213-二兎を追う者
「あ、あの、助けてください!」
罪人の牢である小さな街に連れて来られた少女は、妖しい動物面を見るなりそう切願した。
圧迫感のある置棚に囲まれた薄暗い古物店では、願い事を叶えてもらおうと人間が手紙を投函し、灰色の女に連行されてくる。
少女を連れて来た灰色海月は奥の小さな台所へ、動物面を被る獏は古い革張りの椅子に凭れる。少女は椅子には座らず、立ったまま頭を下げた。
獏は人間が投函した手紙を開いて目を通す。そこには簡潔にこう書かれていた。
『友達の彼氏を奪ってしまいました。どうすればいいでしょうか?』
「願い事と言うより、相談みたいだね」
「ほ、本当にどうすればいいかわからなくて……あ、あの、どうすればいいんでしょうか!」
少女は酷く混乱しているようだ。獏は椅子に座るよう少女を促し、手紙を元のように畳んで机に置いた。人間の悩みを、人間の機微など知らない獣に相談するなど可笑しな話だ。だが相談に来る人間は割といる。
「まず状況を知りたいね。君は友達の彼氏だと知ってて奪ったの?」
「し、知らなかったです……学校ではあまり話さないようにしてるみたいで……」
「君は友達を取って彼氏と別れたいの? それとも、彼氏を取って交際を続けたい?」
「そっ、それがわからないんです!」
「ああ成程ね。そこが焦点か。じゃあ……何で君は彼が友達の彼氏だって知ったの? 交際するまで知らなかったんだよね? 察することもできなかった。なのに今、そんなに焦ってる」
「か……彼に……私がいる時に電話が掛かってきて、それが私の友達からで……その、聞くつもりはなかったんですが、話の内容で……たぶんデート……の約束をしてて」
「君という彼女の目の前で別の彼女とデートの約束をしたの? 肝の据わり方が凄いね」
「そ、そうですよね……」
「君が彼に告白したの?」
「彼からなんですが……」
「ふふ……彼氏が悪いんだね」
「い、いえ、悪くないんです。私が知らなかっただけで……」
「交際してるからって、相手の全てを肯定しなくていいんだよ。疑問があればぶつけてみればいいし、軽蔑するなら別れればいい」
「別れたくは……ないです」
彼氏を取るか友達を取るかと質問されてわからないと答えたが、他人に客観的に見てもらいたいようだ。獏が細かく突くと明確に答えを出してくる。
「友達とも……絶交したくないです」
「二兎を得たい欲張りさんだね」
二人の前に湯気の立つ紅茶が置かれ、獏は手に取り微笑む。人間は欲深い生き物だ。願い事も湧水のように溢れ出てくる。
「すぐに思い付くのは、友達が彼に幻滅なり何なり飽きて、別れ話を出してもらうこと、かな。友達は最低な彼が君と付き合っててもどうでもいいだろうし、彼氏も君に一途になる。まあ友達はちょっと心配するかもしれないけどね」
そうは言いつつ、彼氏が一途になるかはわからない。彼氏の交際相手が彼女とその友達だけとは限らない。二度あることは三度あると言うように、二人いるなら三人でも四人でも恋人を作っていそうだ。
「話を聞く限り一番酷いのは彼氏みたいだから、御仕置きでもしてあげようか?」
「お仕置きって……何をするんですか?」
「それは今から考える。交際を続けるんだから、殺したり怪我させたりはしないよ」
「私がお願いしたことは……」
「勿論、僕から話すことはないよ」
「それなら……」
少女は肩の荷を下ろして一息吐いた。華やかな香りの紅茶が美味しい。
「まずはね、彼氏を少し観察してみるね。どんな人か見てみたい」
「は、はい」
「どういう状態になれば君は願い事が叶ったと思ってくれるのか曖昧なんだけど、明確な基準をくれないかな? 代価を戴かなくちゃいけないから」
「彼氏と付き合い続けられて……友達とも絶交しない。そんな日々が続けばいいです」
「そんな日々は何日くらい? 何日くらいで君は僕を解放してくれる? 日数が長ければ長いほど代価は多くなるよ。代価は君の柔らかい部分をほんの少し……だけど、ほんの少しでも、積もれば山になっちゃう」
「え!? じゃ、じゃあ……一週間くらい……?」
「一週間も?」
「えっ……い、五日……?」
「五日かぁ……」
「み、三日!?」
「そのくらいなら遣る気が出るかな」
「三日ですか……」
少女には少々物足りない数字だったが、増やしても代価を払えないかもしれない。よくわからない代価だが、よくわからないからこそ踏み込めない。
「代価が必要無くても、君の『そんな日々』を一生見守るのは嫌だよ」
「そうですね……」
「準備が整ったら会いに行くね」
「は、はい」
便宜上『準備』と言うが、何をするかは決めていない。
少女から情報を得て、一旦彼女を人間の街へ帰す。灰色海月が彼女を送る間、獏は頬杖を突いて面倒臭そうに溜息を吐いた。
(最近無いと思ってたのに、久し振りの恋愛事かぁ……そろそろ僕も恋愛感情が理解できるようになってないかな?)
