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透明街の人喰い獏 (第三幕)  作者: 葉里ノイ


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208-誰のために

ちょっとスプラッタ。


 木々に囲まれた山道で、一台の車が颯爽と駆けていた。陽光は穏やかで、心地良い風が吹く。絶好のドライブ日和だ。

 窓を開ければ遠くで小鳥が囀り、ガードレールの下で流れる川の音が心を癒してくれる。

「どうだ? ドライブもいいだろ?」

「車は嫌いだけど、景色はいいね。風も気持ちいい」

 若い男はハンドルを握りながら得意げに笑う。助手席の女は最初は詰まらない顔をしていたが、山に入ると徐々に表情が和らいだ。

 男女は恋人同士だが、車でのデートは初めてだ。男は車が好きだったが、女は車が好きではなかった。絶対楽しい、と豪語して男は無理に女を連れ出した。楽しんでくれていることに男は安心する。

 前にも後ろにも車は無く、この瞬間だけは山が自分達の物のように思えた。

(風か……他に車は無いし、もう少しスピード出すか)

 穏やかだった女の顔が強張ったのは、男がアクセルを踏んで間も無くのことだった。

「!?」

 何も無かった道路に何かが飛び出した。黒い塊が何なのか判断する暇も無く、ハンドルを回し過ぎた車は滑ってカーブを曲がれなかった。

 速度が出ていた車はガードレールを突き破り、崖の向こうに飛び出す。木々がクッションになってくれればと願ったのは一瞬だった。ガードレールを突き破る程の速度で幹に叩き付けられ細い木は折れ、川へ転げ落ちた。川は浅くて流されることはなかったが、拉げた車から逃げ出せる者はいなかった。


