209-誘拐
人間が寝静まった頃、とある住宅街のポストに手紙が投函された。手紙は握り締められた所為でくしゃくしゃになっていた。
街灯の明かりから外れたそのポストの前に、誰もいない道の上に忽然と、雨も降っていないのに灰色の傘を差した灰色の女が現れる。
灰色の女はポストに手を翳して目的の手紙を回収し、宛名を確認する。『バク』と書かれた手紙だ。間違い無い、獏へ宛てられた願い事の手紙だ。
手紙の思念を辿り、差出人の居る場所まで歩く。静かな夜に踵の高い灰色のブーツの鳴る音が微かに響く。
差出人の家は古い二階建ての建物で、玄関の鍵は開いていた。もし鍵が締まっていたら転送で中に入るつもりだったが好都合だ。傘を畳んで静かに中へ入った。
二階から物音が聞こえる。気配を正確に感じ取れない彼女は音が頼りだ。一段一段が高い階段を上がると丁度廊下に出ていた壮年の男と目が合った。
「うわ!?」
こんな所に人がいるはずない。そう油断していた男の心臓は高く跳ね上がった。
「お迎えに上が」
「ど、どうやって入ってきた!?」
「? 玄関のドアから入りました」
「あっ……鍵掛けてなかったか!?」
男は灰色の女――灰色海月を押し退け、階段を駆け降りた。玄関の鍵が締まる音がし、階段を駆け上がり戻ってくる。
「ちょ……おま……はあはあ……ああもう! こっちに来い!」
「?」
灰色の女は階段を上がった程度で息を切らせる男に腕を掴まれ、振り解けなかった。無色の変転人は人間より能力が高いとは言え、女性が男の力に抗うことは困難だ。
引き摺られるように連れて行かれたドアの向こうは狭い部屋で、結束バンドで両手と両足を縛られ転がる黒い少女がいた。
「あ」
二人は同時に声を漏らしたが、男は気にせず、無表情の黒い少女を指差した。
「こいつはケータイも身分証明書も何も持ってないんだ。連絡先がわからないと身代金が……」
「クラゲ!」
灰色海月は獏の所へ戻って報告するまで黙っているつもりだったが、黒い少女は思わず彼女の名前を呼んでしまった。
(ウニさん……。ヨウさんが気に懸けておいてと言ってましたが……人間に捕まってたんですか……)
「え……? まさか知り合いか……?」
「いえ。そんな変な名前の人はいません」
冷汗をかきそうになりながら、獏に倣って灰色海月は嘘を吐いた。黒い少女――黒色海栗は怪訝な顔をしたが、数秒後に察して口を噤んだ。知り合いだと思われると都合が悪いのだろう。
「それもそうだな」
男は黒色海栗に意識が向いている灰色海月の死角から、彼女の両手を掴んで縛り上げた。
「何を……」
「いいから大人しくしてろ!」
肩を押さえて黒色海栗の隣に無理矢理座らせ、彼女のように両足も縛り上げる。その手で男は無遠慮に灰色海月の服を弄った。
「や、やめてください……!」
体中を触られる不快感に灰色海月は堪らず声を上げる。抵抗しようにも手足は縛られ動かない。嫌がる彼女に黒色海栗も苛立ち、眉尻を上げて両足を揃えて床を蹴り、男に頭突きを喰らわせた。
「いってぇ!? 何すんだこいつ!」
彼女の頭を押さえながら、男は少女を蹴り飛ばす。受け身も取れない小柄な黒色海栗は床を転がるが、男を睨むのは止めなかった。
芋虫のように戻ってこようとする黒色海栗の頭を足で押さえ、男は漸く目当ての物を灰色の服の中から見つけた。携帯端末だ。
「よし……こいつは持ってるな……」
折り畳まれているそれを開き、電話帳を確認する。
「何だこの名前……? 読めないな……まあ読めなくてもいいか」
漢字が読めなかった男は指を動かしながら二人から離れる。
「電話するから大人しくしてろよ」
それだけ言って男は部屋を出て行った。
「…………」
芋虫の動きをしながら灰色海月の隣に戻った黒色海栗は、よく見るとあちこちに小さな擦り傷がある。
