216-慰霊祭
第一幕と第二幕を読んでいると理解できる部分があります。
古い革張りの椅子に凭れ、獏は動物面を机上に向けてきょとんとしていた。
机上には灰色海月が並べた黒い布と、宵街で見られる酸漿提灯を小型にした物がある。
彼女はその内の黒い布を広げて見せた。フードが付いていて、脹脛ほどの丈のゆったりとした外套だ。
「これは……何?」
「狻猊さんが拵えたマントです。これを羽織って、こちらのヴェールで顔を隠し、この小さな提灯を持って宵街を闊歩するそうです」
黒い花の装飾が付いたヴェールを手に取り、灰色海月は自分の頭に載せる。ヴェールが顔に掛かると目鼻の影すら見えない。
小型の酸漿提灯は短い竿に括り付けられている。獏は竿を手に取り、ぶら下がる赤い酸漿提灯を足元にいた黒猫と白黒猫の頭上に翳して揺らした。
猫達はじっと提灯を見詰め、狙いを定めて手を伸ばし跳び掛かる。獏は提灯をひょいと上げ、猫達に触れさせない。
「何のために?」
「盂蘭盆というものをするそうです。昨年は渾沌の一件で多数が死に、今年も花街の獣に殺されてしまった人がいます。多くの変転人が死んでしまって、初めての夏ということもあり、盂蘭盆というものを開催することにしたそうです。夏は特別なんでしょうか?」
「ああ、御盆か。つまり慰霊をするんだね。夏なのは人間の都合でしょ? 冬の御正月、夏の御盆。人間みたいなことをするんだね。誰が言い出したの? 勘だけど、狴犴は言い出さないと思うんだよね」
猫達の頭上で提灯を振りながら獏は推測を述べる。狴犴のことなどわかりたくないが、統治者との付き合いも長くなってきた。勘くらいは働く。
「有色の変転人の中にはまだ落ち込んでる方がいます。無色もたくさん死んでしまったので無色の方も気にしてます。なので一つの区切りと心の整理のために盂蘭盆をしようと、贔屓さんが言い出しました」
「贔屓かぁ。贔屓はずっと人間の街に棲んでるから、人間に感化されたのかな」
「正確には人間の御盆とは違うみたいですが。宵街式の御盆です。獏も渾沌や花街の件に関わったので参加許可が出ました。ヴェールで顔を隠して獣も変転人も誰だかわからなくなるので、貴方もお面を外してください。付けてると鼻で誰かわかってしまいます」
「おや、罪人まで声が掛かるなんて。そういうことなら参加してもいいよ。皆同じ格好をして誰が誰だかわからないなんて面白そう。死者もこっそり紛れ込んでるかもね」
提灯を机上に置き、ゆったりとした黒い外套を羽織る。体がすっぽりと覆われ、体格もわからない。動物面を外して花飾りの付いた黒いヴェールを頭から被り、灰色海月を見てみる。視界が真っ黒で何も見えないのではないのかと思ったが、存外見えるものだ。サングラスを掛けた時と変わらない。
「クラゲさんから僕の顔は見えないの?」
「全く見えません」
「それなら安心だね」
「貴方の首輪は目立つので、今回だけ特別に質素な首輪を貰いました」
「質素な首輪……?」
いつもは肩が凝る大きくて重くて冷たい金属製の首輪を付けるが、灰色海月が取り出したのは革製の細い首輪だった。それに長い紐が付いている。
「誰が誰だかわからなくなっても、私は貴方を見失うわけにはいきません。これを付けて、紐を持ってたら安心です」
「……ペットの散歩?」
人間の街で犬を散歩させている人を見たことがある。犬はこんな物を付けられて自由を奪われていた。
「では行きましょう。点灯に間に合わなくなってしまいます」
「今から!?」
「罪人には余裕を持って知らされないんです」
「そんなことだろうと思ったよ。こんな急に言われて、善行中だったらどうするの?」
「その時は善行を優先します。盂蘭盆のために善行をやめるなんてことが無いように、ギリギリ直前に知らされるんです」
「合点が行ったよ」
慰霊祭をするなんて言われたら、人間の願い事なんて蹴っていただろう。さすが狴犴だ。罪人のことをよくわかっている。
外套とフード、ヴェールで真っ黒になり、更に黒い手袋を嵌める。爪の色で獣か無色か有色か、察しが付いてしまうからだ。
