205-後ろの正面
人間の街に実しやかに流れる噂があった。
願い事を書いた手紙をポストに投函すると、『獏』がその願い事を叶えてくれるそうだ。願い事は些細なことから、到底叶えられそうもない大きな夢まで、何でも叶えてくれると言う。
ポストに手紙を投函すると迎えが来て、知らない何処かへ連れて行かれるらしい。何処へ連れて行かれるのか、その先の噂は無い。
都市伝説の一つだろうと信じていない者が殆どではあるが、そういう噂話が好きな者の間では絶えることなく囁き続けられている。
信じるか、信じないか――試しに投函するか、しないか。
ある人間の男は、手紙を投函しようと決めた。
静かな山の麓にある古い一軒家に一人で住む男はうずうずしていた。
(これはおそらく当たりだ)
男は大きな鞄を用意し、願い事を書いた手紙を手に立ち上がった。
星は疎らに見えるが月は雲に隠れた広い空に見下ろされ、遠くの街灯が寂しく灯っている。誰もいない、建物さえ疎らな暗い道を、肩に鞄を提げて徒歩で行く。ポストまではやや距離がある。
暫く歩くと闇の中に所々塗装が剥げたポストがぽつんと立っている。左右を見渡し、誰もいないことを確認して手紙を闇の中へ落とした。
手紙を投函してからどれくらいで迎えが来るのか、噂の中では言及されていない。ポストの前で立ち尽くして夜が明けてしまうのは馬鹿馬鹿しい。男は何も無いポストの前で立ち尽くすのは止めて、家に帰ることにした。
その帰路――もう家が目前の距離で、前方に灰色の傘を差す灰色の女が立っていた。長い髪も服も灰色だ。先程通った時はいなかった女だ。傘には小さな電球が一つぶら下がっていて、仄かに光っている。
「お迎えに上がりました」
女は無感動に、男に向かってそう言った。他には誰もいない。確実に男に言った言葉だ。噂の迎えだ。男は直感的にそう思った。
「ああ、待ってた」
女は踵の高いブーツを音も無く男に接近し、くるりと灰色の傘を回す。
途端に景色が変化した。一瞬で知らない街が現れた。石畳と石造りの家が十軒、並んでいる。まるで異国の街のようだった。街と言うには建物が少ないが、そこそこ大きな建物だからか妙に奥行を感じる。
先程までそこにあった山も木も木造の家も無い。同じなのは黒い空だけだが、この空には星も月も雲も無い。
(やっぱり……当たりだ)
男は心中でほくそ笑む。
無言で歩く灰色の女を追い、男は唯一明かりの灯る建物に入った。
中は薄暗く、黄ばんだ光が背の高い置棚を照らしている。奥の方は陰になって暗くてよく見えないが、棚の中は用途のわからない物や古い瓦落多ばかりだ。
出入口から伸びる通路の奥には木の机があり、黒い動物面を被った人物が古びた革張りの椅子に座っていた。男はそいつが獏だと察した。被っているお面がマレーバクの顔のお面だったからだ。巫山戯ている。
男は机の前に出された背凭れの無い簡素な椅子に座らされ、灰色の女は動物面に手紙を渡して奥の小さな部屋へ消える。その手紙は先程、男がポストに投函した手紙だった。
「お前が……獏か」
動物面は封を切ろうとした手を一旦止め、男を一瞥する。
「そうだよ」
静かで柔らかな声色だが、奥の方に突き放すような冷たさが混ざっている。
男は鞄を足元へ置き、獏を観察した。面で顔が半分隠れているが、見えている部分は普通の人間のようだ。肌は陶器のように白いが人肌の色ではある。短い髪は毛先が少し白い部分があるが全体的に黒く、頭上に角や耳も生えていない。
「願い事は……『願いを叶えてくれ』? どんな願い事か書いてくれないと叶えられないんだけど、どんな願い事なの?」
獏は中性的で柔和な声色で尋ねる。まるで眠りに誘うような声だ。