恋愛に悩む女性と願い事を叶えてくれる存在は親和性が高い。どちらも夢現だ。
灰色海月は折り返しすぐに戻って来たが少し休ませ、獏はティーカップを片付けておく。
彼女は獏がカップを洗う姿を台所の外からじっと見ていた。落として割らないか見張っているようだ。
人間の街で空から色が消えようとする頃、獏は灰色海月に重い首輪を嵌められくるりと転送された。
帰路に就く人間がまだ外を歩いているが、薄暗い視界は気配を忍ばせることが容易い。獏と灰色海月は街灯を避けながら、少女に教えられた彼氏の家へと向かった。
道中は一軒家の住宅が並び、歩く人間は足早だ。疲れた体を一刻も早く休めようと家に向かっている。
「あれ?」
擦れ違う人間に視線を向けられることもなく目的地へと到着した獏は首を傾げた。教えてもらった住所に、家が無かった。
そこには木々が茂っていた。
「公園……だよね? 道を間違えたかな?」
「合ってます」
「じゃあ、公園の中に家が? 公園に住んでる人?」
公園は木々が生い茂っていることもあり、奥まで見通せない。住宅の中に溶け込み、人々の憩いの場となっている。
「取り敢えず入ってみようか」
「はい」
公園の中には疎らに街灯が立っているが、人間はあまりいない。もう夕食の時間だろう、人間は規則正しく帰っていく。
公園の中には休憩所として四阿があり木のベンチと机が置かれているが、これを家とは言えない。他には飲料の自動販売機があるが、売店は無い。テントなども無く、契約者の彼氏らしき学生も歩いていない。
誰もいない四阿に戻ってベンチに腰掛け、獏は腕を組んだ。
「考えられる可能性は、教えてもらった住所が間違ってる? それとも、昔はここに家があったけど引っ越したとか?」
「隠れてるのかもしれません」
「家ごと? 地面が開いて家が出てくるなら見てみたいけど」
それはちょっとわくわくする。獏は密かに興奮した。だがそんな大掛かりな仕掛けを一般人がこんな所に作らないだろう。
「一応、公園周りの家も確認してみよっか。それで何も得られなかったら、学校に乗り込もう。家がわからなくても学校には居るでしょ」
「わかりました」
記憶違いか言い損じだろう。あまり深くは考えずに公園の周囲を探り、何も得られるものが無かったので翌日の学校に期待した。
――翌日は朝から学校の屋上で校門を観察し、契約者の少女の登校を待った。校門を潜った者の中に彼氏がいるかもしれないが、指の輪を向けるには人が多く、どれが誰の感情だかわからない。
「……あ、あの子だ」
契約者を見つけたは良いが、登校する生徒が多過ぎる。接近は難しい。
「彼氏と直接会話はしなくても、目を合わせたり視線を向けたりはするよね? それすらしない徹底振りかな? 少し様子を見てみよう」
接触は一旦諦め、獏はチャイムが鳴るのを待った。授業が始まれば生徒は教室に留まり、獏と灰色海月は自由に動ける。
間延びしたチャイムがのんびりと鳴り響き、突き止めた契約者のクラスへ向かい、外壁に伸びる庇に座って窓の外から教室を覗いた。
契約者は窓際の席ではなく、中央に近い。これでは窓外に気付いてもらえない。加えて背の高い木が窓の前に無く、グラウンドから丸見えだ。幾ら気配を消しているとは言え、こんなに明るい時間では体育の授業でグラウンドに出ている生徒に見つかってしまうかもしれない。契約者より先に他の無関係な人間に見つかることは避けたい。
「学校の覗きも手慣れてきましたね」
「ふふ……最初から慣れてるよ」
「変転人もこのくらい数がいれば、こんな風に学校になるんでしょうか?」