男に聞こえないよう声を抑え、灰色海月は今度は彼女と目を合わせた。
「……ウニさん、これは一体……?」
「誘拐された」
「ヨウさんが捜してましたが、捕まってたんですね……」
「捜してたの? いなくなっても誰も気付かないと思ってた」
大人しい物静かな少女が一人いなくなっても、誰も気に留めないだろうと思っていた。
黒色海栗は灰色海月より少し先に変転人になった岩隠子だ。喋ることが得意ではなく、日記を書いて言葉の練習をしている。寡黙な少女だったが、獏と出会ってからは徐々に口数が増えていった。
「図書園の本の返却期限が過ぎてると言ってましたよ。私はあまり宵街に行かないので気付けませんが、ヨウさんは宵街にいるので気付きます。他の変転人もきっと大騒ぎしてます」
「大騒ぎ……それは想像できない」
「そうですね……皆さん冷静なので……」
「獏ならちょっと想像できる」
「実際に取り乱すことは殆ど無いんですが、想像できますね」
手を拘束されている二人は傘も出せず武器も生成できないが、不思議と落ち着いていた。男が奪った灰色海月の携帯端末に入力されている連絡先は、宵街の獣か変転人ばかりである。焦る必要は無かった。焦るとすれば、牢で一人待つ獏だけだろう。
* * *
宵の空が見下ろす薄暗い宵街は、いつもと変わらず平穏だった。獣が襲うこともなく、変転人が揉め事を起こすこともない。
赤い酸漿提灯が並ぶ長い石段の上、暗い上層に重苦しく立つ科刑所でも静かな時間が流れていた。
長い金髪を緩く縛った青年の姿をした獣――宵街の統治者である狴犴は自席で書類の処理を進める。来客用のソファには右目を前髪で覆って後ろ髪を一つに束ねた、白所属の凜とした花貌の変転人の少年――白花苧環が座り、報告書の要点を抜き出して資料として纏める作業に精を出していた。
「…………」
その彼の手がぴたりと止まる。ポケットに入れている携帯端末が振動した。
端末を取り出し、白花苧環は相手を確認する。
「……電話か?」
通話に出ようとする白花苧環より先に狴犴が尋ねる。これまで幾度も彼の端末に電話が掛かり、説明不足で科刑所を飛び出すこともあった。今回は狴犴が先回りすることができた。
「クラゲからです」
「用があるなら私に掛けろと言ったんだがな……」
「私用かもしれません。出ます」
あまり待たせると取り込み中だと思われて切れてしまう。白花苧環は早々に狴犴を制して電話に出た。
狴犴は書類に目を落としたまま聞き耳を立てる。全神経を耳に集中しているが、獣でも端末の向こうの声は聞こえない。
「……? 一億? 何を一億ですか?」
耳を欹てていた狴犴は、不思議な台詞に書類から目を上げた。白花苧環も怪訝な顔をしている。
「日本円で……一億円? どういうことですか? 彼女はそこにいるんですか? 確認させてください」
何やら嫌な予感がして狴犴は白花苧環の横顔を凝視するが、彼は通話に集中していて狴犴と目を合わせなかった。
居心地の悪い間があり、白花苧環は耳から端末を下ろして画面を見詰める。不可解な電話だった。
「……苧環? どうした?」
「クラゲが誘拐されたようです」
「…………」
「確認させてほしいと言ったらクラゲが『私です』とだけ。そのすぐ後に違う声が『私も』と。クラゲ以外にもう一人いるようです。どちらも落ち着いた声に聞こえました」
「少なくとも、だな。声を出したのが二人というだけで、無言の者がいないとは限らない」
「そうですね。それから……一億円を用意しろと、男の声が言ってました。受け渡し場所は後で連絡すると」
「状況がよくわからないが、身代金か……人間の金を要求するなら犯人は人間である可能性が高いが、断定はできない」
