207-静かな終わり
「ねえ、願い事を叶えてくれる獏って知ってる?」
大きな花の形に切った木の板に赤いカラースプレーを吹き付けて塗装していた小柄な若い女は、隣で蹲んで金槌を握る若い男にふと問い掛けた。
「知らない」
男は手を止めてぶっきらぼうに答え、小さな釘を狙って金槌を振り下ろす。
女は一つに束ねた髪を振り、男の灰色に染まった頭を見下ろす。彼女は詰まらなさそうに口を尖らせた。この男はいつも冷めている。歳が近いので友達になれるかもしれないと近付いてみたが、彼は手を動かすことにしか興味が無い。
二人はテレビ番組のセットなどを作る美術の仕事をしている。番組のメインは出演者だが、その背景に自分達の作った物は常に映っている。番組を彩る大切な仕事だ。
「佐藤君、ちょっといい?」
呼ばれた灰色頭の男は呼ばれたことに気付かず、塗装をする女に肩を叩かれて漸く顔を上げた。振り向くと、作業部屋のドアから覗く鋭い眉の女性と目が合った。そんな遠くから呼んでも気付かない、と思いながら男は腰を上げた。
「来週空けておいて。さっき連絡があって、ドラマのエキストラが足りないらしくて」
「またですか? 僕の本業はエキストラじゃないんですが」
「そうなんだけど、君がエキストラ出演してる瞬間の視聴率がヤバイからね。もう役者になったら?」
「やめてください。エキストラだけでも嫌なのに」
「とにかく、来週ね。詳しい時間が決まったら伝えるから」
鋭い眉の女は笑いながらぽんぽんと男の肩を叩き、機嫌良く去っていく。善意で一度引き受けてから、こういったことがもう何度もある。最初に引き受けなければ良かったと彼は後悔している。困っていても放っておけば良かったのだ。
男は元の作業場所に戻り、再び金槌を振り上げる。塗装する女はちらちらと男を見ながら、励ますように明るく言った。
「佐藤君、人気だよねぇ。一瞬映っただけのエキストラに火が付いて、一瞬映る度にネットがその話題で持ち切りで」
「ネットなんか見てるのか。暇だな」
「いやこの業界にいたら気になるでしょ? 佐藤君の方が珍しいよ」
そう言われてもインターネットなど見ない。彼がスマートフォンで見るのは精々時計やカレンダー、天気や地図くらいだ。
「そう言えば、CMの話も来てたんだよね? 断ったんだって? 遣ればいいのに」
「目立ちたくない。一瞬だって言うから渋々引き受けたのに……。台詞を覚える時間があるなら、こうして手を動かしていたい」
エキストラでも話題になるのだから、台詞のある役なんて大騒ぎになるだろう。友人が大成する所は見てみたい。そう女は思っているが、男にその欲は無い。この男はあまりに無欲だ。足元に散らかっている木材を跨いで蟹股になりながら、女はその耳元に小声で話を続ける。
「女優の誘いも断ったり、アイドルに声を掛けられても無視したんだよね!? 美人で可愛い彼女とか欲しくないの?」
「この業界の嫌いな所は、耳が早い所だな」
「佐藤君くらいの顔があれば、何人でも侍らせられそうだよねぇ。王子様顔って言われてるよね。身長も高いし。その顔と身長でエキストラやって、目立たないはずないよね」
「…………」
その言葉は聞き飽きるほど聞かされた言葉だ。彼女が言ったのは初めてかもしれないが、他の同僚や上司、後輩にも言われた。裏方ではなく表舞台に立つべきではないかと、最初の面接の時も言われた。顔だけで職業を決められたくはない。男は頑なに美術をしたいと訴えた。
「ああそうだ、絵も頼まれてたんだ。それじゃ」
「あ、あれ? 気分悪くした? ごめん、ごめんって! もう言わないから!」
「……。君は顔で近付いて来たわけじゃないことはわかるから、別に気にしてない」
男はそう言うと金槌を置き、近くにいた同僚に声を掛けて部屋の隅へ向かった。
「気にしてない……。良かったあ」
女はぱっと顔を明るくし、カラースプレーで塗装を再開した。
「あっ、ここ違う色だった! どうしよう!」
騒いで叱られる女を一瞥し、灰色頭の男は大きなキャンパスに指示された下絵を描き込んでいく。
