227-感謝
人間が入り込むことのない宵街の科刑所では、統治者の狴犴が書類の束と向き合っていた。机上にそれが散らばり、手付かずの雲形パンのサンドイッチが放置されている。
狴犴を手伝う白花苧環が食堂から持ち帰ったサンドイッチは、一度も彼の手に触れていない。無理に彼の口に突っ込もうとしても、僅かも口を開かず目線すら動かさなかった。
食事を怠るなと医者のラクタヴィージャから何度も言われているのに、狴犴は多忙だと何も食べようとしない。獣は何日も、何ヶ月でも食べずとも生きていられるが、消耗はする。消耗が蓄積して倒れたことを狴犴はもう忘れてしまったのだろうか。
白花苧環は床に落ちた書類を拾い、どうしたら食べてもらえるか考えていた。
「帰ったわよ――」
唐突に扉が開き、疲れた少女の声が部屋に入ってきた。
「鵺はいつもノックをしないのか?」
「する時もあればしない時もあるわね」
「今はしない時か」
幼い少女の容姿に不釣り合いな疲れた顔をする鵺と贔屓は荷物を持ち直して間の抜けた会話をしながら、一歩遅れてこちらも大きな荷物を提げた蒲牢が無表情で入室する。花街に遠征していた三人は両手に中身の詰まった布袋を提げて帰ってきた。花街の誘いで死刑の見学と食事会に参加していた三人は、その後も城内や城下町を案内してもらい、帰りが随分と遅くなってしまった。
「……これはまた」
室内を見て贔屓は思わず声を漏らす。狴犴はいつも何らかの書類に目を落としているが、一段と散らかしている。
「あら珍しい。食事中?」
狴犴は顔を上げず、返事もしない。鵺の問いには白花苧環が代わりに答えた。
「問題の処理をしていて、何も食べてません。あれは五日前の食事です」
「問題? 聞きたくない言葉ね」
「何があったんだ?」
花街の報告より、書類に埋もれる問題の方に話題が向く。狴犴は無言なので白花苧環が引き続き答える。
「身元不明の変転人の死体の件です」
「ああ……進展があったのか?」
その件は既知だ。海底で覇下が見つけた死体を宵街に運んだのは贔屓だ。
「進展ではなく、問題が増えました。宵街とは無関係の変転人が、瀕死の変転人を発見しました。こちらも身元不明で、現在は病院で治療しています。まだ話を聞ける状態ではなくて……。発見した変転人は最初の死体を発見した人でもあり、現在は獏の所で護衛を付けて保護しています」
「獏の所で? 宵街で保護しないのか?」
「宵街……獣を好ましく思っていないようで」
「獏はいいのか?」
「どうやら以前から顔見知りのようです。善行絡みですね。それから獏の方にも問題が起こっていて、獏を名乗る何者かが出現しました」
「成程、善行は色々なものが掛かるな。獏を名乗る者は……人間の悪ふざけかな? 僕もできることがあれば手伝うよ、狴犴」
「まずは報告書ですね」
白花苧環は棚の引出しから白紙の束を取り出し、三人に何枚かを差し出す。三人は両手に荷物を持っているため、一旦それを下ろした。
「花街はどうでしたか?」
「死刑は恙無く終わったよ。フェルニゲシュの今後についても話を聞いた。それから、食事会の土産をこんなに貰ってしまった」
「御土産だったんですね」
「報告書の前に狴犴に何か食べてもらおうか。苧環も困っているようだからな」
「五日前のサンドイッチを食べさせますか?」
「獣なら腹を壊さないだろう」
そう言うと贔屓は、反応の無い狴犴へ歩み寄り、机上のサンドイッチに手を伸ばした。九人兄弟の長子は頼りになる。サンドイッチは見た目には腐っていない。美味しそうなサンドイッチだ。
「狴犴、集中するのは構わないが、食べないと駄目だよ。僕達が戻ったことに気付いているかい?」
贔屓は大きなサンドイッチを掴み、顔を上げない狴犴の口に容赦無く捩じ込んだ。彼にとって狴犴は、宵街の統治者である前に弟だ。
