212-不老不死
とある海で、漁に出ていた船が妙なものを引き揚げた。
黒い夜の海で疎らに灯る漁火に引き寄せられたそれは魚ではなかった。
それを引き揚げた漁師は気味悪がったが、他の漁師は目の色を変えた。それを縛り上げ、物置に放り込んだ。
一時そうして騒いだが、何事もなかったかのように漁師は黙々と漁に戻る。またそれが揚がるかもしれない。期待と興奮は胸の内に秘め、黙々と筋張った手を握った。
* * *
誰もいない暗く透明な街で、罪人は今日も人間の願い事を受け取る。控えめな明かりに照らされ、小さな店内に並ぶ置棚は暗い影を落とす。
奥の古い革張りの椅子には黒い動物面を被る獏が、机を挟んだ向かいに少年が緊張した面持ちで膝の上で拳を握っている。
灰色海月は二人の前にそれぞれ紅茶のカップを置き、一歩下がった。
「……『人魚を見たい』?」
「は、はい……」
少年はやや顔を俯け、獏と目を合わせない。今にも震え出しそうだ。目の前に座った瞬間から、獏は人間ではないと悟った。肌に異質な空気が貼り付いている。夏だと言うのに、ここはひやりと寒気すら感じる。部屋の中にエアコンも無いのに。
獏はかくんと首を傾け、受け取った手紙にもう一度目を通す。何度見ても同じだった。『人魚を見たい』と書かれている。人形ではなく人魚だ。
「この人魚って、水族館にいる動物のこと……じゃないよね?」
「そ、それは……聞いたことあります。人魚のモデルになったとか……? ジュゴンとかマナティとか? ですよね……。それじゃないです。半分人で半分魚の、人魚です……」
「やっぱりその人魚なんだね」
どうしたものかと獏は考える。人魚には獏も会ったことがない。
(前にあった願い事……この人間も蒐集家なのかな? この人は何も荷物は持ってないけど油断できない。でもこんな子供が蒐集家かなぁ……)
獣と対峙すればすぐに吹き飛ばされてしまいそうなひ弱な印象を受ける少年だ。獏は人差し指と親指で輪を作り、少年に向けて覗く。揺らぐ不安定な感情は獏に対する不安だろう。そこに小さな光が見える。願い事を叶えてもらう期待だ。ぎらつくわけでもなく、綿毛のようにふわふわとしている。
(この感じは蒐集家じゃないよね……野心がまるで無い。敢えて言うなら……森で兜虫を見たい子供の好奇心)
見た所、中学生くらいだろう。虫取りが楽しい年頃らしい。
「人魚と言えば海だよね。君は泳げる?」
「え!? ……あ、すみません……言うのを忘れてました。人魚は近くにいるんです」
「近くって? 君の家の近所?」
「はい。捕まえたって……話してるのを聞いたんです。でも誰も詳しく教えてくれなくて、そんなものいないって言うんです。だから聞き耳を立てて……居場所を突き止めたんです」
「あれ? 居場所がわかるなら僕の出番は無いんじゃない?」
「い、いえ……そこに近付けないんです。見張りがいたり、防犯カメラまで付け始めて……怪しいですよね? 何も無かったらそんなことしないはず……」
「何かがあるのは確かみたいだけど、本当にそれが人魚なのかはわからないね。見てないんだから。人魚っぽい何かかもしれない」
「でも、どう捌くかとか、取り分だとか……不老不死がどうとか……大人達が集まって話してるんです」
「それは……人魚かどうかは別としても気味が悪いね。他に得た情報はある?」
「夜の海で揚がったって聞きました。それ以外は……」
少年は更に俯き、声が萎む。それ以外の情報は無い。
「わかった。僕も気になるし、君の願い事を叶えてあげるよ」
「ほっ、本当ですか!? ありがとうございます!」
ぱっと勢い良く顔を上げた少年に、獏は紅茶を一口飲んで微笑む。少年も安心して自分のカップを傾けた。少し苦いが、美味しい紅茶だ。緊張で冷えた体に熱い紅茶が染みる。
「あ、あの、人魚を食べると不老不死になるって、本当なんですか……?」
「食べたいの?」
「い、いえ! それはちょっと……怖いと言うか、気持ち悪いと言うか……半分人なのに……」
少年は勢い良く首を振りながら俯く。その言葉に偽りは無いだろう。本当に気味悪がっている。