     * * *


 誰もいない小さな街は常夜に包まれながら今日もひっそりとそこにある。

 石畳の道に立つ一つだけ明かりの灯る古物店のドアが騒々しく開け放たれた。


「たっ、助けてくれ!」


 若い男は最初にそう言い放ち、口が閉じていく。

 薄暗い店内には背の高い置棚が重い影を落とし、狭い通路の奥には机が、その向こうに黒い動物面を被った妖しい人影が頬杖を突いて古い革張りの椅子に座っていた。

 只の人間ではない。男は直感的にそう思った。口を押さえられたかのように声を出すのが憚られたが、一瞬だった。

「た……助けてくれ……」

 譫言のように呟き、棚に手を突いて床に座り込んでしまう。その後ろから遅れて灰色の女が顔を出し、男を見下ろしてから奥の動物面に目を遣る。

「すみません。急に走り出してしまいました」

「それだけ急ぎの願い事ってことかな?」

 灰色海月(クラゲ)は男が(ばく)を襲うのではないかと肝を冷やしていたが、(くずお)れている所を見て安堵した。獏は動じず、立ち上がりもしない。

「オレは……オレだけ助かっちまったんだ! だから……」

「とりあえず落ち着いて。願い事を叶えに来たんなら、僕に伝わるように説明してくれないと」

 灰色海月に目配せし、獏は立ち上がる気配の無い男へ歩み寄る。灰色海月は狭い通路を横向きになり、奥の小さな台所へと向かった。

 男の一歩前で蹲み、獏はかくんと首を傾ける。優しく穏やかに、荒れた心を撫でるような声で言葉を紡ぐ。

「君は何を助けてほしいの?」

「…………」

 俯いた男は、突然頭の中が晴れたような感覚を味わった。もやもやと覆っていた重い雲が全て丸めて捨てられたかのような感覚だった。

「オレは……彼女が……。…………ドライブ中に、事故って……病院に運ばれて……オレだけ助かった……」

「うん。それで?」

「彼女はまだ病院で……それで……脚が……」

「脚が?」

「両脚が、無くなっちまったんだ!」

「成程」

「脚を……彼女の脚を、戻してくれ! また歩けるように……」

「それが君の願い事? 彼女に再び両脚を与えたい、ってこと?」

「そ、そうだ! だから……」

 獏は納得したように小さく頷くが、考えるように天井を見上げた。

「歩けるように、ってことなら幾つか案があるけど、僕に頼まなくても、人間でも叶えられる方法があるよ」

「! な、何だ……?」

「義足。作り物の脚を付ける。練習すれば元のように歩けるはず」

「作り物……。それじゃ駄目なんだ! 元通りに……人の足で歩けるように! オレが悪いんだ……オレが事故って……」

「じゃあ二つ目の方法。その前に確認だけど、彼女の失った脚はどうなった? 捨てた?」

「潰れた車に挟まって……ぐちゃぐちゃになったって……」

「ぐちゃぐちゃの具合はわからないけど、使えなさそうだね。それなら、生きてる他人の脚を切り離して、彼女に取り付ける」

「! で、できるのか……?」

「へぇ、躊躇わないね」

 僅かも迷わず、男の目にはただ希望の光だけが灯っていた。

 台所から出てきた灰色海月は、淹れた紅茶のカップを二人に差し出す。男は床に膝を突いたままで椅子に座ろうとしないため、仕方無く床に置く。だが床に直接置くのは憚られたため、盆に載せて置いた。

 獏はそれを一口飲み、口元に笑みを浮かべる。

「脚を奪うことになる他人には代替の脚は用意しないよ。それは君の願い事の内に入らない。含めちゃうと君が払う代価が増えるからね」

「代価……い、いくらだ!?」

「お金じゃないよ。君の心の一番柔らかい所をほんの少し戴く。何を差し出すかは君が決めていいけど、願い事に見合うかは僕が判断する」

「オレが決めていいのか……? じゃ、じゃあ……」

 男は緊張を含み、だが壊れた玩具のように笑った。

「オレの脚だ……オレの脚をあいつに遣る!」

「おや……」

 思い切りの良い依頼人だ。自棄になっているのかもしれない。

「君の両脚は無くなるけど、いいの?」

「いい。それがオレの罰だ。オレが狸か何か……黒い奴を避けてカーブを曲がれなかった所為だから」

「黒い奴?」

「たぶん狸だ。顔は見てねぇけど……いや小熊か? よくわからねぇ。とにかく、オレの脚を使ってくれ!」

「ふぅん……覚悟はできてるみたいだね。彼女に確認は取る?」

「いや……これはオレの罰だ。オレがケジメを付ける!」

「……そっか。じゃ、紅茶でも飲んで、ちょっと待っててよ。準備するから」

「叶えてくれるのか!?」

「うん。もし準備中に気持ちが変わったら、いつでも言ってね。後悔しないように」

「後悔なんか、するわけねぇ! 良かった……これであいつの脚が……」

 男は心底安堵した顔をして置かれた紅茶を一気に飲む。獏はそれを面の下で目を細めて見詰め、灰色海月を手招いた。その耳に幾つか囁き、彼女は店を出る。

(黒い塊……顔が見えなかったんじゃなくて、顔が無かったんだったりして?)

 灰色海月が戻るまで男は床に座ったままだったが、来た時よりは落ち着いていた。それでも男の気持ちは変わらなかった。獏はその前で紅茶を少しずつ飲み、会話は交わさずに静寂が流れる。

 灰色海月の帰りはやや遅かった。彼女は大きなトランクを提げた、白い帽子と白衣を羽織る浅黒い肌の青年を連れて戻ってきた。青年は獏の姿を見つけると、朗らかな顔で軽く片手を上げた。

「あ、分身体で来たんだ。来てくれてありがと、ラクタ」

「噂の善行に参加できると聞いて来た。前は別の用だったからな」

「善行なんて別に良いものじゃないよ」

 彼は宵街の唯一の医者である獣、ラクタヴィージャだ。今は男の姿だが、本当の姿は女性である。彼女は自在に自分の分身体を作ることができる。分身体は本体の容姿を土台に構成され、性別や身長などを変えることができる。

