214-大好きだった人
住宅地のそこそこ大きな屋敷に、彼は何をするでもなく座っていた。誰もいない時間、特に夜に、空を見上げたり、地面を見詰めたりしていた。玄関の横に座ることもあれば、庭の塀の上にいることも、屋根の上にいることもあった。
幼い少女が彼を初めて見たのは、とある満月の明るい夜のことだった。彼は庭の塀の上に足を投げ出して座り、月を見上げていた。長い白髪の頭に三角の白い耳、背後にふさふさの長い尾が生えていた。――いや、人にそんな耳や尾が生えているはずがない。そういう装飾品を付けているのだ。
上空を見詰めていた彼は見上げる視線に気付いて視線を下ろし、しまった、という顔になる。目を逸らして庭の奥へ去ろうとし、だが腰を上げ掛けて思い直した。こんな夜も更けた頃に、十にも満たない齢の子供が一人で歩いているのは妙だと。
「……家がわからないんですか?」
「!」
喋り掛けられるとは思わず、幼い少女はびくりと固まってしまった。
「目元が赤い。家がわからず泣いてるんですか?」
「…………」
「君の家は知らないですが、交番へは案内できます。途中までなら僕も付き添えます」
「……帰れない」
幼い少女は俯き、消え入りそうな声で呟いた。少し湿った声だ。
「……そうですか。高い所は平気ですか?」
「?」
幼い少女は不思議そうに顔を上げ、こくりと頷く。何故その質問をされたのかはわからない。
彼は塀から飛び降り、両手を開いて見せる。それは武器を持たず敵意が無いことを示す動作だったが、幼い少女は怪訝な顔をする。
「触れてもいいですか?」
「?」
幼い少女はぽかんと彼を見上げ、返事を待たずに抱え上げられた。突然のことで理解が追い付かず、彼を拒絶することができなかった。彼はとんと地面を蹴り、塀を跳び、屋敷の屋根の上へ着地した。幼い少女には、その跳躍力が異常であることを認識できなかった。
彼は屋根の上に幼い少女を座らせ、一人分ほどの間を空けて腰を下ろす。空が近くなったのに、月は遠くへ行ってしまったようだった。
「ここの方が落ち着きます。帰れないなら、月を見ているといいです」
「……?」
月の風情は、幼い少女にはまだ理解が難しい。屋根から落ちないよう彼の袖を掴んで言われた通りに見上げるが、特に心に響くことはなかった。
彼はそれからは何も言わなかったが、幼い少女の傍を離れなかった。何も言わず、何もしない。そのことが幼い少女に安心感を与えた。
「……お家をね、追い出されたの」
ぽつりと独り言のように呟き始めたのは、十分ほど経ってからだった。
「鍵を締められて、お家に入れないの」
「鍵は持ってないんですか?」
「持ってない。私ね、何をしたかわからないの。怒られたから、きっと悪いことをしたと思う。でも、何が悪かったのかわからないの。私、きっと頭が悪いの」
「悪いことの定番と言えば、殺人や暴力ですね」
「え? そ、そんなことしてないよ……」
「大事な物を壊してしまったとか」
「何も壊してない……」
「では人間特有の、言葉の問題ですか? 言葉は難しい。ふとした言葉が逆鱗に触れることもあります。それはどうしようもない。自分を理解してもらうためにも相手を理解するためにも会話が必要で、その会話の過程で言い損じてしまったら、どうしようもない。ですが人間なら、謝ればいい。謝って許してもらえないなら……一発、殴りますか?」
「え!?」
「違いましたか? 人間ならそんな時は……ああ、慰める人がいればいいんですか?」
危うい言葉が混ざるが、彼は幼い少女を慰める努力をした。彼の言葉は手探りで、幼い少女の反応を見ながら手繰っていく。
「時間が経てば、熱は冷めるでしょう。熱りが冷めるのを待って、家に帰るといいです」
「でも……よく家から追い出されるから……何が駄目なのか知りたい」
「直接訊いてみるのはどうでしょう? それで追い出されたら、ここに逃げてくるといい。夜なら僕も相手ができます」
「夜じゃないと駄目なの?」
「昼間は明るくて目立ちます」
「目立ちたくないの? 私と一緒だね。私も……見つからずに家の中にいたい」
「不満があれば逃げるといいです。……ですが、君は人間だから、その歳で家を出るのは難しいですね。僕もここから出られないから、同じです」
「同じなの? お兄ちゃんも同じかぁ……」
これまで一人で抱えていた幼い少女は、『同じ』という言葉を温かく感じた。悩みを共有できることが嬉しかったのだ。
「漸く笑顔になりました」
無意識の笑みだったが、涙の跡はもう霞んでいた。
彼は月の光の下で薄く微笑んだ――気がした。
* * *
「捜してほしい人がいます」
誰もいない夜の小さな街にぽつんと灯る古物店に、獏へ願い事の手紙を投函した女が連れて来られた。
背の高い置棚が並ぶ薄暗い店の奥、古い革張りの椅子に腰掛けた黒い動物面は受け取った手紙を手に、かくんと不思議そうに首を傾ける。
「人捜し? その仕事はまず、僕じゃなくて人間の警察に頼んだ方がいいんじゃないかな?」
至極真っ当な意見だ。獏は人間の願い事を叶える善行を科されているが、無料で奉仕するわけではない。代価は少量だが、それによって人間は欠けを作ることになる。そんな欠けは作らない方が良い。人間が解決できることなら、獏などと言う得体の知れない者を頼らずに人間同士で解決すれば良いのだ。
「そうしたいんですが……何もわからないんです。最後に会ったのは子供の頃で、名前もわからなくて」
「警察に頼むには情報が少ないってこと? 確かに何年も経ってたら容姿も変わってるだろうしね……まあ話を聞くだけなら代価はいらないから、聞いてあげるよ」
「ありがとうございます」
女は深く頭を下げ、持っていたハンドバックからメモ帳とペンを取り出した。
「子供の頃、近所にあった大きな屋敷に偶に行ってたんです。そこに住んでたお兄さんを捜してほしいんです。悩みを聞いてくれて……凄く優しい人でした」
「その屋敷に行けば会えるんじゃないの?」
「その屋敷にはお爺さんも住んでたそうなんですが、何年も前に亡くなったそうで。その後、取り壊されたんです。今は更地です。お兄さんはお爺さんの孫……だと思うんですが」
「そこまでわかってるなら警察に……あ。事件じゃないから警察は動いてくれないのか」
事件に巻き込まれているならともかく、近所に住んでいた人の現住所を知りたいなんて、それこそ事件に巻き込まれそうだ。警察には頼めないし、教えてくれるはずがない。
「それなら捜してあげるよ。時間は経ってるけど、昔の容姿とか雰囲気とか教えてくれる? 面影はあるだろうし、参考にできるはず」
「本当ですか!? 良かった……ありがとうございます。初恋の人なんですよね……」
獏が叶えると決断をしたので、灰色海月は紅茶を淹れたカップを二人の前に置いた。契約を結ぶ刻印を施す紅茶だ。
女は紅茶を一口飲み、メモ帳にペンを走らせた。言葉より絵の方が伝わるはずだ。得意ではないが絵に特徴を記す。
「こんな感じの尖り耳とふさふさの尻尾を付けたちょっと変わった人なんですが」
「…………」
「趣味が変わってなければ、今もまだ付けてるかもしれません」
獏は拙い絵を見詰めたまま言葉を失ってしまった。
「よく屋根の上に乗せてくれたんですが、私も眠かったので夢と混ざってるかもしれません。さすがに一跳びで屋根に跳び乗れませんよね。へへ……」
「…………」
「嫌な……ちょっと落ち込むようなことがあって、また会いたいなと……。昔は私も幼かったので、大きくなったらお兄ちゃんと結婚する! とか言ってたんですよね」
照れ笑いをしながら語る女の前で、元々白い獏の顔は更に色を失っていった。
(動物みたいな耳と尻尾……それに屋根まで一跳び? 絶対、獣なんだけど!)
