意と扱いを受けていると書き記せば、ユスティニアヌスの眼も幾分かやわらぐのではないか。
あれにも同じ趣旨の書簡を書かせねばならぬが、他人に任せれば、送り出した者がアマラスンタに絆されぬとも限らぬ。このうえはテオダハド自らマルタナへと赴くほかはない。
× × ×
ラヴェンナを発って幾日か、テオダハドを乗せた船はボルセーナ湖を渡り、マルタナの塔の下に横付けされた。石段を上り、番兵の合図とともに最上の部屋の扉が内へと開く。
粗い壁と狭い窓、寝台と卓がひとつずつ。アマラスンタは窓辺に立ち、湖を見下ろしていた。
「出て行け」
テオダハドの声に侍女たちは慌てて盆を抱え、戸口へと退く。
扉が閉じられ、閂の音が続いた。室内にはテオダハドとアマラスンタ、ふたりきりとなる。
アマラスンタは振り向き、痩せた頬をわずかに上げた。
「王自ら幽閉した者の顔を見に来るとは、随分と暇なようだな」
「息災で安心したぞ、従姉妹殿」
テオダハドは卓の前に進み、指で天板を叩く。
「ユスティニアヌスに文を書け。そなたは心を煩い、政務から離れることを望んだ。望みに従いマルタナで療養している、新たな王は正しく王位を継ぎ、イタリアは乱れなく治められている、と」
「ほう。わたくしの手がなければ帝国とのやり取りひとつままならぬか」
言い終える前に、頬に衝撃が走った。テオダハドの手の甲がアマラスンタの顔を打ち、石の壁に乾いた音が返る。
「ここがどこか忘れるな。番兵も侍女も、この島を預かる兵も、すべてわが命でここにいる。ラヴェンナに残した者らも同じだ。そなたが書かぬというのなら、名を呼んでひとりずつ湖に沈めてゆこう」
アマラスンタは壁に手をつき、すぐに身を起こした。頬に走る痛みを押し込み、目を上げて従兄弟を見据える。
「そなたらしい手段よ」
「王の務めは坐を守ることだ。方法を選んではおられぬ」
テオダハドは戸口のほうへ声を張り、新しい羊皮紙とペンを運ばせた。侍従がそれを卓に置いて下がると、再び閂の音がする。
「坐れ」
椅子を顎で示し、テオダハドはアマラスンタの背後に立った。
アマラスンタは無言で椅子に腰をおろし、ペンを取り上げる。インク壺に先を浸し、まずはユスティニアヌスへの呼びかけと自らの名を書き記した。定められたあいさつに続けて、テオダハドに命じられた文をひとつずつ行に置いていく。
最後の段に至ると、彼女はペン先をわずかにとどめ、さらりと一行を書き加えた。
『兼ねてからの望み通り、名のあるゴートの者にイタリアを任せることが出来て安んじております。』
書き終えた羊皮紙を差し出すと、テオダハドは貪るように行を追う。やがてうなずき、口の端をわずかに上げた。
「いいだろう」
書簡を折りたたみ、戸口に控える侍従に渡すと、テオダハドは裾を払って部屋を出る。
アマラスンタは卓の縁に置いた手を握りしめ、息を吸い込んだ。
喉の奥から、かすかな笑いが洩れる。声にならぬほど小さな笑いであったが、その震えは肩から指先へと伝わっていく。