 本体の少女体は宵街に置き、彼女が作った分身の青年体が遣って来た。人間如きの願いで宵街を離れられないからだ。

「人間は少女が手術する例が無くて不安かもしれないから、青年体で来た。年齢を教えても、人間は容姿を気にするからな」

「気が利くね」

 青年体でも人間の医者としては若い容姿だが、小学生や中学生ほどの容姿よりは良いだろう。

「君。かの……彼が脚を付け替えてくれる医者だよ」

「よろしく」

 男は彼の浅黒い肌と後ろで縛っている長い髪に視線を彷徨わせ、眉間に皺を寄せた。不安なようだ。

「本当に……大丈夫か?」

「腕は確かだよ。千切れた腕を元通りにくっ付けた所は僕も見たから。そこのクラゲさんの両手も切断されたことがあるけど、彼の手術でほら、元通り」

 視線を向けられた灰色海月は両手を胸の高さに上げ、掌を握ったり開いたり滑らかに動かして見せる。繋ぎ目すら今はもう無い。

「千切れてたとは思えない手だな……これが本当なら、安心してオレの脚を預けられる」

「安心してくれ。医者は治すのが仕事だ。ただ……手術する場所はどうするんだ? 獏」

 安心させるために微笑み、ラクタヴィージャは獏に確認する。今回の願い事の最も重要な部分だ。

「あ、そっか……宵街に人間は連れて行けないよね。人間の病院の手術室を借りよう。掃除なら僕も手伝えるよ」

「病院は夜でも無人にならないだろ? 鴟吻(しふん)にも手伝ってもらおうかな」

「見張りしてもらうの? 頼める?」

「連絡手段を手に入れたからな。宵街も便利になった」

 ラクタヴィージャは宵街で作られた携帯端末を取り出し、獏に断って店の外に出る。つい最近まで宵街にそんな物は無く、直接相手の所へ行って用を伝えなければならなかったのだが、今では端末ですぐだ。

 男は覚悟を決めたものの、まだ獣を信じられないようだ。二人の会話を聞き、不安そうな顔が戻らない。

「内科はともかく、外科なら人間より信頼できるよ。生きてる年数も、僕でさえ百歳を超えてるんだから」

「は!? お前、その見た目で百歳!? 腰も曲がってねぇ……」

 顔は動物面で殆ど隠れているが、口元は見えている。見える肌に皺なんて無く、きめ細かで陶器のようだ。

「正確には百五十五歳だよ。さっきの医者はもっと年上」

「嘘だろ……」

「信用できないなら願い事を取り下げてもいいよ。僕は強要しない。人間の医者に相談するといい」

「それは……」

 人間の医者に頼んでも、両脚を付け替えるなんてしてもらえないだろう。だから得体の知れない獏に手紙を出して頭を下げているのだ。

「……覚悟はもうできてる! ただ……」

「ただ?」

 男はごくりと唾を呑む。手紙を出した時は無我夢中で、獏がどんな奴なのか考えなかった。妖しい動物面を被る姿を見て、ここから帰ることはできないかもしれないとも思ったが、柔和な態度と声色で緊張は徐々に和らいでいった。