「あ、耳と尻尾は白かったです。髪も白くて……毛先は赤かったかな? 好みが変わってたら色が変わってるかもしれませんが」
(完全に付け耳だと思ってる……。獣だったら死んでない限り容姿はほぼ変わらない。宵街に訊けば見つかりそう……だけど……)
獏に烙印を捺した宵街の統治者、狴犴には頼りたくない。
獣を探し出す願い事自体は構わないが、どうにか狴犴を経由しない叶え方をしたい。女が言うには温厚そうな獣だ。白い耳と尾が生えた獣の知り合いは獏にはいないが、特徴が明確な獣は目立つ。
「……じゃあ取り敢えず、その更地に行ってみようかな」
「更地にですか? 何も無いですよ? 取り壊した瓦礫とかも」
「うん。でもどんな所に居たのか、見てみたくて」
「更地なのに……?」
女は首を傾げるが、捜し人を見つけるためには必要なことなのだろうと承諾する。
「それと、願い事が叶ったら代価を戴くんだけど……その話はちょっと保留にしておくね。もし戴くなら、君の心の柔らかい部分をほんの少し戴くよ。痛くも苦しくもないから、大丈夫」
「は、はい……代価が必要なことは知ってます。保留は……初めて聞きました」
(獣と何処まで親密なのか知らないからね……代価を戴いて、手を出したとか怒られると嫌だし。この人間を獲物として見てたら、痛い目を見るのはこっちだよ。逆にこの人が蒐集家って可能性もあるし)
獣に関することは慎重にならなければ。そしてもし手を出すなと言われてしまったら、獏は喰いっ逸れてタダ働きだ。
二人は出掛ける前に、心を落ち着かせて紅茶を飲む。捜し人とはもう何年も会っていないのだから、今更急いでも状況は変わらない。
「――それじゃあクラゲさん、よろしくね」
「はい」
灰色の傘を持って待機していた灰色海月は先頭を切って店を出た。緊張した面持ちで女が続き、重い首輪を嵌められた獏も付いて行く。
灰色の傘をくるりと回して、まずはポストの近くの細い路地へ転送した。人間の街は暗く、夜が下りている。
「……あ。ちょ、ちょっとすみません。メールが……」
獏の居る小さな街は人間の街とは異なる空間にあるため、人間の街の電波は入らない。人間の街に戻ったことで、止まっていた物が流れてきたようだ。
「いいよ。緊急かな?」
「緊急じゃないんですが、親が早く帰れって煩くて……今日は仕事だって知ってるし、この時間はいつもまだ仕事してるんですよ、私。今日は獏に手紙を出すために早退しましたが」
「そうなの? 皆が寝静まった頃にこっそり出してくれてもいいのに。夜中でも僕は起きてるよ。夜行性だから」
「家から出られないんです。私、嘘が下手で……親が納得できる理由が無いと外に出してもらえないんです。特に夜は、危ないからって」
「厳しいんだね。確かに夜は危ないけど、君はもう子供じゃないのにね」
「で、ですよね? 私がおかしいんじゃないかと不安になってました……」
「最近落ち込むことがあったみたいだけど、家絡みかな?」
「わかります? ……お兄さん、いつも私の悩みを聞いてばかりで、鬱陶しくなかったかな……」
一つ落ち込むと、その感情に引っ張られて落ち込む内容が増えていく。女はメールを返信しながら溜息を吐いた。その様子を見て、獏は彼女に人差し指と親指で作った輪を向ける。
彼女の中はぐちゃぐちゃと黒い物が雁字搦めになっていた。普通に会話をしているが、限界が近そうな心だ。
(蒐集家って感じじゃないね)
「……お待たせしました。更地は近所なので、すぐそこです」
まだ夜になったばかりなので、住宅街には人通りがある。獏は道の端で気配を消して歩く。真横を通過しても、誰も獏の存在には気付かない。
幾つか路地を渡り、その更地は突然現れた。大きな屋敷と言うのでどんなに広い空き地なのかと想像していたが、想像より狭い。子供の目から見れば大きな屋敷だったのだろう。
「ここです」
売地と大きく書かれた看板が立っているだけの何も無い土地だ。獏は中には入らず外からそれを眺め、道の左右へ目を向けた。周囲の家は比較的新しい。
「ねぇ、クラゲさん。白い耳と尻尾が生えた獣を見たことはある?」
「無いです」
「知ってそうな人に心当たりは?」
「宵街歴が長いレオさんや……狴犴さん、後は……贔屓さん……でしょうか?」
無色の変転人の中では最年長の黒色蟹なら知っているかもしれない。それ以上に昔となると獣の狴犴、更に遡ると彼の前に統治者だった贔屓が有力だ。長命な獣なら、遥か昔に宵街を訪れた可能性もある。
「狴犴だけは却下で。レオさんに訊いてみたいけど、捕まらないよね」
黒色蟹は予約の絶えない変転人だ。常に仕事に奔走している。捜し人の前に彼を捜す所から始めなければならない。
「贔屓に訊けば鴟吻が捜してくれそうだけど、いつも頼んでばかりだから、そろそろ御礼でも渡した方がいいかな? 僕に渡せる御礼って何があるかな」
「探しものも自力で何とかできませんか? 一応、貴方への刑なので。以前は見つけてましたよね? 猫とか」
「今回は時間が経ち過ぎてるからね。都合良く誰か通らないかなぁ」
監視役に真っ当な指摘をされ、獏は不貞腐れながら左右を見回した。道の向こうからは誰も来ない。
「自力も試せるけど、その場合は物が必要だからね」
更地を見詰めながら呆然と物思いに耽っている女へ目を遣る。獏と灰色海月の会話など耳に入っていないようだ。初恋の人だと漏らしていたので、恋患いというやつなのかもしれない。
「ねぇ、その人から何か貰ってない? どんな物でもいいよ。偶々服に付いた髪の毛でも」
とんと肩を叩くと女ははっと我に返った。
「ぁ……い、いえ。話をしただけで、何も貰ってません」
「そっか。まあ貰ってたとしても、やっぱり時間が経ち過ぎてるからね」