「私は転送しないといけないので、手袋は後です」
灰色海月も外套を羽織ってフードとヴェールを被る。準備は万端だ。
「飯綱は? 置いて行っていいの?」
「首輪の様子見が終わってないので、置いて行っていいです」
「そっか。首輪の具合が悪かったら病を撒いちゃうかもしれないもんね」
獏は小型の酸漿提灯を持ち、硝子の鉢に泳ぐ二匹の金魚にも見せてやる。金魚達は提灯に見向きもしない。
「他に準備することはある?」
「胃です」
「胃!? ……どういうこと?」
「食べ物があります」
「ああ……それは楽しみだね」
獏は灰色海月の分の提灯も持ち、首輪の紐を引かれて店を出た。盂蘭盆という言葉は知っていても、何をする行事なのかはよく知らない。しかも宵街式だ。
灰色海月は灰色の傘をくるりと回して転送し、一瞬で暗い宵街の下層、四角い箱を積んだような石壁に挟まれた長い石段に降り立つ。
場の空気を壊さないために、灰色海月は素早く傘を仕舞って黒い手袋で覆う。獏から一つ提灯を受け取り、辺りを見渡した。
足元の石段の隅には一段ずつ全てに立方体の硝子が並んでいる。中には何も入っていない。空洞だ。建物の石壁にも吊り下げられた空っぽの硝子玉が散見される。両手に載るくらいの大きさでシャボン玉のようだ。
「ねぇ、手持ち提灯はどうやって明かりを点けるの?」
「待ってると点くそうです」
宵の空はいつもより暗く、石段に並ぶ酸漿提灯の明かりも暗く見える。それは気の所為ではなかった。
暗い路地の奥から衣擦れの音がする。其処彼処に人が潜んでいる気配がある。黒い外套と黒いヴェールは全ての者を闇に溶け込ませる。
待つと言ってもどれくらい待てば良いのか。遣ることも無いので辺りを見渡す。
そう長くは待たない内に、静寂の宵街に突然腹を震わせる澄んだ鐘の音が一つ鳴り響いた。石段の上の方から聴こえ、暗い上層に視線が注がれる。
それを合図にするかのように、足元の立方体、壁の硝子玉、そして手持ちの提灯に一斉に光が灯った。
「わあ」
火のように揺らぐ光の玉が突然現れた。闇に光が浮かび、静かだった方々から歓声が上がる。正月の花火は派手だが、盂蘭盆の控えめで静謐な灯火は、ざわめく心を落ち着かせてくれる。
「これは絶対、獣の仕業だよね。誰だろ?」
「水を差さないでください。野暮です」
「ご、ごめん」
光が灯ると衣擦れの正体も見えてくる。あちこちにふわふわと黒い外套を靡かせる人がいる。皆同じ外套を羽織り、フードとヴェールを被り、小さな酸漿提灯を持っている。誰が誰だかわからない。
「……あの人、何で紐で繋がれてるの?」
「さあ……飼われてるのかな?」
ひそひそと声を潜めた会話が耳に入る。誰だかわからないが、どう考えても獏のことを話している。やはり紐を繋いでいると目立つ。
「……散歩紐以外の選択肢は無かったの?」
「これを渡されたので付けただけです」
「そう……」
罪人なので文句は言えないが、これを見た人からは漏れなく変な人だと思われそうだ。幸い顔は隠れているが。
「後は何をするの? 立ってるだけ?」
「胃を使います」
「そうだった」
灰色海月に紐を引かれ、獏はわくわくと丸い灯火の浮かぶ細い路地の茂みに入る。背中にひそひそと散歩紐の話題が刺さる。
正月の時には露店が並ぶ小さな広場には、今は露店は無かったが机が置かれていた。湯呑みやティーカップ、様々な小さな器が並んでいる。そこに黒服が群がり、自由に一つずつ器を持って行く。不思議な光景である。
灰色海月と獏もそれに倣って一つずつ器とフォークを取った。
「美味しそう!」
器には白い素麺が入っていた。半分に切られた小さなトマトと千切りの胡瓜が彩りを添えている。
「これは人間の御盆を真似てるそうです。殺生をしてはいけないため、お肉は食べないそうです。別の広場には御萩もあるそうで」
「お肉は駄目なんだねぇ。肉食の獣は来てないんだろうね」
「肉食の獣がトラウマになってる方もいるので……」