 今は、交渉できるほど落ち着いている。

 だが顔からは不安が抜けず、強張ってしまった。

「歩く彼女を見たいから、オレの脚を切って見殺しにするってのはナシだ」

「ああ、良い釘を刺すね。ラクタにも言っておくよ」

 ラクタヴィージャも電話を終え、ドアを開けて親指を立てる。

「いつでもいいよ、獏」

「クラゲさん、人間の街って今は夜?」

「夕方でしたが、話をしてる間に夜になったと思います」

「じゃあ宵の口かな? もう少し待って、その間に鴟吻に手術室が空いてるか確認してもらおう」

 話を纏め、獏は座り込む男を跨いでラクタヴィージャの許へ、店を出る。男は灰色海月に任せ、一旦ドアを閉めた。

「――ラクタ、急にごめんね。相手は人間だけど、できそう?」

「ん? ……できないと思われてる? 心外だなぁ。変転人は人間に近いし、あの人間も変転人だと思って遣ればいいんだろ?」

「やっぱり人間を治療したことないんだ?」

「ずっと宵街にいるから、人間を見ることもそうそう無い」

「できそう?」

「できる。病気の治療より自信がある」

「自信があるのか無いのかわからないんだけど……もし死なせちゃったら僕の御飯抜きになるから、生かしてあげてよ」

「ああそうか……獏が喰いっ逸れるのか。それは可哀想だから頑張るよ」

 人間の命より食事の方が大事だ。獣は毎日の食事を必要としないが、人間の手紙は毎日投函されるわけではない。偶にしか無い食事の機会はなるべく逃したくない。

 話の途中で忽然と、空中に折り畳まれた紙切れが現れる。獏はひらひらと舞うそれを抓んで広げた。

「鴟吻だね。手術室は空いてるみたい。でも明日は日中に手術予定があるみたいだから、早めに、だって」

 鴟吻は千里眼を持つ獣の少女だ。千里眼で遠方を覗き、軽くて小さい物ならこの紙切れのように任意の場所に送ることができる。

「夜が明けるまでに終わらせればいいんだろ?」

「そう言えば、分身体でも手術できるの?」

「本体が遠隔操作する予定だ。良かったら獏も、道具を渡すとか、手伝ってくれるか?」

「それなら安心だね。僕にできることなら手伝うよ。手先はあんまり器用じゃないかもしれないけど」

「手術しろとは言わないよ。さすがに」

 獏が食事のナイフとフォークを持つような仕草をするので、遣らせる気は無いが手術をさせないようにしようとラクタヴィージャは決意した。どう見てもステーキを切って食べようとする動きだ。切るのはともかく、手術で食べる動作は無い。

 打ち合わせをしている内に人間の街の夜は更ける。紅茶を何杯も飲んで時間を潰していた男はトイレを済ませて手術に挑んだ。

 ラクタヴィージャは先に男と共に手術室で待機し、灰色海月は手術室の外で人間が来ないか監視をする。鴟吻は千里眼で病院を覗き、手術室に向かう人がいれば灰色海月に知らせる役だ。

 願い事の契約者の彼女を迎えに行くのは獏の役目だ。疾うに消灯時間が過ぎた薄暗い病院の中で、既に眠っている彼女の病室へ向かう。どうやら個室のようだ。他の患者が起きないか心配する必要が無くてありがたい。

 獏には眠りに誘う能力がある。烙印があっても、首輪で力を封じられていても、その能力は使用できる。既に眠る彼女を更に奥深くまで引き摺り下ろしてから抱き上げた。

 するりと体から布団が落ち、膝から下が無い下半身が露わになる。

「……軽いね」

 獏は契約者の願い事を叶えるために、彼女には何も言わず病室を出る。彼女の目が覚めていたら事情を話したが、眠りを妨げてまで話す気にはならない。獏は人間が嫌いだ。

 薄暗い廊下では、鴟吻の御陰で誰とも擦れ違わない。見張ってくれる者がいるとこんなにも安心感がある。もし誰かが廊下を歩いてきても、鴟吻なら足止めができる。

 手術室の前で待機していた灰色海月は頭を下げ、両手が塞がっている獏のために扉を開けた。

「……自分の脚じゃなくても、付きますか?」

「ラクタならできるよ。でもすぐに動くようになるかはわからないから、契約者が彼女が歩く所を見るのはいつになるかなぁ……代価の受け取りはあんまり延ばしたくないんだけど」

 獏の心配は人間ではなく代価である。食事が掛かっているので切実だ。

 首を傾げながら手術室へ入り、既に男を手術台へ寝かせて待っているラクタヴィージャに指示を仰ぐ。

「ラクタ、こっちの人は何処に寝かせる?」

「そうなんだよ。手術台が一つしかないのは盲点だったな……」

「床に寝かせる?」

「……それしかないな。手術が終わったら床に。さすがに直には置けないから、布とか…」

 辺りを見渡すが、良さそうな物は無い。

 ラクタヴィージャと獏は手術室を歩き回るが、空の手術室に道具など出しっぱなしなわけがない。

 困り果てていると、中の様子など知らないはずの灰色海月が恐る恐る扉を開け、布団を抱えて入ってきた。

「鴟吻さんから指示があったので、持ってきました」

「さすが鴟吻。じゃあそこに置いて。躓かない所に」

 ラクタヴィージャは虚空に向かって軽く手を振り、灰色海月に布団を敷いてもらった。

 獏はそれが不思議で堪らない。

「鴟吻の能力は声までは拾えないんだよね? 何で欲しい物がわかったのかな?」

「獏は贔屓(ひき)の統治時代を知らないからな。あの頃の贔屓の右腕は蒲牢(ほろう)だけど、鴟吻は秘書みたいなものだった。贔屓が頼む前に情報を収集したり、必要な物を用意したり。そういう能力があるわけじゃないけど、気持ちを読むのが得意なんだよ」

