215-箱詰め娘
誰もいない透明で小さな暗い街に、一つだけ明かりの灯る古物店があった。
瓦落多の並ぶ置棚に囲まれた奥で、黒い動物面を被る獏と、白い三角耳とふさふさの尾を生やす管狐が静かに読書をしている。傍らには湯気の立つ紅茶と、コップに入れた細長いチョコレート菓子が置かれている。チョコレート菓子は人間の街で買った物だ。灰色海月が宵街へ報告に行った時に鉢合わせた買物帰りの新人変転人から貰った。新人は人間の街で買物をする練習中だ。
管狐の病を振り撒く体質は、今は抑えられている。宵街の統治者であり印の使い手である狴犴と工房の細工師の狻猊に相談した贔屓が、力を抑える首輪を持って来てくれた。管狐は罪人ではないので烙印ではなく、罪人のように重くて肩が凝る大きな首輪でもない。装飾品の感覚で装着できる華奢な首輪だ。変換石と印が使用されており、定期的に変換石を浄化もしくは交換しなければならないのが難点だが、これで生活に支障が無くなる。首輪がきちんと機能するか獏の牢で暫く観察し、問題が無ければ管狐は宵街に棲むことができる。
獏の牢に滞在する間、管狐は獏の居る古物店ではなく隣の建物で一人で居ることが多いが、今は二人で鴟吻が送ってきた少女漫画に目を通している。幾つかのタイトルが何十冊も彼女の能力で少しずつ送られ、獏の部屋にはそれが山積みだ。人間の恋心がわかるようになる本だと興奮気味に彼女から説明を受けたが、子孫を残す動物ではないゆえ発情しない獣には難解な本だった。
「……管狐、何かわかるようになった?」
「いえ……でも、取り憑くことと似てるのかもしれない……と思うようになりました」
「ここにさ、一緒にいて幸せな気持ちになるのが恋、とか書いてるけど……取り憑くと幸せなの?」
「最初は餌を貰うために傍に置いてもらおうと人間に有益な情報を教えますが、信用されて利用されると病で噛み付きます。徐々に弱って尽きていく姿を見ると……ゾクゾクします」
「…………」
獏は動物面の奥でちらりと彼を窺う。口元に笑みを浮かべて楽しそうな顔をしている。面倒な体質であると言うだけで穏和な獣だと誰もが思っていたが、獣らしい中身が潜んでいるようだ。
「でも飽きたんだよね?」
「……はい。信用はするのに利用はせず、助けてくれと懇願もされなくなったんです。人間にも色々いるので個人差だとは思うんですが、それが続いてしまって飽きてしまいました」
「へぇ……人間の街は今や情報だらけだから、情報をありがたがる人間が減っちゃったのかもね」
「そうですね……もっと欲に溺れてもいいと思うんですが」
「例えば?」
「宝クジの当選番号を知りたいとか、競馬で勝つ馬が知りたいとか」
「わかるの?」
「わかりますよ。大金持ちにしてあげられます」
「へえ……今度そういう願い事が来たら頼んでもいい?」
「病をお望みで?」
「……人間のために病むのはちょっと……遠慮するね」
「冗談ですよ」
管狐は口元に笑みを浮かべて楽しそうだ。その背後で彼の服が揺れていることに気付いた獏は視線だけで覗き込む。管狐の尾が揺れ、古物店で飼っている黒猫と少し小さな白黒猫が戯れて遊んでいた。先程から彼が楽しそうなのは、猫達を翻弄して遊んでいるからかもしれない。
「貴方はどうですか? 貴方が理解した恋愛とは?」
「うーん……自分の時間を相手にあげることなのかなぁ。感情を問われてもわからないけど、行動は想像できるよ」
「成程。惜しまずに時間を与えられる寛容さ、なんでしょうか」
真剣な顔を突き合わせて獣達は人間の恋心を学ぶ。
それを邪魔してはいけないと思いながら、だが言っておかねばならないことがあるため灰色海月は遠慮がちに声を掛ける。
「手紙の投函があったので、行ってきます」
「あ、うん。行ってらっしゃい」
