211-鏡写しの夢
夜よりも明るく、朝よりも暗い。ぼんやりとした視界に草木が茂っている。
「霧……」
視界を白く霞ませる霧は、自分の白い姿も呑み込んでしまいそうだった。
見覚えの無い場所だった。何処だかわからない。物音も無く、自分以外は誰もいない。
そこにぼんやりと光が浮かび上がった。
「光……」
ただ一つ現れた変化の方向へ、誘われるように歩き出す。草を踏んでいるのに音がしない。
光は消えず動かず、そこで待っていた。近付く内にそれは常夜燈の光だと気付いた。細い硝子の筒に、柔らかく発光する夜燈石の欠片が入っている。
「貴方は……」
霧が薄れ、常夜燈を持つ人影の顔が見えた。
「!」
その瞬間、足が止まり、顔が強張る。彼の顔は自分とそっくりだった。
「――なってませんね」
彼はぽつりと呟き、伏せていた緑色の目を上げた。やはりそっくりだ。瓜二つと言って良いだろう。
「貴方は……?」
「報告書は拙く、資料の纏め方も武器の使い方も、なってません。オレを出来損ないにしないでください」
「? 何を言って……」
「罪は悪。正義が何かも理解してないように見えます」
「…………」
「判断も遅い。動きも鈍い。思考力も足りない。同じ容姿でこうも違うとは」
彼もまた足音が無く、警戒する自分に向かって歩いた。常夜燈を翳し、自分の顔を覗き込むように凝視する。
そこに居るのを確かめるように頬に手を触れ、その指は驚く程に冷たかった。
「オレとは違って自由なんですから、もっと柔軟に」
「……やめてください!」
漸く声を出すことができた。彼は少し驚いた顔をしていたが、その顔を振り向かずに逃げるように駆け出した。
「何なんですか……あれは……」
霧が濃くなっていき、足元の根が増える。よく見えない根に躓き、軽い体は空中に放り出された。
「!」
地面に落ちた。そう思った瞬間、見慣れた天井が視界に広がった。
「…………」
霧は消え、草木も無い。足元に根は無く、いつもの床がある。
ベッドの上にいることに気付き、重い頭を起こす。夢を見ていたようだ。
「悪……夢……?」
酷く息が上がっていた。汗で服が貼り付いている。夢は何度も見ているが、こんなに気味の悪い夢は初めてだった。
「苧環さん、朝食です」
平素のように岡持を持った地霊が家に入ってきた。毛むくじゃらの大きな黒い塊は兎のような長い耳を生やし、土竜のような爪や顔を持つ。
岡持から朝食を取り出して机に並べる地霊を白花苧環はぼんやりと眺める。これが現実だ。夢はもう終わったのだ。
「どうしましたか? 苧環さん。顔色が悪いですが」
「ぁ……いえ、少し……夢見が悪かっただけです」
「そうですか。よく眠れましたか?」
「どうでしょう……。……あの、オレの前にいた苧環は、どんな人だったんですか?」
「唐突ですね。死んだ同名の変転人の話はあまりしてはいけないんですが。混同して混乱してしまうかもしれないので」
「そうですか……」
「気になるなら狴犴さんに尋ねてみては如何でしょう? 狴犴さんは宵街の規則そのものです。狴犴さんが話すなら、許されることです」
「そうですね。ですが……統治者自ら規則を破るのはどうかと思います」
白花苧環は汗を吸った服を脱ぎ、ぼんやりとシャワー室へ向かった。地霊は脱いだ服を回収し、壁に掛かっている外出用の服を椅子に掛けておく。ベッドの上に布団を畳み、てきぱきとシーツも替える。
「苧環さん、それでは失礼します。洗濯物は次回の配膳の時に持って来ます」
大きな爪で器用に岡持と服とシーツを抱え、地霊は白花苧環がシャワー室から出てくるのを待たずに家を出た。
白花苧環は濡れた体にタオルを掛け、静かに部屋を覗く。地霊が帰ったことを確認し、食卓へ目を遣った。
(出来損ない……。料理も洗濯もしろ……と言いたいのか……?)