「へえ、補助に長けてるってことだね」

「千里眼で見えてはいるから、推理が得意とも言えるかな?」

 ラクタヴィージャは持参した大きなトランクを開き、手術道具を取り出す。人間の医者が手術に用いる道具もあるが、獣ならではの物もある。

「始めるよ、獏」

「僕は何をすればいい?」

「手が当たらない距離に離れて、必要な時に指示を出す」

「特にすることはないってことだね」

 獏は素人である。幾ら獣が適当な性格とは言え、素人の手際に任せはしない。獏は三歩下がった。

「人間には……この麻酔でいいか。時間が無いから超即効性だ。うっかり獣用を使うと一生目覚めないかもしれないから、間違えないようにしないと。それから、脚を切断するために……」

 手術室ではおそらく見ないだろう道具を両手に掲げた。木を切るチェーンソーだ。

「人間が起きてたら悲鳴を上げそうだね」

 人間の病院でも電動鋸を使用して切断を行うが、ラクタヴィージャが持っているような大きな刃は付いていない。別物だ。

「獏、早速なんだけど、人間のズボンを脱がすのを手伝って」

「任せて」

 早速出番だと素人の獏は男の靴、靴下、そしてズボンを脱がせた。ラクタヴィージャが投与した宵街の麻酔薬で、男は死んだように動かない。今なら死んでも気付かないだろう。

「転がらないよう脚を押さえて、獏」

「思ったより遣ることあるね」

 切断する位置に目印の線を書き、粘着質な薬を厚く塗布する。そのラクタヴィージャの手元を獏は興味深く覗き込む。

「手術の見学なんて初めてだよ」

「持って来た薬は全部私が作った物だから、人間の手術とは違うと思うけど」

「人間が相手でも?」

「人間の手術は見たことない。……あ、そうそう、手術中も会話はできるけど、急に大声を出したり殴ったりするのはやめて」

「そんなことしないよ」

 いつもの声量でも問題は無いが、獏は声を抑えた。

「じゃ、手術開始だ。軽く血が飛び散るかもしれないけど、気にするな」

「え?」

 獏の疑問は、勢い良くチェーンが回転を始めたチェーンソーの騒音に掻き消された。おそらく普通は手術室で轟く音ではないだろう。

 ラクタヴィージャは全く躊躇わず、両脚を広げて脇を締め、男の脚にチェーンソーを下ろした。目印の線に寸分違わず刃を当てる。

「すご……い……凄い血飛沫だけど大丈夫!?」

「大声出すなって言っただろ!」

 今まで見たことのない形相で激昂するラクタヴィージャに、獏もびくりと顔が強張った。

「ご、ごめん……」

「一ミリずれただろ!」

「ごめん……本当にごめん……」

 そこまで大声を出したつもりは無かった獏は肩を縮めて落ち込む。驚いてももう口を開かないよう意識をしながら、ラクタヴィージャの指示で男の脚を少し持ち上げ、手術台を傷付けることなく脚だけを綺麗に切断した。もう一本の脚も同じように血飛沫を上げて切断する。

 血飛沫とチェーンソーの唸りが静まった所で、漸く獏は肩の力を抜いた。

「……ただ切るだけなら多少ズレてもいいんだけど、このあと繋げないといけないからな。獣がそんなに血に驚くとは思わなくて。怖がらせたか?」

 チェーンソーを置き、手を止めずにラクタヴィージャは獏に謝った。獣なんて皆、血を見慣れているか他人の血など気にしないと思っていた。知人の血ならともかく、知らない人間にそんな反応をされるとは想定していなかった。

「う、ううん……血は怖くないけど、人間って弱いから……死なないのかなって」

「ああ……飛び散り方に驚いた? 微細な飛沫だから、見た目より失血してないよ。予め塗布した薬が断面を覆って、即時、止血してくれてる。人間は脆いってわかってるから、慎重に遣ってるよ」

