217-知らぬが仏
平素、静寂に包まれる誰もいない常夜の透明な街に、新たな願い事を提げた人間が遣って来た。
薄暗い橙色の照明に照らされた背の高い置棚が並ぶ店内には、人間ではない者が静かに待っている。
老年の男は用意された座り心地の悪い簡素な椅子に顔を顰めながら腰掛け、対面の巫山戯たマレーバクの動物面を睨んだ。
「家の塀を直してくれ」
「塀……?」
動物面はきょとんとする。あまりに簡潔な願い事だ。
「トラックが突っ込んできやがったんだ」
「えっと……そういうのは、人間の業者が修理できるんじゃないの? それとも特殊な壁?」
珍しい願い事に獏も困惑した。わざわざ人間ではない得体の知れない獣に、自分の一部を削ってまで頼む仕事ではない。
「金が掛かるだろ! お前はタダで遣ってくれるんだろ?」
「ああ……そういう……」
獏は合点が行ったが、タダより高いものは無いとはよく言ったものだ。金を払った方が心身が健やかでいられる。
「確かに僕はお金は取らないよ。でも代価は必要だよ。君の心の柔らかい部分をほんの少しだけど戴くから」
「わけのわからんことを言うな。つまりタダなんだろ?」
「お金は貰わないけど」
「そうだ。それがタダだ」
話の通じない男である。理解できないことはそもそも考えようとしない。それで都合の悪いことがあれば、何で先に言わなかったのかと怒り出すのだろう。そういう人間は割り切るしかない。つまり説明を放棄し、さっさと叶えて取るものを取って帰ってもらうことだ。頼む相手が親切で良い人とは限らない。獏は微笑みながら、何を代価に戴くか考える。
「お前は何でも屋だと聞いてる。時間はどれくらい掛かりそうだ?」
「それは見てからじゃないと何ともだね。今から行っていいなら行くよ」
何でも願い事を叶えるという噂が何処かで何でも屋に変化したようだ。強ち間違いではないが、湖の女神から労働者に転落してしまった気分だ。
「話が早いな。家の出入りが面倒だったんだ」
「その言い方だと、壊れた物はそのまま放置してるみたいだね」
すぐにでも席を立ちそうな雰囲気に慌てながら、灰色海月は二人の前に紅茶を出す。
獏は急ぐ必要が無いため、ゆっくりとカップを傾けた。
「これは何だ?」
「紅茶だよ」
「俺は紅茶は飲まん」
「じゃあ何だったら飲む?」
「茶だ」
「おや、紅茶も御茶なんだけどね……」
カップの中の揺らぎを見、獏は灰色海月に目を遣る。彼女は首を横に振った。紅茶以外の茶は用意が無い。
「仕方無いね。クラゲさん、白湯でいいよ」
白湯なら紅茶に使用した残りがある。灰色海月は急ぎ新しいカップに湯を注いで契約の刻印を施した。
男はやや不満そうだったが、白湯は飲み慣れている。紅茶よりは良いと渇いた喉に流し込んだ。
「よし、行くぞ」
男は気合いを入れ、獏より先に立ち上がる。獏が立つのを待たずにドアへ向かった。忙しない人間だ。灰色海月も慌てて灰色の傘を抜いて追う。
「……紅茶以外も用意した方がいいですか?」
「クラゲさんの負担が増えないならいいけど」
「人間の街には、入れて混ぜるだけで飲み物が完成する魔法の粉があるそうです。ヨウさんが言ってました」
「それはいいね。僕のティータイムが潤うよ」
罪人のティータイムを潤すのは躊躇う。
飲み物のことは後に回し、まずは善行に集中する。灰色海月は獏の烙印に首輪を掛け、男と共にくるりと転送した。
家の脇の細い路地へ降り立ち、男はさっさと歩き出す。人間の街は昼下がりで明るく、陽光がじりじりと突き刺す。獏は蝉の大合唱を聞きながら眩しそうに目を細めた。
二階建ての古い一軒家へと案内され、男に言われるまでもなく対象の塀を認識する。石のブロックを積んで作った塀が倒れて大破し、家の前に散乱している。道路に飛び散った分は家の方へ寄せているが、全く片付けられていない。
「この塀だ。では任せたぞ」
「ちょっと待って」
忙しなく家に入ろうとする男を呼び止める。男は迷惑そうな顔で振り返った。