思念の羅針盤を確認し、灰色海月は掌から灰色の傘を抜いて古物店を出て行く。これから彼女は人間を迎えに行く。
「管狐は二階に行ってる?」
「階段の陰にでもいますよ。すぐ終わるでしょう?」
「そう?」
「……ああそれと。管狐、は少し長くて呼び難いですよね。飯綱と呼んでも構いません。そう呼ばれることもあるので」
「別に長くてもいいけど、じゃあ飯綱って呼ぶね」
「獏は髪が短くなっ……あ、いえ、すみません。詮索になってしまいますね。忘れてください」
管狐は読んでいた本に指を挟み、階段へと移動した。詮索は嫌がる獣も多い。獏はきょとんとし、小首を傾いだ。
(髪が短い……? 僕が長かった頃って、見世物小屋にいた頃? もしかして見られてた……? 人間がうじゃうじゃいて、獣には気付かなかったな……)
だとすれば詮索はしないのが正解だ。引き下がってもらえて良かった。人間に囚われていた屈辱は、口にするのも忌々しい。
或いは、前世の獏なら髪が長かった。今の獏に前世の記憶は無いため、前世で彼と知り合いだったとしても今は知らぬ他人だが。
本に栞を挟んで背後の背の低い棚に置き、ティーカップとチョコレート菓子を台所に下げておく。
程無くして灰色海月は、皺が目立ってきた初老の女を連れて戻って来た。化粧も控え目で飾らない女性だ。
管狐が座っていた簡素な椅子を前に出し、女はそこへ疲れたように腰を下ろした。灰色海月は獏に願い事の手紙を手渡し、いつものように無表情で台所へ入っていく。
「じゃあ早速、願い事を聞こ」
「うちの娘のことなんですが」
「……うん」
女は獏の言葉を遮って発言する。そわそわと落ち着きが無い。人間ではない者を相手に緊張しているのかもしれない。
だがそれを更に遮って発言する気は獏には無い。人間のための説明を人間自身が省こうとしているのだから、獏が気に懸けることではない。
「娘が言うことを聞かないんです。部屋に籠って何をしてるかもわからなくて……心配なんです」
「反抗期ってやつかな? 人間は反抗期とか思春期とか、色々あるんだよね。娘さんは何歳なの?」
反抗期も思春期も少女漫画で読んだ所だ。まるで偶々見た参考書の例題が試験にそのまま出て来たようだ。獣に試験をする機会は無いが。
「二十五歳です。最近は自殺未遂なんかして……少し入院してたんですが、一昨日やっと家に帰ってきたと思ったら口も聞かなくて。もうどうすればいいやら……」
「…………」
子育てに悩む母親だと想像したのだが、どうやら相手は大人らしい。獏は話の方向を転換した。大人の反抗期は読んだ少女漫画には描かれていなかった。
「大人なら心配いらないんじゃないかな? 自殺未遂は心配だろうけど……わっ?」
いつの間に後ろに立っていたのか、階段の陰にいたはずの管狐が獏の肩に手を置いた。
「びっくりした……気配を消すのが上手いね……」
「この願い事、僕が話を聞いてもいいですか?」
「え?」
唐突な申し出に、台所から紅茶を淹れて出て来た灰色海月の足が止まる。
「えっと……手伝うくらいならいいよ。今までも色んな人に手伝ってもらったし。でも全部となるとさすがに僕の仕事が……」
罪人に科された善行を知り合ったばかりの罪人でもない者に任せるのはさすがの獏も躊躇する。
躊躇を汲み取ったのか管狐は強引に獏を階段の陰へ引き摺った。灰色海月も途惑うが、机上に紅茶を置いて二人を待つ。
「……えっとね、僕は罪人だから、人間の願い事を叶えるっていう善行を遣っててね」
「知ってます。それから、あの人間のことも知ってます」
「そうなの? 知り合い?」
「僕を捜していた女性の母親です」
「え! あの人……自殺未遂しちゃったの……?」
「するはずがないです。ですが……獏が記憶を抜いた影響で未来が変わってしまったのかもしれません」
「未来……? 何? どういうこと?」
「先程、宝クジや競馬で当てられると言いましたよね。僕には予知に近い能力があります」