「そうだねぇ。教える先生もいないとね」
教室の中をこっそりと覗きながら、二人は雑談をする。窓は閉まっているので、中に声は聞こえない。獏は他の生徒を避けながら、人差し指と親指で作った輪を動かす。
「人間の学校で教えてくれることは、変転人が生きる上では必要ないことが多いけど、体育はあってもいいかもね。クラゲさん、この暑さは平気? 今日は特に暑いね」
グラウンドでは生徒達が走り高跳びを行っている。助走をつけ、普通の跳躍では跳び越えられない高さの棒を跳び越えている。蝉も鳴かない真夏の突き刺す陽射しの中、よく運動などする気になるものだ。気温の影響を受け難かったり耐えられる獣でも、最近の夏は暑いと感じる。この時期の人間はプールの授業があるが、無い時もあるようだ。
「教室の中は厚着の人がいる……涼しそう」
「まだ耐えられます。あの小さい人間は自分の胸の高さの棒を跳び越えてますが、何故ですか? 実は獣ですか?」
「ふふ。クラゲさんも助走をつけて、タイミングが合えば跳べるよ。もっと高い棒も跳べるんじゃないかな」
「そんな力を秘めていたとは……どうすれば跳べますか?」
「練習と努力、かな? 宵街に運動する施設ができるんでしょ? もうできたかな? そこで鍛えてもいいよ」
「監視役なので入り浸ってられません」
「……ん?」
指の輪で契約者を覗いていた獏は眉を寄せた。
「どうかしましたか?」
「僕は勘違いしてたのかも……」
「?」
「あの子の彼氏って、生徒じゃないかも……」
「教室の前にいる小さい魚ですか?」
「メダカじゃなくて。あの子の彼氏、教師だよ!」
「先生ですか?」
「今授業してる先生だよ。何でもっと早く気付かなかったんだろ……登校風景を見てたのに。暑さの所為かな。生徒が全員女子……女子校だよ、ここ。あの先生、若いと言えば若いけど……三十歳前後かな? あの子は……えっと校門に高校って書いてたから十代後半だね。人間の恋愛は歳の差が広がれば広がるほど風当たりが強くなるから、十数歳違うと大変だよ。そりゃ家なんて教えられないよね。人目につけば終わりだもん」
「人間は年齢で色々あるんですね。私と同じ二歳の人間はどうですか?」
「拙く喋って辿々しく歩く無知で無邪気で無鉄砲な幼児だよ」
「変転人だという自信が出ました。今ならあの棒も跳べそうです」
「良かった」
大人になれば風当たりは強くとも祝福してもらえるが、教師と生徒の関係ではそうはいかない。契約者の友人が学校で話さないようにしている理由がわかった。少しでも勘付かれれば終わりだ。責められれば教師は失職する。
「それよりあの先生、二股だよ? 学生なら若気の至りなんて言葉が通用するかもしれないけど」
「どクズ野郎ってことですか?」
「ど……まあそうだね」
獏は指の輪で教師を覗きながら溜息を吐く。
「クズ野郎と言っても、人間基準のクズだね……獣や変転人に二股は罪なんて規則は無いし。獣は恋愛感情も理解できないのに、人間は気が多いんだから……」
指の輪をぴたりと教師に向けたまま、獏は吟味する。国語の授業だが、面白い物語でも話しているのか教師は半分笑っている。
「先生の心も複雑だな……どっちかが本命でどっちかが遊び、もしくはどっちも遊び、なんて思ってたけど、全然わからない。まるで対面してるのに目を合わせず頭の向こうの景色を見てるような……」
「あの、棒を跳んでた人がこっちを見てます」
「え!?」
反射的に振り向くと、確かにグラウンドにいる一人がじっとこちらに顔を向けている。
「わ……勘のいい人間みたいだ」