「作業は夜に遣るよ。人通りが無い方が遣り易いし」
「それなら明日、俺が起きるまでに終わりそうだな」
男はぴくりとも笑わず、大股で玄関を潜った。一夜で終わらせなければならないらしい。
「クラゲさん。残骸を浮かせたら目立つから夜にするね。その間、塀の材料を探そう」
「わかりました」
住宅街の中なので人通りは元々多くはないが、夜の方が安心だ。
残骸の量だけ確認して離れようとし、ふと気になる物を見つけた。
「……ん? 何これ?」
割れた塀に何かが埋まっていた。その塀の欠片は罅割れて今にも砕けそうだったので、拾って他の塀の残骸に叩き付けた。
「鍵……ですか?」
砕けた欠片から、塀より高い音が跳ねる。誰が見ても鍵だと答えるだろう形をしている。
「鍵だねぇ。無くして困ってたかもしれないし、訊いてみるね」
男は家に入ったまま出ていないので中にいるはずだ。獏は汚れた鍵を持ち、インターフォンを鳴らした。
願い事をする時はあんなに忙しなく急かしていたのに、男はたっぷりと待たせてから迷惑そうに眉間に皺を寄せて顔を出した。
「何だお前か」
「そこの塀の中から鍵が見つかったんだけど、無くし物かな?」
「鍵? そんな物、知らん!」
白い掌に載る古びた鍵を一瞥だけして、男は玄関を閉めようとする。
「あっ、待って。じゃあ塀を作った人は? 何処の業者かな?」
「近所の大工だ」
鬱陶しそうにドアを閉めようとするので、獏は足を挟んで何とか大工の居場所を聞き出した。
「まあ人間には毛嫌いされる方が嬉しいからね。でも願い事を依頼したなら会話をしてほしいよ」
溜息を吐き、獏は古びた鍵を手に、教えてもらった近所の大工の家へ向かった。
「鍵の思念は辿れないんですか?」
「時間が経ち過ぎてるみたいだね。全然何も感じない」
「何の鍵なんでしょうか」
「僕の予想だと箪笥……かな? 細長くて、先に突起があるから。最近の家の鍵は複雑な形をしてるからね。家の鍵じゃないと思う」
「箪笥に鍵があるんですか? 見たことがないです」
「最近の箪笥には無いかもね。或いは高価な箪笥なら鍵が付いてるかも」
「と言うことは、古い物ですか?」
「こういう鍵、僕の店にもあるんだよ。古い鍵。持ち主が見つからなかったら店に置いておこう」
願い事を叶えに来ただけなのに、仕入れができてしまった。灰色海月は獏の古物店に置かれている瓦落多を一つ一つ確認していない。鍵があるなんて知らなかった。
近所ならと徒歩で向かったが、想像よりも距離があった。都会の一駅分くらい歩いて大工の家に到着した。
景色は変わらず住宅が広がっている。教えられた家は契約者の家よりも新しい家だった。築十年も経っていないように見える。
「……大工さん、まだ住んでるかな?」
人間に会うのはどんな理由があっても億劫なものである。それでも普通は出て来ないだろう場所から出て来た鍵が何の鍵なのか気になる。獏は興味を優先してインターフォンを押した。
「わ……このタイプ、嫌いなんだよね。出て来てくれないかも」
手元に小さなレンズがあることに気付いた。カメラが付属しているインターフォンだ。家の中にいながら来訪者の姿を見ることができる。防犯のためには優れ物だが、獣は防犯なんて嫌いだ。獏はレンズに人差し指を当てた。
「…………」
暫く待ってみたが応じる声が聞こえずドアも開かないので、仕方無く指を退けた。
『……ハロウィンですか?』
やっと声が聞こえた。女性のようだ。
「年中ハロウィンだよ」
『すみません、お菓子は無いのでお引き取りください』
「御菓子を強請りに来たわけじゃないよ。ちょっと訊きたいことがあって」
『訊きたいこと……? アンケート調査ですか? 間に合ってます』
「この辺りに大工さんはいない? 大工さんの忘れ物かもしれない物を見つけたんだけど」
『……忘れ物?』
会話を打ち切ろうとしていた声が気になる言葉を拾った。
