206-御茶会
世界から隔離された小さな空間に、僅か十軒ほどの石造りの家が並ぶ街があった。街は常に夜で、月も星も無く、街灯が疎らに朧げな光を発しているだけだった。
その中に一軒だけ、薄暗い明かりを灯す古物店があった。
願い事を書いた手紙をポストへ投函すると、この世の何処でもない場所に居る『獏』という存在がその願いを叶えてくれると言う。そんな噂が人間の街に密かに広まっていた。
石畳の上にこつんと細い踵を叩く音が忽然と響く。小さな電球が下がる灰色の傘を差した灰色の女が、パジャマ姿の人間の少女を背後に連れて歩く。
まるで夢の続きのような空間を少女は見渡した。あまり楽しそうな夢ではなさそうだ。
一つだけ明かりが灯るドアを開け、背の高い置棚が並ぶ狭く薄暗い通路を進む。棚の中には用途が不明の部品のような物や、欠けた瓶など古そうな瓦落多が詰まっている。中には使えそうな物もあるが、少女には使い方がわからない。ダイヤル式の電話など初めて見た。
「連れて来ました」
通路の奥には棚やその中身と比べて比較的新しい机が置かれ、対照的に古びた革張りの椅子に妖しい動物面を被った黒衣の人物が座っていた。
灰色の女の呼び掛けに黒衣の人物は動物面から覗く口元を微笑ませ、女から手紙を受け取る。
パジャマの少女は机の前に置かれた簡素な椅子に座り、封を切る動物面の手元にぼんやりと目を遣る。爪は黒いが白く細い嫋やかな指が、少女が書いた願い事の便箋を徐ろに引き出す。
「これは……珍しい、魅力的な願い事だね。『一週間、私とお茶会をしてほしい』……場所はここでいいのかな?」
「……はっ、はい」
指先に見入っていた少女は、慌てて返事をした。夢の中の住人が自分を認識している。そんな不思議な感覚だった。
「あ、あの……貴方が獏……ですか?」
「うん、そうだよ」
「本当にいるんだ……」
少女はぼそりと漏らし、改めて獏を見る。変わったお面を被っているが、それ以外は人間と変わらない容姿に見える。
「時間は決まってるのかな? 三時のおやつ時? それとも丸一日、終わらない御茶会かな?」
「一週間……時間は考えてなかったです。できれば夜……皆が寝てる時間に。……そんな夜遅く、迷惑ですか?」
「僕は夜行性だからね。寧ろ夜は歓迎だよ。皆が寝静まった真夜中、夜が明けるまで、僕が御相手をするよ」
「よ……宜しくお願いします……」
「御茶や御菓子はこっちで用意していいかな? お勧めがあったら持って来ていいよ」
相手に寄り添いながら、獏は少し期待していた。人間の街には美味しい紅茶や菓子の店がたくさんある。人間が嫌いな獏は人間の店で買物などしないが、食べ物には興味がある。
「お勧めは……私は買いに行けなくて……」
「それなら仕方無いね。こっちで用意しておくよ」
心中では残念そうに肩を落とし、獏は前に置かれたティーカップを手に取る。少女も釣られてカップを手に取り、同時に良い香りの紅茶を喉に流した。
味は美味しい紅茶だが、これは願い事を叶えて代価を戴くために契約の刻印を与える物だ。獏が願い事を叶え、契約者が叶ったと認めれば、獏は契約者から代価を戴く。代価をきっちりと払うまで逃がさない刻印を刻むのだ。
人間の方はこの契約の紅茶だが、獏の方は普通の紅茶である。獏に契約はいらない。
「一緒に御茶会をするだけだから、代価も軽くしておくよ。願い事を叶えたら、君の心の柔らかい所をほんの少し、戴くね」
「はい」
少女は仄かに笑みを湛えて頷く。
「…………」
変わった人間だ。獏はそう思った。漠然としていて曖昧な代価に疑問を持たず、恐怖も覚えない。するりと条件を呑み込んだ。
「……クラゲさん。外は夜なの?」
小さな台所の前に置物のように立っていた灰色の女は、無感動な顔を動物面に向けた。
「いえ。真昼間です」
「ふぅん……じゃあ御茶会の時間はまだだね。夜にまた会おう」
「は、はい。宜しくお願いします」
灰色の女――灰色海月に促され、少女は不思議な街を後にした。来た時と同じように灰色海月は灰色の傘をくるりと回し、一瞬の内に居場所が変化する。
一人残された獏は頬杖を突き、かくんと首を傾けた。
(……外は真昼間なのに、あの人間はパジャマだった。学校はお休みなのかな?)