毎日こうして手を動かしている。それが男には堪らなく楽しかった。人ではなく物に向かっている時が一番楽しい。
「あっ、私ね、佐藤君の絵好きなんだよ! その絵もいいね!」
「……まだ下絵」
叱られようが彼女は懲りない。小柄な女は灰色頭の男越しに、まだまだ白いキャンパスを背伸びをして覗き込んだ。
毎日騒々しいが、このくらい図太くないと生き残れないのだろう。
翌日も灰色頭の男はいつものように裏口から入ろうとし、足を止めた。表から入るとファンとやらに捕まることがあるので裏口からこそこそと入るのだが、今日はパトカーが数台停まっていた。
何処から入ろうかと立ち尽くして暫く眺めていると、それに気付いた男が手を上げて走ってきた。
「佐藤!」
「……誰だ?」
「お前、本当に人の顔を覚えないな……。昨日もオレに喋り掛けてただろ。せめて同僚の顔くらい覚えろ」
「ああ……」
「どうせ忘れてるだろうが、昨日もお前と話してた小っこい女、死んだぞ」
「?」
「まあそうなるよな。屋上から飛び降りて死んだらしい。遺書があったから自殺だろうって。『ごめんなさい 私は死にます』って書かれてたらしい。お前、よく喋ってただろ? 何か相談とかされなかったのかよ?」
「……別に」
「まあとにかく、お前も警察に話を訊かれるだろうから」
よく話し掛けてきた小柄な女。彼女のことは覚えている。ああいう人が生き残るのだろうと思っていたのに、呆気無く死んでしまった。
灰色頭の男は同僚の言った通り警察に幾つか質問をされたが、やはり事件性は無いとして彼女の死は自殺として片付けられた。
テレビドラマなんかだと、事件に巻き込まれた主役がここから走り回って証言を集めたりして覆すのだろうが、現実でそういったことは起こらない。灰色頭は何者でもなく、熱意も温情も無い。
警察がいる間はそわそわと局内も落ち着かなかったが、全てが片付くと元通りの日常が戻ってきた。セットを作ったり絵を描いたり、彼女の話をする者もいない。まるで最初から誰もいなかったかのようだ。
作業中に話し掛けられることもなく、灰色頭の男も仕事に集中することができた。
彼女が褒めていた下絵も色が付き、完成させることができた。色は暗いが、粗目糖を塗したような輝く星空の絵だ。暗ければ暗い程、星は輝く。
(……予定より遅くなったな)
男は絵の具を片付け、あまり物の入っていないぺしゃんこのリュックを背負った。
いつの間にか誰もいなくなった作業部屋の明かりを消して鍵を掛ける。廊下にも誰もおらず、半分ほど明かりを消された暗い廊下をひっそりと歩いた。
ドアの窓に明かりが点いている部屋もまだ疎らにあったが、殆どの人間はもう帰っている。
裏口の冷たい鉄のドアを開け、男はいつも通り帰路に就いた。外は疾うに真っ暗だ。
ドアを閉めようとした所で、そこに誰かがいることに気付いた。ドアを開けた時の陰に立っていたそれは黒い動物のお面を被り、重そうな首輪を付けた首をかくんと傾けた。
誰もいないと思っていた男は心臓が跳ね上がりそうなほど驚いたが、声は押し止めた。
ゆっくりとドアを閉め、妖しげなそれの方は見ずに無視をして男は背を向けた。
「――佐藤クララさん、だよね?」
中性的な声で名前を呼ばれた瞬間、男の中で警鐘が鳴り響いた。考える暇も無く、全力で走り出していた。妖しいお面を被っているが、待ち伏せしていたファンかもしれない。まさかこんな時間に現れるとは思わなかった。
「話があるんだけど、ちょっと待ってよ」
妖しいお面も同じく全速力で追ってくる。お面の方が足が速い。それを認め、男は駐車場のフェンスに手を掛け乗り越えた。
「おや、身軽だね」
お面は一跳びでフェンスを跳び越える。脚力が異常だ。
男は横道に入り、街灯の少ない暗い道を直走る。こんなにしつこいファンは初めてだ。
だが追い付けないと思ったのか、お面の諦めは早かった。知らない道を走る内、男は背後に誰もいないことに気付いた。
(撒いたか……? 何処だここ……)
男は肩で息をしながらゆっくりと速度を落として止まる。明かりの消えた背の低いビルに囲まれていた。
