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15 背信

 王冠が新たな額に載せられてからほどなくして、政庁の卓の並びが改められた。中央にはテオダハドの椅子のみが据えられ、その脇にあった席はひとつ後ろへ退けられている。


「まず、未決の訴えをこちらへ」


 新王の声に従い、書記官が巻物の束を抱えて進み出た。都市の税に関する嘆願や土地争いの訴え、徴発の軽減を求める書簡などが重ねられている。


 ひとつ目の巻物を開いた書記官が法の条を引こうと棚に目を向けかけると、テオダハドは指先で机を叩いた。


「条文は後でよい。肝だけを申せ」


 読み上げられた要点を聞くやいなや、彼は答えを告げる。


「税を減じよとの願いか。ならば退けよ。王家の蔵が痩せれば、誰が兵を養う。既に定めた取り立てを曲げてはならぬ」


 別の巻物には、ローマ市民とゴートの領主とのあいだの争いが記されていた。


「領主は先王にも仕えてきた者であろう。その功を思えば、多少の行き過ぎには目をつぶるが道というものだ。ローマの者どもには従うよう伝えよ」


 棚に並ぶ法の巻物は誰からも求められることなくその場に留まっている。アマラスンタが積み重ねてきた手順は、王の一声で脇へ追いやられていた。


 日を置かず、テオダハドは兵の置き方についても自ら定め始める。


「この砦にいる兵の半数を海に近い町へ移せ。私の身の回りにはよく知った顔を多く置いておきたい」


 書記官が従来の決まりではアマラスンタの印を待つべき事柄であると控えめに告げると、テオダハドは肩をすくめた。


「王の命に他の印を重ねる必要はあるまい。冠を戴く者が誰を傍らに置くかまで他人に諮れというのか」


 こうして政庁の卓の上では、誓いの言葉とは逆の決まりごとが積み重なっていく。法を冠より尊く仰ぐと口にした男が、今は冠そのものを理の代わりとして振るうようになっていた。


 やがて訴えを抱えて宮城を訪れる者たちも、自然と足を向ける先を変えていく。政務の間の戸口ではなく、テオダハドの私室へ通じる廊のほうに列が延びるようになった。


「王自らが訴えを聞いてくださる」


 そう囁き合いながら門をくぐる者は、ゴートの者ばかりであった。扉の内側でどのような言葉が交わされるのか、外から窺うことはできぬ。出入りする者の手に小袋や新たな書板が握られていることだけが、目に見える変化であった。


 政を共に執ると約したあの日の約束は、誰の前でも口にされることなく、人目の届かぬところで形を失っていく。


 政庁の務めがひととおり片づくと、テオダハドは机の端に積まれた報告の束を手繰り寄せた。そこには辺境の砦へ遣わされ、そのまま戻らなかったグディラ、グンダルムント、ヴィドリックの名が幾度も記されている。


 彼はペンの先でその名を示し、傍らの従者に目をやった。


「この三名に連なる者らを宮城へ呼べ。王が耳を貸すと伝えよ」


 従者は頭を下げ、巻物を抱えて廊へと駆け出す。使いが各地へ走ると、名を告げられた家の者たちは互いの顔を見交わした。遠い砦へ送り出した日の光景やその後に届いた報せが、悔しさと共に口の端に上る。


 夕刻、城門のあたりに足音が続いた。呼び出しを受けた男たちが集まり、兵に導かれて長い廊を進む。髭に白いものを交えた者もいれば、まだ若い肩を張って立つ者もいた。どの背にも、帰らなかった父や兄弟の名が貼りついている。


 テオダハドは玉坐の前に立ち、列を見渡した。


「そなたらの親族はアマラスンタの命で辺境へと遣わされ、その地で斃れた。王の名のもとに差し出された命に何の報いも無いのであれば、その嘆きはどこへ行く」


 押し殺した呻きが一ところから洩れ、やがて列のあちこちへと広がる。怒りとも悔恨ともつかぬ思いが、男たちの胸で息を吹き返していく。


 テオダハドは一人ひとりの顔を眺めてゆるやかに言葉を継いだ。


「奪われたものがあるならば、奪われた側が取り返すがよい。私は遮らぬぞ」


 それが合図であるかのように、男たちの目に別の色が宿る。握りしめた拳が震え、肩が前へ傾く。


 その夜、アマラスンタの母からつながる家々の門が順々に叩かれた。訪ねて来たのは、かつて砦へ送り出された者の息子や兄弟である。王宮からの召しだと思い、上衣を羽織って戸口を出た者もいた。