「不老不死になれるかは、僕にはわからないね」
「そうですか……」
「不老不死に憧れる人間はいるけど、それは生きたいからなのか、死にたくないからなのか、どっちだろうね」
どちらでも同じではないだろうかと思いながら、少年は立ち上がる獏を見上げる。
「昼間は目に付き易いから夜にその居場所に行こうと思うんだけど、君は夜に出歩いても平気? 大丈夫なら今夜にでも」
「だっ、大丈夫です! 早めに風呂に入って、寝る感じを出せば……あ、でも玄関に行けるか……?」
「君の部屋に窓があるなら、窓から迎えに行くよ。靴の用意を忘れないでね」
「窓から……? 他に用意する物はありますか? 懐中電灯とか……?」
「懐中電灯は目立つよ。用意するのは靴と君の身一つ。あとは人魚に会って何を言いたいか、考えておくこと」
「わっ、わかりました」
「クラゲさん。今、外の時間は?」
「夕刻です」
「ちょっと時間があるね。じゃあ君は家に帰って御飯を食べて、御風呂に入って、待っててよ」
少年はもう一度頷きながら返事をする。夜にこっそり家を抜け出して秘密を探りに行くなんて、わくわくしてきた。
「願い事を叶えたら、君の心の一番柔らかい所をほんの少し、代価として戴くよ。痛くも苦しくもないから安心して」
「……よくわからない代価ですね」
「人魚を見るだけだし居場所もわかってるんだから、軽めの代価にするよ」
「命を削るとか……?」
「そんなことしないよ。寿命を奪うなんて、ね」
獏は含みのある笑みを浮かべるが、冗談だと少年は思った。痛くも苦しくもない、その言葉を信じた。少年は純朴だった。
抑え切れない好奇心を口の端に載せ、少年は灰色海月に促されて古物店を出る。
獏は閉まるドアを見ながら、机上の手紙に指を添えた。
(……もし本当に人魚……人魚じゃなくても獣だとしたら、人間に捕まってるってことだ。それは助けないと)
人間の街は広く、宵街も目が行き届かない。願い事の中に助けを必要とする獣がいるなら助けたい。
全て飲み干してはもらえなかったが、少年は紅茶を飲んだ。一口でも飲めば契約の刻印は取り込まれる。もう逃げ場は無い。
獏の牢は常に夜を下ろしていて時間などさっぱりわからないが、人間の街では夜を迎えた。
獏は襟の釦を外し、重く冷たい首輪を嵌められる。牢の外へ出る時は首の烙印に首輪を掛ける決まりだ。もし首輪を付けずに外に出ると、宵街が慌てて叱りに遣って来る。
灰色海月は灰色の傘をくるりと回し、転瞬の間に屋根の上へ降り立った。
「……おっと」
斜めに傾いた屋根の上で体勢を崩しそうになる灰色海月の腕を掴む。
月は雲で隠れ、潜むには持って来いだ。眼下の坂には民家が並び、街灯が疎らな道は細く蛇行している。その向こうに幾つか光が浮かぶ暗い海が広がっていた。
「ちょっと宵街っぽい景色だね。宵街に海は無いけど」
「海を見ると落ち着きます。暗いと特にです」
「ふふ。確かに深い海の中みたいだね」
灰色海月は海月だった頃を思い出して身を乗り出す。屋根から落ちないように腕を掴まれていることを忘れている。
「僕も夜は落ち着くよ。ついでに悪夢を見つけて食べたいくらい」
だが残念なことに、周囲を見回しても悪夢らしき影は見つけられなかった。悪夢はそう簡単には現れない。もしうじゃうじゃと現れてしまったら、獏の腹が弾けてしまう。
「海の上の光は何ですか? 星が落ちたんですか?」
「漁火だね。夜に漁をする時に点けるんだよ。魚が光に寄って来るように」
「罠ですね」
「……さて。そろそろ行こうか。契約者の家は何処かな?」
「足の下です」
既に到着していたようだ。獏は指の輪で足下を覗いてから灰色海月に踊りを申し込むように手を差し出し、彼女も手を載せる。
獏はとんと屋根を蹴り、足下の暗い窓へ反対の手を翳した。獏は触れる物を少しだけ軽くすることができる。そして触れずにドアや窓の鍵を開けることができる。
開いた窓から明かりが消えた部屋に飛び込み、音を立てずに着地する。ベッドの中で沈黙していた少年は、肩を軽く叩かれて目を開けた。
「わ……本当に窓から来た……」