物があれば思念を辿る技が使えるが、さすがに何年も昔の思念は失われている。もっと強力な能力ならそんな昔の思念でも辿れるのかもしれないが、獏の専門は思念を辿ることではない。専門外の能力は細やかだ。
「今日は解散にしようか。見つかったら後日、迎えに行くよ。期限はある?」
「え? あ……そうですか……そうですよね。すぐに見つかるわけないですよね……。じゃあ……私が、生きてる内に……」
その言葉を素直に受け取れば、寿命を示していると解釈するだろう。だが指の輪で彼女を覗いた獏は、あまり時間が無いことを悟った。
「数日中に見つけてあげるから、死んじゃ駄目だよ」
優しい柔和な声に、女はぎこちない笑みを向ける。今にも泣きそうな顔だ。今夜見つかれば、捜し人にそのまま攫ってほしかったのだろう。
「クラゲさん、送ってあげて」
「はい」
罪人を一人にはしておけないので共に女の家まで歩いて送る。近所だとは言うが、十分ほど歩いた。
ドアを閉めた家からは怒声が上がったが、外にまで聞こえる声は最初の一声だけだった。
「クラゲさん、贔屓ってこの時間、何処にいると思う?」
昼間なら彼は行き付けの喫茶店で珈琲を飲んでいるが、夜は店が閉まっている。贔屓が何処に棲んでいるのか獏は知らない。
「私にもわかりません」
「夜が明けるのを待つしかないか……獣は夜に活動する人が多いから、夜に動いておきたいんだけどな」
「……あ。電話で連絡できます」
「! 便利な物があるのを忘れてたよ。僕もそろそろ欲しいな」
「罪人には一生回ってこないと思います」
「そんな……」
「贔屓さんに連絡してみます」
灰色海月は携帯端末を取り出して贔屓へ掛けた。まだ試作機だが、これだけ使えるのならもう試作と呼ばなくても良いのではないだろうか。
数秒の呼び出し音の後、贔屓は通話に出てくれた。
「こんばんは、灰色海月です。贔屓さん、お暇でしょうか?」
『開口一番それを訊くとは、何か時間の掛かる用事かい?』
「人捜しを手伝っていただきたいんですが……獏に代わります」
『ああ、善行か』
灰色海月は獏に携帯端末を差し出し、獏は嬉しそうに受け取った。いつかは自分の物にしたいものだ。
「獏だよ」
『どうした? あまり罪人を手伝うと狴犴に小言を言われそうなんだが』
「今、何処にいるの?」
『ん? ビルの屋上で風に当たっている所だ。都会は眩しいな』
「良かった、暇そうで。人間の願い事を叶えてる最中なんだけど、白髪で、白い尖り耳とふさふさの尻尾が生えた人を捜してほしいみたいなんだ」
『……獣か?』
「やっぱりそう思うよね? 化生してなければ男性で、お兄さんって言ってたから、二十歳前後以上の容姿だと思う」
『僕の知り合いではないが、容姿の特徴は白狐を彷彿とさせるな。狐は狡猾だよ。足を掬われないようにな』
「狐……? 油揚げとか持って行った方がいい?」
狐の獣は有名だ。人間にもよく知れ渡っている。一口に狐と言っても幾つかの種類が存在するが、印象は偏っている。
『何が好物かは訊いてみないとわからないよ。その人間は、何故その獣を捜しているんだ?』
「昔、子供の頃に悩みを聞いてもらってたみたい。会いたくなったんだって。初恋の人だとか言ってたよ」
『初恋か……。なら、その獣は随分と親身に悩みを聞いてあげていたんだな。……だが、その獣も人間に会いたいとは限らない。見つけてもすぐに引き合わせるんじゃなく、獣にも話を聞いた方がいい。暫く会っていないなら、会いたくない可能性もある』
残酷かもしれないが、獣は人間には執着しない。人間が恋心を抱いていたとしても、獣は何とも思っていないだろう。
「そうだよね……人間の家に棲んでたらしいんだけど、その家は取り壊されて今は更地で、獣はいない。挨拶も無くいなくなったんなら、人間のことなんて何とも思ってないよね」
『人間の家に棲んでいた……? 珍しいな。まさか座敷童……いや二十歳前後の容姿なら童ではないか』
「人間の家に棲みつく獣って、良いか悪いかの両極端だよね? 良い人だといいんだけど」
『完全な善人はいないだろう。――おっと、鴟吻が見つけてくれたようだ。地図を送るから、一旦切るよ』
「え、もう? ありがとう! 御礼に菓子折とか贈った方がいいかな?」
『フ……罪人から物なんて貰えないよ。悪さをせず大人しくしてくれているのが一番の礼だ』
問題を起こすなと言う圧力を端末越しに感じた。遠慮ではなく、本当に受け取る気が無い。
獏は端末の画面を注視し、すぐに贔屓から地図が送られてきた。
「……山の中……だね」
別の人間の家に棲んでいるのではないかと予想していたが、どうやら今は人間から離れているようだ。それでも日中はここからでも見える距離の山だ。一時的に山に入っているだけの可能性もある。
「クラゲさん、ここに転送して」
「わかりました」
灰色海月は端末を受け取り、灰色の傘をくるりと回す。
一瞬で住宅街から山奥に景色が移り、二人は明かりが全く無い闇に常夜燈を取り出して翳した。
「クラゲさんは僕から離れないで。化生してなくても性格が変わる人はいるから」
自分と言う例がいるので、その想像は容易かった。獏は灰色海月の一歩前を歩き、彼女の常夜燈の光を意識する。
それに贔屓が注意を促していた。まだ狐だと確定していないが、どんな獣だろうと油断はできない。
木々に囲まれた足元は草の無い道になっている。細い道だが、人間が歩くための道だ。落ちた葉や枝を踏む微かな音が暗闇に響く。茂った木の葉が空を覆い、月を隠している。
贔屓が送ってくれた地図の地点は中腹よりも上で、山頂に近い。一人で居る、と一言が添えられていた。
「この辺り……もう少し先かな?」
地図の地点は道から少し外れている。灰色海月の手を取って斜面に足を掛けた。