少女を元の場所へ送り届けた灰色海月は、早速今夜の御茶会の菓子作りに取り掛かった。あまりに急なので、作り慣れているクッキーを作る。
「あの、御茶会では定番の御菓子はあるんでしょうか?」
材料と道具を台所に並べつつ、古い革張りの椅子で寛ぐ獏へ問い掛ける。人間の御茶会は初めてだ。
「どうだろう? アフタヌーンティーと言えば定番はスコーンだけど、全然アフタヌーンじゃない時間だからね。あの人は何も言ってなかったし、何でもいいんじゃないかな?」
「それなら……使う機会が無かったんですが、実はこんな物があります」
灰色海月は棚の中から、等間隔に皿を縦に三枚差し込んだ細い金属製のスタンドを取り出して見せた。
「それは……人間の所で見たことあるよ! アフタヌーンティーで出て来る奴だ! 名前は知らないけど……御菓子タワー?」
「御菓子タワーです」
彼女もその名称を知らないため、獏の発言に乗った。
「御茶会っぽいね。きっと今夜が使う機会だよ」
「期間が一週間なので、毎日違う紅茶を出します」
「いいね。ここじゃ狭いから、外にテーブルを出そう。造花なら棚の何処かにある気がする」
「御菓子も毎日違う物を作ります」
「ふふ……こういう願い事なら歓迎だね。安全で美味しい。こんな願い事ばっかりだったらいいのに」
早速立ち上がって棚の瓦落多を物色しながら、獏は御機嫌だ。愚かな人間は愚かな願い事を投函することが多く、今まで散々振り回されてきた。ゆっくりと座って紅茶を飲み、菓子を食べて話をするだけの善行なら気持ちが軽い。
棚を荒らして騒々しいので、迷惑そうな顔をしながら黒猫が顔を出す。ここで飼っている猫だ。奥で白黒の子猫も眠っている。
「ごめんね、ちょっと花を探してて」
一瞥しか向けない獏に、黒猫はふいと踵を返す。他の棚へ行ったかと思えばすぐに獏の前に戻り、獏の目線にある棚へ跳び乗った。
「……あれ? 見つけてきてくれたの?」
黒猫の口には紫色の造花が咥えられていた。
「ありがと。桔梗の花だね。時期はちょっと早いけど、違っても咲いてるのが造花のいい所だよね」
教えてもいないのに物を取ってきた黒猫を撫で、満足そうに去って行く背を見送る。こんなに賢い猫だとは知らなかった。
夜が来るまで、常夜の街で御茶会の準備に勤しむ。使用していない家から丸テーブルと椅子を拝借し、石畳の上に配置した。テーブルの上には、気泡が揺蕩う歪んだ古い硝子瓶に造花を挿して置く。御菓子タワーを置くのが待ち遠しい。
夜の零時になると魔法が解けて帰らねばならない童話はあるが、夜の零時から始まる御茶会に招かれたパジャマ姿の少女は、昼間は無かったテーブルを石畳の上に見つけて頬を仄かに紅潮させた。
「御茶会へようこそ。さ、座って」
獏は微笑み、恭しく手を差し出す。少女は恐る恐る手を取り、用意された椅子に腰を下ろした。クッキーが山盛りのスタンドを見て目を輝かせる。
対面に獏が座ると、灰色海月は温めたティーカップに琥珀色の紅茶を注いだ。湯気の立つそれは、刻印を施した紅茶とは異なる茶葉を使用している。刻印はもう施したので、今回は普通の紅茶だ。
「これ、食べていいんですか?」
「勿論。好きなクッキーを好きなだけ食べてよ」
「私、実は紅茶もクッキーも初めてなんです。お菓子は禁止されてて」
「そうなの?」
「甘い匂いがして、凄く美味しそうだなぁと思ってました。食べたことはないんですが、駅前に新しいケーキ屋さんができたことも知ってるんです」
「それじゃあ、明日の御茶会はそこのケーキにしようかな?」
「え? いっ、いいんですか?」
「君の御茶会だもん。君の好きな御菓子を食べないとね」
「す、凄いなぁ……獏って全部叶えてくれるんだ。噂以上……」
「……もしかして、遣り過ぎた?」
「え? ……い、いえ、すっ、凄く嬉しいです。こういうの、憧れてました」