「ちゃんと靴も用意してるね。それじゃ、場所を教えてよ」
「は、はい」
窓に足を掛けて待つ獏を待たせないように少年は急いで靴を履き、伸ばされた手を反射的に掴む。とんと窓枠を蹴って前方の家の屋根に跳び乗り、ふわりと浮き上がった少年の心臓は跳ね回った。
「高い所は平気かな?」
「平気です……俺、何かの能力に目覚めましたか?」
「ん? 別に何も……今のは僕が少し軽くしてあげただけだよ。君一人で跳んだら落ちるよ」
「そうですか……」
少年は少し残念そうな顔をするが、気を取り直して指を差した。獏はその先に向かって屋根を蹴り、やがて目標を捉える。漁船が並ぶ海から少し離れた明かりの無い場所に古そうな小屋が立っていた。
近付き過ぎずに停止し、屋根の上で姿勢を低くする。手を引かれ、灰色海月と少年も屈んだ。
「確かに人がいるね」
小屋の前に一人、誰かが立っている。身長や体付きから、おそらく男だろう。
「見えるんですか? 俺にはよく……」
「僕は夜目が利くからね。カメラの位置も見えてるよ」
「凄い……。どうやってあそこに入るんですか?」
「簡単だよ。見張りを倒せばいい」
「へ?」
思わず少年は素っ頓狂な声を上げた。獏は穏やかな声で、力業で突破しようと言っている。
「カメラは……」
「少しの間、都合の悪いものを映さないようにすればいいだけ」
「本当にそれで……大丈夫ですか?」
「大丈夫。殺さないから」
胸を張り、物騒なことを言う。少年は少し怖くなってきた。
「一旦地面に下ろすから君は待ってて。見張りが交代する時間があると面倒臭いけど、誰か来てもまた倒せばいいよね」
「そ、そうですね……」
「夜は皆眠るから、見張りは一人でするって人は多いと思う。けどね、夜こそ一人は危険だよ。僕みたいなのがいるからね」
獏は二人を地面に下ろし、一人で細い道を下った。月明かりも無い夜道は獣には都合が良い。影の中を走り、小屋の前の男を捉える。
(死角が多いタイプのカメラだね)
直方体のカメラが小屋に取り付けられている。操作すれば動くかもしれないが、一つの方向だけを映すカメラだ。
獏は手を翳し、ふと思い出す。罪人の首の烙印は力を封じるためのものだが、獏の烙印は特殊だ。善行をするために少しだけ力が使えるようにされている。だが最近、烙印を改められた。使用できる力が以前とは違う。以前は許されなかったことが許可され、取り零されていたことが封じられた。以前、監視カメラを細工して獏を映さないようにしたことがあるが、今はそれができない。
(大口叩いちゃったな……)
辺りを見渡し、良い物を見つける。誰かが落としたハンカチだ。それに手を翳し、風が攫うように浮かせて死角からカメラの前に垂らした。もしカメラの映像を凝視している者がいれば飛んで来るかもしれないが、もし駆け付けても倒せば良い。人間は獣や変転人のように一瞬で駆け付けることができない。時間はある。
獏は小屋の裏側へ回り、死角から男に飛び掛かった。まず声を上げられないよう口を塞ぎ、軽く脳を揺さぶってやる。脳震盪を起こした男は地面に落ちそうになり、慌てて支える。もしカメラが音も拾うなら、音で異常が知られてしまう。音を立てないように男を民家の陰に運ぶ。
なるべく音を立てないよう手を翳して触れずに小屋の鍵を開け、そっとドアを開けた。錆びた蝶番が甲高い悲鳴を上げた。
慌てて振り向いて周囲を確認し、獏が入ることができる幅でドアを止める。幸い獏は細身だ。細い隙間でも擦り抜けられる。
「!」
だがマレーバクの面の中途半端に長い鼻がドアに引っ掛かった。この面を作った狴犴を恨んだ。
小屋が見える位置に移動した灰色海月と少年はそれを見て、獏は何をしているのかと首を捻った。
体を横向きに、顔は正面に回し、何とか中に入る。古い建物は音が出るから困る。
小屋には窓が無く、所々に隙間はあるが月の無い夜なので差し込む光も無い。獏は細長い硝子の筒――常夜燈を取り出して軽く振った。中の夜燈石が擦れて反応し、仄かに発光する。
ぼんやりと照らされたそこに、縄できつく縛り上げられた蒼い髪の女が転がっていた。