「……ん?」
数歩歩き、黒い物が落ちていることに気付いた。暗い草と葉の陰に翼を広げて地面に張り付いている。鴉だ。
「死んでる……?」
蹲んで常夜燈を向け、ぴくりとも動かない体を確認する。最近死んだ個体のようだ。他の動物に荒らされた形跡は無く、外傷も無く狩られたわけではなさそうだ。
「近くに動物の気配は無い……変な物でも食べたのかな?」
雛鳥ならともかく、巣立った鳥が勝手に地面に落ちることはないだろう。山には様々な植物や虫がいる。有毒な物でもうっかり食べてしまったのかもしれない。
獣医ではないのでそれ以上はわからず、獏は立ち上がって再び歩き出す。山に死骸が落ちていることは珍しくない。生物である以上、誰もが何れ死ぬ。
歩き出して数分もしない内に、獏の足は徐々に重くなってきた。灰色海月は平気な顔をしているのに、牢に籠って運動不足だからだろうか、空気が抜けていく風船のように獏の足から力が抜けていった。
「あれ……?」
そんなに体力が無かっただろうか。そう思い始めた時、完全に足に力が入らなくなった。手を突いて辛うじて顔から落ちることは免れたが、地面に無様に転んでしまった。緩やかな斜面なので、滑り落ちなかったことは幸いだ。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫……」
灰色海月は一歩下がり、常夜燈を翳す。獣が大丈夫だと言うのだから、手を貸す必要は無い。
だが獏はすぐには起き上がらなかった。足どころか全身が重く、頭が怠く朧げだ。さすがにこれはおかしい。
「クラゲさん……もう少し離れて。何か変だ……」
「?」
怪訝に思いながらも灰色海月は近くの木まで下がった。首輪を付けているので罪人から多少離れても問題ない。
(何だこれ……意識が遠退く……眠らされる? 眠らせる側は僕なのに……何なの? 絶対、目を閉じてやらないんだから……)
夢を貪るために、獏は人を強制的に眠らせる能力を持っている。なのに眠らされようとしているとは、こんな屈辱は無い。何が起こっているのかわからず体も動かせず、ただ耐えることしかできない。
「死なない動物ですか?」
それは僅か数分ほどの時間だったが何時間も経過したような気怠さがあり、やがて木の上から男の声が降ってきた。暗闇の中でも常夜燈の仄かな光で薄らと白い輪郭が見える。
長身痩躯の彼は長い白髪と白い尾を翻して太い枝から飛び降りた。草と落ち葉を踏む音が地面を伝って獏の耳に届く。
「死んだ動物に近付きましたか?」
「……鴉の、こと……?」
「まだ呂律が回るようで良かったです。不審な死骸には迂闊に近付いてはいけません」
「君は……?」
「名乗る前に、君は死に掛けてますよ。全身が病に冒されています」
「…………」
獏は朦朧とする頭で判断し、灰色海月の居る方へ手を向けて制止をした。死に掛けているなんて言われたら、彼女が迂闊に近付いてきてしまう。
獏の推測通りに動こうとしていた灰色海月はぴたりと足を止めた。
「……あの、どうすれば死なないですか?」
近付けない代わりに灰色海月は質問した。監視役の目の前で罪人を死なせることはできない。
白い尾の青年は頭上の尖った白い耳をぴくりと動かす。おそらく彼が願い事の契約者が捜している獣だ。彼は丁寧に敬語で話しているが、あまり感情が籠らず冷たい印象がある。
「君が助けるんですか?」
「貴方に助けられるんですか?」
質問を質問で返す。悠長に会話を続ける時間は無いはずだ。獏の口数は少なく、相当弱っている。灰色海月の言葉に焦りが滲む。
「……僕には助けられない。この人を殺そうとしているのは僕ですから」
「!」
「助けたいなら、僕の願いを七つ、叶えてください」
「な……七つもですか!?」
こういう場合、一つか二つではないだろうか。相場はわからないが、七つが多いことは灰色海月でもわかる。獏の善行も願い事一つにつき代価は一つだ。獏一人を助けるために代価を七つもとは多過ぎる。
「そう構えないで。僕には叶えられないと言うだけで、簡単な願いです」
いつも願い事を叶えている獏は動けない。灰色海月が動くしかない。
(獣には簡単でも、私には難しいことかもしれません……でも、私は監視役です。罪人は死なせません!)
「願いを叶えてくれる間、僕はこの人を見守ることしかできませんが、弱っている所を他の動物には襲わせません」
「七つの願いは……何ですか?」
灰色海月は唾を呑み、審判を聞く罪人のような気持ちで耳を欹てた。
「まずは……そうですね、筍ご飯が食べたい」
「筍……ご飯……」
難しい願い事をされると構えていた灰色海月は肩透かしを喰わされた気分だった。
七つの願いは本当に簡単なことかもしれない。緊張感が一気に吹き飛んだ。
「家が欲しい」
「い、家……」
「人間のことを忘れたい」
「忘れたい……?」
「あとは…………思い付かない」
「願いは三つ……?」
「病を浄化する手段として人間に伝わっているのは墓を七つ叩き壊してもらうこと、なんですが、僕はそういうのは欲しくないので。ですが急に七つの願いと言っても、思い付かないです。三つ叶えてくれる間に、四つ考えておきます。僕はここで待っているので、どうぞ行ってください。この人が死なない内に」
獏は最早言葉も紡げず、肩を上下させて荒い息を吐いている。額に汗が滲み、喘ぐように苦しそうだ。
「わ、わかりました。すぐに用意するので……死なずに待っていてください!」
慌てて踵を返して斜面を滑り落ちそうになるが、灰色海月は跳躍を繰り返して人間の作った通り道へ戻る。すぐには止まれないので木の幹を掴んで勢いを殺した。
(筍ご飯はすぐに買えるはず……家はどう用意すればいいんですか!?)