「予知!? 凄い能力があるんだね……。でも……外れた?」
「はい。予知を得るには条件があるので、今は何も見えてません。ですが以前得た予知では、彼女はこんなにすぐに死のうとはしなかった。だから良い人間が見つかると言ったんです」
「あの言葉、根拠があったんだね。只の励ましだと思ってたよ」
「僕の所為で未来が悪い方向へ傾いてしまったのなら、少し気になるじゃないですか」
「今の未来はわかるようになるの?」
「取り憑いた時に、尋ねられたことの周辺ならわかります。但し、質問から遠ざかるほど不鮮明です」
「成程……あの人間に取り憑いたらわかるようになるんだね」
「憑き殺さないと言ってしまったので、取り憑きませんよ」
約束は守る性格らしい。獏とは正反対だ。
「まあでもそういうことなら、一緒に善行しよう。まだ願い事を聞いてないけど」
願い事を聞く前に管狐が肩を叩いてしまったため、獏は持って来た手紙を広げた。
『娘を幸せにしてください』
その一文だけが書かれた手紙に、獏は寒気が走った。
「幸せを祈るって二種類あるよね。一つは相手の望む幸せの方向へ向かうことを祈る。それなら微笑ましいよ。もう一つは相手に自分の描く幸せの方向へ向かわせたくて祈る。他人のために尽くして頑張ってるつもりの人が一番厄介だよ。あの人はどっちかな? 何となく後者っぽいんだよね。聞く耳を持ってくれればいいけど」
獏は封筒に手紙を戻し、席に戻った。周りの棚の瓦落多を見回していた初老の女は獏へ顔を戻す。
「手紙は見ましたか?」
「うん。娘さんを幸せにしてほしいんだよね? 漠然としてるから、もう少し具体的な願いの方が叶え易いんだけど。幸せを感じることって、人によって違うでしょ?」
「具体的……良い人と結婚してくれればいいです。あの子、何もできなくて」
「良い人の定義は?」
「定義? とにかく優しければ」
「漠然としてるね。結婚相手を見つけてほしいの?」
鴟吻が送ってきた少女漫画には結婚のことは描かれていなかった。まだ少ししか読めていないため読んでいない本の中にあるかもしれないが、これから探すのは時間が掛かる。これは獏が想像するしかない。
「良い人がいますか?」
女は喰い付いて身を乗り出すが、獏に人間の知り合いなど数える程しかいない。
「んー……紹介できない人間じゃない人、なら思い付くけど」
「? そうですか。結婚できなくても、自立して幸せだったらそれでいいんです。結婚が一番ですが」
人間ではない者はお呼びではないようだ。紹介はしないが、変転人なら皆、獣に優しい。
「幸せかぁ……娘さんに会ってもいいかな?」
「貴方が結婚相手に? それはちょっと……普通の人がいいんですが」
立候補していないのに振られてしまった。
「ふふ……僕もなる気は無いよ。幸せなんて人それぞれだから、会って色々と確認したいと思ったんだよ」
「変なことをしなければいいです。変なことをしたら警察を呼びます」
「変な人に手紙を出しておいてよく言うね。――それじゃあ、こそっと会いに行くね」
獏は灰色海月に目配せし、彼女は察して頷く。依頼人とは別行動を取って娘に会いに行く。
代価の話をしていないが、今回は管狐が名乗り出たこともあり、獏が叶えるとは限らない。戴くか決まっていない代価の話はしないことにした。折角出した紅茶も、女は口を付けていない。
店を出る二人を見送り、獏は階段の方へ目を遣る。口を尖らせた火男の面が陰からじっと獏を見ていた。
「……飯綱、だよね?」
「僕も顔を晒して行けないので、これを借ります」
「あ、ここにあったお面なんだ? それ」
ここは獏の店だが、何を棚に置いているか獏自身もあまり知らない。
折角あの女の娘から記憶を抜いたのだから、もう一度管狐と顔を合わせるなんてできない。彼女は獏に会ったことは覚えているが、彼の存在はもう記憶に無いのだ。