変転人を誘拐して何を企んでいるのか。金が目的なのか、他に目的があるのか。わからないことばかりだが、統治者が真っ先に取り乱すわけにはいかない。冷静に思考する。
「一億円、用意しますか?」
「いや、いい。まず灰色海月本人か確認する。獏に灰色海月の思念を辿れるか確認し、私に連絡しろ。獏が牢にいなくても連絡するんだ」
「わかりました」
「もし犯人からまた電話が掛かってきたら、私にも内容を聞かせてほしい」
「はい」
白花苧環は頭を下げ、掌から素早く白い傘を抜いて退室した。
面倒な事件が起こってしまった。だがまだ焦りはしない。
白花苧環は獏が収容されている小さな街の姿をした牢に転送し、石畳に白い踵を打つ。しんと静まる小さな夜の街は、まだ誘拐事件が起こったことを知らないようだ。
明かりの灯っている古物店のドアを開け、奥の机の向こうで見るからにそわそわとしているマレーバクの黒い動物面と目が合った。
「おか――え? マキさん?」
「クラゲはいますか?」
「ううん……いないよ。善行の手紙を拾いに行ったんだけど、戻ってくるのが遅くて心配してるんだよ」
「成程……手紙で誘き寄せたんですね」
「え? 何の話?」
「誘拐したと電話が掛かってきたんです」
「ゆ、誘拐!?」
「一億円を用意しろと要求されました」
「いっ、一億円!? 大金だ……一億円は大金だよ」
「知ってます。クラゲの思念は辿れますか?」
「う、うん。それは勿論……あっ! 僕が助けに行くってことだね? 任せて。犯人は殺す」
「早まらないでください。狴犴に連絡します」
「ま、まあ……仕方無いかな……」
狴犴と聞いて罪人は浮かせていた腰を下ろす。急に誘拐などと言われ、取り乱してしまった。灰色海月が人間に危害を加えられるのは初めてではない。悪い人間は何処にでもいる。
「狴犴に連絡するので、静かにしていてください」
「わかった」
白花苧環が電話を掛ける間、獏はそわそわと落ち着かない。今頃彼女は怖い思いをしていると思うと焦りが出る。
「……苧環です。獏に確認しました。――獏の所にクラゲはいません。手紙の回収に行き、戻っていないようです。思念は辿れるそうです」
『ならばやはり誘拐された一人は灰色海月か……』
「一億円を用意しますか?」
『いや。獏に思念を辿らせ、犯人の居場所を特定し、人質が誰なのか、人数を確認してほしい。人質の中に人間がいた場合は変転人を優先し、人間の保護は任務の内にしない。獏の首輪は免除する。烙印を辿れるようにな』
「はい」
『犯人が人間だった場合、拘束しろ。話を聞く。獣だった場合は接触せず、接近が勘付かれないよう待機しろ。私へ報告し、軽率な行動はしないように』
「わかりました。人質の安全を第一に、必ず救い出します」
『もう一度言っておくが、犯人が獣だった場合、或いは獣が裏にいそうな場合は、接触せずに待機だ。このことは獏にも伝え、獣かどうか判断を任せても構わない』
「……はい。直ちに行動します」
白花苧環は通話を切り、端末を見詰めてから仕舞った。それを見て獏も再び腰を浮かせる。
「何て言ってた……?」
「貴方に思念を辿ってもらいます。首輪は付けませんが、勝手な行動はしないでください。犯人が人間ならオレが拘束、獣なら接触せず待機です」
「妥当だね。何かちょっと……嬉しそう?」
「誘拐を喜ぶような言い方はやめてください。ただ、初めてのまともな単独任務なんです」
「単独……? 僕は?」
「人質はクラゲの他に最低でもあと一人います。それが誰なのか早く確認しないと」
「クラゲさんだけじゃないの? まずは状況を把握しないとだね」
意気込む白花苧環は早速、白い傘を手に古物店を出る。獏も慌てて後を追った。思念を辿るのは獏なのに、置いて行かれそうだ。