困った時は獏も誰かを頼っている。灰色海月も頼ることにした。獣の相手ができるのは獣だけだ。先程電話をした贔屓なら説明も少なく済む。
携帯端末を取り出して何度目かの呼び出し音の後、贔屓は待っていたかのように出てくれた。
『善行は終わったかい?』
「い、いえ……大変なことになりました。獏が瀕死です!」
『ん……?』
「獣に殺されそうで……願い事を叶えれば助けてくれるんです!」
『切迫しているようだな。だがすぐに殺される心配は無いのか?』
「迂闊に近付いてはいけないとか、病がどうとか……」
『灰色海月、落ち着け。一旦そこを離れて僕の所へ来られるか?』
「は、はい……あっ、筍ご飯を買わないと……」
『筍ご飯?』
焦る灰色海月は獣が話している最中に通話を切ってしまった。温和な獣でなければ首が飛ばされる程の無礼だ。
灰色海月は灰色の傘をくるりと回し、贔屓の居るビルの屋上へ転送した。
焦燥の所為で少し高い位置に転送してしまい足が空を掻いたが、気付いた贔屓が彼女を受け止めた。他には誰もいないので贔屓は人間の殻を被っていない。
「……おっと、気を付けて。狐に足を掬われたか?」
「た、筍ご飯!」
「獣はすぐには死なないよ。話を聞く限り、即死の能力ではないようだ。じわじわと縊り殺すなら猶予はある。詳しい話を聞こう」
「は、はい……」
落ち着いた贔屓の声に焦りを感じつつも、釣られるように少し冷静になる。灰色海月は山で見たことを贔屓に話した。鴉の死骸を見つけ、獏が倒れ、白い耳と尾が生えた獣が現れたことを。
「……成程。おそらくだが、その獣にとっても予想外の事態のようだ。もし計画的に行ったなら、願いを七つ揃えて出すはずだ。つまり……その獣も敵意があるわけじゃない」
「筍ご飯は買えば手に入りますが、家はどうしたら……。それと、人間のことを忘れるには……」
「狐に小豆飯とは言うが、筍ご飯とはね。筍ご飯も難しいかもしれないな。筍は春だろ? 今は夏だ」
「!」
「流通は少ないが、春以外にも無いわけじゃない。地域によって異なるが……食材に関しては螭に訊いてみるといいだろう。家は宵街になら用意できる。既にある空き家を利用しても、新しく建ててもいい。本当に棲ませるかは、獏が助かってから考えよう」
「はい」
「問題は三つ目だ。僕には殺せと言っているようにも聞こえる」
「え……」
「死ねば記憶は無くなる。忘れたいことも忘れる」
「でも、それじゃ……」
「ああ。懸念は理解できる。死んでしまったら、獏を助けるということも忘れてしまう。記憶だけ除ける力を持つ獣が必要だ。面倒だな」
「獏……」
「助けないといけないのも、願いを叶えられるのも、獏しかいないようだな」
探せば他にも能力を持つ獣はいるかもしれない。だが今から探していては獏が持たない。
厄介なことになった。贔屓は口元に手を遣り黙考する。
その眼前にひらりと紙切れが一枚舞う。鴟吻だ。
「…………」
それを広げて見た贔屓は虚空を見上げて苦笑した。そこには誰もいないが、千里眼で鴟吻が覗いている。
「海月。筍ご飯は鴟吻を通して螭に依頼した。炊けたら鴟吻を通して届ける。家は宵街に用意したと言っておけ。もしすぐに家を見に行くと言い出した場合は僕の所へ連れて来て、一緒に行こう」
「わかりました。ありがとうございます」
「それから、獏へ依頼した人間をその獣の所へ連れて行け。利用できるかもしれない」
「いいんですか? 私が善行をしてるみたいになりますが……」
「獏がその様なら、代価を貰う所じゃない。獏には報酬を諦めてもらう。獏が話せるなら、後の判断は任せる」
「契約の刻印はどうなりますか?」
契約者に施した刻印を消すには、願い事を完遂するしかない。代価を受け取らないならどう完遂と判断するのか、灰色海月は頭の中が複雑に絡まってきた。
「獏なら上手く遣るだろう」
「贔屓さんは獣に会いに行かないんですよね……?」
「僕は遠慮しておく。鴟吻や獏ほど情念に理解が無いからな。鴟吻に見ていてもらうから、不味いと思ったら助言するよ」
「わかりました。必ず、獏を助けます」
「ああ。健闘を祈る」
贔屓が一番、獣らしいかもしれない。人の心には執着せず、関係も淡白だ。博愛主義ではあるが、それは心に理解が無いからだ。優しさは無関心の現れである。
灰色海月が灰色の傘を回して姿を消し、贔屓は柵に腕を掛けて頬杖を突く。湿気を含んだ生温い風が頬を撫でた。
契約者の家の陰に現れた灰色海月はきょろきょろと辺りを見回す。もう深夜だ。人っ子一人歩いていない。
契約者の一軒家にも明かりは灯っていない。皆寝静まっている。
(契約者の部屋は二階……あの窓でしょうか?)
獏のように一跳びで二階の窓に辿り着けない灰色海月はどうしたものかと見回し、経路を考える。
(あの塀から行きましょう)
彼女も無色の変転人の端くれだ。並の人間よりは身体能力が高い。路地の植木鉢や室外機に乗って塀を登り、何かのパイプに足を掛けてゆっくりと上を目指した。路地は狭いため、隣の家の壁も利用した。
窓枠に手を掛けて頭を出し、閉まっているカーテンの隙間から中を覗く。可愛らしいぬいぐるみが載っているベッドに眠る人間が見えた。
(私は鍵が開けられないので、気付いてもらうしか……)
契約者以外には聞こえないように勢いを抑えて窓を叩く。ベッドは窓に近いため、眠りが浅ければ気付いてもらえるはずだ。もし気付いてもらえなければ、時間が勿体無いが、転送すれば中に入れる。
祈りながら窓を叩き続け、女は寝返りを打つ。灰色海月は焦り、一度だけなら大きい音を出しても不審がられないのではと考える。
拳を握って思い切り、硝子が割れない程度に一度大きく振り被って窓を殴った。
「!」
女が小さく跳ねた気がした。暫し様子を見、目を擦りながら薄く目を開ける姿に安堵する。灰色海月は再び小さく窓を叩き、怪訝な顔をする女と目が合った。女は今度こそびくりと肩が跳ね、慌てて這い寄ってカーテンと窓を開けた。
「えっ……こんな時間に……もしかして見つかったんですか?」
「見つかったと思います。今すぐ行きましょう」
「ちょ、ちょっと待ってもらってもいいですか? さすがにパジャマで行くのは……」
「なるべく早くしてください。落ちそうです」
そろそろ足と手が限界だ。女は慌てて灰色海月を部屋の中へ引き上げた。外に誰もいないことを確認し、カーテンと窓を閉める。
「いつからそこに……」
「手が赤くなるくらいです」
「そ、そんなに……? ……あ、もう一人の……獏は? まだ外に?」
「捜し人の所にいます」
「そうなんですね……本当に見つけてくれたんですね。数日って言ってたのに、こんなに早く」
「なので早く支度をしてください」
こちらは獏の命が懸かっているのだ。それは言わないが、灰色海月は気が気でない。