それなら確かに出来損ないだ。料理は螭が、洗濯と掃除は地霊が行なっている。白花苧環は家事が一切できない。教えられたこともなく、寧ろできないことが普通だと思っている。……いや、それは過言だ。できないことは珍しくない、と思っている。
清潔な白い服に袖を通し、長い白髪を一つに纏める。夢に現れた瓜二つの人物は同じように右目が前髪に覆われていたが、髪は短かった。
椅子に座り、複雑な気持ちで箸を取る。今日の朝食はトウモロコシご飯と夏野菜のサラダ、焼き魚と海藻味噌汁だ。サラダと味噌汁を除けば地下牢の罪人と同じ食事なのだが、白花苧環はそれを知らない。罪人と同じ食事など不本意だと文句を言うからだ。
(規則を破らせるわけにはいきませんが、相談……してみましょうか)
米粒一つ残さず綺麗に平らげた白花苧環は身嗜みを整えて出勤する。宵街の最高権力者の傍で仕事をするのだから、身嗜みは手を抜けない。罪人と顔を合わせた時、縒れた服や乱れた髪では締まらない。
中層と上層の間に家がある白花苧環は、上層の科刑所にも近い。暗い石段を常夜燈で照らして登り、科刑所の入口で蔦を刈っている地霊の横を通過して狴犴の部屋へ行く。この地霊は白花苧環に料理を届けた地霊ではない。地霊は宵街に何匹もいる。
狴犴は常のように自席で書類に目を落としていた。白花苧環が部屋に入っても顔を上げない。いつも通りだ。
「朝食は摂りましたか?」
「ん」
それは摂ったのかまだなのかどちらなのか。あまりしつこく尋ねると仕事の邪魔になると思うと、それ以上は言えない。
「……悪夢を見たんですが、」
「!」
仕事を始める前に話しておこうと口を開いた途端、狴犴が珍しく勢い良く顔を上げた。
「悪夢、だと……?」
「はい。それで……」
「悪夢なら獏の所へ行け。悪夢は獏にしか見えないと報告されている。罪人だが、他に適任はいない。私は同行できないが、すぐに行くんだ」
「すぐに……?」
「ああ。安全を確認するまで休んでいい」
目を合わせて凄まれると、逆らうことができない。罪人の力を借りなければならないのは白所属の彼にとって屈辱でしかないが、獏は特別な罪人だ。地下牢に収容されていない獏なら、地下牢の罪人よりは溜飲が下がる。
「……わかりました」
白花苧環は渋々頭を下げて再び廊下へ出た。まるで病人扱いだ。そう思いながら白い傘を抜き、くるりと回して獏の牢へ転送した。
小さな常夜の街を訪れるのは何度目だろう。罪人の牢だと言うのに、少し慣れてしまった。
数軒が並ぶ小さな街の一つだけ明かりが灯る古物店のドアを開け、そろりと奥を覗き込む。奥にある席に獏はいないようだ。
(甘い匂い……)
鼻腔を擽る香りに惹かれるように背の高い置棚の間を歩き、小さな台所を覗く。そこには真剣な顔で蹲んでオーブンを覗く灰色海月の姿があった。
「……クラゲ、少しいいですか?」
「!」
来客に気付かなかった灰色海月の肩がびくりと跳ね、勢い余って尻餅を突いた。
「す、すみません。そんなに驚くとは思わず」
「だ、大丈夫です……御菓子に集中し過ぎました」
「やっぱり御菓子なんですね。この匂いは」
「! 科刑所から御菓子作りを禁止されるんでしょうか……」
「いえ、今日は獏に用がありまして」
「それなら良かったです」
灰色海月はオーブンを覗き、白花苧環が差し出す手を取って立ち上がる。許可は貰っているが、突然気が変わって、罪人の牢で呑気に製菓に精を出すなと言われるのではないかと勘違いしてしまった。
「獏は何処にいますか?」
「獏は二階で寛いでると――あ、少し待ってください」
手にミトンを嵌め、丁度焼き上がった菓子をオーブンから取り出す。オーブンを開けた瞬間、甘い香りが台所を包み込んだ。鉄板には小さな円いタルトのような菓子が並び、大きな星が一つずつ載っている。
「これは何と言う御菓子ですか?」
「ミンスパイです。中にドライフルーツを詰めてます。お酒は入れてません」
大事なことなので表情を引き締め、灰色海月はミトンを置いた。ミンスパイはクリスマスに食べられる英国の菓子だ。フルーツを洋酒に漬けることもあるが、変転人も獏も酒が苦手なので使用しない。
「食べますか?」
「いえ。先に用を済ませます」
「では後程、紅茶と一緒に持って行きますね」