安全だと思っていた宵街で変転人が食べられたこともあった。トラウマになって当然だ。肉食の獣を呼ばないためにも、人間の盆を真似て肉を出さないように決めたのだろう。
獏は早速フォークで素麺を掬った。ひんやりと美味しい。こんなに大勢で立食なんて初めてだ。きっと普通の只の素麺なのだろうが、特別な味がした。
各々相手を知ってか知らずか偶々隣にいた人と喋っている。立ったまま食べる人、椅子や地面、屋根に座っている人もいる。
宵街は過疎が進む街だ。小さな広場でもゆとりがある。一つの食べ物に群がっているが窮屈さは無い。黒服の隙間から光がちらほらと見える。
その隙間にふわりと音を立てず、屋根に座っていた黒服が飛び降りた。人の間をくるくると縫い、獏に接近する。
その黒服は自分の器を差し出し、獏の目の前で中身をフォークで掬い上げた。
「……え、何?」
「見て、当たり」
「当たり……?」
何が当たりなのかと素麺に目を凝らす。白い素麺に混ざってピンク色の素麺が一本絡んでいる。
「色付きは当たりだ」
「へぇ、そうなんだ。僕のには入ってないなぁ」
「獏にもあげない」
黒服は器を引っ込め、またくるくると人の間を縫って去って行った。
「……僕が誰だかバレてるんだけど」
首輪が小さくなっても、知っている者が見れば獏だとわかる。紐で繋がれているなど如何にも連行される罪人だ。
「今の誰? ピンクの素麺を自慢しに来ただけ?」
名前を知っているのだから知り合いであることは確かだが、当然顔はわからない。ピンク色の素麺を自慢しに来そうな人など限られるが。
獏は自分の素麺を平らげ周囲を観察する。周辺の会話から、ピンク色の他に緑色の素麺もあるらしいことがわかった。
「獏」
足元からひょこりと、両手に一つずつ器を持った黒服が現れた。先程の黒服より背が低い。黒服は器の一つを獏の空になった器に傾ける。素麺を移し、黒服は逃げるように去って行った。
「え、今のは本当に誰!? わんこ蕎麦みたいなこと……あっ、緑の素麺! ……くれたってこと?」
白い素麺の中に一本だけ緑色が混ざっている。当たりとは言うが、数はそれなりにあるようだ。
「人気者ですね」
「貰っておくけど……当たりだし」
名前を呼ばれたのだから知り合いなのだろうが、誰なのかさっぱりわからない。誰なのかわからないのを良いことにちょっとした悪戯をしてくる。
「驚かせたり悪戯をしてもいいの? それだとハロウィンみたいだけど」
「怪我をさせたり不快な思いをさせないなら、自由に喋っていいです」
参加の許可は下りているのだ、罪人だろうと会話は禁止されていない。
驚かされてばかりの獏は今度はこちらから驚かせてやろうと広場の端に寄り、手近にいた黒服の肩を叩いてみた。相手は誰でも良い。ただ知らない人に肩を叩かれて驚く所が見たいだけだ。
「!」
知らない黒服は振り返って驚いたようだったが、獏の首輪と紐を見て何かを納得したようだった。
「もしかして獏様ですか?」
「あれ? わかるの?」
「いつもより小さいですけど、首輪をしてるので……」
やはり首輪と紐が目立ち過ぎる。獣に『様』を付けるのだから有色の変転人だろうが、偶然肩を叩いただけなのに知り合いに当たるとは思わなかった。宵街は狭過ぎる。
「君は誰?」
「あ、あれ!? わかって肩を叩いたんじゃないんですか?」
「僕はわかりやすいみたいだけど、他の人なんて皆同じだよ」
「あ、ああ……獣様にはわかるのかと思ってしまいました……」
「それで、君は誰?」
「自分で名乗るのは禁止ですよ」
「え?」
獏は確認のために灰色海月を振り返り、彼女は頷く。
「名前を呼ぶのはいいですが、自分から答えを明かすのは駄目です。名前を呼ばれて返事をするのはいいです」
「そうなの? まあここまで身を隠すんだから、名乗るのも水を差すことになるか……」
「死者が紛れるためです」
「うーん……でも幽霊なんていないでしょ?」
「水を差さないでください。貴方も言ったことです」
「ごめん……」
その遣り取りに、誰だかわからない黒服は笑い出した。隣にいた黒服二人も釣られて笑う。