「お前……貴方は、尻尾は生えてるのか?」
「尻尾? 生えてないよ。人間に容姿が近いから、只の人間かもって疑ってるのかな? 不思議なことはもう体験したと思うんだけど?」
この知らない空間に一瞬で来た。それは不思議なことで、目の前にいる動物面が人間ではない信憑性も高くなる。
「いや、想像していた獏と随分違ったからな。少し気になっただけだ」
「そう? 僕は完全な人型の獣だから、珍しい物は生えてないよ。だからそんなにジロジロ見ないで」
「ああ、これは失礼した」
「それで、願い事って?」
「探し出してほしい奴がいるんだ」
「人探しだね。いいよ。その人の特徴は? あと、その人の持ち物があると探し易いんだけど」
奥の小さな台所から灰色の女が現れ、二人の前に熱い紅茶の入ったティーカップを静かに置く。動物面は巫山戯ているが、客に出す茶はある。
「持ち物は無いんだが、そいつにはおそらく角が生えてる」
「角……? 人じゃなくて動物? ペットでも逃げたのかな?」
「龍だ。龍を探してくれ」
獏はぴたりと閉口した。それが比喩ではないなら、この男はとんでもないことを願っている。
「コモドドラゴン……とか?」
「いや。歴とした龍だ。干支の辰だな。細長い体で空を飛ぶあれだ」
「それは空想上の生き物だよ」
「今更そんなことを言うのか? 貴方は獏なのに?」
尤もである。獏はどうすべきか考えながら、探りを入れることにした。龍は龍神などと呼ばれて拝んでいる人間もいる。会いたいと思う気持ちも理解できなくはない。
龍は実在する。だが龍は獏とは比べ物にならない程の高位の獣だ。簡単に引き合わせるものではない。
「……知り合い?」
「いや」
「何で会いたいの?」
「会いたいからだ」
「うーん……」
獣を人間の前に連れて来ることはできるが、会いたい理由もわからず会わせられない。獣は人間より優れている、そう思っている獣が殆どだ。人間の言うことを簡単に聞くと、人間は自分の方が上位だと錯覚してしまう。獏は仕方無く人間の願い事を叶え、他の獣に頼ることもあるが、獣を売ることはしない。
腕を組んで悩み出した獏に、男は神経質そうに眉間に皺を寄せた。すぐに願い事を叶えてもらえると思っていた男は、何故渋られているのかわからない。願い事を叶えると言ったのは獏だ。何故さっさと叶えないのかわからない。
顔は動かさずに動物面で隠れた眼球だけが僅かに動き、獏の視線は男の背後へ向く。獏が音を立てずに開いた出入口のドアを見ていることに、男はドアが開いたことにさえ気付かない。
中に人がいる気配を感じ、邪魔をしないよう彼は静かに入った。白銀の髪に白い服を纏い、左耳に透き通った石が揺れる耳飾りを付けた青年だ。彼はドアを背に立ち、獏へ視線を向ける。先客がいるとは運が悪い。だが順番は守る。白銀の青年は大人しく待つことにした。
「龍は格好いいだろ」
「まあ……うん。そうだね……」
純粋な子供のような憧れで会いたいと言うなら、気紛れを起こしても良いのかもしれない。憧憬や尊敬を向けられて悪い気はしない。下心が無ければ、だが。
「会いたくなるだろ」
(どうしよう……後ろに今、龍が来たんだけど)
白銀の青年は獏と面識のある獣であり、運が良いのか悪いのか男が探している龍属である。龍と言っても色々いるが、男はどの龍だと明言していない。だが角が生えていると男は言った。この白銀の青年は獏のように完全な人型の獣で、今は頭に角が生えていない。
何やら龍の話をしているらしいと、龍の白銀の青年――蒲牢は無感動に耳を傾ける。
「龍の持ち物は無いが、探せるか?」
「探せるけど」
と言うより後ろにいる。どのタイミングで言うべきか獏は迷った。