初老の女を送って戻って来た灰色海月は獏に重い首輪を嵌め、三人は彼女の灰色の傘でくるりと依頼人の家の屋根へ転送する。屋根の上を歩くのは彼女にとってまだ慣れないことだ。獏は動けなくなってしまったその手を軽やかに取る。
人間の街は夜で、多くの者が寝静まる時間だ。獏は人差し指と親指で作った輪を足下へ向け、娘の位置を確認する。
「こっちだね」
獏は触れたものを少し軽くすることができる。手を引かれる灰色海月は軽い足取りで屋根を歩ける。
屋根から下を覗き込むと、窓に明かりがある。それに手を翳し、獏は首を傾げた。
「……あれ? 開かない?」
平素なら触れずに鍵を開けて入れるのだが、微塵も窓が動かない。
「おかしいな……狴犴が何かした?」
「あの釘ではないでしょうか?」
管狐が指差す先に、太い釘が刺さっていた。外ではなく室内の方だ。釘が当たって鍵が開かなくなっている。
「あんな釘は先日は無かったです」
灰色海月も身を乗り出して指摘する。彼女は先日、中の娘に窓を開けてもらったのだ。
「ふぅん……まあいいや。釘だって抜けるんだから」
見えているなら動かすことができる。だが釘は思いのほか深く刺さっていて、歯を喰い縛って踏ん張らなければならないほど固かった。金属の窓枠に刺さっているのだから、金槌で叩くだけでは刺さらないだろう。ドリルで穴を空けて刺している。
「ぐ……ぅ……」
烙印と首輪の所為であまり力が出ない。
少しずつ揺らしながら、時間は掛かったが何とか抜くことができた。釘ではなく捩子だった。
「凄いですね」
「はあ、はぁ……力尽きたかも……」
「本番はこれからですよ」
烙印と首輪で力を制限されているので、獏にできることは少ない。
今度こそ窓を開け、壁に沿うパイプに飛び降りる。三人はこっそりと開けた窓を覗き、カーテンの裾を捲った。
「……え?」
そこには先日の、管狐に恋心を抱く女がいた。だが様子は一変していた。明らかに顔色が悪く、少し窶れている。ベッドの上で虚空を見て、足には玩具の手錠が嵌められ、長い鎖の先はベッドの脚に繋がっていた。
「……二人共。この部屋、何色に見える?」
「色? 壁紙は白ですね」
「床は板張りです。木の色です」
変な質問だと思いながらも二人は部屋に視線を巡らせる。ぬいぐるみや小物の色は様々で、色を一つに絞ることができない。
「じゃあ見えてないんだね。僕には真っ黒に見える」
「黒……?」
「見る前から気配は感じてたんだけど、ここまで酷いとは思わなかった。でも僕以外に見えないんじゃ、そこまで育ってないってことだよね。僕の感じた気配は間違ってない。部屋に悪夢の靄が充満して真っ黒だよ」
「悪夢ですか……。そんな部屋に入って大丈夫ですか?」
「悪夢の恐ろしさがわかるの? 僕が先に入って食べるよ。ちょっと待ってて」
獏は土足で黒い部屋に入り、ベッドに仰向けになって拘束されている女の前で手を振った。黒い靄が邪魔をして、獏からは彼女の顔が見えない。それでも視線は感じた。
「何があったのかは知らないけど、君の悪夢、食べていい?」
「……大丈夫……私は大丈夫です」
「?」
会話が噛み合っていない。発音ははっきりとしているが、声は小さく、少し震えている。まるで譫言だ。悪夢に犯されている所為だろう。
「食べると気分が良くなるよ。放っておくとどんどん君を蝕んでいく。こんなに溜め込んでるのは珍しいんだけど」
「…………」
獏は懐から硝子のような大きな石が付いた短い棒を取り出し、一振りでぴんと伸ばす。それを頭上に翳してくるくると回した。悪夢が見えない三人からは、獏が杖をくるくると回しているようにしか見えない。
杖にはくるくると黒い靄が纏わり付き、まるで黒い綿飴のようだ。獏はふわふわとしたそれを頬張り、甘美な笑みを零した。