スマートフォンを取り出し、現在地を確認する。どうやら駅から随分と離れてしまったようだ。無駄な時間を掛けて駅に行かねばならない。帰るには電車に乗るしかない。
(来た道とは別の道で帰ろう)
地図を頭に入れ、息を整えてスマートフォンを下ろす。
「――捕まえた」
その目の前に、撒いたはずの黒い面が口角を上げて立っていた。
「!?」
男は直ぐ様後退しようとしたが、あまりに近いお面に腕を掴まれた。
「離せ……」
「離すと君は逃げるでしょ? 一緒にこれ、見ない?」
お面は殆ど顔が隠れているにも拘らず、笑顔を作っていることが透けるようにわかった。
空いている手で一通の手紙を取り出す。暗がりでもはっきりと見える、真っ白な封筒だ。
「……?」
「最近、君の同僚が死んだでしょ?」
「…………」
「これはその人から預かった物だよ。遺書、って言ったら、見る気になる?」
「は……? 遺書ならもう……」
「君が知ってる遺書は『ごめんなさい 私は死にます』の方だよね。それは書かされた遺書。こっちが本当の彼女の言葉」
「何を言ってるんだ……?」
男は眉を寄せ、腕を振り解こうとする。だがお面の力は思いのほか強く、離れる気がしない。
「彼女に頼まれたんだ。僕は獏。願い事を叶えてあげる獏だよ」
聞き覚えのある言葉だった。彼女がそんなことを言っていた気がする。
「お前が……?」
「知ってくれてるなんて光栄だね。彼女は死ぬ前に僕に願い事をした。本当はこっちの遺書を置いて死にたかったみたいだけど、もし死に損なったらもっと酷い目に遭うんじゃないかって不安で、だから僕に頼んだ」
「…………」
「無事に死ねたら、この遺書を公表する、ってね」
「……何が書いてあるんだ?」
「興味が出てきた? いいよ、見てごらん」
獏は男の手を離し、手紙を差し出した。このまま逃げることもできたが、男はその手紙の中身が気になってしまった。こんなに他人に興味を示したのは生まれて初めてかもしれない。
白い封筒を開き、白い便箋を引き抜く。そこにはびっしりと文字が並んでいた。たった二言しかなかった遺書とは別物だ。
「…………」
遺書にはとある女優に脅されていることが書かれていた。死なないと酷い目に遭うと脅されたと。その女優は彼を食事に誘った人だった。彼が断ったことで逆恨みをし、彼の近くにいた同僚の女を標的にした。彼とよく喋っていたから、というだけで。只の嫉妬だ。彼女がいなくなることで彼が女優の方を見てくれるかもしれない。そのためだけに脅して殺した。酷い目とは――佐藤クララに危害を加えることだ。
「……最悪だ」
見なければ良かった。そうとすら思った。醜悪な情念に晒されて同僚の彼女は殺されたのだ。彼女が死ぬまで、彼女は嫌がらせを受けていたようだ。それも彼は知らなかった。彼女が獏の話をした時、遺書をもう書いていたかもしれない。その全てを含めて『最悪だ』と呟いた。
便箋を封筒に入れ、男は獏にそれを突き返した。
「目立ちたくないのに」
虚しく零れた言葉は、彼女を弔う言葉でも女優を憎む言葉でもなかった。ただ自分のことだけが零れた。
「この遺書は君に見せるための遺書だよ。公表する遺書には、ここから君の名前を抜いてある。彼女はそこまで君のことを考えてくれたんだね」
「…………」
「これからの予定は、これを公表して、女優を追い詰めて、全く反省しないなら僕が殺してあげるつもり。これで君の心は晴れるかな?」
「……興味無い」
男は不思議なほど何も感じていなかった。全てが壁を隔てた向こう側で起こっていることで、声だけが微かに聞こえてくるような、他人事のように感じていた。男は冷めていた。何も興味が無かった。ただ静かに目立たずに暮らしたいだけだった。
獏は手紙を仕舞い、無感動な男を見上げる。驚くほど冷静で、虚無だ。
「見せるためとは言ったけど、実はね、君に遺書を見せてほしいとは言われてないんだよね。話はしてくれたけど、名前を入れた遺書を書いたのは僕なんだ。勝手なことしちゃってごめんね」
「……もういい」