少女はこれまで、健康的な食事だけを与えられていた。味気無く物足りない日々だった。菓子や紅茶、ジュースも禁止だ。それをこんな夜中にこっそりと食べるなんて、とても悪いことをしている気分だ。だが悪いことをするのは、とても気分が良かった。
星の形をしたクッキーの先を少し齧り、初めての味を噛み締める。甘い菓子はとても魅力的で夢のような味がした。
「御茶会と言えば、後は御喋りかな? 時間はたっぷりあるし、何でも話してよ」
「話すって何を……あっ、すみません……あんまり人と話したことがないので……それに……何を話したらいいのか……」
小さく消え入りそうになりながら俯く。少女は内向的な性格のようだ。
人間ではない獣に何を話せば良いのか、確かに言葉に詰まるだろうと獏は助け船を出すことにした。
「話題が無いなら、僕に何でも質問していいよ。答えられないこともあるだろうけど」
「質問……」
「僕に興味が無かったら、石畳の石の数を数えててもいいよ」
「石畳の方が興味無い……。それじゃ、獏……さんは、夢を食べるんですよね?」
「食べるよ。最近はあんまり食べてないけどね」
「わ、本当なんだ……。美味しい……んですか?」
「悪夢は美味だよ。負の感情が重ければ重いほど、蕩けるほど美味しい」
悪夢の味を思い出し、獏は恍惚と頬を緩ませる。動物面で隠れているが、幸せそうな顔をしていそうだと少女はぽかんと眺めた。
「……やっぱり、普通の人じゃないんですか?」
「うん。僕は人間じゃない」
「そのお面は……外したら、人じゃない顔なんですか?」
「……。それはどうだろう? 僕にもわからない」
「?」
少女は首を捻る。自分の顔なのに自分の顔がわからないなんてことがあるのだろうか。もしかしたら答えられないことなのかもしれないと少女は察する。
「……じゃ、じゃあ、あの綺麗なお姉さんも人じゃないんですか?」
一歩下がって控えていた灰色海月は、話題に挙げられて獏を見る。回答を獏に任せた。
「クラゲさんも人間じゃないけど、人間に近い体だよ」
「人に見えるのに……」
姿形は人型だが、灰色海月は元々海を漂う海月だった。人の姿を与えられてまだ二年ほどしか経っていないのでまだ理解できる感情が少なく、表情が乏しい。
無表情で彼女は人間にできないこと――掌から灰色の傘を引き抜いて見せた。
驚きの余り思考が停止して固まってしまった少女の前で、再び傘を掌へ仕舞っておく。手品のようだが、種も仕掛けも無い。本当に掌に、体内に収納している。
「このようなことができます」
「その傘をくるっとしたら瞬間移動しましたよね……?」
「そうです。くるっと転送します」
「凄いなぁ……夢かな?」
両目を擦り、少女は自分の頬を軽く抓む。しっかりと痛かった。
「獏さんは何で願い事を叶えてくれるんですか?」
「ん?」
質問対象を戻された獏は、飲んでいた紅茶のカップをゆっくりと置く。
「ふふ……聞きたい?」
「は、はい……」
「でも聞いたら、君は怖がっちゃうかも」
「怖いことなんですか? ……たぶん、私は怖がらないと思います。一番怖いことを知ってるから」
「人間は恐怖を娯楽としてるからね。怖いのが楽しいって考え方があるんだよね? 遊園地のジェットコースターとか、お化け屋敷とか。安全の上に成り立つ恐怖は美味しくないんだけどねぇ」
「……そうかもしれませんね」
獏の言葉は、少女の思う怖いこととは違っていたが、彼女は訂正しなかった。今は自分の話ではなく、獏の話を聞きたい。
「怖いと思ったら、御茶会を切り上げてもいいよ」
「はい」
「僕は悪いことをした罪人なんだ」
「…………」
「だから罪を償うために善行をさせられてる。その善行が、人間の願い事を叶えること。僕は償うつもりはないけどね」
「願い事……叶えてくれないんですか?」
「叶えるよ。ただ……結果が必ず良くなるとは限らない、かな。でも叶えた人間は喜んでくれてたよ」
