魔神
シェラーエンは一息でシスターとの距離を詰め、長剣の殺傷範囲にその姿を捉える。シスターが感心するように目を見開いた。上段から刃が弧の軌道を描き、シスターの肩口を襲う。
ガツッ!
土壁に剣を振り下ろしたような鈍い音を立て、シスターに届かぬ刃が空中で止まる。長剣は青い燐光に阻まれ、シスターの胸の聖印が呼応するように青白い光を放った。
「食堂で見せてあげたでしょう? 私の『障壁』は破れない」
出来の悪い生徒を指導する顔で、シスターはシェラーエンに告げる。シェラーエンは小さく舌打ちをしてシスターから距離を取った。
「この聖印はとても便利ね。これが光ると、大抵のことは神の奇跡か神の罰で片付くの。自分で言うのもなんだけど、とてもいいアイデアだったと思うわ」
シェラーエンはふっと強く息を吐くと、朽ちかけた机に飛び乗り、大きく右側に迂回する形で側面からシスターを急襲する。しかし再び長剣は『障壁』に阻まれ、鈍い音を立てた。シェラーエンは大きく後ろに飛びずさる。自分の発言をまったく無視され、シスターが不服そうに口を尖らせた。
「無駄よ。私の『障壁』に死角はないわ」
シェラーエンは長剣を手放すと、懐から鈍色の円筒を取り出し、シスターの頭上に放り投げた。シスターが余裕の笑みで問いかける。
「今度はなあに? 楽しめるものだといいけれど」
円筒は重力に逆らってシスターの頭上に留まり、くるくると回っている。シェラーエンはパンっ、と音を立てて両手を胸の前で合わせると、鋭く呪を発した。
「『双頭の獣・喰らい・滴れ・銀の杯・満たし・染まれ・暗愚の王・嘆き・潰え・腐れ・貫け!』」
「魔術言語!? 生意気!」
シスターの笑みが引きつる。円筒がキィン、という乾いた金属音を響かせて砕け、空中に光で象られた紋章が浮かび上がった。シスターの聖印が強い輝きを放ち、その身を覆う。紋章は水面に生じた波紋のように揺らぎ、その中心から真下にいるシスターを目掛け一条の槍を射出した。『暗愚王の血雨槍』と呼ばれるその槍は、シスターの展開する『障壁』と接触して激しく火花を散らした。
「このっ!」
苛立たしげに叫び、シスターの瞳が不気味な光を放つ。それに呼応するように『障壁』が輝きを増し、そして次の瞬間、槍がシャン、という澄んだ音を残して粉々に砕け散った。ふっと安堵の息を吐き、シスターが得意そうにシェラーエンに笑いかける。
「六王の宝具を呼ぶなんて大したものだけど、あなた程度の魔力じゃ槍の真価を引き出せなかったみたいね。残念」
「のんきに解説してていいのか?」
シェラーエンの戦いを傍観していたキィが皮肉交じりに声を上げる。シスターがキィを訝しげに睨んだ。キィはにやりと嫌味な笑みを浮かべ、シスターの視線に応える。
「『暗愚王の血雨槍』は、砕けてからが本領だ」
砕けた槍は赤黒い霧となってシスターの頭上にわだかまっている。ハッとしたようにシスターは頭上を見上げた。霧から一粒の雫が凝結し、ぽたりと床に落ちる。血のように赤いその雫は、ジュッという音を立てて床に黒々とした穴を穿った。
「……性格悪いわ」
冷たい汗を額に浮かべ、シスターが頭上を見上げたまま呟く。霧から凝結する雫は徐々に数を増やし、次々に床を、机を、聖なる主の像を穿っていく。シスターが展開する『障壁』の輝きをさらに強めた。赤黒い雫はやがてスコールのように降り注ぎ、『障壁』を削っていく。『障壁』が放つ蒼い光が揺らいだ。
「うっとおしいのよ!」