「君にはちょっと絶望してもらいたかったんだ。人間にね」
また獏は妙なことを言い出した。
「人間って愚かだよね。君も嫌になった?」
「今度は何を……」
「ね――変転人の苦参さん?」
「!」
苦参の根は生薬として利用されるが、全草に毒のある植物だ。薬として利用されてはいるが、量を間違えば死ぬ可能性もある危険な物である。根は目が眩むほど苦い。
男は微かに目を見開き、即座に踵を返して走り出した。先程よりも足に焦りが出る。
それを獏は一気に詰め、彼の肩にとんと手を置き、くるりと前へ回り込んだ。
「ちょっと気になったから、先に調べてたんだよね」
「!」
方向を変え、男は路地に逃げ込む。
だが獏は本気すら出していないように、踊るように余裕のある足取りで追いつく。
「怖がらせたかな? 大丈夫、僕は君に何もしないよ。ただ少し、話をしたいだけ」
最初に追われた時に薄々そうではないかという気はしていた。人間とは思えない速度と軽捷な身の熟し――こいつは獣だ。
何も興味を示さなかった所為で、人間の中では比較的有名な獏すら知らなかった。せめて同僚の女が話し掛けてきた時に興味を示してもっと話を聞いていれば、もっと早くに気付けたかもしれないのに。
(獣に捕まってたまるか――!)
路地にある障害物を跳び越え走り続けるが、やがて行き止まりに行き着き、背後に戻るわけにはいかず壁を蹴って上に逃げた。民家のベランダや屋根に跳び乗り、家と家の間を跳び越える。
「凄いね、君! 変転人の中では間違い無く最上級の身体能力だよ!」
(このくらい、人間でもできる……。何なんだ、この獣は? 僕を連れ戻す気か? 目立たずに生きてきたのに……まさかテレビを見たのか?)
楽しそうに笑う獏は不気味で、男は背筋に冷たいものを感じながら必死に逃げる。
もう勝負は着いているのだろう。男は獏から逃げられない。まだまだ体力が有り余っている獏に比べ、男はそろそろ限界だ。本気を出せば獏はすぐに彼に追いつく。すぐに捕まえないのは、遊んでいるだけだ。
「…………」
男は体力ではなく気持ちが疲れたように足を止めた。もうここまでにしよう。そう思った。充分人生を楽しんだ。
「おっと、観念したかな? それじゃあ……」
「早く殺せ」
「え?」
「早く殺せよ」
「ちょ、ちょっと待って、誤解だよ!」
そんな覚悟を決められていたとは知らず、追いついた獏は慌てて両手を振った。殺すために追っていたと思われていたらしい。
「僕は君を殺さないよ。話がしたいだけ、ってさっきも言ったけど……」
「殺すんじゃないのか?」
「物騒だなぁ……僕がそんな風に見える?」
「さっき女優を殺すとか言ってたが」
「あれはあれ、これはこれ」
「…………」
男は怪訝に眉を顰めながら、どっと疲れた気分になった。力が抜けたように瓦屋根の上に座り込み、首を垂れる。まだ心臓が早鐘を打っている。
「その灰色の髪は地毛だよね? 君は灰の変転人だ」
気紛れな黒にも正義の白にも属さない、中立の灰色。宵街では珍しい色だ。
獏は彼の隣に座り、楽しそうに微笑む。
「君は宵街に行ったことがないよね?」
男の肩がびくりと強張った。だがそんな名前の街なんて知らなかった。
「……知らない」
「行ったことがないなら知らなくても不思議じゃないね。でも獣に人の姿を与えられたんだよね? 宵街から迎えは来なかったの?」
「知らないって言ってるだろ。僕は逃げたんだ。変な街には行かない」
「うん。君が行きたくないなら、それでいいよ。逃げたから僕に殺されると思ったの?」
「……。僕が最初に見た獣とは違うが……その獣は、今度はどれくらいで死ぬか、と話していたから、殺されるんだと思った。目を離した隙に逃げた」
「へぇ。僕の知り合いでそんなことを言う人はいないと思うけど……悪い獣に引っ掛かったんだね。宵街は変転人に優しいから、殺されることなんてないよ」
「…………」
信用できない。と言う風に眉を顰めて男は獏を一瞥し、休ませた足で立ち上がった。
「もう行くの? ……あ、そうだ。君と同じ灰色の変転人に会ってみない? 近くにいるんだけど」