「どんな悪いことをしたのか、聞いてもいいですか?」
「……切り込んでくるねぇ。悪夢だけじゃなく、良い夢もたくさん食べたんだよ。暴食が僕の罪」
本当はそれだけではなかったが、何も知らない灰色海月の前なのでそれ以上は伏せておく。何より人間に過去を話す義理も無い。
「良い夢を食べると、悪いんですか……? 良い夢の方が美味しそうなのに」
「逆だね。僕には良い夢は美味しいと思えない。淡白でさ、あんまり味がしないと言うか。深みが無いんだよね……」
「何だか……私が毎日食べてるご飯みたいですね」
「えっ、そんなもの食べてるの? もっとクッキーを食べた方がいいよ。悪夢とどっちが美味しいかと訊かれたら悪夢って答えるけど……御菓子も美味しいよ」
何故美味しくない夢をたくさん食べたのか。それも少女は聞きたかったが、先に苦笑が出てしまった。どんな答えでも自分に重ねてしまいそうで、現実に引き戻されそうな気がしたからだ。
――一日目の御茶会はそうして静かに幕を下ろした。真夜中から夜が明けるまで、それは想像よりも短い。
二日目の御茶会に出す駅前のケーキとやらは、人間の街での買物に慣れていない灰色海月の代わりに、暇をしていた黒の変転人の女、洋種山牛蒡に頼んだ。彼女は灰色海月と同じ、人間ではなく人間以外の生物が人の姿を与えられて生まれた。彼女は元は植物で、灰色海月と同様に有毒だ。有毒の彼女達は無色の変転人と呼ばれる。灰色海月のように掌に傘を出し入れし、転送することができる。
変転人となって十年以上経つ洋種山牛蒡は人間の街での買物も慣れており、人間の間を縫って速やかにケーキを確保、ついでにちゃっかりと自分の分も買った。買った物を持って路地に身を潜め、灰色海月と共に箱を開けて中身を確認する。
「色んなケーキがあって迷ったんだけど、私の好みで選んで良かったの?」
「はい。私にはよくわからないので、助かりました」
「それならいいけど。じゃ、私は自分のケーキを堪能するために戻るわね」
「はい。ありがとうございました」
「……あ、そうそう。ちょっと気に懸けておいてほしいことがあるんだけど」
「何ですか?」
「ウニちゃんを見掛けたら教えてほしいの」
「ウニさんですか? わかりました」
「図書園の本の返却期限を過ぎてるのに、返却してないんだって」
「それは駄目ですね。見掛けたら言っておきます」
「ありがとね」
洋種山牛蒡は艶やかに微笑みながらケーキの入った箱を大事そうに、手を振って黒い傘をくるりと回し姿を消した。灰色海月もケーキの箱を大事に、灰色の傘をくるりと回す。
小さな街は今日も暗く静かだ。獏は平素のように古物店の奥の定位置に座って黒猫を膝の上で撫で、白黒の子猫が脚を登ろうとぶら下がっていた。
「おかえり、クラゲさん。どうだった?」
「四つ買ってもらいました」
「僕とクラゲさんが一つずつ。依頼人が二つ、かな? 食べたいケーキがあったら先に取っておいてよ」
「わかりました。プリンは無いので、どれが良いかわかりません」
灰色海月は相変わらずプリンを気に入っている。ケーキにはプリンは載っていない。
「どれも気にならない?」
「……この円いのが一番海月に近そうです」
「タルトだね。じゃ、他の三つを出して、依頼人に選んでもらおう」
残りは苺のショートケーキとチョコレートケーキ、レアチーズケーキだ。一番鮮やかに果物が載ったタルトが箱から消えた。
「ヨウさんが、気に懸けておいてほしいことがあると言ってました」
「ん? 何かな」
「ウニさんを見掛けたら教えてほしいそうです」
「ウニさん? 僕が見掛けられるとしたらここだけど……ウニさんは来てないね。海の方を捜してみるのはどうかな?」
黒色海栗は灰色海月よりも一年先輩の変転人だ。彼女はよく海を見に行っているらしく、今回も海の近くにいるかもしれない。人の姿を与えられて海から離れても、海が恋しいようだ。