シスターは怒りと苛立ちを叫び、自らの周囲に展開していた『障壁』を頭上に収束させ、赤黒い霧に向かって放った。青白い光に飲み込まれ、霧は跡形もなく消滅する。シスターは勝ち誇ったようにシェラーエンを振り返った。
「どう? これが」
シスターの言葉が途切れる。シェラーエンは目の前にいた。長剣を水平に構え、正確に喉元を狙って、シェラーエンが鋭い突きを放つ。シスターは、人間ではありえない動きでぐにゃりと首を曲げ、辛うじて突きをかわす。シスターの首が浅く裂かれ、黒くどろりとした液体が滲んだ。シスターは右の拳を強く握り、シェラーエンの腹部を抉るように殴打する。シェラーエンの身体が軽々と吹き飛び、いくつかの机と椅子をなぎ倒した。
「私に、傷が! この私に、人間ごときが!」
目を血走らせてシスターが叫ぶ。苦しげに二度咳き込み、手の甲で口元を拭って、シェラーエンは立ち上がった。
「攻撃と防御は同時にできねぇか。大した魔神様だ」
「黙れ! 貴様らなどこの私が戯れに生かしてやっているに過ぎないわ! でも、もうそれも終わり。今すぐに殺してやる!」
愉快そうな口調のキィに激高し、シスターはシェラーエンに向かって右手を伸ばした。シスターの周囲に幾つもの、拳ほどの大きさの青白い光球が浮かぶ。シェラーエンは左手の親指を犬歯で傷付け、滲む血で長剣の腹をなぞった。施された紅は刃を染め、赤黒く燐光を放つ。
「穴だらけになって死ぬがいいわ」
死の宣告と共に、光球が一斉にシェラーエンに襲い掛かる。シェラーエンは光球をかわし、あるいは長剣で迎撃する。長剣が光球を切り裂き、赤と青の光が火花の如く弾けた。しかし光球は次から次へと放たれ、回避と迎撃に集中せざるを得ないシェラーエンは攻勢に転じることができない。シェラーエンの顔にかすかな焦りが浮かぶ。
「あらあら、そちらにばかり気を取られていいのかしら?」
シェラーエンの焦りを感じ取ったのか、シスターが幾分余裕を取り戻した声で言った。光球がシェラーエンのマントをかすめる。光球に触れた個所はまるで腐敗したようにボロボロと崩れた。さらに飛来する光球を避けようとシェラーエンが身をひねった、その時。
――バンッ!
強い力に軸足を引っ張られ、シェラーエンの身体が背中から床に叩きつけられる。辛うじて受け身を取り、シェラーエンは自らの右足を忌々しげに睨んだ。いつの間にか、右足首には糸状の物が幾重にも巻き付いている。それはシスターの足元から伸びた、髪の毛だった。空中に浮かんでいた光球が膨らみ、内圧に耐えかねるようにパチンと弾ける。勝ち誇ったようにシェラーエンを見下し、シスターが笑い声を上げた。
「攻撃手段が一つだとでも? 目の前のことに気を取られているから、そんな無様なことになるのよ」
シェラーエンは右手の長剣で足に絡まる髪の毛を断ち切る。しかし髪の毛は生き物のようにうごめき、シェラーエンの身体を這い上ると、その首に巻き付いた。シェラーエンの表情が苦悶に歪む。シスターは髪の毛を持ち上げ、シェラーエンを宙吊りにした。
「さあ、どうやって死にたい? どうやって殺されたい? 簡単に死ねると思わないことね。『どうか殺してください』と泣いて懇願するまで、少しずつ、大切に殺してあげる」
シスターが残忍な悦びに震える。キィは嘆息し、「ここまでか」と呟いた。その瞳が昏い金の輝きを帯びる。すると突然、シェラーエンと捕える髪の毛が半ば辺りで焼き切れた。支えを失ったシェラーエンが床に落下し、どさりと音を立てた。
「今さら手を出すの? 傍観しているだけなら見逃してあげようと思っていたのに」
楽しみを邪魔され、シスターが殺意をキィに向ける。キィはバカバカしいと言いたげに答えた。