「…………」
「じゃあ決まり」
ふいとそっぽを向く男の手を取り、獏は屋根を跳んで飛び降りた。腹の底から浮き上がるような感覚が男を襲い、重力が薄くなったようにふわりと地面に降り立った。
「僕は触れたものを少し軽くできるんだ。驚いた?」
悪戯っぽく笑い、獏は道の向こうから走ってくる灰色の女に向かって手を振る。
獏と男の速度に全く追いつけなかった女は肩で息をし、無表情で息を整える。頬が赤くなっていて、必死に走って来たことがわかる。
「ほら、彼女が灰色の変転人、灰色海月さんだよ」
灰色海月はまだ胸を上下させながらも灰色の頭を下げる。
そんなことを言われても男には人間と変転人の見分けなどつかなかった。
だが次の彼女の行動で、普通の人間では無いと否応無しに理解させられた。灰色海月は何も無い掌から長い灰色の傘を引き抜いたのだ。
「驚いてる、ってことは、無色の特徴も知らないんだね。この傘は転送……瞬間移動できる傘なんだよ。君も使えるけど、欲しくなった?」
「テレポートできるのか……? そんな傘で?」
男は揺らいでしまった。毎日通勤の満員電車に揉まれなくても良いのではないかと考えてしまった。男は今の仕事を気に入っているが、通勤は好きになれなかった。
「体験してみる?」
「……いや、いい。それが本当だとしても、何処に連れて行かれるかわからない」
「クラゲさん」
獏が何故彼女の名前を呼んだのか知らないが、男は灰色の傘をぽんと開く灰色海月を見た。そして彼女はくるりとそれを回した。
「……は?」
一瞬で景色が一変し、石造りの家が並ぶ暗い石畳の街が視界に広がる。男は周囲を見回し、背筋に冷たいものが流れた。
「安心して、ここは宵街じゃないから。僕の家……みたいなものかな?」
灰色海月は獏の首から重い首輪を外し、獏は襟の釦を留める。
「……元の場所に帰せ」
「転送できること、信じてくれた?」
「信じたから帰せ」
「傘、欲しくなった?」
「……別に」
迷いが一瞬出てしまった。
「クラゲさん、彼を宵街に連れて行かずに傘だけ貰うことってできる?」
「できます。形の希望を出さなければ飾り気の無い一般的な傘の形になりますが」
「うん。それでいいんじゃないかな。彼は目立ちたくないって言ってるんだし」
何も言っていないのに話が進められている。男はもう一度周囲を見渡した。
「ここから出るには転送するしかないから、走っても逃げられないよ。傘が出来上がるまで僕の店で待つといいよ」
「店……?」
「こっちだよ」
灰色海月を置いて、獏は一軒だけ明かりの灯っている建物のドアを開けた。懐かしいような温かな光だ。獏はそれに吸い込まれていく。
男は頭を下げる灰色海月を振り返り、店の中を覗く。どんな如何わしい店なのかと並ぶ置棚へ目を遣る。
「…………」
どうやら古い物らしいことはわかった。硝子の瓶や器、葉書やカードのような紙製の物、テーブルクロスなどの布、何かの部品が転がっているのが見えた。紙や布には茶色い染みができて、鉄は錆びている物が多い。
死角になっている奥の棚には何があるのか、少し気になってしまった。一歩一歩、手招かれるように奥へ入っていく。獏は最奥の机の向こうで、古びた椅子に座って微笑んでいた。
レースや刺繍の入った布、色々な素材の釦、短くなった鉛筆……大きな物では蓄音機や黒電話まで置かれている。汚れた古い食器や、何かはわからないが液体の入った小瓶、金属が変色しているブローチや指輪などの装飾品……の間に、透けて向こう側の色が見える細長い紙のような物を見つけた。初めて見るそれをゆっくりと引っ張り出す。強く引くとすぐに千切れそうだ。
「何だこれ……?」
「それは脱皮した蛇の皮だよ」
思わず手を離した。
「人間が言うには縁起物らしいよ。金運が上がるとか。買う?」
「いらない」
薄暗い棚を物色して突然蛇の皮が出てきたら悲鳴を上げる者もいるだろう。よく見たら装飾品の間に、輝く黄金虫の死骸も転がっている。この店は何なんだ。
「同じ系統の物を纏めてるんだけど、どう?」
「同じ系統……?」