獏は慌てて灰色海月を抱き上げ、窓を避けて下へ飛び降りた。屋上へ逃げると目立ってしまうため、低木が茂る下へ逃げた。偶にいるのだ、気配を消していても目敏く察知してしまう人間が。
地面に下りて校舎の裏へ回り込んで身を潜める。あの人間が追って来ても遭遇しないように撒く。
人気の無い校舎裏には背の高い木々が等間隔に生えていた。付近の教室は今は誰もいないようだ。陽射しが遮られていると、ほんの少しだけ暑さが和らぐ。
「やっぱり明るい内は気配を消しても黒い服は目立つね。校舎の壁が黒だったらいいのに」
「次はどうしますか?」
「窓の外に張り付くのはやめた方がいいね。見てた人間が噂を広げたら、皆校舎を見上げちゃう」
「帰るまで待ちますか?」
「うーん……」
腕を組んで考えながら獏は校舎裏を歩く。不自然に小さく盛り上がった土に拳ほどの石が置かれていた。それがぽつりぽつりと複数ある。
「……何だろ? これ。蟻塚? 花街のお墓を思い出すんだけど」
石には何も書かれていない。だが墓標を彷彿とさせた。
『うふふ……珍しい、獣なんて珍しい』
微かな風に乗って、軽やかに反響する声が聞こえた。葉の擦れる音に混ざる小さな声は静寂の中でしか聞こえない。
「え? 獣を知ってる……? 誰? 何処にいるの?」
『貴方のすぐ近く』
「近く……?」
獏と灰色海月は辺りを見回す。だが誰もいない。校舎も見上げるが、視線を感じない。
『うふふ……じゃあヒント。木』
「木?」
見上げるが、木の上には誰もいない。
「……あっ!」
並ぶ木を順に見上げる内に視界に入った。幹に虚がある木が一本あった。その小さな穴から頬杖を突く小さな生き物がいた。
「見つかっちゃった」
「人の大きさを探してたよ……君は獣だよね?」
それは尖った耳を頭上に生やし、栗鼠のような尾をふわりと揺らす。
「獣だよ。木霊って言うの」
「木霊?」
宵街の花畑にいる花守の木霊が脳裏に浮かぶ。あの木霊にも栗鼠のような尾が生えているが、頭には鳥の冠羽のような物が生えている。あの木霊は花魄が人工的に作った下級精霊だ。
「もしかして天然の……?」
「? ま、養殖ではないね。森を追われた木霊は方々に散って、お気に入りの木を見つける」
「そこが君の家なんだね」
「そう。それで……こんな所で何してるの?」
「えっと……縄張りを荒らす気は無いよ。話すと長くなるけど、ここへは偶然来たんだよ。この石は何かなと思ってた所」
地面の隅に小さく盛り上がった土を指すと、木霊は口角を上げた。
「うふふ。その石はお墓だよ」
「お墓で合ってるんだ……」
「でも何も埋まってないよ。それは罪のお墓。土を掘って懺悔を吹き込んで、土を被せる。石の墓標を置いて完成。そうすれば許されると人間は思ってるの」
「御呪い……みたいなものかな? 石の数を見るに、信じてる人はそこそこいそうだね」
「友達を無視した、なんて可愛い懺悔から、人を殺した、なんて警察に言えばいい懺悔まで」
「人を殺した……? 比喩じゃなくて?」
「それは知らないけど。『あいつを殺した。あいつは死んだ。俺は全てを貰う。恨むなよ』って言ってた」
「そうなんだ……どんな人だったか覚えてる?」
「他に無い面白い懺悔だったから覚えてる。制服を着てなかったし肌もピチピチじゃなかったから、きっと先生よ。男だしね」
「本当っぽい気がしてきた。僕には関係無いから、聞かなかったことにするよ。面倒には巻き込まれたくないからね」
「公園に埋めたって言ってた」
「前言撤回……それ詳しく教えて。関係ある気がしてきた」