(蒲牢は何しに来たんだろ……また買物に付き合うとかかな)
以前、獏は蒲牢に頼まれて共に人間の街の露店を巡った。人間の物に興味がある獣は割といる。巡った時の彼の感想は、もう人混みは懲り懲り、だったのだが。
「何処にいる?」
「ここにいたら見つかるけど」
「ここで待てばいいんだな? わかった」
男は紅茶には口を付けず、背を丸める。獏からは死角となっている足元の鞄に手を伸ばした。
「君が想像する龍って、どんな感じ? 僕のことも想像と違ったんだし、想像した龍じゃないかもしれないよ」
男はぴたりと手を止める。獏は完全な人型で、人間と異なる部分が無い。龍も獏のように何の特徴も無いなら、会っても意味が無いのではないか。男は暫し黙考した。
「……龍は角くらい生えてるものだろ?」
「さっきも言ってたね。角が見たいの?」
「貴方は……お面の下は人の顔をしてないのか?」
「…………」
質問をしたのは獏の方なのに、男は質問を重ねた。獏は少し違和感を覚える。質問に答えないのは、言いたくないこと、若しくは言い難いことなのだろう。
「さあ? 目の色は人間に無い色だけど。顔はどうだろうね?」
獏は頬杖を突き、仕方無く質問に答える。この男は容姿が相当気になるようだ。獣も身嗜みには気を配るが、容姿まで気にしない。性別すら只の個性だとしか思っていない。
人間はあれこれと気にする生き物だ。そのことに多少の理解は示し、先程の質問をもう一度口にする。
「……それで、君は角が見たいの?」
「ああ、見たい」
(角が見たいなら蒲牢じゃ駄目だね。角の生えた知り合いは螭しか……)
「角が欲しいんだ」
ぼそりと零れ出た言葉に、獏は頬杖を浮かせた。ぴり、と空気が微かに凍り付く。男は腰を浮かし、死角に隠していたそれを握り締めた。
獏からは机の陰で見えないが、それは背後のドアに立つ蒲牢からは丸見えだった。
机の死角から限り無く空気抵抗を受けない角度で鉈が振り上げられた。死角から目標まで最短の距離で一直線に、それは一瞬だった。
「っ!?」
仕留めた――男が確信した瞬間に、背後から唐突に伸びた白い手が彼の腕を掴んだ。ぴたりと鉈が止まり、男は目を見開く。瞬きも忘れて獏の動物面と見詰め合った。獏は後ろへ躱そうと腰を逸らしたまま停止し、蒲牢を一瞥する。
音も無く一息で距離を詰めた蒲牢は男の腕を捻り上げた。男の動きは随分と慣れているようだったが、背後への注意を欠いていた。気配を消した獣に人間は気付けない。
「獏。この人間は何だ?」
「願い事の依頼人……」
「龍の角が欲しいみたいだけど、角を手に入れてどうするんだ?」
静かな問いに沈黙が流れる。蒲牢は腕を捻り上げ、男は痛みの余り喉の奥から低い声を絞り出した。
「お前に訊いてる。人間」
爬虫類のような目は冷たく男を見下ろす。まるで機械のように何の感情も籠っていない。氷のような瞳だ。
「……お……オレのコレクションに加えるんだ……珍しい目……角……全部オレの物だ……」
男は血走った目でぎょろりと獏を睨む。何かに取り憑かれたような異質な目をしていた。
「……蒐集家か。久し振りに見たな」
蒲牢は凍て付いた目を細めて呟き、灰色の女――灰色海月に台所の奥へ下がるよう手で指示を出していた獏を一瞥する。
「海月。こいつの家はわかるか?」
台所へ隠れる前に呼ばれ、灰色海月は顔を半分覗かせて頷いた。
「はい」
「じゃあいい」
更に腕を捻り、蒲牢は鉈を奪う。ティーカップが引っ掛かって床に落ち、呆気無く割れて中身が飛び散った。
男が体勢を立て直す前に蒲牢は鉈を持ち直し、間髪容れず一撃でその首を刎ねた。躊躇の無い動きに獏と灰色海月は目を瞠る。床や棚に鮮血が飛び散った。