「海にいる気がしてきました。ヨウさんに言っておきます」
夜までは暇なので、灰色海月はケーキを置いて宵街に転送した。獏は黒猫の頭を撫で、美味しそうなケーキのことを考えて時間を潰した。
この日の御茶会も人間の少女はパジャマ姿だった。ケーキを見せると少女は満面の笑みを零す。悩みに悩んだ末、彼女は苺のショートケーキを選んだ。
「苺ショート、憧れだったんです! 食べられるなんて……えっと、ケーキ代は……」
「ケーキ代は御茶会の願い事に含まれるから、気にしないでよ」
「御茶会の代金が膨れ上がったりしますか……?」
「代金じゃなくて、代価だね。君の心の一番柔らかい所をほんの少しだけ、戴くよ」
「ほんの少し……」
「何で少しだけなのか気になる? それはね……たくさん食べると怒られちゃうからだよ」
戯けるように大袈裟に腕を広げ、獏は詰まらなさそうに笑った。奪い過ぎると廃人にしてしまうからだが、依頼人を怖がらせないためにそこは伏せておく。
「……怒られたことがあるんですか?」
「おや、鋭いね。あるんだよね……」
腕を下ろし、紅茶を一口飲む。その時のことを思い出して気持ちが萎んだ。
獏はくるくると感情を零し、お面で見えないがころころと表情を変える。それを見るだけでも面白いと少女は思う。この御茶会は少女にとって最高の娯楽だった。
ケーキを頬張る少女に、獏は人差し指と親指で作った輪を向けて微笑む。
(これをあと五日続けるんだよね……何処まで話題が持つかな)
現時点では獏への質問会のようだ。人間には興味が無いので、獏は既に飽きていた。一人で機嫌良く喋ってくれている方がまだ楽しめる。
――そうして毎夜開かれる御茶会に、少女が飽きることはなかった。獏への質問も尽きることはなかった。中には獏が答えられないこともあったが、少女の興味は枯渇しなかった。
「……私には、何か質問はありますか?」
少女がそう問いを投げたのは、七日目のことだった。最後の日だからなのか、漸く獏への質問以外を投げ掛けた。
「んー……僕からは特に無いかな」
特に興味を引かれることは無かった。他の人間と同じ、彼女は只の普通の人間だ。嫌いな人間に興味など無い。
「そうですか……」
少女は目を伏せ、静かな紅茶の水面に視線を落とす。七日間とても楽しそうに笑っていた顔は、酷く窶れていた。
「御菓子……毎日美味しかったです。一生分を食べたみたいに」
「それは良かった」
「ここには時計はないんですか?」
「止まってる時計ならあると思うけど、時間がわかる物は無いね」
「それはいいですね。時間を忘れられるって、素敵です」
御茶会の終了時間を告げるのは灰色海月の役だった。彼女はよく菓子を焼くので時間にも敏感で、体内時計が正確だ。
少女は力無く笑い、最後の御茶会が終わる時間になると呆然と空の皿とティーカップを見詰めた。
「あれ……少しおかしいですね」
「どうしたの? まだ御茶会する?」
それはもう少しここに居るかという問いだったが、少女は違う意味に捉えた。
「あの……明日も……明日も、御茶会いいですか!?」
「明日も? 御菓子の甘さが気に入っちゃったのかな? 一日くらい延ばしても構わないよ」
「明日も、明後日も……時間が短くなってもいいので、毎日……御茶会してもいいですか!? ここに来ると元気になるんです! 体が軽くなると言うか」
「おや。欲が出て来たね。構わないけど、先に七日分の代価を戴くね」
「は、はい……代価って、どうやって渡せば……」
獏は懐から金属の短い棒を取り出し、一振りでぴんと長く伸ばす。先には大きな硝子のような石が嵌められている。それを少女の額に当て、石が光る。痛みも何かが抜ける感覚も無く、獏は目に見えない代価を受け取った。
「――はい、おしまい」