通常思念が辿れるのは変転人の方なのだが、獏と監視役の灰色海月の場合は互いを見失わないよう見えない思念で繋がれているため辿ることが可能だ。獏の烙印の機能の一つである。相手が灰色海月だからこそ獏は居場所を辿れる。それ以外だと所持品で思念を辿ることもできるが、ぴたりと正確にというわけにはいかない。
白花苧環は白い傘をぽんと開き、くるりと回す。これまで彼は宵街で要望書の回収や買い物の手伝いなど雑事を行っていたが、一人で大きな仕事を任されることはなかった。彼は変転人の中でも特別な唯一の半獣なのに、大きな仕事が無いなんて勿体無い。漸く単独で任務を熟せると認められたのだ、喜ばないはずがなかった。
夜の住宅街に転送され、誰もいない暗い道を見回す。どの家も明かりが消えていた。
「……何処ですか?」
転送すればすぐ近くに犯人か人質がいると思い込んでいた白花苧環は肩透かしを喰わされ、獏を振り返る。獏は人差し指と親指で輪を作り、住宅へ向けていた。
「犯人が獣だった場合を考慮すべきでしょ? だから少し距離を取ってもらったんだよ。すぐに見つけるから……あっちだね」
明かりの無い二階建ての家を見上げる。窓にはカーテンが掛かっていて中は見えない。
「二階かな」
指の輪を解いて玄関へ向かう。手を翳して音を立てないようにゆっくりと鍵を開け、ドアを開いた。廊下の奥は暗く、二人の影が伸びる。不気味な静寂に包まれていた。
「…………」
単独任務のはずだが、獏の後に付いて行っているだけでは? と白花苧環にも疑問が浮かんだが、ここは声を出す場面ではない。それくらいは彼にもわかる。
階段を上がる獏に付いて行きながら、白花苧環は白い紡錘の針を一本生成した。
(ここまで近付けば指の輪で人質の人数は大体わかるけど……クラゲさんの感情を覗くのは躊躇する……。人間はともかく、変転人の心は覗きたくないのにな……)
外からだと距離があるので磨り硝子のように心をはっきりと覗けないが、ここまで接近すると見えてしまう。獏は罪人だが、人間以外のプライバシーは大事にしたい。安全と秤に掛け、もう少し粘る。
二階に上がってどの部屋を確認しようか暗闇に視線を巡らせ、ふと部屋の中から声が聞こえた。
「そろそろ一億円用意できたか……? まだ夜は明けてないが、待ち切れないな……そろそろ受け渡し場所を指示する。大人しくしとけよ」
「!」
足音がドアに近付いてくる。部屋を出る気だ。白花苧環は気持ちを引き締めた。
「最初の電話は、オレに掛かってきました」
「え? 不味いよ! こんな所で電話が掛かったら……」
小声で話しながら、部屋の前に居るべきではないので音を立てずに慌てて階段を下りる。
「一階なら、声を潜めていれば聞こえ……」
犯人らしき足音は階段に向かっていた。
「下りて来そうです」
「どうしよう……! 玄関を開けたら外の光でバレそうだし……何処かに隠れよう!」
廊下の奥へ走り、ドアの一つを開ける。どうやら脱衣所のようだ。
「電話が掛かってきたら通話するべきですよね」
「喋ったら声が聞こえるよ」
少しだけ隙間を開けてドアを閉め、二人は息を潜めた。
下りてきた男は携帯端末を手に持っていたが、それを提げたまま手前の部屋に入っていった。
「ドアから光が漏れてる……トイレかな?」
「その間に人質を確認します」
「そんな時間あるかな……」
「今の男は獣だと思いますか?」
「化けてなければ人間かなぁ……」
贔屓のように人間の殻を被るような獣なら、気配を感じ取れない。その可能性を考慮して慎重に動く。
だが白花苧環はまだ経験が浅い。電話が掛かるかもしれないと言いながら気が急き、飛び出してしまった。
(何かわかってきたような……。狴犴はたぶん犯人が人間だって思ってるよね。だったら余程のことがない限り心配しなくていい。できるだけ安全な仕事でマキさんに経験を積ませたいのかな……僕に監督でもさせたいのかな?)