「幽霊は誰も見たことがないですよね。出て来たら誰かわかるといいんですけど。変転人は元は人じゃないので、植物の姿なんかで出て来るとわかりませんよね」
「あ、確かに」
変転人は元は人ではない。植物や虫など、人ではない生物に獣が人の姿を与えて作ったものだ。幽霊として出現するなら人の姿なのかその前の小さな生物の姿なのか。もし後者なら足元に注意しなければならない。
「獏様は怪しい人に会いましたか?」
「誰だかわからない人に揶揄われた気はするけど」
「幽霊ですかね?」
「幽霊にしては生気が溢れてたよ」
「あはは。やっぱりいないですよね。いたら……会いたい人はいますけど」
黒服は隣の二人と顔を合わせる。三人は互いに誰だかわかっているようだ。
隣にいた一人は黒い手を出し、徐ろに指を差す。
「獏様。向こうの広場には行きましたか?」
「まだだよ」
「向こうには私達が作った御萩と御団子があるんです。螭様に習って大量に。最低でも宵街の変転人全員分は作らないといけないので、螭様だけでは手が足りなくて」
「美味しいから食べてみてください! 今もまだ無意識に団子を丸める動作をしてしまうくらい作ったので」
「ベニは撮み食いも多かったから味の感想は確かですよ」
「ちょっとナナ!」
名前を呼び合ったことで獏も漸く誰と話しているかわかった。紅花と薺だ。ということは後一人はおそらく大犬陰嚢だ。
「ベニは相変わらずだね」
「トミーまで……。あ、トミーは御萩も御団子も作ってないですよ。ナナはカフェを遣ってるから御菓子作りも慣れてるだろうって声が掛かったんです。私はお手伝いです」
「普段作ってるのは洋菓子ですけど」
三人は笑い、釣られて獏も笑う。和やかな空気だ。慰霊祭だとは言うが暗い雰囲気は無く、皆の空気は明るい。変転人が多く死んで落ち込んでいると言うが、悪夢を纏っている人もいない。
(僕の参加が許可されたのって、もしかして悪夢が発生してないか確認させるためなのかな)
あれこれそれらしい理由を付けても、結局は感情ではなく狴犴も納得が行く合理的な理由がある。それでも慰霊祭に参加できたことに獏は感謝する。獏の知人の中にも死んでしまった人がいるからだ。
「御萩と御団子の方に行ってみるよ。御邪魔してごめんね」
「いえ! この盂蘭盆は粛々とするんじゃなくて、楽しむものだって獣様が言ってました。死者も笑えるようにって。獏様も楽しんでください」
「うん、ありがと」
獏は胸の前で手を振り、灰色海月は頭を下げて次の広場に向かう。
それと入れ違いに素麺の器を持った黒服が一人、彼女達に近付いた。
「今の散歩させられてる人、誰?」
「え? 貴方、誰?」
「最悪な名前の友達だよ。素麺を取りに行ってた」
「あれ? トミー……? じゃあこっちの人は……?」
紅花と薺は振り向くが、先程までそこで共に笑っていた黒服がいなくなっていた。紅花と薺は大犬陰嚢がいつ席を外したのか知らないが、彼女が戻って来るまで会話は破綻していなかった。紅花のことも薺のこともよく知っている人物のようだった。
いなくなった黒服が最後に言っていた言葉を思い出す。――『ベニは相変わらずだね』
「まさか……ワラビー……?」
蕨は紅花の目の前で獣に殺された。紅花は暫くの間、虚ろに鬱ぎ込んでいた。最近漸く元の生活に戻れた所だった。
誰もいない空間に、確かめるように手を伸ばす。黒い手は何も触れられない。
「ワラビーなの? ――ねえ! 待ってよ! 待って……行かないで! ワラビー!」
「ベニ……? 落ち着いて、ベニ」
薺も消えた黒服が気になるが、冷静に紅花の肩を叩く。体格も顔もわからない黒服は蕨だったと言うこともできるが、彼女は死んだのだ。
「ねえ! 今ここにいたよね!? ワラビーだよね!?」
「落ち着いて! 蕨はもう……」
「いたよねぇ……会いに来てくれたんだよね……? ワラビーだったよね!?」
紅花は縋るように、彼女に尋ねても途惑わせるだけなのに止まらなかった。黒いヴェールからぼろぼろと、提灯に照らされた光の粒が落ちていく。