 灯火から離れた場所に連れ出されると、輪が狭まる。問いを投げかけようとした声は、近づいた刃の前に途切れた。剣を握る手には、長いあいだ押し殺してきた叫びが込められている。


 やがて夜が明けると、ラヴェンナの外れや道の端には荒い足跡が残った。グディラらを失った家々の者は、黙ってその地の色を見下ろす。アマラスンタの親族の家から、その日いくつかの灯が消えた。



  ×  ×  ×  



 翌朝、アマラスンタの私室に一人の侍従が慌ただしく駆け込んだ。卓の傍にいたアマラスンタは何事かと顔を上げる。侍従はうつむいたまま声を震わせた。


「夜のうちに、ご一族の館へ武具を帯びた者らが踏み込みました。主立つ方々が数名、刃にかけられたとの報にございます」


 その凶報にアマラスンタの胸が締めつけられる。状況から察するに、何者かが私情をもって刃を振るったことは明白であった。


「よく報せてくれた。陛下と話さねばならぬ」


 アマラスンタは怒りに声を震わせながらそう告げると、卓に広げてあった羊皮紙から手を離して席を立つ。


 戸口の脇には護衛隊長トゥルウィンが控えていた。彼は一礼すると、そのままアマラスンタの後ろに続く。


 王の間へと向かう廊には、普段より多くの兵が立っていた。槍の列が伸び、通り過ぎる二人を横目でうかがってはすぐに正面へと視線を戻す。


 背後から鎖帷子の鳴る音がした。トゥルウィンが警戒を強めている。それでもアマラスンタの歩は乱れぬ。


 やがて王の間の扉は内へと引かれた。


 広間の中央にはテオダハドが立ち、その両脇と背後には武具を備えた兵が列をなしている。先に口を開いたのはテオダハドであった。


「これは従姉妹殿。随分と怖い顔をされてどうした。ご子息に続き親族までを亡くし、動揺しておられるようだな。そのような様子では、政に携わるのは難しいだろう」


 ことさらにやわらいだ調子で続ける。


「しばし職を離れ、穏やかな地で身と心を養われるがよい。……トスカーナにはボルセーナというそれは美しい湖があってな。その中ほどにマルタナという小島がある。そこへ従姉妹殿をお迎え申し上げよう」


 テオダハドの手がわずかに動いた。その合図に応じて、左右と背後に控えていた兵たちが一斉に一歩踏み出す。槍の穂先が角度を変え、アマラスンタを囲む円をつくった。


 トゥルウィンが反射のように前に出る。アマラスンタと兵とのあいだに身を滑らせ、腰の剣に手をかけた。


「やめよ」


 振り返ることなく告げられたひと言に、トゥルウィンの足が止まった。ここで王命に刃を向ければ、その咎は彼ひとりにはとどまらぬ。一族も配下の者らも同じ罪で数えられ、処されるであろうことを、アマラスンタは悟っていた。


 輪を形づくった兵の一人が、彼女の腕に触れようと手を伸ばす。アマラスンタは姿勢を崩さず、視線をまっすぐ前に据えた。その気迫に押され、伸びかけた手は途中でこわばる。


 アマラスンタは背筋を正したまま一歩を踏み出した。槍と盾のあいだを自らの足で抜け、戸口へと歩を進めていく。誰の手も借りず、進む先を自ら選ぶ者の歩みであった。


 扉にさしかかるところで、彼女は歩をわずかに緩める。


「よく仕えてくれた。そなたはこれより自由に生きよ」


 振り返らずに置かれた言葉を、トゥルウィンは受け止めた。握りしめた拳が衣の下で震え、奥歯の軋む音が聞こえる。怒りと口惜しさを飲み込んだまま、彼は遠ざかる足音とその主の背を目に焼きつけていた。


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