「え? もういいんですか?」
「うん。八日目の御菓子は何がいいかな?」
「あ……そうか、八日目も御菓子が食べられるんだ……。じゃ、じゃあ、パフェ……食べてみたいな……」
「わかった。用意しておくよ。また明日ね」
「ま、また明日……」
獏が手を振るので、少女もぎこちなく振り返す。『また明日』なんて、まるで友達のようだ。少し嬉しい。
灰色海月に転送され、少女は家へ帰された。
折り返し戻って来た灰色海月は皿やティーカップを片付けながら、空のティーカップに揺蕩う代価を味わう獏へ問い掛ける。
「代価は何を貰ったんですか?」
「知りたい? 苦痛、だよ」
「痛覚が無くなったんですか?」
「身体的な痛みじゃなくて、精神的なものだね。例えば……クラゲさんは嫌いなものはある?」
「嫌いは……まだわからないです。……あ、蜃は嫌いです。最初ほどではないですが」
「ふふ……じゃあ嫌なことは?」
「…………」
獏が遠くへ行ってしまうこと。そう頭に浮かんだが、声には出せなかった。困らせてしまいそうな気がしたからだ。
「……あるみたいだね。例えばその嫌なことが起こってしまった時に感じる気持ち、それを無くした」
「嫌だと思わなくなるんですか?」
獏が遠くへ消えてしまっても何とも思わなくなる。苦しまなくて済むのだろうが、何だかそれはとても怖いことのように思えた。
「クラゲさんは怖がっちゃったかな? 賢いね。でも大丈夫。あの人間にはたぶんもう必要無いものだよ」
その意味はわからなかったが、獏はもう何も言わなかった。
八日目の御茶会は、少女は少々途惑っているようだった。
「わ……私……立ってますか……?」
「うん。立ってるよ」
石畳の上で裸足で、少女は自分の頬を軽く抓る。
テーブルの上には、細長いグラスにクリームや果物が詰め込まれた花束のようなパフェが並んでいた。人間の街のカフェのウィンドウに並ぶ食品サンプルを参考に、灰色海月が時間を掛けて拵えた物だ。宵街のカフェにも手伝ってもらって中々上手くできた。
「パフェもある……本当に私、生きてますか!?」
「うん。生きてるよ。ここは夢でもない。現実だよ」
優しい獏の声色に、少女はぼろぼろと泣き出した。
「私……私、あと一週間しか生きられないって言われたんです……だから、もういいやって……体に良い美味しくないご飯じゃなくて、お菓子を食べたいって思ったんです……。なのに、一週間を過ぎても生きてる……先生の言うことはいつも正しくて……正確で、間違ってたことなんてないのに……」
「そっか。じゃあ君が生きたいって気持ちが勝ったのかもね」
「病気は治らないのに、勝てるものなんですか……?」
「僕は医者じゃないから何も言えないけど、とりあえずパフェでも食べる? 八日目の君に」
「! は、はい……パフェ、食べてみたかったんです!」
少女は涙を拭い、御茶会の席に座った。苺のパフェとチョコレートのパフェだ。少女は迷ったが、苺のパフェを引き寄せた。苺が気に入った。
「……私、もっと生きたい……もっと獏さんと御茶会がしたい……明日も明後日も、その次の日も、ずっと……。また迎えに来てくれますか?」
「いいよ。君が呼ぶならね」
獏は細長いスプーンでチョコレートパフェを掬い、口へ運ぶ。その手元を少女は凝視する。最初の日から彼女はよく手を見ていた。何か気になることでもあるのだろう。獏は初めて少女に質問をした。
「僕の手、気になる?」
人間ではないとは言っても、人間と同じ形の手だ。指も五本ずつ揃っている。
「えっ……ぁ……綺麗な爪だなって思って……私、マニキュアなんてしたことがないから……」
獏の爪は艶やかな黒色をしている。
「ああ、これ? これは生まれつきなんだよ。僕は角も尻尾も無い獣だから、人間じゃない見た目って言うとこれくらいかな。獣は皆、手足の爪に色があるんだよ」
「へぇ……お姉さんも生まれつきですか?」