男の首はカップを追うようにごとりと鈍い音を立てて机の端を叩いて床に落ちる。跳ねた血がじわりと床に広がる。頭を失った体は下から引かれるように崩れた。
男が事切れたことを確認し、蒲牢は鉈を下ろす。視線を上げて獏を視界に入れた途端、無感動な氷の双眸が微かに溶けて光が宿った。
「獏……大丈夫か?」
「う、うん……まさか殺すとは思わなかったけど」
「ああいう人間は殺してもいい。人間の執着は異常だ。狴犴に言っておく」
「それは安心……」
狴犴とは、人間ではない者達が棲む、人間の街から隔離された空間に存在する宵街の統治者だ。獣は適当に自由に生きているが、規則が全く無いわけではない。多くの獣は疑問に思っているが、多数の人間を殺してはいけないという規則が宵街にはある。
「海月、死体の処理をしたらこいつの家に連れて行って。始末する」
「は、はい……」
灰色海月は割れたカップが心配で恐る恐る覗き込み、落ちた首と目が合った気がして一瞬息が止まる。
「獏は蒐集家を見るのは初めてか?」
「そういう人がいるのは聞いたことあるけど、本物を持ってる人は見たことないかも」
獣は潜むものだが、獣の存在を認知する人間は意外といる。その中でも蒐集家と呼ばれる人間には獣も警戒している。蒐集家は獣の体の特殊な部位などを蒐集する好事家だ。自ら狩る者もいれば、依頼を出して狩ってもらう者もいる。だがその殆どは本当に獣を狩っているわけではない。獣と勘違いし、動物や普通の人間を狩っている場合が多い。蒐集家は本物を集めていると思い込んでいるが、その殆どは偽物だ。
「蒐集家は横の繋がりがある場合も多いから、これから探って根絶やしにしてくる。本物を集めてたかは家に行ってみないとわからないけど、こうして本物の獣に辿り着いたのは不味い。利用されないように気を付けて、獏」
「わかった……けど、人間の願い事を叶える以上、完全に避けるのは難しいよ。最初から手紙に書いてくれれば回避するけど」
「うん。悪知恵を働かせる人間もいるからな。偶然だけどここに来て良かった。獏が安心できるよう、俺がこいつの繋がりを皆殺しにする。獏は友達だから」
蒲牢は手を伸ばし、獏の手を握って意気込んだ。氷の瞳に熱が籠る。獏は蒲牢が認めた唯一の友達と言っても良い。友達が困っているなら助けるものだ。
「う、うん……腕、治ったんだね」
「うん。やっと元通り生えた」
蒲牢は片腕を失う大怪我を負っていた。それを獣の医者に元通りに治してもらった。今回ここを訪れたのは、再び二本揃った腕を見せたかったからでもある。
力強く握手を交わした蒲牢は男が持参した鞄に鉈と頭を詰め込み、頭を失った体を担ぐ。男もまさか自分が持って来た鞄に自分の頭を詰め込まれるとは思わなかっただろう。
「……折角来たのにな。出直すよ、獏」
標的にされていた龍属の蒲牢は獏のことだけを心配し、微かに肩を落として去って行った。彼は感情が稀薄で表情が乏しく人間の処理には淡々としているが、友人の獏に対しては仄かに感情が滲む。
まるで嵐のようだった。獏の途惑いを余所にあっと言う間に片付いてしまった。
血溜まりと割れたティーカップを覗き込み、人間はどうでも良いがこの掃除をしなければならないのは気が重い。宵街から血液吸取剤を借りることにする。血液吸取剤とは宵街で作られた強力な血痕除去の薬である。掃除に掛ける時間が劇的に短縮するのだ。
その翌日に獏の所に新品のティーカップが届き、灰色海月は蒐集家の蒐集品を始末するため連れて行かれた。
血液吸取剤も届いたが掃除人は誰も来ず、獏は一人で血痕の掃除をすることになってしまった。