獏の感覚は一般的な感覚とは異なるのだろう。男は真剣に聞かないことにした。
「……ぁ」
「それは画材なんだけど……江戸時代のかな? 生まれる前の物はよく知らなくてね」
無意識に声を出してしまった男に、いつの間に立ち上がっていたのか獏が奥から覗き込むように体を傾けて答えた。
色が付着した白い小皿が幾つも棚に押し込められていた。近くに筆も転がっている。その横に引き出しの付いた木箱があり、ここから出して置いたのだとわかった。木箱に少し色が付着している。
「欲しい……」
「えっ、買う? 幾らにしようかな……千円……」
「価値のわからない獣が……」
「き、君には安く譲ってあげようと思ったんだよ。それで絵を描くの?」
価値がわからない獏は慌てて言い繕い、話を逸らした。
「絵を……? 描きたいが、使うのは勿体無く思う……見るだけになるなら、やっぱりいらないか……?」
「見るだけでもいいと思うし、やっぱり使いたいって思った時に手元にあるのはいいよね」
「営業するな」
男は財布を取り出し、中身を確認した。こんな店がキャッシュレスに対応しているとは思えない。現金を持ち歩いていて良かった。
「本当に千円でいいのか?」
「いいよ!」
男は獏の手に千円札を置いた。まんまと買わされてしまった。だが後悔はしていない。
「博物館で見た時、欲しいと思ったんだ」
「博物館……!?」
そんな所に置かれている物だとは、獏は勿論知らなかった。価値がわからない者の手元にあると粗雑に扱われたりもするが、この画材は綺麗なものだ。まるで当時のままのようだ。男はそれが時が止まっている場所に置いてあったからだとは知らない。
木箱に画材を仕舞いながら、男はここに来て良かったと思った。口元に少し、珍しく笑みが漏れてしまう。
「只今戻りました」
知らず内に随分と時間が経っていたようだ。灰色海月が新しい灰色の傘を手に戻ってきた。重そうな木箱を腕に抱える男に渡そうとし、手が塞がっていることに困った。
男は一旦木箱を棚に置き、灰色の傘を受け取る。本当に只の傘にしか見えない。
「傘を開いて、行きたい場所を想像して念じて、くるっと回せば転送できます。慣れるまでは転送位置が少し逸れるので、練習してください」
「……わかった」
「一度転送すると数分程度は転送できなくなるので、気を付けてください。後は……雨の日に傘としても使えます」
「やっぱり傘なのか」
閉じた傘を凝視し、そう言えば灰色海月は手から傘を出していたことを思い出す。同じ変転人と言うなら自分にも可能かもしれない。試しに掌に傘の先を当てると、静かに吸い込まれていった。手に傘が刺さっているのに痛くも痒くも無い。ただ手に小さな物を載せたような、その程度の触覚だ。まるで手品だ。傘を吸い込んだ手に指を掛けると、簡単に先程の灰色の傘が取り出せた。
「どう? 気に入った?」
いつの間にか背後に移動していた獏に、男は強張った。獣は簡単に背後を取る。気を緩めないように警戒心を強めた。良い物を売ってくれたとは言え、獣は獣だ。
「……さっき絶望してもらいたかったとか言ってたが、やっぱり僕を殺すつもり……」
「え? あれは、僕が人間を嫌いだから、人間と一緒にいない方がいいのにって思ったんだよ。嫌になったら一緒にいたくないでしょ?」
「…………」
重い木箱を抱え、もう用は無いと男は無言で店を出た。
「ねぇ、君から答えを聞いてないんだけど?」
「答え?」
心当たりが無かった男は首を捻る。
「名前だよ。君の本当の名前。僕の推測で合ってる?」
「ああ……」
そう言えばまだ認めていなかった。『佐藤クララ』は人間の中で暮らすための偽名だ。数が多いらしい苗字を目立たないように付け、人名として使えるらしい自分の名前を付けた。
「お前の言う通り、僕はマメ科の苦参だ」
そう言って彼はくるりと灰色の傘を開いて回し、姿を消した。
――それで良い。今は宵街に触れず、望む通り人間の街に棲むと良い。獏も宵街には報告せず、彼の平穏を祈った。
第二幕で一瞬だけ名前が出てた佐藤クララさんです。