獏は人間の願い事を叶える善行をしていると木霊に話し、契約者の彼氏の住所が公園だったことを語った。何故そんなことをしているのかと木霊は小首を傾げたが、久し振りの獣の話を静聴した。
「詳しくと言っても、全部を懺悔で吐き出してないよ。今言ったことが全て。……ああ、あと、顔が似てた所為で、って半笑いで言ってたかな」
「顔が似て……? 何だか嫌なことを思い付いちゃったな……」
「話はこれだけ?」
「あ、うん。話してくれてありがとう」
「いいのいいの。丁度お話したい気分だったから。ここは色んな懺悔が聞けて面白いの」
「確かに人間の負の感情を見るのは悪くないけど。悪夢を連れてる時もありそうだしね」
もう少し話をしていても良かったが、人間の気配を感じたため去ることにした。獏は灰色海月に指示し、もう一度あの公園へ転送してもらう。
日中の公園は夜とは違って人間が寛いでいる。この暑さでも外を歩く人間はいる。木々の陰に転送して辺りを窺いながら歩き、四阿にも談笑する老人達を確認する。
「……さすがに何処に埋めたかはわからないね。夜なら誰にも見られずに埋められそう」
「当たりを付けて掘りますか?」
「ううん。契約者の友達に接触してみる」
「二股を暴露するんですか?」
「それはしないけど。ちょっと話を聞くだけ」
もう一度学校へ戻り、獏と灰色海月は下校時間になるのを待った。
多くの生徒が下校する時間に、契約者とその友人が一緒に校門を潜った。
二人が共にいる時に彼氏の話をするのは不味い。一人になるのを待ち、契約者と別れた友人はその足で公園に向かった。それを追いながら、獏は人差し指と親指で輪を作って彼女に向ける。
契約者の友人は明るい内に公園に入ったが、暗くなっても帰らなかった。獏は灰色海月の耳元に囁き、彼女は頭を下げて下がる。
談笑する老人達が帰路に就いて四阿が空っぽになると、少女はゆっくりとそこへ入ってベンチに座った。彼女はベンチの背に凭れ、地面をじっと見たままぼんやりとしていた。
空の色が暗く、明るい星が見えてきた頃、獏はその少女の前に姿を現した。
「こんばんは」
「……?」
顔を上げた少女は怪訝に眉を顰める。
「僕は獏。願い事を叶える獏の噂を聞いたことはある?」
「え……知ってる……」
少女は驚いたように目を丸くし、どう見ても不審者でしかない獏の黒い動物面を見詰めた。
「でも、手紙を出して迎えが来るんじゃ……」
「僕だって散歩したい気分の時はあるよ。女の子がこんな時間に一人で物思いに耽ってるなんて、ちょっと話を聞いてみたくなるでしょ?」
「本当に獏……?」
獣らしい外見の特徴が無い獏は、当然の如く警戒される。
「まあ見てて」
獏はふふと笑い、自動販売機の横に転がっている空き缶に手を翳した。届かない距離にある空き缶がふわりと浮き、ゴミ箱の中に吸い込まれるようにからんと音を立てて落ちる。
「手品……?」
「小さい物なら浮かしてあげられるよ。僕はここから動かない。ポケットか鞄の中の物を出してごらん」
「じゃ、じゃあ……」
ポケットからハンカチを取り出して机に置く。獏は再び手を翳し、ハンカチはふわりと浮き上がった。
「掴んでもいいよ」
「えっ」
手品は触ってはいけないものなのではないのかと思いつつ、少女は恐る恐るハンカチの角を抓んで引っ張った。ハンカチは抵抗せず少女に引かれ、浮いたまま付いて来る。
「え……何で……?」
思い切って両手でぐしゃりとハンカチを掴んで丸めてみる。手に浮くような感覚は無く、手を開くと思い出したようにハンカチが宙に浮く。
「獏だって信じてもらえたかな?」