「折角だから可愛い服で行きたかったな……。私が買った服は気に入らないみたいで親に捨てられちゃうんですよね……。代わりに知らない服を置かれてて、それを着るしかないと言うか……あ、メイクはさすがに時間無いですよね……?」
「メイク?」
「え? えっと……化粧……顔を綺麗にする、こと?」
「化粧はわかります。化粧は時間が掛かりますか?」
「そこそこ……」
「では駄目です」
普段は億劫だと思いながら彼女は化粧をしているが、大切な人に会う時は寧ろ飾って行きたい。だがあまり待たせたくもない。
「あの……貴方は会いましたか? あの人に」
「会いました。少しですが」
「どんな感じでしたか? 子供の頃の記憶は朧げで、お兄さんだった、ってことくらいしかわからなくて……十年以上経ってるので、おじさんになってますか……?」
「お兄さんでした」
「え? 若く見えるんですね……耳と尻尾はまだ付けてましたか?」
「耳も尻尾も付いてます。きっと性格が悪いです」
「性格……悪いですか? 優しい人だったんですが……」
「好物はきっと筍ご飯です」
「それは初耳です。作ってあげたいな……」
「あんな人の何処がいいんですか?」
「えっ? や……優しい所……?」
「獏の方が優しいです」
何故張り合われたのか女にはわからなかったが、話している内に着替えは終わった。
「これから山に行くので、真っ暗でも驚かないでください」
「や、山!?」
山と言うなら踵の高い靴やサンダルは駄目だ。こっそりと玄関からスニーカーを提げ、女は忍び足で灰色海月の許へと戻る。灰色海月のブーツの踵はかなり高いが、きっと慣れているのだろう。
「親に監視されてるので、こう、こっそり音を立てずに歩くのが得意になってしまって」
女は苦笑し、手で髪を整える。寝癖が付いていないか心配している。
「明かりを持ってるので、足元は照らせます。まず私が話すので、ちょっと待っててください」
「……はい。お願いします」
注意喚起はこんな感じで良いだろうかと、灰色海月はいつもの獏を思い出しながら焦燥を押さえ込み、くるりと灰色の傘を回した。
暗い山へ戻って来た灰色海月は傘を畳んで常夜燈を掲げる。先程通った細い道が見える。
「……本当に山……暗いですね……」
風も無く、自分達以外の音がしない。夜の山は想像以上に不気味で不安を煽る。女は何処の山へ連れて来られたか知らず、いつも家から見えている山だと気付かない。
「足元に気を付けてください。歩くのは道ばかりではないです」
「は、はい……」
幾らか道を進んでから、逸れて斜面へ入る。スニーカーで良かったと、慣れない山の斜面に時折足を滑らせながら女は思う。
暗いことと斜面が滑ることを除けば特に問題なく約束の場所に到着した。そこには変わらず獏が横たわっていた。呼吸は苦しそうだが、まだ息はある。
「も、戻って来ました! 何処に行きました……?」
「ここです」
高い枝から白い影が飛び降りる。視界に入った人間の女に青年ははっとしたが、目を逸らした。
「……僕の願いはどうなりましたか?」
「家は宵街に用意しました」
「宵街?」
青年は不思議そうな顔をする。獣であっても宵街の存在を知らない者はいる。人間だってこの世に存在する全ての国と都市を言えない者はいる。
「変転人と獣が棲む街です」
「人間はいるんですか?」
「いないです。連れ込んではいけない規則があります」
「それなら安心ですね。後で見に行きます。他の願いはどうでしょうか?」
「他の……」
筍ご飯がまだだ。灰色海月は慌てて周囲を見回し、頭に小さな石が落ちた。誘われるように上を見、小さなタッパーが視界に入り慌てて手を出した。手にとんと熱が降る。
「あつっ……た、筍ご飯です」
炊き立ての熱い御飯だ。鴟吻は軽い物なら転送の要領で任意の場所に送ることができる。小さなタッパーは彼女の限界だ。御飯は意外と重い。
「本当に? まさか人間の家に行かずに食べさせてもらえるとは思わなかったです。言ってみるものですね」
木の葉を踏み、青年はありがたくタッパーを受け取る。中身が見える透明なタッパーから筍が見える。
「三つ目の願いはどうですか? 難しい要求だと思いますが」
難しいと自覚はあるようだ。その願いに逆らうことになるが、灰色海月は息を呑んで人間の女を前へ出した。青年は怪訝な顔をするが、彼女が人間であることは見ればわかる。
「……彼女は?」
「そもそも貴方を捜してたのは、この人間に頼まれたからです。この人間が子供の頃に、貴方は会ってます。悩みを聞いて、優しく接してたみたいですね」
「……ああ、面影があると思ってましたが、やはりそうですか。何故僕を捜してたんですか?」
「初恋の人だからです」
灰色海月の発言に青年は怪訝な顔を続けるが、女は顔を真っ赤にして彼女の袖を掴んだ。初恋だということは言ってはいけなかったらしい。
「初恋? 心を乱すような接し方をしたつもりはないんですが……人間はよくわかりませんね」
「貴方が忘れたい人間は、この人ですか?」
「ああ……両想いだとでも思ったんでしょうか? 僕は人間に心を開くことはありませんよ。僕は人間に取り憑くだけです。どうして人間を連れて来たんですか? 僕はもう……人殺しには飽きたんです」
ざわりと胸が騒ぐような悪寒が走った。全身に寒気が走り、体が勝手に震え出す。
「……すみません。少し離れます」
青年は謝って後方へ数歩下がり距離を取るが、女は力が抜けて膝を突いてしまった。困惑と疑問が浮かぶ彼女の横で灰色海月は耐えるが、立っているのがやっとだ。
「駄目ですね……力が……」
更に距離を取るが、女と灰色海月は苦しそうだ。獏も死にそうだ。青年は途惑い、逃げるように斜面を上がった。
「待って!」
彼と彼女達の間に、魚のような尾が生えた幼い少女が忽然と現れる。彼女の声が青年の足を止めた。
それを追うように現れた黒い少年は懐剣を手に、少女を守るように前に立った。
「鴟吻……さん……?」
千里眼で覗いていた少女は、眉根を寄せて青年へ歩み寄る。
「鴟吻! あいつに近付くな! 危ない……」
「危ないのはこの人も同じ。――私は鴟吻。貴方、名前は?」
「……管狐」
「良かった。予想が合ってたわ」
「…………」
「管狐は人間に取り憑く獣よね。取り憑いた人間を徐々に病で潰していく。貴方は今、力を制御できていないように見えるわ。制御できないから人間から離れたの? それとも、人間から離れてしまったから制御できなくなったの?」
「…………」
「今はもう更地だけど、その家主に貴方は取り憑いてたのね。家主を病死させ、空っぽになった家は取り壊されることになった。家を失った貴方は人間のいないここへ来た。どうして次の人間に憑かなかったの? この人間の彼女に憑けば良かったのに。彼女を殺したくなかったから?」