蕨は彼女と一番仲の良い友達だった。それを知っている薺は紅花を抱き締め、あやすように背中を摩る。蕨と交流の無かった大犬陰嚢は掛ける言葉も思い付かず心配そうに見守る。
「うん……きっと蕨だよ……」
顔の見えない黒服は誰が中にいるかわからない。薺も認めることにした。否定してしまえば、紅花がもっと悲しむ。
あれは蕨だった。一番長く同じ時間を過ごした彼女が言うのだから、きっとそうなのだ。
御萩と団子が振る舞われているらしい小さな広場にも黒服が集まっていた。
素麺の広場と同じように机が置かれ、大皿に食べきれない程の御萩と団子の山ができている。
獏は早速大きな御萩を一つ手に取る。灰色海月も初めての御萩を手に取り、獏を窺う。
「御萩はね、小豆餡で餅米を包んであるんだよ」
「真っ黒焦げです」
「焦げじゃないよ」
獏が一口齧って見せると、灰色海月も恐る恐る口に運んだ。しっとりと柔らかくもちもちと、餡も米も粒が舌に当たる。
「甘いです。苦くないです」
「ふふ。だから焦げてるんじゃないってば」
黒服は思い思いに談笑し、御萩に団子にと頬張っている。故人の話題で盛り上がる者もいれば、知人に死者がいないことを安堵する者もいる。全員が親しい者を失ったわけではなく、それでも両方が楽しめるように設計されている。
「宵街式って誰が考えたんだろ。絶対、狴犴じゃないよね」
「贔屓さんだそうです」
「言い出しっぺだね。贔屓はよく人間を見てるからねぇ」
「昔、蝋燭を並べて同じことをしたそうで。その時は粛々と死を悼んでいたようです」
「そうだね。獣には墓を作る習慣が無いから、気持ちの整理と区切りが付かなくてね」
後ろからぽんと肩を叩かれ、獏は御萩を咥えたまま振り向いた。誰だかわからない黒服が微笑んだ。
「獣は死ねば化生する。化生すれば死骸は消える。だから墓に遺しておくことはできない。それが余りに当然のことで、他人の死を悼む気持ちが欠如していた。だが変転人は違う。それに気付いて、慰霊祭を行うことにしたんだ。死体は処理してしまっているから後から墓は作れない。当時は人間の戦に巻き込まれたり斬り捨てられたりと命を落とす無色の変転人が多くてね。あの頃の人間は帯刀していたから、好奇心で近付くなと言っていたんだが」
「これ絶対贔屓だ」
「フ……これ呼ばわりとは心外だな」
「贔屓が統治してた頃の話だよね?」
「そうだよ。粛々と慰霊祭を行うと暗い空気になってしまってね……毎日通夜のようだった。獣から陰気だと苦情が出ていた」
「それで明るくしたんだね」
「今回は皆楽しそうで安心したよ。宵街に棲む獣の数は減ってしまったが、罪人も楽しめるなら成功だな。だが泣きたい人もいるだろう。泣き顔はヴェールが隠してくれるから、存分に泣くこともできる」
「この散歩紐も……贔屓が?」
「鎖だと物々しくて変転人を警戒させてしまうから紐にしたんだが。僕が言い出したことではないが」
「じゃあ狴犴か……」
「フ。じゃあ楽しんで」
贔屓は踵を返し、黒服の中に紛れる。一度見失うともう誰だかわからない。
「食べてばかりだと喉が渇いてきたね」
「あちらに飲み物があります」
灰色海月が指差す先にペットボトルが並んでいた。自分で好きな飲み物を選んで注ぐようだ。
「どれにしますか?」
「飲み慣れた紅茶かなぁ」
獏は普段紅茶に砂糖は入れないが、ペットボトルの紅茶はどれも甘い物だった。砂糖を入れないというだけで嫌いなわけではない獏は珍しそうに、灰色海月が注いだ甘い紅茶を飲む。甘い菓子を食べながら甘い紅茶を飲むと贅沢な気分になる。
喉を潤してもう一度大皿の前へ行き、今度は団子を器に盛った。焼き目の付いた白い団子だ。
「……ん?」
石壁の方に寄ろうとし、細い路地の向こうに小さな提灯の明かりが見えた。
「人の中に入って行けない人かな?」
食べ物は山盛りでまだまだあるが、その周りには黒服が群がっている。控えめな性格だとその中に入れないのかもしれない。獏は何故だかそのぽつんとした黒服が気になってしまった。
誰だかわからない黒服のためにもう一つ器に団子を盛り、獏は賑やかな広場を離れた。灰色海月は不思議そうに紐を握って付いて行く。