家に遊びに来た友人ではないのだが、白花苧環は断り切れずに二階へ上がった。罪人の部屋にノックなどは必要無いと思いつつ、今回は罪人に会いに来たわけではないのでやや躊躇いながらも軽くドアを叩いた。
「どうぞー」
中から簡潔で呑気な返事が聞こえ、白花苧環は遠慮無くドアを開けた。ベッドの上でゴロゴロと古書を広げて罪人が寛いでいた。ベッド脇の机には既に紅茶が用意されている。
「…………」
「あれ? マキさん?」
「寛ぎ過ぎでは」
目元がぴくぴくと痙攣しそうだったが堪えた。今日は罪人を咎めに来たわけではなく、獏に相談に来たのだ。
「冷静さを保とうとしつつも怒ってる空気を感じる……」
獏は察し良く、古書を閉じてベッドに正座した。
「えっと……君が来るってことは、狴犴がまた面倒なことを押し付けようとしてる、とか?」
「……いえ。オレをよく見てください」
「え?」
怪訝に首を傾げながらも、獏は言われた通りに白花苧環を凝視した。頭の天辺から靴の先まで、何度も視線を上下させる。白所属らしく髪と肌は白く、服も靴も白い。宵街の白と黒の変転人はそれぞれ似た意匠の服を着ているが、彼は白所属の最も基本的な形の衣装だ。
「……見たけど、もしかして髪を一センチ切ったから気付いてほしい、とか!?」
「切ってません」
「シャンプー変えた!?」
「いえ。それは視覚情報では気付けないですよ」
「わざわざこんな所まで来るんだから……腹筋が割れた?」
「それはまだ……」
「まだ?」
「割れたとしてもわざわざ罪人に報告しに来ません」
「じゃあ……うーん……同じに見えるけど新しい服を下ろした?」
「下ろしてません」
「靴を」
「黙ってください」
「そっちが質問した癖に……」
「悪夢を見たんですが、異常はありますか?」
「えっ」
獏はきょとんとし、姿勢を正して膝に手を突いた。頭の天辺から靴の先まで白い彼に、纏わり付く黒い靄は見当たらない。
「靄は出てないよ。上手く消化できてる。悪夢を見ても全員が悪夢に取り憑かれるわけじゃないし、寧ろあんまり無いことだから、そんなに深刻にならなくても大丈夫だよ」
白花苧環がここへ来た理由が判明し、獏も安心した。狴犴にまた何か嫌なことを言われるのかと勘違いしてしまった。
「そうですか……ではあれは悪夢ではなかったのかもしれませんね」
「悪夢かどうかの判断は難しいね。何を怖いと感じるかは人それぞれだから。一般的にどうとかじゃなく、君が恐ろしいと思えば、それは悪夢だよ」
「…………」
白花苧環は俯き、夢の内容を思い出す。悪夢かどうか、自分でもよくわからない。ただ胸に靄が掛かったように嫌な気分だった。
「良かったら話してみる? 話すことですっきりする時もあるし、折角来たんだから」
「いえ……変な夢なので」
「夢なんて大抵変だよ。どんな夢でも僕は巫山戯たりしないよ。夢には真面目だからね」
獏は正座を崩し、ベッドから足を下ろして椅子を運ぶ。ベッドの横へ置いたそれをぽんと叩き、彼に勧めた。
「それなら……」
夢に関しては獏の右に出る者はいないだろう。少なくとも白花苧環の知り合いに獏以上の者はいない。折角わざわざ相談に来たのだ、靄を残したまま帰ると来た意味が無い。
「どう話せばいいかわかりませんが、オレにそっくりの……髪の長さ以外は同じ人が現れて、オレのことを出来損ないだと言ったんです。なってない、と」
「え……その人の髪型って?」
「肩くらいの長さだったと思います。報告書も資料纏めも武器も駄目出しをされました」
獏は手で髪を表現する彼を見て、動物面の下で目を丸くした。それは彼が生まれる前に居た前世の白花苧環にそっくりだった。彼は前世の容姿を知らないはずだ。夢を偶然では終わらせられない。
「君はどうしてそれが悪夢だと思ったの?」
「オレは出来損ないですか?」
「そう言われたのが嫌だったんだね。僕は君を四六時中見てるわけじゃないけど、君は変転人の中でも身体能力が高いし、生まれてまだ一年も経ってないのに、よく遣ってると思うよ」
「オレが上手く遣れているとすれば、前世の記憶を参考にしたからです。オレの力ではないです」
「今いるのは君なんだから、気にしなくていいと思うけど……前世の記憶を参考にしたって言うなら、一度、君が思った通りに遣ってみたら? 日常の何気無い所から少しずつ、君が考えて動いてごらん。譬え失敗したとしても、責める人なんて君の周りにはいないよ」