犯人がトイレから出てこないことを確認し、獏も気配を消したまま階段を駆け上がる。
廊下で立ち止まって振り返っている白花苧環の姿に獏は安心した。彼の性格だと先走って突っ込みそうだが、先走っていなくて良かった。
「開けます」
「いい? マキさん。人質の数がわからないように、犯人の数もわからないんだよ? 軽率な行動は」
「中から殺気は感じません」
「凄いねぇ、ドアを挟んでてもわかるの? ……じゃなくて。悪い人だって常に殺気を出してるわけじゃないんだよ」
獏は宥めるが、白花苧環はドアを開けてしまった。
「……クラゲ」
人質の姿を見つけ、白花苧環は中へ入ってしまった。
「待ってたから話を聞いてくれると思ったのに……」
「人質は二人です」
「はいはい……犯人が残ってなくて良かったよ」
「いたとしても制圧できます」
獏も部屋に入り、ドアを閉めておく。
狭い部屋の隅に、拘束された灰色海月と黒色海栗が座り込んでいた。二人の顔に恐怖や不安は無かった。
「もう一人って、ウニさん? え……いつから?」
「わからない……」
窓のカーテンは閉められ、時計も無い。時間がわかる物が何も無い部屋だ。
「ヨウさんにウニさんがいないことを聞いてから二週間ほど経ってるので、少なくともそれ以前だと思います」
灰色海月は捕まってまだ一日も経っていないので、疲弊している黒色海栗の代わりに答える。黒色海栗は表情が乏しいため疲労もあまり顔に出ていないが、二週間以上もここに囚われていたなら相当弱っている。
「そんな……」
「獏、苧環……お腹空いた……」
「話をする前にまずは解放しましょう」
紡錘を逆手に持ち、白花苧環は二人の手足に絡み付く結束バンドを切った。黒色海栗の手足には赤い痕ができていた。
ぶちりという音と同時に、ドアノブが回る音が耳朶に届く。獏と白花苧環は振り向き、紡錘を構えた彼が素早く前に出た。獏は獣だが、烙印で力を封じられている。戦えるのは白花苧環しかいない。罪人は憎むものだが、宵街では死なせない方針だ。
何も知らない男は警戒も無く呑気にドアを開け、部屋の中の人数が増えていることに気付いて足を止めた。
「な、何だ……? 一体何処から……」
「誘拐犯ですね? オレは一億円の要求をされた者です。電話ではなく直接話すために来ました」
「は!? いや何でここがわかったんだ!?」
「何故二人を攫ったのか、聞かせてください」
「どういうことだよ!? まさか警察……? 何も聞こえなかったが……」
男は混乱し、状況を見極めようとするが無理だろう。思念を辿っただの転送して来ただの、人間に理解できるはずがない。
「オレの質問に答えてください」
白花苧環は初めての単独任務で少々張り切り過ぎており、頼まれていないのに詰問する。
「マキさん、拘束するんじゃないの?」
獏は背後から囁くが、白花苧環は詰問を止めなかった。
「何故、彼女達を」
隠れ家が露顕した男は混乱と焦燥から、所持していたナイフを取り出して構えた。
武器を取り出したことで獏も警戒を強め、いつでも動けるようにしておく。烙印の所為で使える力は微々たるものだが、人間相手なら力を使わずとも制圧できる。
「お、おお俺はなぁ! 一億円が欲しいんだよ!」
ナイフを突き出し踏み込むが、素人の動きだ。白花苧環は軽やかに避けて腕を払う。瞬く間に脚も払い、男の視界がぐるりと回る。背中を床に叩き付け、その上に白花苧環が跨り、腹に踵を一本捩じ込んだ。腹から絞り出される潰れた蛙のような呻き声が男の耳に届く前に、その耳に掠るほど近くに彼は白い針を突き立てた。
「他人を踏み躙って得られる金などありません」
「っ……」