灰色海月の爪は艶やかな灰色だ。変転人には無色と有色がいて、無色の爪は獣のように色付く。だが獣ではない。無色の変転人は無彩色の黒と白、そして灰色にしかならない。
「うん。生まれつきだね」
「いいですね。私も色、塗ってみたいな……」
「じゃあ塗る? 明日になるけど」
「い、いいんですか!? 窓の外に毎年桜が咲いてて、咲いてない時でもあの色が見れたらいいなぁ……」
「わかった。用意しておくよ」
獏はふふと笑い、八日目も穏やかに御茶会は終わった。
少女を家へ返して戻ってきた灰色海月は、席に付いてまだ紅茶を飲んでいる獏へ尋ねた。
「あの、マニキュアとは何ですか? 何を用意すればいいんですか?」
「何も用意しなくていいよ。明日は迎えに行っても無駄足になるだろうからね」
「?」
「この街は夢じゃなく現実だけど、時間は止まってる。この街にいる間は寿命が削られない。真夜中から夜明けまで、それを一週間分――寿命が延びることになった。それが八日目。その次の夜が来るまでに、あの人間は死ぬ。当然、桜はもう見られない。だから先に御茶会の代価を貰った」
「…………」
この街は人間の街とは別の空間にあり、時間が流れないよう特殊な細工がされている。食事はできるがここにいる間は空腹を感じず、睡眠も必要ない。食材を何日放置しようと腐らず、だが菓子を焼けば時間の経過と共に焼き色が付く。菓子を焼く時と同じように、負傷すれば怪我にだけ時間が流れて回復できる。病を患う少女は、この街にいる間だけ病の進行が治まった。
御茶会の中で獏が指で輪を作って覗いていたことを灰色海月は思い出す。それは覗き窓と呼んでいるもので、対象の感情を覗ける輪だ。少女の中の不安を覗いて獏は気付いた。だから代価に『苦痛』を戴いた。せめて死ぬ瞬間に苦しまないように。
「大人しい人間だったから気遣ってあげた。毎日美味しい御菓子を食べられたしね」
「病気を治すことはできなかったんでしょうか?」
「僕は医者じゃないけど、願われたら考えるくらいはするよ。ラクタに相談してみるし。でもここにいる間は病気のことを忘れたかったみたいだね。だから僕も余計なことは言わなかった。善行はするけど、偽善者じゃない」
「そうですか……」
それでも灰色海月は遣る瀬無い。複雑な気持ちでテーブルの上を片付ける。
「クラゲさん。あんまり気にしないようにね。一々気にしてたら身が持たないよ」
「はい……」
「僕としては、今回みたいな大人しい人間の願い事の方がいいよ。よくある恋愛相談よりいい」
他人に危害を加える危険な人間が死ぬことになっても、こうは落ち込まないだろう。大人しく病を受け入れていたから、灰色海月は気になってしまった。生まれてまだ二年ほどの彼女はまだ感情の名前もわからず振り回される。
「それじゃ、店の中で飲み直そうかな」
獏はカップを置いて腰を上げる。まるで酒を飲むような言い方だが、飲むのは紅茶である。暇を持て余す獏は罪人だと言うのにのんびりと紅茶を飲んでばかりだ。
「一応、九日目も確認に行っていいよ。もしかしたら、ってこともあるし。手を合わせてきてもいい。桜色のマニキュアを塗ってあげてもいいよ。ヨウさんなら知ってるんじゃないかな、マニキュア」
「!」
その言葉で、気分が落ち込んでいた理由がわかった。マニキュアを塗れなかったからだ。最後に注文されたそれが達成できず、胸に引っ掛かってしまったようだ。
「ヨウさんに訊いてみます」
「うん。それじゃあ、紅茶……」
新しい紅茶を強請ろうとしたが、善は急げと灰色海月は灰色の傘をくるりと回して転送してしまった。
「早いよぅ……」
一人取り残されてしまった獏は縋るような声を出し、肩を落とした。テーブルの上の片付けも途中である。
灰色海月は暫く待っても戻らず、獏は一人で御茶会の片付けをすることになってしまった。