虚ろに睨む目と目が合う。布を噛まされ、話せないようだ。
常夜燈を掲げ、足元から回り込んで顔を確認する。乱れた髪の隙間から鰓らしきものが見えた。手足も厳重に縛られ、これでは動けないし何も握れない。
「君……獣だね? 僕も獣だから安心して。君を助けに来たんだよ」
警戒させないよう獏はゆっくりと接近し、膝を突いた。蒼髪の女はぼんやりと照らされる動物面を見上げ、睨む目を和らげる。
「今から解放するから、大声は出さないでね。あと暴れるのは無しだよ」
声は出せなくとも首を動かすことはできる。女は頷いた。
雁字搦めに固く結ばれた縄を手で解こうと奮闘するが、十秒も経たずに諦めた。そして背後を振り返り誰も見ていないことを確認して、懐から罪人が持つべきではない物を取り出す。カッターナイフだ。
獏の古物店にはあれこれと瓦落多が放り込まれているが、さすがに刃物は無い。あの牢を作った地霊が確認しているはずだ。あるのは精々ペーパーナイフくらいだ。
このカッターナイフは先程、契約者の部屋で見つけた物だ。烙印の所為で杖が出せない獏は武器になりそうなそれを失敬していた。
手で奮闘するよりも容易に縄が切れ、見張りにも気付かれることなく素早く解放できた。
女の顔には憔悴が滲み、ぐったりとしている。それを見て獏は黒色海栗が誘拐された時のことを思い出す。黒色海栗は変転人だが、この女は獣だ。数日程度でここまで弱るとは思えない。
「獣がここまで衰弱するなんて……いつから捕まってるの?」
女はぼんやりと獏を見、乾いた喉に唾を呑み込む。声を出すのは随分と久し振りだ。
「……わからない……二、三日でないのは確かだけど」
女が言葉を返してくれたことに獏は安堵する。話す体力はあるようだ。
「そっか……何で捕まったの? 油断した?」
「いつもは深海にいるの。でも……最近よくゴミが落ちてくるから、気になって……私から近付いた。人間のことはよく知らないから、うっかり道具……網に引っ掛かって」
「成程……」
戦闘が得意な獣なら網に掛かっても断ち切るだろう。彼女は温和で、戦闘慣れしていないようだ。
「君には鰓があるみたいだけど、陸にいて平気?」
「それは大丈夫。鰓と肺を使い分けられるから」
「便利だね」
「長時間水に入らないと疲れてくるけど……今みたいに」
ここまで弱っている理由が判明した。水の無い場所でカラカラに乾いてしまったからだ。
「それは大変! 立てる?」
「それなら何とか……」
獏が伸ばした手を一度躊躇しつつも取り、年季の入った木製の棚に手を掛けて立ち上がる。獏の手にかなりの体重を掛けて蹌踉めく彼女が自力で海まで歩くのは困難だ。
「君、海まで歩くより転送した方が早いよ。僕は諸事情で転送してあげられないから、一人で海に帰るといいよ」
「杖……出せない……」
「え!?」
「出す体力がもう無い……」
「ぜ、全然平気じゃない……。外に僕の……仲間がいるから、そこまで行こう。行けば転送してもらえる」
灰色海月は罪人の監視役だ。何と説明しようかと迷ったが、『仲間』が一番彼女を不安にさせない言葉だろう。
「不甲斐無いばかりに、御世話になります……」
弱った獣はしおらしく頭を下げた。今まで多くの血の気が多い獣や頑固な獣を見てきたが、温厚な獣も居る所には居るものだ。
「いいよ。悪いのは人間なんだから。――君、名前は? 僕は獏だよ」
「私は覇下」
聞き覚えのある名前だった。獏は微かに目を見開く。
「え……? 覇下?」
蒲牢や狴犴達の兄弟、龍生九子に同名の獣がいる。
「もしかして、兄弟がたくさんいる……?」
「兄弟? いないけど……。私はずっと一人でいた」
「あれ? 偶々同じ名前なのかな。ごめんね、人違いみたい」
龍生九子の覇下は欠番状態だ。何百年も前に死に、それから化生していない。獣の多くは繁殖の術を持たず、死ぬと新たに、同名だが別人として化生する。死んでから化生するまでの期間は個人差があるが、覇下のように何百年も不在であることは稀だ。
(化生したら兄弟が感知できるって言ってたし、感知してたら人間に捕まって何日も放置……なんてないよね?)
