魔の森編第3話 森の魔女の記憶 2
森での暮らしは穏やかだ。
森の魔女は日の出前に目覚めて森に異変がないか見回りし、館に住む人達と一緒に朝食を食べる。
食後は魔法の修行で、弟子達の修行の成果を一人一人確認する。
昼食後は自由時間で、書庫で本を読んだり森の中にある墓を手入れしたり森の中を散歩したりと様々だ。
草原の魔女や高原の魔女など、他の魔女が遊びに来るときもある。今は亡き波間の魔女の姿もあった。
夕食を食べて片付けを済ませたら、森の中にある小屋へ移動する。丸太を積み上げたような小屋には幼い私と数人の弟子がいて、私の面倒を見ているようだ。
「ご飯はちゃんと食べてるかな?」
「はい、食欲旺盛ってわけじゃないですけど、出された分はしっかり食べてます。それより、静かすぎるのがちょっと気になりますね」
「静かすぎる?」
「この子、全然泣かないんですよ」
それの何が問題なんだろう、と森の魔女が首を傾げる。
「普通の赤ちゃんはお腹が空いたら泣いて、眠くなったら泣いて、おしめを替えてほしくて泣いて、理由がなくても泣くものなんです」
「泣いてばかりだね」
「泣くことでしか自分の気持ちを伝えられないから当然です。なのに、この子は全然泣かなくて! 今日だってお洋服が汚れるまでおしめを替えないといけないことに気づけなかったんですよ。もっと自分の意思を主張してください!」
最後の言葉は今でも言われることだった。どうやら私は幼い頃からあまり変わっていないらしい。
「まぁ、夜泣きで昼も夜も眠れないって事態にならないのは助かってます。それがこの子にとって良いことなのかはわからないですが」
「一応、ソフィに初めて会った日は泣くことあったよ。全く泣かないってわけではないと思う」
「そうなんですね」
私の子育てを担当する内の一人、イルゼはことある度に森の魔女に報告した。
「この子、大人しすぎます! これくらいの大きさになると、寝返りしたりはいはいをしたり立ち上がろうとするものなんです。なのに同じ場所から動こうとしなくて! 生まれつき動けない病気ってわけじゃないですよね?」
「うーん、魔女は病気にかからないって聞くけれど」
「それは大人の話ですよね? 小さい子は病気にかかりやすいんです。生まれついた障がいなら避けようがないですよ」
「動けないってことはないと思うけれど……ソフィ、こっちまで来てくれる?」
森の魔女の言葉に、寝転がっていた幼い私が顔を動かす。
寝返りして最初は引きずるように進んでいたけれど、次第に四つ足で歩けるようになり、森の魔女の前に到着する頃には何も掴まらずに立ち上がることができた。
「え? ……え?」
「歩くの上手だね、ソフィ。……ほら、何も問題ないでしょ?」
「いやいや、急すぎますって! どうしていきなり歩けるようになるんですか!?」
「まぁ、子どもの成長は早いってよく言われるし」
「尋常じゃない早さです! っていうか、どうしてお師匠様は驚いてないんですか? さっきまで寝返りができるかどうか怪しかった子どもが支えなしで立ってるんですよ?」
森の魔女も私も子育て経験がない。双子の姉である波間の魔女の子どもなら見たことがあるけれど、成長の過程を見てきたわけではないようだ。
「ずっと前からやり方はわかっていたんじゃないかな。それを人に見せる必要性がなかっただけで」
「小さい子がそんなこと考えないはずです!」
「ソフィはきっと頭がいいんだよ。ね、ソフィ?」
しゃがんで笑顔を見せる森の魔女につられて、幼い私もはにかむように笑った。
「ん、かあさん」
「ふぁっ!?」
今まで見てきた森の魔女の記憶で、一番最初に私が口にした言葉だった。
イルゼは口をぽかんと開けて固まったけれど、森の魔女は驚いた様子を見せない。
「残念だけど、君の母親ではないなぁ。でも、何て呼んでもらうのが一番なんだろう」
「かあさんは?」
「自分の母親のことを知りたいのかな? でもごめん、わたしもよく知らないんだ」
「かあさんは?」
「……イルゼ、こういうときはどう返せばいいのかな。ソフィが何を求めているのかさっぱりだよ」
「へっ!? いや、あたしに聞かれましても……」
当時の私がどうして同じ言葉を繰り返したのか私にもわからない。
けれど、焦げ茶色の瞳に必死さや焦りは浮かんでないから、実の母親のことを知りたいと思っているわけではない……と思う。
それなら、なぜその言葉を言うのかというと……
「もしかして、わたしを母さんと呼びたいのかな?」
私の思考に被せるように森の魔女が尋ねる。
幼い私は無言で頷いた。
「仕方ないなぁ。君の本当の母親にはなれないけれど、代わりになれるよう頑張るよ」
「かあさん」
「改めてよろしくね、ソフィ」
森の魔女が幼い私を優しく撫でる。焦げ茶色の瞳に映る森の魔女は聖母のような微笑みを浮かべていた。
ふと、災厄の魔女に襲われたときに森の魔女が助けてくれた日を思い出す。
あの日“まじょさん”と言うつもりだったのに、「かあさん」という言葉が出たのは、幼い頃の呼び方が原因かもしれない。
記憶を失っていても、全てが頭の中から消えたわけではなく、思い出すのが難しい場所に仕舞い込まれているだけなのだ、きっと。
そしてゆるやかに時は流れ、私は三歳くらいになっただろうか。
森の魔女に抱かれた私の顔を誰かが覗き込んだ。
金色の瞳にそばかす、薄い黄色の髪の少女。
六歳前後のエマだった。