花貌の影の落ちる顔に冷汗が流れる。半獣に至近距離で殺気を放たれた人間は堪らない。男は死を覚悟して失禁した。
「ここね! 突入――」
ドアが躊躇いも無く開かれ、鞭を高く掲げた洋種山牛蒡と、フリントロック式の拳銃を手にした至極色の青年――黒葉菫が現れた。犯人に跨る白花苧環と目が合う。
「……あ。まだ拘束してないわね。早まっちゃった」
「大丈夫だ。犯人はもう戦意を喪失してる」
黒葉菫は銃を仕舞い、念のために用意していた縄を取り出す。
「マキ、もう少し押さえていてくれ」
「わかりました。……が、連絡はまだしてないはず……」
「連絡が遅いって狴犴がイライラしてたわよ」
「イライラですか……」
拘束が遅くなった所為で、経験豊富な洋種山牛蒡と黒葉菫が派遣されたのだ。白花苧環はそう推察し、睫毛を伏せた。上手く遣っているつもりだったが、まだ至らなかったようだ。
「イライラと言うよりソワソワだ。マキに何かあったんじゃないかと心配してたんだ」
「……それで二人がオレの尻拭いに来たんですか?」
「? 拭わないといけないのは犯人の方だ」
「私達が来た理由なら、苧環がどうのって言うんじゃなくて、ウニちゃんが人質になってる可能性があったからよ」
黒葉菫が犯人を縛り上げる間、洋種山牛蒡は黒色海栗に駆け寄る。
「ああもう……無事で良かった!」
表情は乏しいが衰弱する黒色海栗を抱き締め、怪我がないか確かめ頭を撫でる。黒色海栗は目を回しそうな無表情を浮かべていたが、安心したのか不意にほろほろと涙が零れた。
「あっ……怖かったわよね、もう大丈夫よ」
洋種山牛蒡の背に両手を回し、黒色海栗は彼女の胸に顔を埋めた。その直後に派手に腹が鳴った。
「姉さん……お腹空いた……」
「空腹の涙……!? 身代金を要求しておいて、人質を餓え死にさせようとしてたの!?」
「犯人の手際を見ればわかる。突発的な素人の犯行だ。金のことしか考えてなかったんだろ」
犯人を縛り上げ、黒葉菫は溜息を吐いて立ち上がる。人間相手なら混乱させられただろうが、今回は相手が悪かった。変転人を捕らえて宵街を敵に回してしまったのが運の尽きだ。
黒葉菫は白花苧環に手を差し伸べ、彼は躊躇いながらもそれを掴んで立ち上がった。
「この男はこの後どうするんですか?」
「何でウニを狙ったか話を聞いて、その後は始末だ」
「殺すんですか? オレが遣ります」
「今回は俺達に譲ってくれないか? ウニを侮辱されてこっちも気が立ってる。マキは獏を連れて離脱して、宵街に戻って狴犴を安心させるんだ」
「…………」
狴犴は保護者ではないのに。不満はあったが、白花苧環は彼を見上げて目を伏せた。いつも穏やかな黒葉菫が珍しく怒っている。抑え切れない程の殺気だ。そんな彼を見るのは初めてだった。
「……わかりました。元々オレの仕事は犯人の拘束まで……。処刑のことは言われてません」
「処刑が終わったら科刑所に報告する」
何も口を挟めない雰囲気だった。白花苧環は顔には出さないが渋々下がった。
灰色海月の状態を確認していた獏の許へ、二人を立たせてくるりと白い傘を回す。
誰もいない小さな街に戻った三人は、肩の荷が下りて胸を撫で下ろした。
「……オレはまだ最後まで仕事を任せてもらえないようです」
「気にすることないよ。君はまだ生まれて一年も経ってないんだよ? スミレさんとヨウさんは十歳を超えてるんだから」
変転人は十歳で一人前と言われている。白花苧環はまだまだ弱輩だ。
「そうですが……」
「幾ら悪い人間でも殺すのは負担があるからね。二人は気遣ってくれたんだよ」
白花苧環は腑に落ちない顔をする。獣の近くにいる以上、人殺しも何れは通る道だ。気遣いなどいらない。
「それで……クラゲさんは何で捕まっちゃったの?」