少女は惚けたままハンカチを掴んで見下ろし、何処にも糸などは付いていないことを確認する。本当に種も仕掛けも無い。
「まだよくわからないけど……何か……普通じゃない……?」
「うん。それだけでいいよ。君はこんな所で何をしてるの?」
「それは……」
「僕は人間じゃないから、何でも言ってよ。今までたくさん願い事を叶えてきたんだから。恋愛とか生死のこととか」
「!」
少女が気になるだろう単語を混ぜて突くと、彼女はすぐに顔に出た。顔が真っ青だ。
「お……大きな声じゃ言えない……」
「それじゃあ、近くに座ってもいい?」
「いい……」
獏は微笑み、屋根の下へ入る。少女の座るベンチではなく、隣のベンチに腰掛けた。
「言いたいことも言えないことも、秘密は守るよ」
優しく囁くように、口元に人差し指を当てる。彼女の心の中から行き場の無い感情を引き摺り出す。
――彼女は誰かにずっと、話したかった。
「……こ……」
一度ゆっくりと深呼吸し、心臓を落ち着かせる。
「……この下に死体が埋まってるって言ったら……信じますか?」
「うん。信じるよ」
「う……埋まってるんです! 私……見たんです。去年……この公園が造られてる時に、夜にこっそり……作業員の人が埋めてて……」
「作業員は一人?」
「はい……一人だったと思います」
「顔は見た?」
「いえ……暗かったので……」
「誰かに言った?」
「い、いえ……私、怖くて……。でもニュースにもならないし……。か、彼氏に相談しようかと思ったんですが、何か……ちょっと、変な感じがして」
「変?」
「性格が……今までとちょっと違うような……きっ、気の所為かもしれないんですけど……。好きな食べ物が変わったり、趣味も……。私が前に言ったことを覚えてなかったり、行った場所も知らないみたいで……外見は変わらないのに中身は別人みたいで……だから、相談するのは躊躇って……」
訥々と思い出しながら、少女は地面に視線を落として語る。同じ顔をしているのに、彼は知らない人のようだった。
「好きな物とか趣味が変わるのは、飽きたのかなって思うんですけど、話を覚えてないっていうのは……急に記憶力が悪くなったとか……あると思いますか?」
「そうだね。何かきっかけがあって人が変わってしまうことはある。でも……身に染みついた癖は中々消えるものじゃない。彼に何か癖はある?」
「癖……? ……あ、変わったと思ってからなんですけど、何も無い空とか壁とかを見て、一人で笑う……半笑いしてる時があります。ちょっと気味が悪いんですけど、思い出し笑いなのかな……」
「へぇ……」
木霊から聞いたことを思い出す。懺悔の墓を作っていた人間が半笑いを浮かべていたと言っていた。
「急にそんな癖がねぇ……。それで君は彼氏に相談もできず、ここで一人で? 死体なんて埋まってるって知ってたら怖くなると思うんだけど。さっきも君は怖いって言ってたし」
「それは……怖いのは埋めた人で……。死体が埋まってるのに、ここにいると何と言うか……落ち着く気がして。へっ、変ですよね? 私もおかしくなったのかな……。こんなの、友達にも相談できない……」
「彼氏との付き合いは長いの?」
「三年くらいです。もうすぐ三年。付き合い始めた時は学校で先生なんて遣ってるって知らなくて……しかも受験した高校にいて、彼氏も私もびっくりしました」
「結構年齢差があるみたいだけど、君が中学生の頃からお付き合いしてるの?」
「付き合ってると言っても、手を繋ぐとか……その程度ですよ。気の合うお兄さんって感じです。卒業するのを待ってくれてるんです」
