恍惚
用意された食事に手を付ける者は誰もなく、夕食の席はそのままお開きとなった。レナは血の気の引いた顔で寝室に向かい、ミーナはレナの後を追った。泣き喚いていた少年はシスターがなだめ、抱きかかえて寝室へと連れて行った。虚ろな瞳の少女は、机に残ったパンとスープを回収して台所へと運ぶ。『悪魔』が現れても、痩せ男が死体となっても、生きるためには食べなければならないことに変わりはない。パンもスープも捨ててしまう余裕などないのだ。
シェラーエンは痩せ男の骸を礼拝堂の裏手に運んだ。シェラーエンの肩に乗ったキィがふっと息を吹くと、温度を持たぬ青白い炎が幾つも現れ、周囲を照らした。礼拝堂の裏手は墓地になっており、大小さまざまな墓石が並んでいる。古く苔むしたものもあれば、比較的新しいものもあった。シェラーエンたちは墓地の隅に穴を掘ると、痩せ男をその中に横たえ、土をかぶせた。周囲に墓石の代わりになるような石は見つからず、地面に刻まれた真新しい堀り跡だけが痩せ男がここに眠る証となっている。シェラーエンは胸に手を当て、短く黙とうを捧げた。
空は雲一つなく、鮮やかな満月が世界を青く照らしている。星々の輝きはうやうやしく膝を折り、夜の女王は無慈悲に君臨する。人の生死も、人の痛苦も、顧みることはない。砂混じりの風が吹き、乾いた嘆きの音を立てた。
黙とうを終えたシェラーエンの耳に、静かな祈りの歌が聞こえる。それは朽ちかけた礼拝堂から聞こえる、シスターの呼び声だった。誘っている、ということなのだろう。シェラーエンは無言のまま、礼拝堂の入口へと向かった。
「何に祈ってやがる」
皮肉交じりのキィの声に、祈りを捧げていたシスターが振り返る。崩れた天井から降り注ぐ冴え冴えとした月光に照らされたシスターの顔は、昼間と変わらぬ微笑みを湛えている。
「もちろん、天にまします我らが聖なる主に」
「フいてんじゃねぇぞ。悪趣味なヤロウだ」
平然と答えるシスターの態度が癪に障ったか、キィは不快そうに吐き捨てた。シスターは吹き出すように表情を歪める。張り付いたような柔和な笑みが剥がれ、醜悪な愉悦が浮かび上がった。
「そう言わないで。私たち、お仲間でしょう?」
喉の奥でクククと笑い、嘲りを伴った瞳でシスターはキィを見る。もはや正体を隠す必要が無い、ということなのだろう。人の形に閉じ込められていた死と破壊の気配が膨れ上がり、礼拝堂に満ちた。
「まさかこんな場所で魔神に、しかも『呪われ』た魔神に会うなんて。そんな偶然、そうあるものではないわ。これぞ『聖なる主のお導き』かしら?」
自分の言った言葉が自分で気に入ったのか、シスターは楽し気な笑い声を上げた。
「その人間に守ってもらっているの? 哀れで、無様ね。『呪われ』たその滑稽な姿を晒してまで、命にしがみついているのね。本当に可笑しい。魔神としての誇りがわずかでもあなたに残っていたら、とうの昔に命を絶っているでしょうにね」
あまりの滑稽さに息を継ぐのも難しいと、シスターは腹を抱えて笑っている。キィはシスターの態度に何の反応も示さず、全く別の話題を口にした。
「スプーナを滅ぼしたのは、お前だろう?」
シスターは笑いを収め、キィに意外そうな視線を向ける。そして満面の笑みを浮かべ、自らの行いを自慢する子供のように得意げに言った。
「ええ。私がやったの」
「何が目的で?」
キィの問いにシスターは怪訝そうな表情を浮かべた。問いの意味が分からない、とでも言いたげに答える。
「目的なんてないわ。それに、最初は滅ぼすつもりなんてなかったのよ? だって滅ぼしてしまったらそれで終わりだもの。もっとね、少しずつ少しずつ、時間をかけてゆっくり遊ぶつもりだったの。だけど……」
シスターは右手を頬に当て、中空を見つめてうっとりとした表情を浮かべた。
「あんまりにね、楽しくなっちゃって」
他愛ない悪戯をとがめられた時の弁明のように、シスターは悪びれる様子もない。そもそも、魔神に善悪の概念など存在しないのだ。
「人間は本当に素敵よ。見ていてこれほど飽きないモノは他にないわ。命の瀬戸際で見せる表情はどれ一つとして同じものが無い。知ってる? ついさっきまで愛を語り合っていた男女が、自分の身に危険が迫ったとたんに相手を見捨てるの! 子供を差し出して自分の命は助けてくれって言ってきた親もいたわ! 子供はまた作ればいいんですって! そうかと思えば、放っておいたってすぐに死ぬような年寄りを守って、私に立ち向かってくるのよ!? 人間が! 魔神たる! この私に! なんて愛おしいのかしら。本当に大好き。人間は本当に大好きな私の玩具よ!」
没頭する趣味を語るように、興奮した様子でシスターは叫んだ。キィは白けたような無表情でシスターを見る。沈黙を貫いていたシェラーエンが、拳を握り締め、静かに問う。
「レナたちも、お前のおもちゃか?」
シェラーエンの問いに、よくぞ聞いてくれたとばかりの喜悦を浮かべてシスターは語る。
「レナは本当にかわいい子よ。だから、大事に大事にお世話をしなければ。スプーナのようにあっさり終わらせてしまわないように、大切に、大切に壊していくの」
恍惚と共にシスターはまくしたてる。その目はおぞましい想像の中のレナの姿を捉えていた。
「食堂でのメアリの言葉を聞いた? 今まで一緒に暮らしていた人間が、一人は『悪魔』で、一人は殺されたのに、あの子は『明日のごはんが増える』って言ったの! ゾクゾクしたわ! あの子も最初は誰かの死を悼み、涙を流していたのに! ああ、レナはいったいどう変わってくれるのかしら? 共に暮らす仲間が一人ずつ死んで、妹も死んで、最後に一人残った時、皆を殺したのが私だと知ったら!」
興奮が最高潮に達し、身悶えるようにシスターは自らの腕を抱いた。顔は紅潮し、蒼い瞳が醜悪な悦びに濡れる。
「あの子はどんな顔で泣くと思う?」
答えを催促するようにシェラーエンの顔を見つめたシスターに対し、シェラーエンは無言で腰の長剣を抜いた。シスターは興が削がれたと言いたげに、不快そうに眉根を寄せる。
「私と戦うの? たかが人間と『呪われ』風情が? 何のために?」
「何のため?」
侮蔑交じりにそう言って、キィはシェラーエンの肩から跳躍し、手近な机の上に降り立った。冷たく光る金瞳がシスターを射抜く。
「てめぇが気にくわねぇだけさ」
キィのその声を合図に、シェラーエンの右足が礼拝堂の床を蹴った。




