包囲
どこからともなく聞こえてくる、子守歌のような甘い女性の歌声。
それは富勇に幼年期を思い出させるとともに、かつて自分が愛してやまなかった母親の若い姿を呼び起こした。
恋しい。
ああ、なんて……愛おしいのだろう。
「富勇くん?」
いぶかしんだような涼香の声に反応すべく、富勇は「大丈夫だ」と言おうとした。
けれど、重たい口は開かない。
代わりに、目の前の視界が暗転。
「富勇くん……くん」
反響して聞こえる涼香の声。
次に世界の彩りが戻ったとき、富勇は幼年時代の姿に変わっていた。
そこは富勇の通っていた幼稚園だった。
キョロキョロと辺りを見回すと、うっすらと富勇の悪口が聞こえ始めた。
中でも、幼稚園児になった富勇の心を引き裂いた言葉は「あの子……目が怖い」という悪口だった。
それにショックを受けた富勇は、ぐずり出した。
そんなとき、富勇の母親が目の前に現れ、富勇を抱き寄せると、子守歌を口ずさんでくれた。
ああ、なんて温かいのだろう、この人は。
富勇は母の子守歌に聞き入り、安心してまぶたを閉じる。
…………。
でもなぜだろう、完全にこの女を受け入れることができない。
なぜ、なぜ?
「……香りが違う」
反射的に――富勇は子守歌をうたう女を突き飛ばした。
そのときに見た女の顔は……のっぺらぼうだった。
ゾクッとしたと同時、幼稚園児だった富勇は大人に戻った。
いや、現実に戻ったのだ。
どうも富勇は幻術にでもかけられていたのか、アスファルトの地面にそのまま倒れていたようだった。
口の中は切れていて、唾液からは血の味がし……富勇は顔をしかめた。
「助けて……富勇くん!」
助けを求めているこの声は……涼香だった。
富勇は戻り切っていない力をフルに使い、肩で息をしながら立ち上がった。
涼香はというと、富勇の後ろにいた。
グレーの軍服を着た如月親衛隊員に羽交い絞めにされ、今にでも他の親衛隊員からの銃拳の餌食になろうとしていたところだった。
「おい……親衛隊のクズども! どうも相手を見誤っているようだが」
「富勇くん……!」
富勇と涼香の会話を耳にした親衛隊員は、すぐさま富勇を標的に変えたようだった。
「サイダーナイフの使い手、朝倉富勇の意識が戻った。すぐさま奴を生け捕りだ」
「はっ」
わずか五秒ほどで、富勇は銃拳をはめた十名ほどの親衛隊員によって包囲される。
最悪にも、涼香は敵方に捕らえられたまま。
サイダーナイフを取り出した富勇はというと、思わず舌打ちした。
やむを得ない、ここは大きく出よう、と富勇は方針を固めた。
「お前らのボス……鮫島恵太の野郎はここにいないのか? いてもいなくても、奴にはこう伝えろ。……お前のバイクと引き換えに、部下の命は助けてやる、とな」
しかし――。
「何、我らを倒すだと……? ふん、粋がるなよ、小僧め」
「我らをなんだと思っているぞ、このひよっこが。我らこそ、如月日本を守る栄誉の軍隊」
「往け、守れ、我らが如月日本」
「敬服せよ、敬礼せよ。我らが国王様、我らが王妃様」
「万歳、万歳」
親衛隊員は動揺しないどころか、かえって奮い立たせてしまったようだ。
いざ戦いが始まろうとしたとき――遠くから耳障りな音が聞こえてきた。
「これって……何の音? なんだかうるさいかも」
耐えられないというように、涼香は不快そうに耳を押さえていた。
しかし、富勇はこの音の正体を知っていた。
先ほど、永嗣から音真似で教えてもらったのだが……これはバイクの空ぶかし音のようだ。
そのバイクの所有者とは、鮫島恵太にほかならない。
やがて耳障りな音は、とうとう聞くに堪えない音に変わり、その音はどんどん富勇たちの元に近づいてくる。
バイク、それは意志を持った弾丸のようなものだった。
その弾丸を乗りこなすのは、フルフェイスを被ったジャケット姿ののっぽ男性。
そうして彼――如月親衛隊長の鮫島恵太は、バイクに乗って颯爽と登場したのだった。