蔦の絡む細い路地の奥に石の長椅子が設置されている。長椅子は慰霊祭のために設置された物ではなく、宵街を歩いていると偶に目にする。椅子として使用したり、植木鉢を置いている所もある。
椅子に座る黒服の周りには誰もいない。提灯の竿を持ち、何をするでもなくただ座っている。
「君、一人? 皆の所には行かないの?」
「…………」
声を掛けられるとは思っていなかったのだろう。黒服は置物のように暫く動かなかった。
置物の振りをしていても獏は去らない。黒服は思い出したかのように、黒いヴェールに隠れた顔を上げた。無視をしていれば去るとでも思ったのかもしれないが、獏は去ろうとしない。
「……ここで眺めてるだけで充分です」
「そう?」
「貴方は散歩ですか?」
紐がある所為で含みのある言葉だ。人も散歩をするが、今はペットだと言われている気分だ。
「隣、いい?」
「……御好きに」
「御団子、いる? 甘くて美味しいよ。あげるね」
遠慮されそうな気がして、獏は少々強引に黒服の手に器を持たせた。黒服の表情は見えないが、迷惑そうな顔をしている雰囲気がする。
「僕のこと、誰だかわかる?」
「?」
不思議な質問に、黒服は怪訝な顔をした。
「良かった。偶然とは言え知り合いばっかりなのかと思ったよ。やっと僕を知らない人に会えた」
「知ってますよ」
「え!? ……いや……知ってる振りかも……」
黒服の口からはまだ『獏』の名前が出ていない。揶揄おうとしているだけかもしれない。顔も姿も見えないことで、皆遣りたい放題だ。
路地の隙間から見える遠い殷賑を眺める黒服を注視するが、どれだけ見てもヴェールから透けては見えない。頭髪の色もわからない。
「何か用ですか?」
「用ってわけじゃないんだけど……気になって」
「得意の御節介ですか?」
「そんなに御節介かな? 僕」
黒服は無言で獏を一瞥し、仄かに笑った。馬鹿にしたわけではなく、何処か懐かしむような笑みだった。
暫く沈黙が流れ、獏は自分の団子を串で突いて頬張る。黒服は団子に手を付けようとしない。
「……不甲斐無いです」
「ん?」
「鏡を見てるように感じる所もあるんですが……任せてもいいですか?」
「え、何を?」
「慰霊祭の最後に送り火をするそうです。参加者は祈る以外することは無いんですが」
少し話が噛み合わないが、返事が聞きたいのではなく、話したいことがあるのだろう。慰霊祭の空気は特殊だ。獏は穏やかに耳を傾けることにした。
「へぇ、祈ればいいの?」
「提灯の明かりが一斉に空に昇るそうです」
「それは星みたいに綺麗だろうね。楽しみ」
「……ですが、死者の提灯の明かりは昇らず、萎んで消えてしまいます」
「え……?」
「それが見つからないよう、死者は送り火の前に消えるでしょう。忘れて楽しむ死者もいるかもしれませんが」
「それって……死者が紛れてるってこと……?」
獏は目を瞬き、喰い入るように黒服を見詰めた。黒服は目を逸らし、提灯の明かりに目を落とす。
「……なんて、冗談です」
「えぇ……今日は揶揄われてばっかりだなぁ……」
「そんなに揶揄われたんですか?」
「僕のことはすぐにわかるみたいだけど、僕は誰だかわからないからね。皆同じ格好なんだから。獣は悪戯好きな人が多いからこういう行事でここぞと悪戯するのはわかるけど、変転人も悪戯してる気がするよ」
「悪戯ですか。縁遠い言葉です」
「君も冗談を言ってるんだから悪戯してるようなものでしょ。まあ……誰も傷付かないならいいけど」
獏は頬を膨らませるが、悪戯を怒る気は無い。こんな日に怒るなんて、それこそ水を差すことになる。
「してますか? 貴方は相変わらず、罪人なのに人柄だけは及第点ですね」
黒服は何処か寂しそうに笑う。適当に流していた獏はふと黒服の言葉が一つ、引っ掛かった。
言葉を頭の中で反芻し、獏ははっと目を丸くする。
「え……!? 君……」
驚いて立ち上がった時、路地の向こうの殷賑から声が聞こえた。一人の黒服が向かってくる。
「首輪と紐……獏とクラゲですね」