『義父が大工をしてましたが、忘れ物とは何ですか?』
「これなんだけど」
大工の住所はここで合っているようだ。獏は先程拾った鍵を小さなカメラに向ける。
『何処の鍵ですか?』
「僕もそれを知りたいんだよね。大工さんが作った塀の中から出て来たんだよ。うっかり落として固めちゃったんじゃないかな? 何処か開かないドアとか、引き出しとか、無い?」
『無いと思いますが……』
「大工さんとは直接話せる?」
『義父はもう亡くなりました』
「えっ……そっか……じゃあ遺品の中に何か無い?」
『知りません。もう帰ってください』
「こんなに話してくれたのに?」
『暇じゃないので』
突然ぶつりと会話を切られてしまった。不審者とはこれ以上話したくないようだ。
「どうしようかな。近所で知り合いを探してみるか――」
獏は灰色海月を抱え、一旦屋根に跳び上がる。会話を打ち切っても聞かれているかもしれないため距離を取った。
「――夜に皆が寝てから忍び込んで遺品を探してみるか」
「塀は直さなくていいんですか?」
「あ」
鍵にすっかり気を取られていた。肝心の願い事のことをすっかり忘れていた。あまりに獏に頼む必要が無い願い事なので、脳が記憶をゴミ箱に入れてしまったようだ。
「塀を先に直そう。いい感じのはあるかな……」
屋根の上から獏はきょろきょろと眼下を見回す。何を探しているかは知らないが、灰色海月は慣れない屋根の上で動けずに待つ。遮蔽物の無い陽射しが突き刺さって焼き海月になりそうだ。
「――あ。あれなんか丁度いいかも。いい物も見つかったし、後は陽が沈むのを待つだけだね」
二人は一旦離脱し、陽が沈んだ頃に同じ場所に戻った。だが少々早かったようで、蝉は大人しいが空はまだ薄らと明るい。
人通りが無いなら行動しても大丈夫だ。黄昏時は獣が動き易い時間である。照明の発達で人間の夜は明るくなったが、全ては照らせない。
「クラゲさん、転送の準備をしてて。見つからない内に早く転送してほしいんだ」
「わかりました」
灰色海月は掌から灰色の傘を抜く。獏は彼女を抱え、屋根から屋根へ跳んで目的の場所へ飛び降りる。
「一瞬でも持ち上げられたら、一緒に転送できるよね?」
灰色海月を下ろし、獏はぺちぺちとそれを叩いた。灰色海月は唖然と口が半開きになったが我に返って閉じる。
それは他人の家の塀だ。その塀を契約者の家に運んで善行を終えようとしている。手に持っていればそれは持ち物と判定され、共に転送することが可能だ。
「長さは……このくらいでいいかな」
「……どうやって割るんですか?」
壊れた塀より、この塀の方が長い。全部は持って行けない。
「烙印を封じてくれる?」
「できません」
「あっ、悪夢の気配がするなぁ」
「何処ですか?」
「僕にしか見えないタイプ」
「…………」
悪夢は育つと獏以外にも視認できるが、そこまで育っていないと獏にしか見えない。白々しく嘘を言っているようにしか思えないが、彼女には確かめる術が無い。
「嘘なら仕置印です」
「う、嘘じゃないよ……」
有事の際に烙印を封じて能力を解放できるのは仕事印、悪いことをした時に罰を与えるのは仕置印だ。相変わらず紛らわしい名前だ。
「……ほら、ここに黒飴が」
「まだ持ってたんですか?」
強制的に悪夢を見せると言う黒飴だ。以前、白花苧環に取り上げられて狴犴に提出されたはずだが、あの一つだけではなかったようだ。
「必要な理由は聞きましたが、今回は何に使うんですか? 悪夢は危険なんですよね?」
「危険だけど、そんなに大きく膨らせたりしないよ。小腹が空いた時に悪夢を食べられるように」
「小腹が空いたんですか? 罪人は少し饑じいくらいが丁度いいです」
「ちょっとマキさんに似てきたかな……? マキさんだったら『饑じい』より『餓えろ』って言いそうな気もするけど」
「私は監視役なので、罪人を見殺しにすることはできません」
「それじゃあ、少しだけ仕事印、いい? もし駄目ならまた他の獣に頼むことになるんだけど」