「違う!」
青年は何かを振り払うように頭を振って俯き、また数歩下がった。
「悩みを聞く内に情が移った? 感情を殺していれば、人間を簡単に殺せるわ。子供を殺すのは可哀想だと思った? 一度でも可哀想だと思ってしまえば、憑き殺すのは躊躇うわよね。それで人間から離れて……こんなことになるなんて、貴方にも予想できなかった。違う?」
「…………」
「貴方は今、際限無く病を撒いてる。只の鳥も人間も、獣でさえも。殺さないためにずっと隠れてるのは疲れたのよね? 忘れたら、元に戻れると思ったの?」
「僕は……」
「話をする前に、その力を抑制しないと。まずは一時的に抑えるわ。その後は治療よ」
「何をする気だ……?」
「私に、溢れた病を移して。全部」
「おい鴟吻! 無茶するな!」
「ロタ、大丈夫だから」
彼女の護衛である黒種草は懐剣を構えたまま鴟吻に駆け寄ろうとするが、彼女はそれを制する。鴟吻に解毒能力は無い。何をするのか想像がつかず、黒種草は苛立った。
「何をするか知りませんが、死にますよ……? 致死量の毒を全身に取り込むことになります」
「いいか……ら!?」
会話の途中でがくんと唐突に彼女の頭が傾き、押さえ付けられるように地面に叩き付けられた。
「鴟吻……あまり自己犠牲を出すな」
葉を踏み、杖を翳した少年が闇から現れる。鴟吻に杖を向けたまま、少年――贔屓は管狐に目を細めた。会わないつもりだったが、鴟吻が出て来るなら話は別だ。
「彼女の言ったことは忘れてくれ。大方、自分の体に移された病を何処かへ纏めて転送して捨てるつもりだったんだろうが……本当にそんなことが可能なのか、わからないからな」
「それでも殴るのは違うだろ! おい、力を解けよ!」
「君はこうなったことに心当たりがあるんじゃないか?」
黒種草の訴えは無視し、贔屓は管狐を見据えて鴟吻よりも前へ出る。
「…………」
「話してくれれば、協力できることもあるかもしれない。話を聞いても悪いようにはしないよ。こっちは何人も人質に取られているようなものなんだ。早く苦しみから解放してやりたい」
特に獏の吐息は切れ切れで、今にも潰えそうだ。底の見えない崖に片手だけでぶら下がっているようなものだ。必死に耐えている獏をこれ以上待たせられない。
「人間を忘れたい願いは、この獏なら叶えられる。むざむざ殺してしまうのか?」
「獏……? 僕の知る獏とは……違う」
「? ……ああ、この獏は少し変わった獏だからな。夢を食べる以外の能力も持っている」
「いや、そうじゃ……」
まだ何か言い掛けるが、管狐は獏に視線を遣って閉口した。無駄話をしている暇はもう無さそうだ。
「……何でこんなに集まるんですか……今の僕は花粉を振り撒く木のようなものです。病が広がってしまう。三つ目の願いは取り下げるので、あと五つ……下らない願いを考えます。それが病を解く条件です。本来はこんなに焦って解くものではないんですよ」
「集まるつもりは無かったんだ。だが聞き入れてもらえて良かった」
「ではまず君の掛けた力を解いてください。彼女が苦しそうです」
鴟吻に痛みがあるよう加重はしていないが、動けないということに対して彼女は悲痛な表情を浮かべている。鴟吻が贔屓に逆らうのは滅多に無いことだ。
贔屓は鴟吻に掛けた加重を解き彼女を解放する。
「では君の名前を教えてください。それと彼女と、そこの彼と」
視線で示す管狐の願いを聞き入れる。
「僕は贔屓だ。彼女は鴟吻、彼は黒種草だ」
「これで六つ。あと一つは……」
簡単な願いをと周囲に視線を巡らせ、一つ思い付いた。
「足元の葉っぱを一枚、取ってください」
贔屓は茶色く枯れた葉を一枚拾い、管狐へと差し出した。それを受け取り、彼は胸を撫で下ろした。
「これで……徐々に回復するはずです。能力なら自分の意志で解除できるんですが、この病は体質のようなもので特殊なんです。僕一人では解けないんです」
管狐以外には願いと言って何をさせられていたのか、これで本当に良くなるのかわからなかったが、彼の言う通り暫し待つ。
「うぅ……」
最初に回復の兆しが見えたのは、最も死に掛けていた獏だった。
「さすが獣ですね。回復が早い。……いえ、少し演技をしていましたか?」
「余裕があると思うと、そんなものかってクラゲさんが警戒を忘れて近付くかもしれないからね。話してる内に大分病が回ってきたけど……。あんまり動けない。こんなに簡単に死にそうになるなんて……」
「すみません。こうなってしまったのはおそらく、僕が繁殖を拒んだからです。本来は繁殖して力を分散させるんですが……」
「成程。分散できずに君の体内から溢れてしまったんだな」
贔屓は頷きながら、身を起こそうとする獏に手を貸す。後から病を被った軽症の灰色海月と人間の女も動悸が落ち着き、言葉を話せるようになる。
「……あっ、あのっ……繁殖って……こ、恋人とか……いるんですか!?」
女は獣も病も先程の話も理解していない。突然病がどうのと言われても現実味が無いからだ。
他に言いたいことはたくさんあったはずなのに、人間の女はそれを第一声にしてしまった。子供の頃に会ってからもう十年以上も経っているのだ。年上の彼が結婚していてもおかしくはない。そもそも出会った時に既に結婚していたのかもしれない。幼い頃の彼女が彼に『結婚する』と言った時、彼は不思議そうな顔をするだけで何も言わなかった。沈黙が答えだったのではないかと今更焦り始めた。
「繁殖は……少し誤解があるようです。腹を痛めて子を産むわけではないです。どちらかと言うと、細胞分裂に近いかと」
「細胞分裂……!?」
人間の彼女からすれば、それの方が理解できない。まるで単細胞生物のようではないか。
「人間に説明するのは難しいですね……何故彼女を連れて来たんですか?」
その問いには獏が答える。体の怠さも抜けてきた。
「クラゲさんがさっきも言ったけど、彼女が望んだからだよ。君を捜してほしいって。君が優しくした人間なんだから、責任取りなよ? 君に恋しちゃったんだから」
「優しく……ですか。話を聞いていただけだったんですが……そんなに好いてくださるとは。ですが、そろそろ気付いてるんじゃないですか? 僕が人間ではないことを」
薄々とは気付いていたのかもしれない。直接そう言われると、女は改めて過去を振り返り意識する。人間ではないと言われると、数々のことに辻褄が合う。
「人間じゃない……? 貴方の話は難しくて……そ、それじゃあ、その耳と尻尾は……」
「ちゃんと生えてますよ」
証明するように、管狐は自分の尻尾をぱたぱたと振った。女は口を半開きにしたまま言葉を失ってしまうが、病が抜けて鮮明になる思考で我に返った。