獏は覇下に肩を貸しながら、軋むドアの隙間から外の様子を窺う。視線を感じて目を向け、灰色海月と少年が家の陰から覗いているのが見えた。
(何でこんな近くに……彼に頼まれたかな? まあ見張りもまだ寝てるみたいだし、いいか)
軋みを上げながらドアを開け、今度は音を気にせず二人分の隙間を開けた。灰色海月と少年の方に向かって手招き、監視カメラの死角になる小屋の裏手へ回り込む。弱った彼女を連れて行くより、来てもらった方が早い。
灰色海月と少年が死角に入った所で、監視カメラに被せたハンカチを払っておく。
一旦覇下を座らせ、獏は灰色海月に耳打ちした。
「この獣、覇下って名前らしいんだ。一応、贔屓か蒲牢あたりに伝えておいてくれる?」
「! はい。狴犴さんに伝えます」
「ぐぅ……やっぱり狴犴かぁ……」
罪人としては烙印を捺した狴犴だけは避けたかったが、諦めるしか無さそうだ。
「でも連絡した所で狴犴が来ることはないよね。よし、大目に見よう」
罪人が何様なのか知らないが、灰色海月は頭を下げ、携帯端末を取り出した。
その間に獏は、惚けている少年に向き直る。
「これが……人魚? 尻尾が無い……」
「そう言えばそうだね。彼女の何処を見て人魚だと思ったんだろ?」
「陸では邪魔になるから、陸で尻尾は生やさないよ」
嫋やかな二本の脚に注目され、覇下は恥ずかしそうに苦笑する。
「脚だけ変身……って言うのかな? 変化させることができるの。網に掛かった時は尻尾だったの」
「ああ……成程。便利……」
「じゃ、じゃあ、本物の人魚……!? き……綺麗だ……」
少年は目を輝かせながら身を乗り出す。見たいと願った人魚が遂に目の前にいる。
「ねぇ少年。この人魚はいつから捕まってるの?」
「え、えぇ……と……一ヶ月くらい……? 俺が偶然聞いた時より前だから、一ヶ月くらいです」
「一ヶ月も……? 捕まえた人達は何で一ヶ月も放置してるの? 調理法の相談でもしてる?」
「何か揉めてるみたいです。これ以上噂が広まらないよう口止めしてるっぽいですが、船が岸に戻った時点で目撃した人が結構いて……取り分で揉めてます。一ヶ月飲まず喰わずでも生きてるので不老不死の信憑性が出たとか……」
「人間は浅ましくて愚かだね……」
獣は一ヶ月絶食状態でも死にはしない。空腹や体力が落ちたことは多少感じるが、その程度で死ぬ獣などいないだろう。なので心配することではないが、覇下は水に入らないと弱る体質なので、人間には御仕置きが必要だ。
「私、食べられるの?」
「おっ、俺は食べません! 不老不死には興味ありません!」
少年は誤解されまいと必死に弁解する。そんなに必死にならなくとも誰も疑っていない。兜虫をやっとその目で見ることができて、言葉にできないほど喜んでいる少年を誰が疑うだろうか。
「私を食べても不老不死なんてなれないよ」
「そうなんですか? 人魚は不老不死って……」
「人魚はそうかもしれないけど、私は人魚じゃないから。水中の姿は似てるかもしれないけど、ただちょっと魚の尻尾が生やせるだけ」
「魚の尻尾なら人魚じゃないんですか……?」
「違うね。詳しくは人魚に聞いてみないとわからないけど、とにかく私は人魚じゃない。食べても不老不死なんてなれないよ。ただお肉を食べてお腹一杯になるだけ」
少年は微かに落胆するが、それは不老不死になれないことではなく、彼女が人魚ではないと言ったからだ。
「何かがっかりさせた……?」
「い、いえ……尻尾がないと普通の人みたいだなって……」
「尻尾は今は見せられないけど、鰓はあるよ。ほら」