「御名答です」
獏が答えるより先に灰色海月が答えた。
一瞬そちらに気を取られた隙に、椅子に座っていた黒服はいなくなってしまった。
「その呼び方にその長身は……スミレさん?」
「当たりです」
「スミレさん、ここに座ってた人、何処に行った!?」
「誰かいましたか? 暗くてよく……」
「じゃ、じゃあ、マキさんは……?」
「マキに用があるんですか? マキは主催側なので、遅れて参加すると聞きましたが。今はまだ科刑所にいるんじゃないでしょうか」
「じゃあ……今のって、誰……?」
「すみません、俺が声を掛けたから逃げられましたか? 探します」
「それはいいんだけど……僕のことを罪人って言うのはマキさんだけだから……」
細い道の左右に首を振るが、人影も提灯の明かりも見えない。所々に明かりの灯った硝子玉があるだけだ。
「マキさん……だったのかな」
彼だと思うと言葉の一つ一つがしっくりと来た。
(任せても……って、前にマキさんが悪夢を見たって僕の所に来た時にクラゲさんが言ってた言葉を思い出す。わざわざ言いに来てくれたのかな……)
「……死者が紛れていたのかもしれませんね。ここに来る途中に幾つか、故人の気配を感じたと言う声を聞きました。少し混乱も起こってます。本当にいるなら俺も会ってみたかったですが……まだ近くにいるんでしょうか?」
「わからない……。マキさんが科刑所にいると見せ掛けてこっそり下層に来て驚かせようとしてるんじゃなければ」
「そんなことしますかね? あのマキが」
「だよね……」
あの黒服は結局、獏が持って来た団子を食べなかった。幽霊だったのなら、食べられないのかもしれない。
「もっと早く気付いてたら、もっと色々話したかったのにな……」
「向こうは貴方が獏だと気付いてたんですよね? もし本当にマキだったら……言いたいことは言ったんじゃないですか?」
「…………」
獏は金色の目に揺らぐ提灯の灯りを映し、ふふと笑った。行動の早い彼らしく、去るのも早い。
「そうかも」
手の付けていない団子は黒葉菫に差し出し、三人は石の椅子に座って団子を食べた。中には何も入っていない団子だが、ほんのりと甘い。
「……所で、何で団子に何も付けてないんですか?」
「え?」
「トッピングがありましたよね? 御手洗や黄粉が」
「え!? 人集りで見えてなかった!」
「このままでも美味しいですが」
「まさかトッピングが無かったから食べてもらえなかった……?」
「可能性は無くは無いですが……」
獏は大きく首を傾げ、団子を頬張る。味が無ければ変だと気付いただろうが、仄かに甘いのだからこんな物だと納得してしまった。
もくもくと団子を食べ、路地の向こうの殷賑を眺め、月も星も無い暗い空を見上げる。輪の中に入らない先程の黒服の気持ちもわかる。静かに平穏を感じたい時もある。
「こんな所で何をしてるんですか?」
また一人、黒服が路地に遣って来た。手に素麺の器を持っている。
「これは知り合いの予感」
「当てられますか?」
「ん、んー……そこの人、何か喋って」
「何なんですか?」
素麺を持った黒服は首を傾げ、黒服の中身を言い当てる遊びをしているのだと察した。会話で情報を得て正解を探そうと言うのだ。黒服は三人に順に人差し指を向けた。
「獏、クラゲ、スミレですね」
「わ、凄い! 何でわかったの?」
「首輪と紐で嫌でもわかります。スミレは靴です」
「靴?」
視線を落とし、一斉に各々の靴を見た。体は外套で覆い、頭や顔にはフードとヴェールを被り、爪は手袋で隠しているが、靴には指定された共通の物が無い。外套は脹脛辺りの丈だ。靴は見えている。
「盲点だ……君の靴は白だね。白でその身長……今度こそマキさん!」
「今度こそ? 誰かと間違えましたか?」
「今まで何処にいたの?」
「科刑所で仕事をしてました。もう少しするつもりだったんですが、狴犴に行ってこいと言われたので。この雰囲気を体験してこいと。この誰が誰だかわからない中で度を越した悪さをしないか見張れと言っているのではないかと、見回っていた所です」