「…………」
白花苧環はマレーバクの面を見詰めたまま言葉を探す。罪人如きの言葉に安心してしまった。優しい穏やかな声は眠りに誘っているようで、波紋一つ立たない水面のようだった。
「……夢に出てきたのは、前世のオレ……ですか?」
それを肯定するか、獏は迷ってしまった。
その迷いは肯定と取られても否定できない間を生んでしまった。
「……そうなんですね。ああいうことを言う人だったんですね」
「それは……それはちょっと否定させて」
彼の心情が読み取り切れずに、獏は即答を避けて待ったを掛けた。
その間を狙ったかのように部屋にノックの音が響く。
盆を持った灰色海月がドアを開け、暗い顔をしている白花苧環を見つけて空気を読む。彼女は静かにドアを閉め、机に盆を置いた。皿に盛ったミンスパイと、ティーカップを二つ並べて熱い紅茶を注ぎ、獏が飲んでいた冷めた紅茶を下げる。
「クラゲさん」
「! ……はい」
盆を抱いて背筋を伸ばし、神妙な雰囲気の獏の言葉を待つ。深刻な雰囲気があったので声を出さずに退室するつもりだったが、黙って立ち去らせてはもらえないようだ。
「前のマキさんって、どんな感じの人だった? 性格とか」
「前と言うと……」
前世と言っても良いが、今は明言を避ける。彼に瓜二つの変転人が『死』んだと言うのは躊躇った。灰色海月も無表情で汲み取った。
「罪人に対しては厳しく、それ以外は穏やかな人でした。でも皆さんからは怖がられていて……私も最初は怖かったです。私は罪人ではないですが、両手を切り落とされてしまいました」
「何があったか知りませんが、酷いことをする人ですね」
その発言で獏は、彼にはもう前世の記憶が残っていないのだと悟る。彼が生まれたばかりの頃は、灰色海月が前世の彼に両手を落とされたことを知っていた。あの頃の朧げな記憶はもう消えてしまったようだ。参考にしたという記憶は何度も思い出すことで覚えているが、思い出さない記憶は次々に無くなっていく。
「最初は私もそう思いましたが、後で謝られて、御見舞いも持って来て、力の使い方を教えてくれました。今は恨んでません。とても真っ直ぐで、人付き合いが少し苦手なだけの不器用な人です。不器用さは獏の方が上ですが」
突然槍玉に挙げられた獏は不服そうな目を灰色海月に向けたが、水を差すのは止めた。
「……そうですか。オレと似てますか? それとも、似ても似つきませんか?」
「顔はそっくりです。ですが……所作は前のマキさんの方が丁寧だったような……」
「雑な所作をしているつもりはないんですが」
「前のマキさんが……変わってただけです」
言葉を選ぼうとしたが何も思い付かず、結局変人にしてしまった。変人だと言いたかったわけではないのに。言葉とは難しい。
「もしここに前世の彼がいたら、オレに向かって何と言いそうですか?」
「それも難しいですね……」
灰色海月は盆を抱き締めて白花苧環の顔を注視する。老若男女誰でも見惚れるだろう、整った美しい花貌だ。
「……後は任せました、とか……でしょうか?」
その瞬間、白花苧環の頭の中で、立ち込めていた霧が晴れたような感覚を味わった。碧眼に朝露が濡れたようだった。
「任せた……、そうですか……愚鈍なオレを見て、居ても立っても居られなくなったんですね」
俯いた口元に微かに笑みが漏れる。会ったことも無いのに、どうしてかその言葉がしっくりと馴染んだ。
「そんなに卑下しないで。夢ってね、その人の記憶を少しずつ繋ぎ合わせたものなんだよ。だから、無意識に君が感じてしまってた後ろ向きな気持ちが夢に反響したとも考えられる。最近何か失敗した? それで自分に失望したり、出来損ないだって思った?」
「……失敗と言うより、日々の中で少しずつ、足りないと思うことは多々あります。先日の誘拐の件でも……今日も、家事ができないことを反省した所です」
「そっか。でも前のマキさんも最初から全部できたわけじゃないと思うよ。戦闘に関してはズバ抜けてたみたいだけど。少しずつ、進んでいこ」
「……はい。溜飲が下がりました。ですが貴方より……クラゲに相談した方が良かったですね」
「え!? 僕もたくさん喋ったよ!?」
「喋っただけです」
「そんな……」
不安を抱えている彼に寄り添った言葉を繕ったつもりだったが、あまり届かなかったようだ。罪人であることが、白い彼には雑音になってしまう。