「へぇ……慎重……」

 二人は血飛沫を浴びて血だらけだ。早くシャワーでも浴びたい所だが、手術はまだ半分しか終わっていない。

「男の方は止血されてるから、薬の効果が切れる前に女にこの新鮮な両脚を付ける。生体から切り離された物は、その瞬間から劣化していく。早くしないと」

 両脚を失った男を床の布団へ下ろし、今度は女を手術台に載せる。女は上にガウンを羽織っているだけでズボンは穿いていないので、脱がす作業が無く時間が短縮できた。

 手術台に道具を並べ、後はもうラクタヴィージャは一言も話さずに作業に没頭した。本体が遠隔操作をし、分身体に喋る余裕が無くなった。獏は布団に転がされている男の傍らに蹲み、膝を抱いて大人しく待った。

 病院の人間はよもや空の手術室で獣が手術しているとは思わない。近くに患者の病室が無いこともあり、そこへ接近する人間はいなかった。

 手早く慣れた手付きで脚の肉も骨も神経も繋ぎ、血を拭いて薬を塗布する。

「……暫くは安静に……と言いたい所だけど、歩行を確認しないといけないんだよな? 少し歩いたら暫く安静にしてもらう」

「終わった?」

「終わった、けど……遣っておいてだけど、本当に良かったのか? ケンタウロスみたいだよ」

 ケンタウロスは上半身が人間の姿で下半身が馬であるという獣だが、手術を終えた女も膝から上と下で別人だ。肌の色も筋肉量も太さや足の大きさも、何もかもが似つかわしくない。

「これが善行だよ。願ってきた人間の言う通りに結果を出す。他人に配慮してたら何もできなくなっちゃうからね。配慮しなくちゃならないのは僕達じゃなくて、願う人間の方だよ」

「まあ、そうか……。でも見た目は悪くても歩くことはできるから。最初は違和感があると思うけど、慣れれば元の自分の脚のように動かせるし、走ったり跳んだりすることもできる」

「完璧だね。僕は殆ど何もしてないけど……ラクタは代価に何が欲しい? 僕よりラクタが何か貰うべきだよね」

「ん? 私はいいよ。獏が貰っておいて。欲しい物は狴犴(へいかん)が大体用意してくれるし、宵街で不自由はしてないから。宵街でも患者から代金は貰ってないし」

「献身的だねぇ」

「それより掃除を手伝ってよ。血痕を全部拭き取らないと」

「大掃除だね」

 まずは床を掃除し、最後に患者を下ろして手術台を綺麗に拭き取って証拠を隠滅した。人間二人が目覚めるのは夜が明けてからだろう。

 鴟吻の誘導で二人を女の病室に運び、漸く大仕事が終わった。灰色海月も病室に入り、ドアに少しだけ作った隙間から廊下を監視する。看護師が遣って来たらすぐに知らせる役だ。

「返り血が凄いですが、大丈夫ですか?」

「シャワーを浴びる時間は無さそうだからこのまま……やっぱり顔だけ洗ってこようかな」

 目覚めた時に血塗れの人が立っていたら驚くだろう。獏とラクタヴィージャは急いで近くのトイレの手洗い場で顔を洗い、血だらけの上着を脱いだ。獏の服は黒いので血も目立たないが、白衣のラクタヴィージャは誰もが振り向くほど目立つ。こんな姿を見たら誰でも悲鳴を上げる。

 先に目覚めたのは男の方で、彼女と同じベッドに寝かされていた彼は隣に彼女の顔があることに驚いたが、状況を察した。そこにあるはずの両脚の感覚が無かったからだ。

「手術は……」

「成功したよ。君の脚はもう彼女のものだ」

「良かっ……良かった……」

 男は泣き出し、慌てて獏は人差し指を口元に当てた。大声を出すと、来なくて良い看護師が駆け付けてしまう。

「君の脚は無くなったけど、そのままにしておくか義足を付けるかは君の自由だからね」

「あ、ああ……これはそのままにしておくんだ……これを見ればすぐに思い出せる……もう二度とこんなことには……」

 話している内に彼女も目を覚ました。いつもの朝食の時間よりも早く起きた彼女は病室に誰かがいることに、隣に誰かが横になっていることに大層驚いた。

「え……?」

 当然の反応だ。個室のはずの自分の病室にこんなに人が押し掛けているのだから。

「お、おい……なあ……オレ……オレはお前に謝りたい……。事故の後……オレはお前に合わせる顔がなかった。それで……やっと今、ここに来ることができた。お前の脚を奪ったオレは、罰を受けなきゃならない……だから……見てくれよ、お前は……また自由に歩くことができるんだ!」

