16 幽閉
侍女が戸口の前で合図を求めると、外側で鉄の留め金が外れる音がした。閂が引かれ、戸がわずかに開く。番兵の影が一瞬差して引き、許しを得た侍女が中へと身を滑り込ませた。
「お目覚めの刻にございます」
囁く声とともに、薄布がそっと持ち上げられる。アマラスンタは瞼を開き、粗い麻布の天蓋を見上げた。ラヴェンナで眠りについた寝台には帝国から贈られた織物が掛けられていたが、ここでは身の回りの品も簡素なものに改められている。
侍女が水の盆を運び、小さな卓の上に置き、アマラスンタは身を起こし、侍女に支えられて寝台を降りた。
指先を水に浸すと、湖の冷気がそのまま盆に封じられているかのような感触がする。顔をぬぐうあいだも、戸口の向こうから番兵の気配は離れなかった。
侍女は櫛をとり、アマラスンタの髪を解きほぐしていく。金糸を織り込んだ飾り紐も宝石を留めた髪留めも、ここへ来るときにはすべて置いてきた。今は質素な紐を結び、首筋に沿わせるばかりである。
身支度を終えると、アマラスンタは窓のほうへ歩み寄った。小さな開口部には厚い石が縁をなし、その隙間から湖の面がのぞいている。白い靄が水の上に立ちこめ、対岸の輪郭を曖昧にしていた。波打ち際のほうからはかすかな水音が聞こえる。
この島がどれほど狭いものであれ、周りを囲む湖の広がりが、かえって隔たりの深さを思わせた。王国は広く地を覆っていたが、今や自らの手が届くのはこの石の部屋ばかりである。アマラスンタは窓の縁に手を添え、去来する思いを押し隠した。
侍女が戸口のほうへ合図を送ると、再び閂が音を立てる。外から盆を受け取り、卓の上へと運んできた。木の皿には黒い皮のついたパンが一塊と、乾いた果実が少し載せられている。杯には水で割った葡萄酒が注がれていた。
王宮で朝の卓についたときには、同じ刻に政庁へ向かう者たちの顔が揃っていた。パンを割りながら法の条を口にし、各地からの報告を聞き交わす坐である。いま目の前にあるのは、腹を支えるための食事に過ぎぬ。器の縁を撫でる指に、アマラスンタは力を込めた。
侍女が一歩退くと、番兵のひとりが戸口から身を乗り出し、盆の上をちらと見やる。誰の口にも上らぬやりとりであったが、こうして運ばれる食事が王家の血を引く者に向けられたものであることを、見張りの目は確かめずにはおかぬらしい。
アマラスンタはパンを取り上げ、小さく裂いて指先をぼんやりと眺めた。父がこの国を築いた日々、戦場を歩み、帝国と取り決めを交わした折に払った代価の数々が思い起こされる。受け継いだはずの務めを守りきれなかったことへの悔いが、口に運ぶ前の一瞬喉を塞いだ。
陽が中天へ向かうと、石の壁に当たる光が床を横切る。
戸の外から番兵の名乗りがあり、アマラスンタは卓の椅子から身を起こした。見回りを告げる声にうなずき、戸口のほうへ顔を向ける。
兵は片手を柄に残したまま室内に入り、壁と寝台と卓を順に見やった。彼女の前まで進むことなく、頭を垂れる。
「変わりはございませんか」
「そなたの目に映るものが、この身のすべてだ」
それ以上のやりとりもなく、兵は戸の外に退く。金具が打たれる音がして、足音は塔を巡る方へ遠ざかった。
アマラスンタはひと息置き、卓の上の巻物を手に取る。許された祈りの詞を数行読み返し、羊皮紙を巻き直してから椅子を離れた。足のこわばりをほぐすように室内をゆっくりと一巡し、最後に窓のほうへと歩み寄る。
背後から衣擦れの音が近づいた。侍女が裾の乱れを抑えようと、控えめに手を伸ばしてくる。アマラスンタは視線を外に向けたまま、問いかけた。
「そなた、家族はおるのか」
「おります。トスカーナの村に夫と子がひとり」
答える声に、務めの場では見せぬ色がわずかに混じる。炉の火や畑を思う柔らかさが表情に宿っていた。
アマラスンタはその響きを受け止め、自らの歩んできた道に思いを寄せる。かつて自分にも、同じ屋根の下で子の成長を見守るはずであった夫がいた。その名が家から消えたのち、子を支える務めは彼女ひとりに残されたのである。守ろうと定めた形を保てなかったことを思うと、亡き夫に顔向けできぬ。
侍女が下がると、アマラスンタは窓枠から手を放ち、卓へと戻った。羊皮紙を引き寄せ、湖の色と舟、塔を巡る足音の刻を簡素な文で記す。外からの報せを待つほか無い身にとって、目に映る事柄を書き留めておくことが、日々の移ろいを確かめる唯一の術である。
夕の陽射しが石壁の端から引きはじめ、中庭の影はゆるやかに伸びていった。
回廊には交代の兵が現れ、槍の柄を肩に載せて歩いていく。昼のあいだ塔の下を預かっていた者とこれから夜を持ち場とする者とが、すれ違いざまに顎をわずかに動かした。そのやりとりをアマラスンタは窓の内側から見下ろす。
湖の向こうは色を失いはじめ、水面には暮れゆく空の帯が残っていた。舟の姿はもう見えず、岸辺の火が灯っている。
やがて戸口のほうから控えめな合図があった。侍女が湯を運び込む許しを求めているのである。外で金具が外され、扉が開く。大きな桶がふたり掛かりで運び入れられ、温めた水の湯気と香草の香が石の部屋に広がる。
アマラスンタは衣を脱ぎ、侍女に髪をまとめさせた。兵の姿は戸の外にとどまり、板一枚隔てた場所で足音が往き来している。王宮の浴室であれば、歌や談笑の声が混じったであろうが、ここでは水に手を浸す音と桶に当たる指の動きのみが刻を告げた。
浅い湯であったが、それでも身を沈めると、強ばっていた筋が弛んでいく。アマラスンタは目を閉じて額を縁に寄せた。瞼の裏には、幼いころに湯殿へ連れて来た子の姿が浮かぶ。水をはね散らしながらも母の眼差しを気にしてこちらを見る眼が、いつまでも幼いままであればと願ったことがあった。
やがて子は学びの間よりも馬場を好むようになった。文字の行よりも杯の数を増し、友と笑い声を上げる坐を求めるようになった。王としての務めを語る母の言葉と、若い仲間たちの誘いとのあいだに揺れる眼差しを、アマラスンタは覚えている。
湯から上がると侍女が黙って布を差し出した。髪と身を拭って寝間着をまとい終えると、彼女らは礼をして部屋を辞す。戸の向こうで兵の声が交わされ、扉は外から引かれた。鉄の閂がはめられる音が昼と夜の境を画す。
残された灯はひとつきりであった。炎は石壁に届くほどの明るさを保つ。アマラスンタは寝台の縁に腰をおろし、両の手を重ねて額を寄せた。アタラリックの名を声には出さぬまま胸に呼び、守り通せなかった歩みを思い起こす。
王としての務めを負わせるにはあまりに若く、子として抱くにはあまりに遠いところへ置いてしまった。その悔いが夜の長さを測るものとなる。湖を渡る風と水を打つ音が、絶えた命のあとを数える拍のように重なっていった。