「ん……美味しい……食べ放題」
三人には何も無い空気を頬張っているようにしか見えないが、獏は大きな黒い綿飴を美味しそうに口に含んでいる。奇妙な光景だった。
全ての悪夢を食べ終えるまで少し時間を要したが、黒い靄は一欠片も無くなり、部屋が見えるようになった。
もう使わないので杖を仕舞い、今度は女の足に身を屈める。腹が満たされたので食べはしないが、女の足の鎖を噛み切っておく。獏の歯は丈夫だ。金属も食べることができる。
「これで話ができるね。入っていいよ」
ひょっとこ面の管狐が部屋に入ると女は眉を顰めたが、灰色海月が入ると皺が弛緩した。
「たす……助けに来てくれたんですか……?」
先程は『大丈夫』だと言っていたが、悪夢が晴れた御陰で憂鬱な気持ちも薄れた。助けを求めることができるようになった。
「助けるって? 何があったか僕達は把握してないんだけど、何があったの?」
管狐のことは忘れていても、獏に手紙を出したことは覚えている。どんな願い事を書いたかは朧げで思い出せないが、叶えてもらったことは覚えている。獏と灰色海月のことは忘れていない。
女はベッドに倒れたまま動物面を見上げる。窮地に来てくれた獏は御伽噺の王子様のように輝いて見えた。
「……私、窓から落ちたんです。それで……閉じ込められて。……その前から閉じ込められてたようなものなんですが……病院から戻って来たら窓が開けられなくなってて、足に手錠を……」
「あの釘は、君がもう飛び降りないように、だったんだね。それにしても拘束は遣り過ぎな気がするけど」
「ご飯の時とか、トイレとか……お風呂は手錠を外してもらえます。仕事は行けてないですけど」
「体はもう大丈夫なの?」
「大丈夫です。二階なので、落ちてもあんまりダメージが無くて」
「打ち所が悪くなかっただけでしょ? んー……幸せから一番遠い所に追い遣られてる気がするよ」
「幸せ……? ここから出られたら、幸せなのにな……」
「やっぱり齟齬があるね。自分の考える幸せを押し付けようとしてる」
「何の話ですか?」
「君の母親の話」
「……わかりますか?」
「自分が想像する素晴らしいレールの上を走ってほしいんだろうね。でも君はレールの外側に行って、レールの無い道を歩きたがってる。そう見えるんだけど、どう?」
「そ、そうです! 私は自由になりたい……好きな場所に行って、好きな物を食べて、好きな人に会いたいです」
女は虚無を映していた目に光を宿す。悪夢を払い、元の調子を取り戻しつつある。
「死のうとしたわけじゃないんですよ……ただ、外に出たかっただけなんです。足を滑らせただけで……」
「そこも誤解があったんだね」
獏はひょっとこ面を一瞥する。管狐の存在を記憶から消したことで未来が変わったわけではないようだ。だが少し逸れてしまった。
「あの母親こそ拘束すべきでは?」
「ああいうのは捕まえると喧しいよ。外面は取り繕ってるみたいだけど」
「獏。少しの間、家出をさせてみるのはどうでしょうか? 距離を取った方がいいと思うんですが」
「それは僕も思うけど、家出か……前にも家出を助けたことはあるけど、何処かに匿ってくれる人間は……、あ」
一つ思い付き、獏は灰色海月を手招いた。耳打ちされた灰色海月は頷き、下がって灰色の傘をくるりと回して姿を消す。
「あの……これって、願い事ってことになるんですか? 私、また代価を……」
「これは君の願い事じゃないよ。君が幸せになれるって言うなら、願い事は叶ったも同然。歪んだ解釈には歪んだ解釈でいいんだよ」
「? 難しくて、ちょっと……」
「君は代価を払わず、ここから逃げられるってことだよ」
「! う、嬉しい……」
「もし逃げた先でも悪夢を見ることがあったら、僕が食べに行くよ。嫌な記憶がすぐに塗り替えられるかわからないからね。でもあれを耐えた君なら問題無い」