罪人に科された刑なのだから、可能な限り本人のみで善行を行うことが望ましい。他者に頼むより仕事印を捺した方が刑として正しいのではないか。
「……いえ、やはり仕事印の使用は悪夢が出現した時に限ります。飴で強制的に悪夢を発生させるにしても、今は食べる人がいません」
「駄目かぁ……じゃあ贔屓に連絡して」
「贔屓さんが狴犴さんに小言を言われてしまいます」
「内緒にしてればわからないよ。それに贔屓にも断る権利はある」
「それは……確かにそうですね」
内緒に、の部分ではなく、断る権利がある、の部分に頷く。罪人ではない者が罪人より不自由であってはならない。灰色海月は携帯端末を取り出した。上手く口車に乗せられたとは気付かない。彼女はまだ幼い。
断る権利はあるが、贔屓はすぐに駆け付けてくれた。人間の姿で喫茶店の閉店時間を過ぎても粘って最後の一杯の珈琲を楽しんでいたが、飲み干して来てくれた。
「ありがとう、贔屓。狴犴に小言を言われないよう黙ってるからね」
「ん? ……ああ、それは気にしないでくれ。罪人であろうと困っているなら助けたいと考えているから。狴犴も僕の性格は理解しているはずだ」
冗談めかして言った言葉を繰り返され、贔屓は苦笑する。
「それで、今回の頼みは何だ?」
「うん。この塀をね――二メートルくらい割って、持ち上げてほしいんだ。塀の修理っていう願い事だよ」
「大胆な解決法だな」
「いいよね?」
「命に係わることでないなら、君の考えに従うよ。君に科せられた刑だから、君が考えて行動することに意味がある」
「寛容だね。じゃあ宜しくね」
「僕が統治していたらもう少し考え方を変えてほしいが」
道端で話し込んでいると近隣の住人に怪しまれるためさっさと杖を召喚する。近くに落ちていた小石を拾い、獏の指示する通りの位置に放る。小石に加重し、勢い良く塀の上部に叩き付けて縦に大きな亀裂を走らせた。
下まで塀が割れたことを確認して杖を仕舞い、両手で引き抜くように揺らして持ち上げる。中で塀を支えていた鉄の棒が捻じ曲がって千切れた。贔屓は力持ちだ。彼の力なら人間の胴体でも引っ張れば容易く千切れそうだ。
「クラゲさん、転送お願い」
「はい」
もう驚くこともないが、贔屓は杖を使用せずに石の塊を持ち上げる。華奢な少年が軽々と塀を持ち上げる姿を人間が見れば腰を抜かすだろう。獣が見ても驚くのだから。
灰色の傘でくるりと契約者の家の庭に転送し、獏の指示に従って塀を下ろす。重機いらずだ。
「完璧だね。代価を貰ってくる」
「置いただけなんだが、いいのか? 強風が吹くと倒れるよ」
「倒れないようにできるの?」
「それを考えるのは君だよ」
「じゃあ少し地面に埋め込んでおいて」
「善処しよう」
塀があまり低くならない程度に地面に埋め込み、贔屓は散らかっている塀の欠片を端に寄せる。
その間に獏は家へ入り、契約者に願い事の完遂を報告した。
「灰色海月」
「はい」
呼び掛けられるとは思わず、油断していた灰色海月は肩が跳ねた。
「日頃の獏の様子はどうだい?」
獏は何度も贔屓の助けを求めたことがあるが、彼が灰色海月にそんなことを尋ねるのは初めてだった。宵街の統治から離れた贔屓は狴犴の管轄に口出しはしないはずだ。
「善行への向き合い方でしょうか? それなら大半の願い事は叶えてます」
「善行もだが、それ以外の普段はどうだ?」
獏は牢の中で紅茶と菓子を堪能し、自由に本を読み、楽しそうに猫と遊び、疲れたらベッドにごろごろと寝ている。本当に罪人だろうか。
「僕も以前少し監視役を体験してみたが、一人で大変じゃないか? 偶には誰かと交代して、息抜きをしてみるのもいい」
想像していたことは問われず、灰色海月は首を捻った。彼の言葉だと、聞きたいのは獏ではなく灰色海月のことのようだ。
「大丈夫です。私は監視役を遣り抜きます。獏をしっかり見張ります」