顔に掛かる髪を上げ、耳の付け根辺りにある鰓を見せる。少年は食い入るように顔を近付け、普通の人間には無いものを目に焼き付けた。
「凄い……魚だ……」
「人魚じゃなかったけど、君の願い事は叶ったかな?」
「はっ、はい! 凄いものを見ました」
「ふふ。他の人間もこのくらい無害ならいいのにね」
「だ、代価……ですよね?」
「うん。怖がらなくていい。僕に任せてくれたら、すぐに終わるよ」
怖がらせないように微笑み、獏は少年の両目を片手で覆った。代価を戴く時は動物面の鼻が邪魔なので面を外す必要がある。醜い顔を見られないよう獏は人間の目を覆って食事をする。
面を上げて金色の双眸が覗き、人形のように整った顔を少年の唇へ――
「あ」
小屋の陰から顔を出した男と目が合い、獏は青褪めた。先程倒した男ではない。見張りがいなくなっていることに気付いた仲間が遣って来たようだ。
「こっ、ここ……殺してやる……」
「え!?」
心の準備ができていなかった獏は顔を見られたことに動揺し、その漏れた声に少年は焦る。目を覆われている所為で、少年に殺すと言ったのだと勘違いをする。
「何で人魚が外に……お前……お前も人じゃないのか?」
背後から男の声が聞こえたことで、誰かに見つかったのだと少年は察した。だがどうすれば良いのかわからず、もう見つかっているが見つからないよう無闇に動かない選択をする。
「人魚は俺達の物だ! 渡すもんか……」
男は小屋の壁に顔を引っ込めて死角で携帯端末を操作する。仲間に連絡し、応援を呼ぶ気だ。
獏は動揺しながら先ずは動物面で顔を覆う。
「顔を見た人間は殺す……よくも僕の顔を……」
動揺が伝わり、少年の両目に当てた手に力が籠る。これはもう怖がるなというのは無理だ。何も見えない少年は震えた。逃げることも考えるが、動けば背後の男に捕まるかもしれない。捕まれば人魚を外に出したことを問い詰められ何をされるかわからない。かと言って両目を覆う手を払って万一にも獏の怒りの元である『顔』を見てしまったら殺されてしまう。人魚も灰色の女も助けてはくれないだろう。四面楚歌だ。
「人魚を返せ!」
「殺してやる!」
獏は烙印で力を封じられているが、男に手を翳そうとした。
「――落ち着け、獏」
小屋の陰から出ようとした男の体は、突然上から押さえ付けられたかのように地面に叩き付けられた。
「ぐっ……!?」
男は五指を立てるが、体は地面に張り付いたまま離れない。まるで上から何かが伸し掛かっているようだ。経験は無いが、象に踏まれているかのようにびくともしない。
小屋の陰からもう一人、今度は少年が現れた。少年は長い木の棒のような杖を持ち、赤褐色の瞳を獏へ向けた。
「贔屓……」
「狴犴から話を聞いて、鴟吻に千里眼で確認してもらった」
「君が来たってことは……」
「ああ。その覇下は僕達の兄弟で間違い無い」
「でも、兄弟はいないって……」
「獏。食事中だったんじゃないか? 先に済ませていい」
「う、うん……」
食事は最も無防備になる瞬間である。警戒していても気が緩んでしまう。贔屓がいなかったら、覗いた男の命は無かっただろう。無くても構わないが。
贔屓がいてくれる御陰で今度は安心して食事をすることができた。再び面を外し、今度こそ少年に口付けて代価を戴く。烙印の所為で、代価は口から食べることしかできない。
代価を抜き取ると少年は重い瞼を閉じ、ずるりと地面に落ちそうになる。獏は動物面を被り、少年を小屋の壁を背に座らせた。
「眠ったのか? 代価を抜き取り過ぎていないか?」