「じゃあ、折角だし良い物をあげるよ。夢見ドロップの最新作」
「夢見ドロップは確か、任意の感情を誘発する夢を見ることができる飴、でしたか? 科刑所に報告が上がってました」
「そうだよ。贔屓が許可してくれた」
獏はベッド脇の机の引き出しから小さな紙袋を取り出す。
「これが夢見ドロップの最新作」
中から出てきたのは真っ黒な飴だった。色取り取りの目にも美しい飴は報告を受けたが、如何にも怪しい漆黒の飴は聞いていない。
「これは……食べられる物なんですか? 炭みたいですが」
「炭じゃなくて飴だよ。劇薬の黒飴」
「…………」
劇薬とは毒物のような物である。
「食べられない物ですよね?」
「ちゃんと甘いから安心してよ。劇薬って言うのは、使用量を守れば問題ないんだよ。君は、君の見た夢を悪夢と認識した。だからこれ。これは食べた人に絶対に悪夢を見せる、夢見最悪の飴だよ」
「狴犴に提出しておきます」
白花苧環は軽蔑するように目を細め、得意げな獏の手から黒飴を奪い取った。
「あっ……やめてよぉ……狴犴にこれの必要性なんてわからないよ……」
「獏以外にはわからないでしょうね。没収します」
「ほ、本当に狴犴に言うの? それはちょっと……あっ、待って、帰らないで!」
立ち上がる白花苧環の服の裾を掴むが、彼は止まらず獏は蹲んだまま床を引き摺られた。獏の自業自得なので灰色海月は口出しをしない。
「悪夢の報告書は全て読みました。悪夢は人の命を奪うとても危険なものです。それを強制的に見せるなんて……許可できません」
「暗い感情は明るい感情で相殺することができるけど、君は最近楽しいことが無いのかな? 毎日詰まらない同じことばかり繰り返してるなら、新しいことを始めてみるとか」
「話を逸らそうとしても無駄です。新しいことと言えば、宵街に建設中の、避難所を兼ねた新しい施設に設置する機械の調整の手伝いをしてますが」
「どんな機械なの?」
「その場で延々と走り続けられる装置や、腹筋する機械、座って重い物をこう……上下させたりなど……」
口で説明が難しかったため、手を動かして表現する。ランニングマシンとアブドミナルクランチとラットプルダウンマシンだ。白花苧環はその名称を知らないが、言った所で獏も知らない。
「本当に腹筋を割ろうとしてる……!?」
「前世に任されたなら、やはり鍛えなければ。今のオレでは不安だから夢に出てきたんでしょう……」
「筋肉で解決しようとしてる!」
「いい加減、離してください。転送に巻き込んでしまいます」
痺れを切らした白花苧環は掌から白い傘を抜き、服を掴む獏の手を貫かんばかりの勢いで石突を突き落とした。手に穴を空けたくない獏は素早く手を引いた。その隙に白花苧環はぽんと傘を開く。
「それでは、御世話になりふぁ、んっ!?」
遣り取りを見守っていた灰色海月にミンスパイを一つ口に突っ込まれ、白花苧環は最後まで言わせてもらえなかった。
「良かったら御一つどうぞ」
「ん……んん」
口を開けば落としてしまうので、左手に取り上げた黒飴を、右手に傘を持つ彼は首を縦に振って頷くことしかできなかった。
「私が監視してるので、大丈夫です」
いつの間にか勝手に怪しい飴を増やしていることに焦りがあり、灰色海月は言い訳のように付け加えた。こんなことで監視役を下ろされたくない。
白花苧環は頷きながら数歩下がり、白い傘をくるりと回す。彼は最後に何も言えず、一瞬で宵街に帰った。
「ああ……」
獏は動物面の下で眉尻を下げて肩を落とした。狴犴に何を言われるかわからない。だがまだ一度も使用はしていないので、注意で済まされることを祈る。
「……僕も御菓子食べよ」
追うことのできない獏は気持ちを切り替えるしかなかった。ベッドの端に戻り、焼き立てのミンスパイを頬張る。いつも通り、灰色海月の作る菓子は美味しい。
「何故、悪夢を見る飴なんて差し出したんですか?」
「んー? 前世のマキさんにもう一度会って話したいかなぁって思ったんだよ。自分との対話になるだろうけど」
その言葉で灰色海月も納得した。そこまで話していれば白花苧環も納得したかもしれないのに、彼に喋らせてもらえなかった。やはり獏は不器用だ。
灰色海月は中身の減っていないティーカップも一つ下げて台所へ戻った。