「そんなつもりは毛頭ねぇだろ」
言い終えたキィの姿がふっと掻き消える。次の瞬間には、キィは床に倒れるシェラーエンの横にいた。あえぐように空気を貪るシェラーエンに、キィは揶揄するように声を掛けた。
「未熟者め」
「……黙れ」
シェラーエンは半身を起こし、傍らのキィを睨む。キィは安心したようにニヤっと笑った。
「ま、下位とはいえ魔神相手にサシはまだキツいか。善戦したことは褒めてやる。詰めの甘さが今後の課題だな」
「下位、ですって?」
キィがシェラーエンに向けた言葉に、シスターが反応する。キィは呆れたようにシスターを見上げた。
「他人の会話にいちいち反応するんじゃねぇよ。下位の下位っぷりが際立って哀れだぜ?」
「自力で呪いも拒めぬ分際で、この私を下位と呼ぶの? 己の身分を弁えなさい!」
鋭く怒りの声を上げるシスターの言葉に「身分ねぇ」と呟き、キィは自虐めいた笑みを浮かべる。
「そう言われちゃ言葉もねぇな。だが、言い訳をするとしたら――」
キィの身体がぐにゃりと歪み、夜の闇の中でさらに濃くわだかまる影に変わる。
「貴種と下位じゃ、世界が違う」
影はシェラーエンの体表を這い、その左胸に吸い込まれて消えた。シェラーエンの心臓が、どくん、と大きく跳ねる。
「貴種? くだらない嘘を……」
キィの言葉を戯言と一蹴しようとして、シスターの顔が戸惑いに変わる。シェラーエンの身体がふわりと宙に浮き、その足元からは鮮血に似た炎が吹き上がった。
「……これは、魔界の炎? バカな、召喚陣も無しに?」
シェラーエンは目を閉じ、炎の中に平然と浮かんでいる。炎がシェラーエンの服を焼き尽くし、真っ黒な灰に変える。灰はシェラーエンの身体を覆い、やがて無明の闇を思わせる漆黒のドレスを形作った。
「物質の再構成! そんなこと、貴種でだって自分の支配領域でなければ……」
魔界の炎はシェラーエンの黒髪を嬲り、その色を鮮血の赤に染め上げる。右手の長剣は飴のように溶け、歪み、その形を変えていく。シスターの顔が青ざめ、唇が震える。
「……まさか、まさか! 『空間支配』! 自らの存在する空間を支配領域へと変える力! いや、そんなはずはない! 爵位を持つ魔神でさえ一握りにしか使えぬという力を、貴様ごときが……!!」
長剣の刃が波打ち、あたかも魔界の炎を封じたかのような一振りのフランベルジュにその姿を変えた。フランベルジュの柄には、禍々しい輝きを放つ大きな紅玉が嵌め込まれている。数多の命を啜ってその輝きを増すというその宝石は、『罪科のルビー』と呼ばれる魔界の至宝だった。炎はすべてルビーに吸い込まれ、消えた。同時に、シェラーエンの中に封じられていた圧倒的な『破滅』の気配が解き放たれ、支配者の到来を告げる。
「この、気配は……! この炎は! そんなはずはない! お前が、ここにいるはずがない! 死んだはずだ! 十年前に! 力を奪われ、滅んだはずではなかったのか!?」
へたり、と崩れるように座り込み、瞬きも忘れてシスターが叫ぶ。シェラーエンの身体がゆっくりと床に降り立つ。穴の開いた礼拝堂の屋根から射し込む満月の光が、シェラーエンの姿を無慈悲に祝福する。シェラーエンがゆっくりと目を開く。夜の女王の狂気を、その金の瞳に湛えて――
「魔界を統べる七柱の魔神公の一柱、炎界の覇者、焼き尽くす者!」
魔神公姫が、降臨する。
「灰燼公、キルケゴール!!」
絶望を伴って、シスターがその名を叫んだ。魔神キルケゴールは『絶対的な死』を纏い、シスターに向けて一歩を踏み出した。




