魔の森編第2話 森の魔女の記憶 1
「それじゃあ、始めるよ」
森の魔女が手を石碑に置いて魔力を流す。
ぐにゃりと視界が曲がる感じがして、私は思わず目を閉じた。
❋❋❋
鳥のさえずりに目を開けると、知らない建物の中にいた。
顔の向きを変えようとしても動かない。視界が固定されたままだ。ここはどこで、森の魔女はどこへ行ったのだろう。
視界の端で誰かの手が挙がる。
「んー、今日もいい朝だね」
森の魔女の声が、私の口から出た。
不意に視界が高くなり、身体の持ち主が立ち上がったのに気づく。窓に歩み寄り、カーテンを開ける。
窓ガラスに映る私は、森の魔女の姿をしていた。
いや、私が森の魔女に憑依していると言った方が正しいだろうか。今は彼女の記憶を見せられているのだから。
森を見回り、スザンヌや弟子と一緒に朝食を食べている。そんな、何気ない一日の始まり。
平穏を破ったのは、思わず振り返ってしまうほど強烈な魔女の気配だった。
「っ!?」
気配は一瞬で消えてしまったけれど、大陸やその周辺にいる魔女なら誰もが気づいただろう。それほど強い気配だった、と森の魔女の声が聞こえた気がした。
「今まで会ったことのあるどの魔女とも一致しない気配……まさか、新しい魔女の誕生?」
「主様、どうかなさいましたか?」
「……ごめん、スザンヌ。ちょっと行ってくる」
不思議そうなスザンヌを見向きもせずに森の魔女が立ち上がる。
「え、どちらへ? 本日は草原の魔女様と高原の魔女様がいらっしゃる日ですよ」
「大丈夫、すぐ戻るから」
スザンヌに笑顔を向けて、森の魔女は部屋から出る。
玄関に向かうことなくその場に立ち止まっていると思ったら、急に周りの景色が一変した。
森の館から小さな村へ、転移魔法で移動したのだ。
何となく見覚えがあるけれど、ここがどこだか思い出せない。
でも、百年くらい前に国外追放されたはずの森の魔女は、堂々とした足取りでのどかな村を歩いていく。
やがて一つの建物の前で足を止めたとき、どこに転移したのかわかった。
古い貴族の館に猫と三日月の紋章。レオの故郷、クノール村にある貴族の旧館だ。
確か魔女を意味する名前の貴族が住んでいたはず。うぇね何とかだ。
魔女の気配は感じないけれど、建物の中に私より魔力が少ない人がいるのに気づく。
森の魔女はもっと前に気づいていたから、迷いがなかったのだろうか。
「お邪魔するよ」
森の魔女錆びついた金属製の門扉を開ける。
玄関から中に入ると、大量の埃と蜘蛛の巣が見えた。使われなくなって随分と時間が経つようだ。
「魔力は……この部屋か」
両開きの扉を開け放った。埃が舞い上がって鼻がむずむずする。
家具も床も埃を被っているのに、一部分だけ靴の跡があった。そして、窓辺の棚の上に白い布でくるまれた何かがある。どうやら魔力はそこから感じるようだ。
布だけは新品ほど綺麗ではないけれど、埃を被っていなかった。
森の魔女が警戒しながら近づく。布の中身を覗くと、赤子がすやすやと眠っていた。
「まだ小さい子ども……生後半年くらいかな? 生まれたばかりの魔女がいると思ったんだけれど」
森の魔女が布をめくると、赤子の黒い髪が現れた。
「でも、この子も魔女だ。捨てられたのかな? でも、どうして古い建物の中に? ……ん?」
森の魔女が赤子の近くに置かれた紙の存在に気づく。文字のようなものが書き連ねられているけれど、何一つ読めない。
「これは古語だね。『ソフィア・アテナ・ウェネーフィカをあなたに託します』?」
つっかえることなくすらすら読んだ森の魔女。彼女が領主の娘であることを思い出した。
不意に森の魔女が何かを警戒するように視線を巡らせる。
わたしが来たときはこの紙がなかった。これを書いた人はまだ近くにいる? この子の母親? どうしてわたしに我が子を託すのかな?
けれど、森の魔女と赤子以外に人影はない。
おぎゃあ、と泣き出す赤子を森の魔女が抱きかかえる。しばらく抱いていると泣きやみ、赤子が目を開いた。
私と同じ、焦げ茶色の瞳だ。
「親の姿は見当たらない。こんなところに放置したら死んでしまう。他の魔女もこちらに向かってきているし……」
森の魔女が笑みを浮かべる。仕方がなさそうな、けれど優しさに溢れた慈愛の眼差しだ。
「わたしの家族に迎え入れていいかな?」
「……」
「ソフィア……うーん、そのままだとあまりよくないかな。じゃあ……」
――ソフィ。わたしはエリザベート。リージって呼んでね。
私は思わず息を呑んだ。森の魔女に抱かれている赤子が昔の私という実感は湧かないけれど、今この瞬間にソフィという魔女が誕生したのだと思わされた。
そして、紙に書かれた名前は……
思考を遮るように、再び景色が切り替わる。
今度は森の中のようだ。記憶より増築箇所が減った森の館が目の前にある。中からスザンヌが飛び出してきた。
「おかえりなさいませ、主様。……そちらの子どもは誰ですか? 主様の隠し子……ではありませんよね?」
「違うよ、捨て子だ。……いや、託されたと言うべきかな? とにかく、わたしの子じゃないよ」
「では、どうして連れて帰ったのですか? 出かける前に魔女の気配を感じたとおっしゃってましたが、その子どもと何か関わりはありますか?」
「実は……」
森の魔女が魔女の気配を感じたところから古い貴族の館、埃だらけなのに比較的綺麗な布、それにくるまれた赤子と古語で書かれた赤子の名前。
今までの出来事を語るとスザンヌは綺麗な形をした眉を少し潜めた。
「魔女の気配はこの子どもが発したのですか?」
「いや、生後半年だから違うと思うよ。魔女が気配を発するのは誕生の瞬間と、十五歳前後まで成長してからだ」
もしかすると、ここ最近になって魔女と出会う頻度が上がったのは、私が魔女の気配を発するようになったからかもしれない。
魔女からすれば自分の居場所を伝えるようなものだ。発することなく過ごすことはできないのだろうか。
「……その子を育てるおつもりですか?」
スザンヌの言葉に森の魔女が真剣な顔で頷いた。
「誰だかわからないけれど託されたんだ。放っておくわけにはいかないでしょ?」
「……主様は誰かに託されなくても放置しないでしょうが。そういうことでしたら、館の皆さんに声をかけて子育て経験のある人を集めましょう。負担が軽くなるよう、複数人で面倒を見るのです」
「ありがとう、スザンヌ」
こうして生後半年くらいの私は魔の森で暮らすことになった。