「……そっ、それでも! 私は……貴方が好きです。貴方がいないと私……潰れてしまいそうで……」
「まだ親御さんに悩まされてるんですか? 大人になったんですから、家を出てみてはどうでしょう?」
「出られない……出してもらえないの! 誰かに連れ出してもらわなきゃ……私に自由は無い……」
「僕に連れ出してほしいんですか?」
女は泣きそうな顔で唇を噛みながらこくりと頷いた。もう我慢も、耐えるのも限界で、死にたいと思っていた所だ。その前に彼に会えたなら、まだ生きたいと思えるだろう。そう思って獏に願った。
管狐は困ったように目を伏せ、貰った筍ご飯のタッパーを見下ろす。熱いタッパーはもう温くなってしまった。
「……人殺しは飽きたんですが、最後に君の親御さんを憑き殺しましょうか?」
「え……」
「責任と言うなら、これが最適かと」
それはやんわりとした拒絶の言葉だった。連れ出せない代わりの代替案だった。
「殺……す、のは、ちょっと……怖いです」
「そうですか。その答えではっきりしました。やはり獣は人間から離れた方がいい。住む世界が違います。君も、僕のことは忘れてください」
「! でも……」
「君ならきっと、良い人間の相手が見つかります」
「でも……!」
言い返したかったが、女の口からは何も出てくれなかった。他の相手より貴方がいい、と言えば良いだけだったのに。
「種族を超えた愛……」
それを特等席で眺めていた鴟吻は、うっとりと呟いた。
「鴟吻?」
「最近、少女漫画にハマってるんだ。一日中お前を千里眼で覗くより漫画を読んでる方が健全だろ。ほっとけ」
「健全ではあるが……様子が変だったのはその所為か」
鴟吻の護衛をしている黒種草は勿論、彼女の近況も知っている。彼女が夢中になっている姿を傍で見ている。
贔屓は彼女の新しい趣味を歓迎する。贔屓以外に興味を持つことは彼女にとっても良いことだ。ただ、のめり込み過ぎている気もする。管狐と人間の女を、恋愛ドラマを見るように胸を高鳴らせながら眺めている。
獣は恋愛に興味が無く、理解もできない者が多い。だが彼女は本を読んで無我夢中になってしまったようだ。
「獏……と言いましたか。最初の三つ目の願いを、叶えてください」
「え? えっと……」
地面に伏しながらも声は聞こえていたので彼の願いも覚えているが、獏は贔屓の顔を窺う。願い事の手紙を出したのは人間の女の方だ。管狐からは受け取っていない。手紙が無くとも願い事は受理できるが、獣の願い事をどうすべきか視線で尋ねる。
「……獏の思う通りにしていい。但し、責任は獏が負うんだよ」
「何か含みがあるね……」
獏は管狐に向き直り、真っ直ぐな目を見詰める。管狐は本気で人間のことを忘れたいようだ。忘れれば取り憑こうとは思わない。だがそれで解決するとは思えなかった。
「忘れさせると言うか、記憶を抜くことはできるよ。でも、人間はいなくならない。何処に行っても大体いるし、獣も変転人も人間の話をする。忘れても知るのはすぐだよ。意味が無いと思うんだけど」
「忘れれば終わると思ったんですが……確かにそうですね。こうして会いに来られては、存在を知るのは時間の問題ですね」
「それに、すぐには記憶を食べられないよ。会話はできるけど、まだ病は完全に抜けてないから。手元が狂いそう」
「わかりました。待つ間、考える時間とします」
「それから……こっちの人間はどうする?」
一番の問題はそれである。人間の執着を舐めてはいけない。放っておくと何をするかわからない。
女は懇願するような目を向けている。獏に彼を説得してほしいようだ。
「どうすると言われても……正直な所、彼女が何を求めているのかわからないです。憑き殺すことは断られましたし、僕は恋心もわかりません。一体僕に何を求めてるんですか?」
その発言に、人間の女ではなく何故か鴟吻が前に出た。
「そんなの……抱き締めて、キスして、愛してる、って言われたいに決まってるじゃない!」
鴟吻は熱弁を振るい、女は赤面し、管狐は困惑して両耳をぱたんと伏せた。
「鴟吻、漫画の読み過ぎだ。黒種草、取り押さえておいてくれ」
「お、おう……」
嫌悪している贔屓の言うことを素直に聞く程、黒種草も面喰らった。ここまでのめり込んでいるとは思わなかった。暇潰しに一冊買ってみただけの本から、随分深い所へ行ってしまった。
「獏、一つ提案がある。少し酷かもしれないが」
贔屓は他の者に聞こえないよう獏に耳打ちする。獏は動物面の下で視線を動かし、頷いてその提案を呑んだ。途方に暮れている管狐のためにも、それが最善だろう。
獣に対しては慎重になるが、人間に対しては適当だ。獏は病が抜け切っていない体で女から代価を戴く。タダ働きのはずだったが、雲行きが変わった。捜し人に会えた代価をほんの少し――管狐の記憶を食べ尽くす。
記憶とは芋蔓式に方々に繋がりを持っているため、任意の箇所だけ抜き取るということができない。辻褄が合うように埋め合わせなくてはならない。だが彼女の中にある管狐の記憶は独立しており、そのまま抜き取ることができた。彼のことを誰にも話さず仕舞い込んでいた御陰だ。
彼女には酷だが、出会ったことさえ忘れてしまえば、何も悲しむことはない。記憶を食べる間、管狐には隠れてもらった。折角忘れさせるのに、また出会ってしまったら意味が無い。
記憶が本当に抜けたか、その確認はしない。管狐の姿を見せず、名前も口にしない。何かが引き金になって記憶を取り戻す場合があるからだ。その説明は管狐にはしないが、二人が今後会うことが無ければ、何も知らないままでいられる。
記憶を抜かれて惚ける女は灰色海月に送らせ、自力の転送ができない獏は贔屓に牢へ送られることになった。
「獏、すまないが少しの間、君の所で管狐を預かってくれないか?」
「え? 宵街に家を用意したんじゃないの?」
「そうなんだが、今の彼の体質だと宵街で病を振り撒いてしまう。力を抑える策を考えないとね。その間、様子を見ていてほしいんだ」
「そっか……でも僕とクラゲさんが危険じゃないかな? また死に掛けるのは嫌だよ」
「今は何ともないだろ? もしまた病に罹ることがあれば、七つの容易い願いを叶えるか、灰色海月に宵街へ連絡してもらってくれ」
「うーん……罪人ってそんな役回りが多い……」
「本人に悪気は無さそうだから、少しの間、頼むよ。僕と鴟吻の協力の代価だと思って」
「そう言われると断れないんだけど……」
善行で代価を戴いている獏は、代価の大切さをよく知っている。少々渋るが、獏は承諾した。菓子折の代わりだ。本当にどうにもならない危険なことなら彼は押し付けないはずだ。
その日はそれで解散したが、後日鴟吻から獏の牢に、彼女が好きな少女漫画が何冊も送り付けられた。獏も管狐も、読んで恋心を勉強しろと言うことらしい。