「え? ちっ、違うよ。ただ眠らせただけだから。話の邪魔になると思って。代価はちょっと重くなったけど、人魚に会った記憶を食べたんだよ」
「ああ、疑ってすまない。覇下に関する記憶を消してくれたんだな。ありがとう」
漸く話ができる。座り込む覇下の前に贔屓は膝を突き、目線を合わせた。
「初めまして、覇下。僕は贔屓と言う。君に記憶は無いようだが、僕は君の兄だ」
「兄……?」
「ああ。君は九人兄弟なんだよ」
「九人……? そんなに?」
それは誰でも思うことだ。突然兄弟だと言われ、更に九人兄弟など多過ぎる。
「驚く体力が無くてあんまり驚いてないように見えると思うけど……海が引っ繰り返るくらい驚いてるから」
「そうだな。一旦海に行こう。ここにいると人間が集まるかもしれない」
贔屓は地面に張り付けられた男を振り返る。男は先程、携帯端末で仲間を呼んでいた。今も意識があり、獏達の会話を聞いている。
「僕にも記憶を飛ばす能力があればいいんだがな」
近くに落ちていた拳ほどの石を拾い、男の頭上へと軽く放る。そして杖を振り、石の落下速度が何倍にも増した。加重された石は男の頭に直撃し、一筋の血が流れる。
「その程度じゃ生きてるよ」
「殺すつもりはないよ。罪人に都合のいい殺しはしない。……加減したつもりなんだが、血が出たな」
「覇下を一ヶ月も閉じ込めて弱らせて、食べる相談をしてた人間だよ?」
「……後で始末しておこう」
獏は心の中で嬉しそうに拳を握った。
「獏はどうする? 帰るか?」
「ここまで関わったんだから、付いて行くよ」
灰色海月もそわそわとしている。海の近くまで来たのだから、触れる距離まで行きたいだろう。
贔屓はくるりと杖を回して転送し、四人は暗い堤防の上に降り立った。周囲に民家は無く、堤防の先にぽつんと街灯が一本生えている。人間はもう寝静まる時間だ。人影は無い。
「覇下、下りられるか?」
「大丈夫」
覇下はよろよろと這い、落ちるように黒い海に飛び込んだ。街灯の光を受けて飛沫がきらりと獏達に降り掛かる。
たっぷりと潜って体を沈ませ、覇下は静かに頭を出した。
「生き返った」
「良かった。以前の覇下はここまで水と密接ではなかったんだが、より魚に近くなったんだな」
ぼそりと呟き、贔屓は獏にもう一度礼を言う。
「僕達は兄弟の繋がりが薄れたんだ。だから化生を感知できなくなった。覇下が生まれていることに誰も気付かなかった。獏が知らせてくれなければ、会えないままだった。ありがとう、獏」
「僕に手紙が届いたから来ただけだけど……人間がゴミを捨てなかったら覇下は海面に近付かなかっただろうね」
「ゴミか……感謝し難いな」
覇下に出会えたことは喜ぶが、ゴミの御陰だと思うと言葉を呑み込んでしまう。海にゴミを捨てて良いわけがない。
「ゴミが嬉しいの? 待ってて、取って来てあげる」
勘違いした覇下は、杖を召喚して二本の脚を尾に、翻して海底へと沈んだ。
「本当に尻尾になった。部分的な変身? 蒲牢の角みたいな物かな?」
蒲牢は普段は頭に角など生えていないが、使用する能力によって角が生える。体に変化が現れる点で言えば両者は似ている。
潜った彼女を待っていると、頭上から一片の紙切れが降って来た。千里眼で覗いている鴟吻からだ。贔屓は空中でそれを受け取って広げる。
『私の目だと海の中は見えないので、海底のゴミも確認できません』
「そうだな。だから覇下が化生していても気付かなかった」
鴟吻の千里眼は何処でも見えるが、地下は見ることができない。海中もだ。覇下がこれまで海の中で生活をして外に出ていなかったのなら、鴟吻の千里眼に捉えられるはずがない。