「悪夢はよくわかりませんが……気持ちが軽くなった気がします。ありがとうございます。私……こんなに優しくされたのは初めてで……」
悪夢を食べるのは優しさではなく、美味な餌があるなら獏は飛んで行く。管狐に会った過去が消失したため、獏が彼女の初めての優しい人になってしまった。
「ずっと寝転がったままだけど、立てるかな? 家出するなら荷物を纏めて」
「立てます。暫く寝るしかない生活だったので、起き上がるのを忘れてました。荷物、纏めます」
女は体を起こそうとするが、少し重そうだ。部屋の中で大人しくしてばかりで体が鈍っている。それでも女は大きな鞄に着替えや必要な物を詰め始めた。
「スマホは取り上げられちゃったので、手紙を置いて行きます。何も言わずいなくなったら警察沙汰になりそうなので……」
「そうだね。今クラゲさんに家出先の交渉に行ってもらってるんだけど、君は知らない人の家に寝泊まりとか……平気かな? 歳は近いし同性なんだけど」
「え? そうですね……怖い人じゃなければ……」
「それは大丈夫そう。カフェを開いてる人だから、美味しい御菓子を食べられるかもね」
「か、カフェ……ちょっと楽しみになってきました」
荷物を纏め、手紙を書いている途中で灰色海月は戻って来た。
「どうだった?」
「少し途惑ってましたが、獏の紹介なので快諾してもらえました。でも今は新しい御菓子の試作中なので手が離せないと言ってました。御茶が出せなくても良ければどうぞ、と」
「ふふ。快諾してくれると思ったよ」
獏に人間の知り合いは少ない。数少ない知り合いの中で、何度も協力をしてもらった由芽という女性に今回も協力を仰いだ。彼女は温厚な性格で、兄の由宇も何やかんや気遣ってくれる。
「じゃあクラゲさんは彼女を送ってあげて。僕はこっちを片付ける」
「はい。わかりました」
二人を見送り、獏は存在感の塊のようなひょっとこ面に向き直った。
「……何か質問されるかと思ったけど、全く触れられなかったね」
「記憶が無くなったんですから、怪しいだけの僕なんて寧ろ避けますよ」
「それもそうか……。それで、僕はこのまま善行を続けていいのかな? 君が解決する?」
「そうですね……想像していたより面倒そうなので、続けてください」
「突然手を離された気分だよ」
「拘束されてるなんて思わないじゃないですか」
「それは僕も驚いたけど。娘の幸せじゃなくて、自分の思い描く幸せに括り付けたいみたいだね。どのみちすぐに結果が出る願い事じゃないし、どう言い包めるかな……」
言葉では説得できないだろう。だが叶ったと思ってくれなければ代価は戴けない。初老の女が望む通り娘を結婚させるとしても、また揉めそうだ。ああいう人間はいざ優しいだけの人間を連れて来ても文句を言うだろう。
腕を組んで考える獏とそれを見守るひょっとこ面は、静まる部屋に突然響いた大きな音で現実に引き戻された。
「何してるの!? 早くお風呂に入りなさい!」
願い事の依頼人の声だ。拳で激しくドアを叩く音に、二人は眉を顰める。獏が中にいるとは微塵も考えていないようだ。
応じないという選択肢もあったが、ここで騒ぐと娘の幸せが吹き飛ぶだろう。仕方無く獏はドアを開けた。
「!? え……何で獏が……」
「後日伺うって解釈しちゃったのかな? 娘さんの様子を見に来たんだよ」
「そ、そうですか……」
「娘さんはちゃんと自分の足で立ってるよ。自分の幸せもわかってる。あの人は幸せの方向へ歩いて行ったよ」
「……? 何を言ってるんですか……?」
「これ、娘さんから預かった手紙だよ」
先程彼女が書いていた手紙を差し出し、初老の女は顔を顰めつつも受け取った。
獏を一瞥し、眉を寄せて手紙を開く。そして更に顔を顰めた。
「……誘拐……? 警察を呼びます!」
「あはは。そうきたか」