「!?」
三人が帰ったことには気付いているだろうと白花苧環は思っていたが、どうやら気付いていなかったようだ。集中力の高さには感服するが、もし敵が入って来たら困ったことになる。既に一度困った事態になったことがあるのだから、二度目を許さないでほしいものだ。
「狴犴、先に口頭の報告をするか? 後にするか?」
口に物を突っ込まれ、狴犴は漸く現実に意識を向けた。書類が床に落ちていることに気付き、呆れた鵺の顔と無感動な蒲牢、書類を拾って抱える白花苧環が目に入る。
「……口頭の……優先すべき報告を先に」
「苧環、今度からこうして口に入れてやってくれ。口を開けるのを待たなくていい。待っていても開けないよ」
「は……はい」
「無礼などとも思わなくていい。もし反抗するようなら、僕かラクタに言え。無いとは思うが、狴犴も手を上げないようにな」
こうでもしないと狴犴は食べない。贔屓は多少手荒になっても構わないと諭す。また倒れられる方が困る。
狴犴は咀嚼しつつ、後者は当然だと頷く。白花苧環にはもう二度と傷を付けない。
「狴犴、何を食べたかわかるか?」
「……パン……」
贔屓は苦笑するが、狴犴は表情を変えない。パンの間にたくさんの具が挟まっていたが、食べ慣れていない狴犴は味が異なることしかわからない。
「では報告しよう。狴犴も僕達に、居ない間のことを報告してくれ」
「……わかった」
狴犴は書類を置き、サンドイッチを嚥下した。
鵺はすっかり弟の立場になっている狴犴が可笑しくて笑いを堪えていた。
* * *
静かな夜の小さな街で、灰色海月は付き添いの黒葉菫と共に一通の手紙を拾って戻って来た。いつもならその願い事の差出人の人間を連れて来るが、今日はいない。
橙色の明かりの灯る古物店の中へ、背の高い置棚が並ぶ店の奥へ行く。
「おかえり、クラゲさん」
「これを見てください。差出人の名前が書かれてます」
願い事の手紙には差出人の名前や住所を書く必要は無い。宛名に『獏』とだけ書いていれば灰色海月が漏れ無く回収する。
「書いちゃ駄目とは言ってないから、書かれてても不思議じゃないけど」
『獏』と書かれた手紙を裏返すと、確かに文字があった。
「え?」
灰色海月が手紙だけ持って来た理由がわかった。
「覇下……?」
書かれていたのは、以前人間に囚われている所を助けた龍生九子の名前だった。
急ぎ封を切って中を確認する。
『お話しよう、獏』
「話……? 何かあったのかな? 急いで行こう」
急げとは書かれていないが、もし緊急ならもたもたとしていられない。獏は襟の釦を外し、灰色海月は冷たい金属の首輪を嵌めた。
「知り合いの獣ですか?」
「え? ……あ、そっか。スミレさんは知らないよね」
どうやら通常の善行ではないらしい。と推測した黒葉菫は念のために尋ねる。罪人の監視役は灰色海月だが、彼女はまだまだ経験が浅い。黒葉菫の今の仕事は護衛だが、ここにいるのだから、困ったことがあるなら話を聞きたい。
「狴犴や贔屓達の妹だよ。最近、化生したみたい」
「妹……? その方が何故、罪人と話を?」
「前に善行でね、覇下が人間に囚われてたから助けたんだよ。海に捨てられた変転人の死体を拾った人、って言ったらわかるかな?」
「名前は知りませんでした。だったら、変転人の死体の話かもしれませんね」
「それなら何で僕になのかわからないけど……どんな話であれ、急がないとね」
「そうですね。呼び止めてすみません」
「気にしないで。留守番、よろしくね」
「はい」
黒葉菫は頭を下げ、獏と灰色海月を見送る。宵街に報告すべきかと考えるが、覇下の要件は現時点では不明だ。様子を見ることにした。