たふたふと揺れる海面を蹲んで覗いている獏と灰色海月を一瞥し、贔屓は民家のある方へ目を向ける。小屋からは然程離れていないが、騒ぎは確認できなかった。
(騒げば折角隠していたものが見つかる。こんな静かな夜に騒ぎはしないか)
程無くして覇下が顔を出し、魚が跳ねるように堤防に手を掛けた。
「はい、これ。まだたくさんあるけど全部は持って来られないから、これだけ」
「!」
堤防に置かれた物を見て、贔屓は目を瞠る。獏と灰色海月も言葉を失った。
「こういうのが上から降って来るの。折角寝床に良さそうな場所を見つけたと思ったのに」
「人骨……だな」
おそらく腕の骨だろう。ゴミと聞いて想像していた物の中に人骨は無かった。
「岩を括り付けた骨じゃない人型の奴も降って来る時があるよ」
贔屓と獏はこくりと唾を呑み、骨を見下ろす。海に潜ってばかりの覇下は人間をよく知らない。この骨も何の骨かわかっていないようだ。岩を括り付けた者も、彼女にとっては見慣れない只の珍しい物という認識だ。
「人型を保つゴミも持って来る?」
「……いや、今はいい。まだ疲れているだろ? 今日はゆっくり休んで、後日また話をしよう」
「いいけど……急に兄弟だって言われてもよくわからないな。兄弟って何するの? 一緒に棲むの? 海の中で?」
「フ……水中で呼吸ができるのは君だけだよ。他の兄弟も一緒に棲んではいない。だが……後日一度、宵街に来てほしい」
「宵街……?」
覇下は宵街も知らなかった。海の底に居ては他の獣と会うこともない。宵街という名も聞く機会が無かった。
「それもまた今度話そう。今何か僕に質問があるなら聞くが、何かあるかい?」
「……別に無い。少し眠い」
「そうか。ではまた会いに来るよ」
突然兄弟と言われて途惑いもある。覇下は目を伏せ、上目遣いで獏を一瞥する。気付いた獏は微笑んで小さく手を振った。
「……会いに来る時、獏も来る? ちゃんと御礼がしたい」
今度は獏が贔屓を見上げた。
「獏は忙しいからな。その辺りのことも今度話すよ。改めて礼を言う場は設けられるようにする」
獏は毎日暇をしているが、狴犴に事情を説明してからではないと、善行以外で罪人を外には出せない。
「獏。用が終わったならそろそろ」
罪人や牢という言葉を伏せて促す。善行が終わったなら罪人はもう牢に戻らねばならない。零時を過ぎたシンデレラのようだ。
「もう少し海を見ていたかったけど、しょうがないね。クラゲさん、戻ろうか」
「はい」
宵街に捕まる以前、獏はこうして夜の海を眺めていることが多かった。その時のことを思い出す。その頃は人間が憎くて仕方が無かった。それは今でも変わらないが、今は人間を殺す手を制止させる人がいる。
灰色海月は名残惜しそうに立ち上がり、灰色の傘を抜いてぽんと開く。
くるりと傘を回して姿を消す二人を見送り、贔屓も覇下と一旦の別れを交わした。
覇下は久し振りに全身を海に沈め、これから回復に集中する。骨が落ちていない快適な寝床を探さねばならない。
「……贔屓。お兄ちゃんって呼んだ方がいい?」
「呼び方は何でも構わないよ。他の兄弟は呼び捨てが多いな」
「兄貴とか……格好いいかな。……やっぱり呼び捨てでいいか。おやすみ……」
ぶつぶつと呟き、覇下はゆっくりと海へ沈み落ちていった。
「おやすみ、覇下」
新しい妹は温和で順応が早く、少々マイペースなのかもしれない。
覇下のことは第一幕が一番詳しいです。
忘れてしまった方は70話と75話を読むと思い出すかもしれません。