灰色海月はばつが悪そうに俯き、一通の手紙をそろりと差し出した。
「この手紙を回収して、差出人を迎えに行ったんです。そこにウニさんがいて……気を取られてる隙に拘束されてしまいました」
「人間とは言え、男は力だけは強いからね。クラゲさんは女の子だから振り解けなかったんだね」
手紙を開いて目を通す。『連絡先を知りたい』とだけ書かれていた。
「ウニさんは十歳以下だから携帯端末は持ってないよね? 捕まえたはいいけど、連絡先がわからないと身代金を要求できない。犯人は困ってたみたいだね」
「クラゲは端末を持っていたからオレに電話をしてきたと? 何故オレだったんでしょうか……」
「んー……たぶんだけど、連絡先は五十音順で表示されるから、君の番号が最初に出てきたんじゃないかな?」
犯人から取り戻した灰色海月の端末を確認し、白花苧環は納得した。『苧環』が真っ先に出てくる。
「盲点でした。アサギとは番号を交換してないんですね」
「えっ……そんなことは……」
端末を返してもらい、灰色海月は小さく声を上げた。
「すみません……登録する名前を打ち間違えてました……『ア』が抜けてます」
「ああ……正しく入力しないと表示されませんよね。ですが、オレに掛かってきて良かったです」
端末の操作にまだ慣れていないので、気を付けていても誤字脱字が発生してしまう。灰色海月は他の連絡先も急いで確認した。
「ウニは何故捕まったんですか? クラゲは何か聞きましたか?」
「夜中に人間のコンビニに行ったそうです。そこで時間を掛けて食べ物を選んだのに、所持金が足りなくて諦めたと。コンビニを出た所であの男に声を掛けられて、諦めた食べ物を貰い、油断して……捕まったと言ってました」
獣ほどではないが、変転人も普通の人間と比べれば目立ってしまう。目立たないように、活動する人間が少ない夜間に行動することは珍しくなく、二十四時間開いているコンビニエンスストアは重宝している。だが夜は良からぬことを企む者も活動する。
「所持金不足ですか……宵街に要望を出せば狴犴が金を出すんですが……」
「頻繁に要望が出せないと言ってました」
「つまり遠慮ですか? 狴犴はオレに対してもいつも、遠慮はいらないと言ってます。ウニも遠慮はいらないんですが……」
科刑所に要望を出すという仕組みはもう何百年も続けられているが、生活に必要な物以外は中々要望が出せない。そういう変転人は多い。相手は獣なので、あれこれ要求を重ねるのは遠慮してしまうのだ。
「もし大量に必要なら、人間の街の仕事を斡旋してもらってもいいかもしれませんね。そうして好きな物を買っている変転人もいます」
白花苧環は頭を回してみるが、金銭の問題を解決するのは難しそうだ。人間の街で一番厄介で面倒な物は金だろう。
「……ああ、そろそろ転送できますね。狴犴に報告するので、クラゲは後はいつも通りに。罪人も大人しくしていてください」
「はい」
「いつも大人しいよ」
白い傘を抜き、白花苧環は速やかに転送する。一度転送すると、次に転送できるようになるまで暫し時間が掛かる。転送には大きな力が必要で、一度使用すると力を充填しなくてはならないのだ。
「じゃあ僕達もいつも通り、座ってようか」
「はい。紅茶を淹れます」
「ウニさんが食べたかった物って何だったのかなぁ」
「レジの横で温められてた物と言ってましたが、名前はわからないと言ってました」
「肉まんとか……かな?」
確かにあれは美味しそうに見える。獏は納得し、灰色海月と共に静かな古物店へと戻った。
人間が変転人の存在など知るはずはないだろうが、変転人にまで手を出す人間には困ったものだ。