「思ったより健全だね。僕の心は汚れてるのかな……」
少女は苦笑するが、すぐに表情が曇る。
「でも……変わったな、と思ってから、何か……グイグイ来ると言うか……スキンシップが多くなって……ちょっと怖い……」
「本当に別人みたいだね。例えば本当に別人だったら……君はどうする?」
少女ははっとしたように顔を上げ、動物面で隠れている獏の表情を窺う。何かがことりと嵌まった気がした。
「いっそ……別人だったらいいのかも……。次に会ったら元に戻ってるかもって何度も思ったんですが、何も変わらなくて……」
「君の心はもう離れてるんだね。それじゃあ少し、助けてあげようかな」
「え……?」
少女は疲労の滲む顔で怪訝に問おうとするが、獏は腰を上げて踵を返してひらひらと手を振った。蒸し暑い暗い木々の中に黒衣は消え、後には物音一つ残らなかった。まるで目を開けながら夢を見ていたようだ。
少女は目を擦り、額の汗を拭いて今日はもう帰ろうと鞄を持って立ち上がった。
獏は公園を出て路地に入り、そこへ忽然と灰色海月が現れる。彼女は開いた灰色の傘を肩に掛け、獏の耳元に囁く。
「……やっぱり……彼氏は入れ替わってたんだね」
灰色海月に彼氏の近辺を調べてもらっていた。彼氏に接触はせず、近くに彼がいればすぐに戻るよう言っていた。彼女の身を案じてだ。
「二つの身分を証明する物がありました。同じ苗字で同じ顔、ですが名前と生年月日が違いました」
身分証明書の詳細を聞き、獏は頷く。
「契約者の友達が交際してたのは弟の方だね。職業は教師。兄は公園を造った作業員。兄は弟のものを欲しがって、殺して成り代わった。顔がそっくりだったのが幸か不幸か、疑う人はいなかった。でも顔は同じでも中身は違う。違和感は拭えない」
作業員として埋めた場所を自分で作業していたなら、誰も近付けさせないことや誤魔化すことは可能だ。公園の作業が終わってから教師として生活し始めたのだろう。
望み通りに欲しいものを手に入れた彼は校舎裏で、懺悔ではなく自慢をしたかったのだ。誰にも言うことのできない自慢を話したかった。木霊が聞いているとは知らずに。
「公園を家だって教えたのは、自慢……自分の優位を感じたかったのかな。契約者は住所を確かめなかったみたいだけど。そんなに話したいなら、僕が暴露してやろうか」
獏は口元を上げ、軽蔑を込めて嗤う。哀れで愚かな人間達の歪んだ関係に反吐が出る。
「……でも、契約者の願い事は二兎を得ることだから、先にそっちを片付けないとね。お友達はもう彼氏から心が離れてるみたいだから、彼氏は契約者のもの。他に交際相手がいないとは限らないけど、そこはまあ調べなくていいかな」
「あ」
「クラゲさん、しー」
人差し指を口元に当てられ、何か言い掛けた灰色海月は一度瞬きをして口を噤んだ。
「契約者は彼氏も友達も失わない。これで解決だね。後は僕が公園に埋まってる死体を示唆して、犯人をちらつかせてあげれば全国に自慢ができるね! 彼氏はきっと喜んでくれるよねぇ」
そうは思っていない獏は微笑みを絶やさず、灰色海月と共に契約者の家へくるりと転送した。
良いことをすると気持ちが良い。人間が痛い目を見るなら尚更だ。
約束通りに三日を待って契約者の願い事の代価を戴いた獏は、驚くニュースがあるかもしれないがと優しく言い残して去った。
驚くニュースとは彼氏の逮捕のニュースのことだが、事件の詳細を知った彼女は壊れた玩具のように笑ってこう呟いた。
――なんだ、最初から彼氏は別々で、奪ったわけじゃなかったんだ。これからも私一人だけのものなんだ。