娘の手紙には、友達の家に暫く泊まる、としか書かれていない。初老の女の捻じ曲がった想像力に感服した。
「仲良しの友達の家に遊びに行っただけでしょ?」
「こんな夜遅くに、玄関を通らずにですか? そんなわけないでしょう!」
「まあ確かに僕が手を貸したけどね。でも送っただけで、友達の所だっていうのは本当だよ」
本当は友達ですらないが、そこは伏せた。余計なことは言わない。言わなくても余計な想像をするのだから。
「友達って誰ですか? 私はこんなに心配してるんですよ? 連絡します」
「君は娘さんの友達を全て知ってるの?」
「当然です」
「新しくできた友達も?」
「唆したんですか?」
「そんなに娘さんを管理してたの? 嫌がるはずだね。あんなに悪夢を吐き出して」
「は? 悪夢……?」
「君は娘さんを苦しめる元凶なんだよ。小さな箱に詰め込んで、押し潰そうとしてる」
「何を言ってるんですか?」
「このままじゃ君は、願い事が叶ったなんて思ってくれそうにないね。やだなぁ、失敗かな? 一応叶えた数の方が多くて優秀なんだけどな」
獏はかくんと首を傾け、口元を上げる。ちっとも嫌だと思っていない風に、くすくすと笑う。
「飯綱、助けてよ」
「以前得た未来で良ければ」
「未来でどうするの?」
「明日、この方は死にます」
「え? 急展開だね」
「足元に気を付けてください」
「足元? ……ふふ、何だろうね。楽しみだね。はっきりしない所は占いみたいだね」
「占い師に取り憑いていた時もあるので。何せ僕の予知は百発百中です」
その末路は言うまでもない。彼が取り憑いた人間は死ぬ。
初老の女は最初は険しい顔をしていたが、徐々に気味悪がって青褪めていった。ここには否定する者がいない。獏と管狐は肯定し合い、女の頭に真実として練り込まれた。
「な……な……は、早く帰って!」
「いいよ。お望み通り、すぐに帰ってあげる。君のその願い事、叶えてあげる」
獏は管狐に目配せし、先に外に出るよう促す。
管狐はとんと背後へ跳び、窓からするりと外に出る。
「君からは……そうだね、『不安』を戴こうかな」
獏は懐から杖を抜き、初老の女へ振った。女は目を見開き後退しようとするが、壁に阻まれた。
「少し大人しくしてね」
眠りへ落ちようとする瞼の隙間を両手で塞ぎ、獏は動物面を外して口付けた。『不安』が無くなれば、娘も生き易くなるだろう。
女はずるりと力を失う。廊下に寝かせ、獏は金色の双眸で見下ろし、人形のような顔を顰める。
(もっと美味しいと思ったんだけど……雑味が多いな)
純粋な不安ではなかったということだろう。比べるものではないが、先程食べた悪夢の方が美味だった。
獏は詰まらなさそうに動物面を被り、管狐を追って窓を飛び出す。ひょっとこ面が家の前から見上げていた。
「終わったよ。助けてくれてありがと」
「いえ、礼には及びません。明日死ぬ予知は嘘なので」
「そうなの? 自棄に突然だと思ったけど」
「狐は化かすのが得意ですから。ですが、ああいう方は思い込みで自滅してしまうかもしれませんね」
「ああ……でも『不安』を食べたから生きてそうだよ」
「不安を? 不思議な力ですね」
「君の予知も不思議だよ」
「そうですか? 先程逃がした彼女の未来がわかっていたのは、以前憑いていた人が親戚だったからですよ」
「え? 屋敷に住んでたって人? 親戚だったの?」
「はい。親御さんとは顔見知りですが、娘のあの人とは面識が無かった。だから親戚だと知らなかった」
「繋がりがあったとは……だから昔、一人でいた彼女に声を掛けたんだね」
「そうですね」
二人は苦笑し、先に小さな街へ戻るよう指示をした灰色海月を待たせないよう管狐の杖でくるりと牢へ戻った。
縁に従って気紛れに紐を手繰った所為で、切っても紐が絡み付いてくる。縁とは巻き付く物を探す植物の蔓のようだ。