「獏は人を頼ることが多いか?」
「それは……力の無い罪人にできることは限られてるので……」
「誰かを利用するのではなく頼る。それが増えてきたなら、人の気持ちや命の尊さも理解できるようになってきたかな。僕が統治者ならそろそろ釈放を考える所だよ」
「!」
灰色海月は目を瞠るが、それと同時に獏がドアを勢い良く開け放った。獏は爛々と目を輝かせて出て来た。動物面で顔が隠れているのに表情がよくわかる。
「釈放って聞こえたんだけど!?」
「今の統治者は狴犴だから、僕の言葉は聞き流しておいてくれ。また口論になってしまう」
「人間の願い事を嫌々叶える優等生な僕はもう釈放されていいほど罪を許されたんだよね」
「僕の言葉は只の独り言だと思っておいてくれ」
「狴犴は終身刑って言った手前、刑期を短くするのを躊躇ってるのかな?」
「獏。今回の願い事の成果はどうだった?」
止めないといつまでも喋り続けそうな獏を質問で制止する。
「え? 警戒心を食べたよ。何となく」
「何となくで重要な感情を食べるものではないよ」
「後はこの鍵だけど。最初は気になったけど、善行が終わったら面倒臭くなってきたな」
塀の残骸から出て来た古い鍵を取り出して持て余す。塀の残骸の隙間に放り捨てておけばもう思い出すことも無いだろう。
「その鍵は何だ?」
「そこの塀の中から出て来た。ここの家の人に訊いても覚えは無いって。それでこの塀を作った大工さんの家に行ったんだけど、もう歳だったみたいで亡くなってた。で、手詰まりってわけ。別に調べろって頼まれたわけじゃないし、もういいよね」
「でも大事な鍵かもしれないよ。最後まで遣り切ったらどうだ? 科せられていない善行まで熟せば狴犴の評価も変わらないか?」
「贔屓は口が上手いんだから……でも手詰まりは手詰まりだよ」
「もう一度、その大工の家に行ってみないか?」
「贔屓も気になるってこと? 手伝ってもらったし、少し付き合うくらい、いいけど。人間の姿になる?」
「いや。人間の殻を被っている時に、獏のような怪しい格好の人と行動を共にしていると目立つ。人間の殻が目立つと生活に支障が出るからな」
「そんな不審者みたいな……」
「獣には褒め言葉だろ?」
「親しい獣同士だとちょっと複雑。親しいよね?」
「難しい質問だな。罪人と親しいと言っていいものか」
「贔屓はもう統治者じゃないし、言っていいよ。蒲牢は友達って言ってくれてるし」
「それはそうだが。蒲牢とは変な遊びはしていないよな?」
「変な遊び? そう言えば前に遊んだ後に急に一週間絶食って言われたんだけど、あれ何だったのかな。理由を聞いてないんだけど」
「聞いてないなら掘り下げないでくれ」
「?」
獏と蒲牢が双六を楽しんだことを蒲牢は贔屓と狴犴に話したが、それを獏は知らない。獏は突然絶食を言い渡され、蒲牢とあまり連むなと暗に釘を刺されたのだと解釈した。まさか贔屓と狴犴が勘違いをして迸りを受けたなんて夢にも思わない。
獏は贔屓の望む通り大工の家へ再度向かう。行ってもまた門前払いになるだけだろうと思われたが、家に到着した時、先程はいなかった人間と出会した。制服を着た少女だ。
「!」
家に入ろうとした少女は見知らぬ人達と目が合い、一瞬足が止まってしまう。動物面を被った妖しい人と、目が合うと微笑を浮かべる少年、その後ろに無表情の灰色の女がいる。
変な人がいる――と少女は思ったが、微笑を浮かべる少年にもう一度目を遣る。テレビの中の芸能人のような綺麗な顔をしている。
「へへ……」
それを見て少女はうっかり笑顔になってしまった。美形を見て笑みが零れない人間などいないだろう。部活で帰宅が遅くなったが、その疲れも吹き飛んだ。
「ウチに何か用ですか?」
「落とし物を見つけたんだが、少し見てもらってもいいかい?」
「落とし物? 私、何か落としましたか?」
「君の落とし物ではないかもしれないが。大工の……君のお祖父さんかな? 古い落とし物なんだ」