「普通に楽しんでこいって意味だと思うけどなぁ」
黒葉菫の言う通り、白花苧環は科刑所にいたようだ。それならやはり先程の黒服は彼ではない。……前世の霊でなければ。
幾ら考えてもあの黒服はもういない。答えはわからず終いだ。
怪訝な顔をする白花苧環も加わり、生者の四人は慰霊祭の食事を楽しんだ。灰色海月と白花苧環は初めて食べる物ばかりで、珍しそうに観察して口に入れる。その様が少し可笑しい。まるで変な物でも入っていないかと見定めているかのようだ。
「そろそろ送り火の時間ですね。点灯の時は上から見てましたが、下から眺めるのも楽し……いえ楽しんでません」
白花苧環はまだ仕事中のつもりなので慌てて訂正する。狴犴はそんなつもりはないだろう。彼にも楽しんでもらうために科刑所を追い出したのだから。
或いは――この慰霊祭の中で白花苧環を見ていると前世の彼を思い出してしまうから、遠ざけたのかもしれない。
「送り火も僕達は何もしなくていいんだよね? 提灯の明かりが昇るの、楽しみだね」
「誰から聞いたんですか? 鐘を合図にすることは周知させましたが、具体的な内容は主催しか知らないはずなんですが……」
「え?」
「明かりが昇ることはまだ秘密ですよ」
主催は白花苧環以外は獣である。口を滑らせた獣を責めることはできないため、白花苧環は獏に釘を刺すだけに留める。
点灯と同じく、澄んだ鐘の音が唐突に鳴り響いた。その音で宵街は厳粛に沈黙した。
鐘が鳴ったら静かに。そう言い聞かされていた。
「――星の降る空の狭きに 祈るさいごのおもい風の音 君を覆い隠す葉は いつかそっと流れてゆく――」
暗い空を背に屋根の上に立ち上がった一人の黒服が、寂しくも優しい声で歌い始めた。鐘よりも澄んだ声はしんとした空気を真っ直ぐ照らすように通り、束の間の雪のように溶けてゆく。
(これはわかる。蒲牢の歌だ。ピンクの素麺を自慢しに来たのも蒲牢だと思うけど……これが同じ人なんだよね)
贔屓が統治していた頃に蒲牢はよく歌っていたが、宵街を去ってからもう何百年も経つ。その当時の変転人は誰もいない。今生きている変転人の殆どは彼の歌を初めて聴く。元制裁者であり研究所の妖精と言われていた蒲牢の歌声は、それを聴く全員の意識を惹き付けた。
人々が持つ小さな酸漿提灯の光が揺らぎ、溶けるように提灯から染み出し再び光の玉となる。それが無数に空に昇っていく。
宵街の空に星が無いのはこのためかと納得しそうになる程に、揺らぐ温かい光の玉は星のように美しく頭上に輝いた。
沈黙していた宵街は呆然と光を見送り、やがて歓声が上がる。皆頭上を見上げ、手元の提灯を最後まで見ている者はいなかった。提灯の中で静かに光が萎む所は誰も見なかった。
「――あれ? マキさんの提灯、変じゃない?」
「……?」
皆の提灯の光は空に昇ったが、白花苧環の提灯だけ光が外に出られないようだった。半分ほどは外に染み出したが、小さくなった光は消えるでもなく未だ灯っている。
「不具合でしょうか? 短期間に急いで制作したので。狻猊に報告しておきます」
提灯の中で揺らぐ小さな光はまるで囚われて抜け出せないようにも見える。
「送り火が終わってもまだ食べて歓談していていいので。オレは工房に行ってきます」
白花苧環は忙しなく駆けて行き、食べ物も無くなって手持ち無沙汰の獏も席を立った。
「まだ食べていいなら、食べに行こ」
「はい」
「俺はここにいます。マキが戻って来るかもしれないので」
「じゃあ僕がスミレさんの分も持って来るね」
「いえ、御気遣い……」
最後まで言わせず、獏は紐を引いて黒服の中に溶けていった。先に走る犬に引っ張られる飼い主のように灰色海月も付いて行く。
(マキさんの悪夢は自分との対話だと思ってたけど、あの提灯の光……もしかしたらマキさんの中にまだ前世の彼がいるのかな?)
そんなわけがない。只の偶然だろう。
獏は彼の分の御萩も皿に載せ、誰だかわからない黒服に勝手に青海苔を掛けられて路地の奥へ戻った。
光が昇っても、慰霊祭の夜はまだまだ終わらないようだ。