「え……?」

 彼女は状況を全く理解できなかった。だが見れば少しは理解できるだろう。獏は両脚がよく見えるよう、被せていた布団をゆっくりと剥いだ。

 女も視線を動かし、困惑しながらも足元を見る。自分の体に見慣れない脚が生えていることに気付いて血の気が引いた。

「何……これ……」

「こ、これはオレの脚だ……オレはお前にもう一度……」


「だ、誰……?」


 その一言で病室はしんと静まった。男は口を開いたまま、言葉を理解できない。……いや、理解しないよう頭が真っ白になった。

 彼女は事故のショックで記憶が混乱していた。それが一時的なものなのか、もう二度と思い出さないのか、それは担当している医者に尋ねないとわからない。

 男は知らなかった。事故を起こして彼女から両脚を奪った罪悪感から、今日まで彼女を避けていたからだ。両脚を失ったこと以外、彼女の状態を知らなかった。

「オレは……お前の恋人で……」

「知らない……」

 彼女は酷く怯えた顔で、必死に腕で這って彼から離れようとした。狭いベッドから落ちそうになり、獏は慌てて回り込んで彼女を支える。

「大丈夫? 何処も痛くない? 歩けるかな?」

 女はもう一度自分の脚を見た。明らかに女性ではない大きさの足が付いている。この体は、この足は何なのだ。自分のものではない。

「いやあああ! 知らない……何も知らない! こんなの私じゃない! 夢だ……これは夢だ! 早く覚めて……」

 女は獏の手を振り解き、大きな明るい窓へ走った。暗い水底から見えた眩しい光に手を伸ばすように窓を開け、彼女は止める間も無く外へ飛び出した。

「あ……」

 そのまま彼女の姿は視界から消えた。

 ここは何階だっただろう。獏は窓を覗き込み、思案する。

 そしてくるりと振り返り、呆然とベッドに横になっている男に優しく声を掛けた。

「君も見たよね? 彼女は歩いてた。走ってもいたね。君の願い事は叶ったよ。約束通り、代価を戴くね」

「は……?」

「彼女に翼は無かった。それだけのこと」

 両脚が無く動けない男は、獏に伸し掛かられても抵抗できなかった。首から下はまだ麻酔の効果も残っていた。痛みを感じるのはもう少し後だ。

「可哀想に、君は今後一生、罪悪感と後悔に苦しめられるんだろうね。でも僕は優しいから、代価に『罪悪感』を戴いてあげる」

 男の両目を手で塞ぎ、獏は動物面を剥がして彼に口付けた。重い負の感情に育った罪悪感はとても甘美で美味だった。

 獏は口を離し、余韻を味わい恍惚とする。女の記憶が失われていて、飛び降りてしまったのは想定外だったが、それが無くとも拒絶されるのは目に見えていた。若い女が武骨な男の脚を勝手に付けられて喜ぶだろうか。

「独り善がりも程々にね、愚かな人間」

 獏は動物面を被り直し、感情を一つ奪われて惚ける男に微笑む。

「脚のことは医者に訝しまれると思うけど、僕はもう関与しないから、後は頑張ってね。願い事があるならまたポストに投函してくれればいいから」

 獏達はベッドから離れ、灰色の傘を掌から抜いた灰色海月がくるりと傘を回す。三人は病室から姿を消し、ベッドの上で転がる両脚の無い男だけが残された。

 男は何も考えられなかった。何故こんな結果になってしまったのか、彼女は何処へ行ってしまったのか。確かめようにも、窓に歩む足が無い。

「は……はは……」

 だが男にはもう罪悪感は無い。自分を悪いとは思わない。

 ふと漏れた笑いは自嘲だったのか諦観だったのか、胸の(しこり)が取れたような、少しばかり清々しい気持ちだった。


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