「お祖父ちゃんの? お祖父ちゃんは去年亡くなりましたけど。今、遺品を片付けてる最中なんですよ」
「この鍵なんだが、これに合いそうな鍵穴を見なかったかい? もし知られたくない鍵なら故人とは言えあまり広めるわけにはいかないから、他言は控えてほしいんだが」
「変わった鍵ですね……ちょっと見てきますね。お母さんに内緒で」
少女は力強く頷き、静かにドアを開けて中に入った。獏の時とは違ってトントン拍子で話が進む。
「……贔屓って人間誑し?」
「人聞きが悪いな。宵街から離れて人間の街にいることが多かったから、波風を立てないよう身に付けたんだよ。穏和に接していれば大抵の人間は親切にしてくれる。そうして茶屋や喫茶店を転々としてきたんだ」
「人間誑しってことだよね? 自分の顔、人間が好む顔だってわかってるんだ」
「顔は平凡だが、表情で印象は変わる。人間の好む表情はわかる。怒っているより笑っている方がいいだろ?」
「うーん……言いたいことはあるけどいいや。さっきの人が出て来るみたい」
獏も人間によく微笑んでいることを知っている灰色海月も言いたいことはあったが、獏は無意識なのか自分のことは棚に上げている。
少女がこっそりとドアから顔を出すので、贔屓と獏もひっそりと接近する。少女は背後を確認してから小声で報告を始めた。
「大きな家具はまだ処分してないんですけど、箪笥にそれっぽい穴がありました」
「ではこの鍵を試してくれるかい?」
「わかりました」
鍵を託し、また暫し待つ。今度は先程よりも早く戻って来た。再びこっそりとドアの隙間から少女は覗く。
「開きました! 中から手紙の山が出て来て……どうやらラブレターみたいです」
「おや」
「数枚、名前を見てみたんですけど、お祖父ちゃんがお祖母ちゃんに書いた手紙みたいで……お祖父ちゃんが出せなかったラブレターです」
「これはまた予想外の物が出て来たな。僕達はこれ以上関与しなくていいだろう。鍵も君に返すよ。手紙をどうするかは、君が……君達が考えてくれればいい」
「あはは……私も予想外です。鍵、届けてくださってありがとうございます」
呆気無くドアは閉まり、贔屓は獏と顔を見合わせる。
「もっと変な物が出て来ると思った」
「そうだな。本当に鍵を落としてしまっただけか、箪笥の中を見られないよう鍵を隠したんだろうな」
「人間はよくわからないね……邪魔なら手紙を処分すればいいのに」
「思い出もあるんだろ。獣に比べて人間の生は短い。その分、思い出を大切にするんだよ」
「本当にラブレターなのかなぁ。まあ僕には関係ないけど」
「僕はこれで失礼するよ。獏も寄り道をせず真っ直ぐ牢に帰るんだよ」
「家みたいに言わないでよ」
獏は頬を膨らませるが、贔屓は微笑を置いてさっさと転送してしまった。獏も灰色海月の灰色の傘で、小さな街の形をした牢に戻る。善行が無い時は家のように寛いでいるのだから家と言っても過言ではない。
玄関のドアを閉めた少女は暫くドアに背を付けていたが、外の話し声が聞こえなくなると二階へ向かった。今や物置と化している狭い部屋に入り、鍵を開けたままの箪笥の引き出しを引く。
「…………」
中にはみっちりと手紙が詰まっている。少女の祖父が祖母に宛てた手紙だ。祖父は昨年他界した。祖母とは疾うに離婚している。
ラブレターであることには違いない。だが出すつもりのなかった手紙だ。出せなかったわけではなく、最初から出すつもりがなかった。
(出せるはずがない……この手紙全部に盗撮写真が入ってて、手紙はその写真の中のお祖母ちゃんに宛てた物だから)
少女は引き出しに再び鍵を掛けておく。祖父は中を見られたくなかっただろう。処分するにも見られると大事だ。鍵を捨てて封印することを選択した。
(まさかお祖父ちゃんが死んでから、お祖母ちゃんを追い詰めた証拠が見つかるなんて)
ゴミ箱に鍵を放り、少女は自室に戻る。箪笥の中は見なかったことにした。