灰色の傘をくるりと回し、最近も来た海辺の住宅街へ降り立つ。あの時と同じ、静かな夜だ。覇下が閉じ込められていた小屋はまだそこにあり、だが今は空っぽで周囲に人の気配は無い。
「手紙には何処にいるか書かれてないから、少し歩いてみようか」
「はい」
街灯は遠く疎らで、海は黒く揺蕩っている。月が出ているため、常夜燈を出すほど暗くはない。
小さな船が繋がれている海の横を歩き、すぐに船も無くなる。月はあるが柵が無いので灰色海月がうっかり海に落ちないよう獏は海側に、彼女には海から離れて歩いてもらった。
「獏!」
歩き始めて一分も経たずに、海から聞き覚えのある明るい声で名前を呼ばれた。
「わ、びっくりした」
蒼い髪の女がぽこりと海面に頭を出していた。
「すぐに来てくれてありがとう。これ代価」
覇下は陸へ泳ぎ、尾を脚に変えて積まれているコンクリートの塊を跳び、少し高い地面に掌ほどの大きな巻き貝を置いた。貝には細長い棘が生えている。大きな栄螺だ。
「ふふ。話をするだけなのに、代価なんていいよ」
「え……? 人間はこれを獲っていくから良い物だと思ったのに……まだあるよ」
抱えていた栄螺を一つずつ上げ、地面に並べていく。
「えっと……僕が貰ってる代価ってね、人間相手に定められたものだから。用を頼まれる度に代価を貰ってたら、狴犴なんて皮だけになるよ」
罪人に刑を科した統治者を例に挙げる獏に、灰色海月は無表情の一瞥を向ける。狴犴から代価など貰えるはずがない。
「そうなの? 兄弟のことは何とか覚えたよ。狴犴は宵街で一番偉い人。贔屓はその前に偉かった人。睚眦は狴犴の所で拷問官をしてて、狻猊は何か色々作ってる。蒲牢と饕餮と椒図は人間の街をほっつき歩いて、鴟吻はクレープ屋さんしてる」
「クレープ屋さんは初耳なんだけど」
「人間の街で暮らすために稼いでるんだって。下僕の変転人がクレープ作ってるって言ってたよ」
「黒種草さんのことだよね? 下僕って誰が言ったの……」
「あれ? 違ったっけ……あ、護衛だったかも」
「絶対そっちだよ」
「ここじゃ目立つから、向こうの建物の陰に行こ」
マイペースな覇下は勢い良く飛沫を散らせて跳び上がり、嫋やかに着地する。そのまま栄螺には目もくれずに歩き出した。
「ここに並べてても怪しいし、取り敢えず貰っておこうか、クラゲさん」
「はい。袋に入れておきます」
灰色海月は近くに落ちていた白いビニル袋を拾い、六つの栄螺を入れた。ビニル袋には空の菓子の袋や容器などが入っていたが、落とし主が探しに来るかもしれないと考え、壁の前に並べた。彼女にはまだ落とし物とゴミの区別が難しい。
獏と灰色海月は小走りで覇下に追い付き、倉庫のような外観の建物の陰に蹲む。
「覇下、話って? 何かあった?」
「何か? 毎日何処かで何かは起こってるけど、私が呼んだのは、獏に御礼を言いたかったから。場を設けるって贔屓は言ったけど、全然連絡が無い」
「贔屓は今、忙しいからね。まだ戻って来てないのかな。僕のことはどう聞いてる?」
「獏は特別な罪人で、宵街の地下牢じゃない所に閉じ込められてる。善行をしてるんだよね」
「全部話してあるみたいだね。じゃ、僕から言うことはないかな」
何か伏せておくことがあれば、勝手に自己紹介するのは不味い。そう思ったが、特に伏せておくこともなさそうだ。過去を悩む蒲牢のことだけ口を滑らせないよう気を付けておく。
「改めて御礼、言うね。助けてくれてありがとう、獏。貝が足りなかったら言って。幾らでも拾ってくるから」
「ふふ。さっきの栄螺は代価じゃなくて御礼として受け取っておくよ」
「あれ栄螺って言うの?」
「そうだよ。僕は食べたことないけど、人間はよく食べるみたいだね」
「へぇ……」
覇下は噛み締めるように沈黙し、隙間から見える月を見上げる。穏やかな夜だ。
「話は御礼だけ?」
「うん」
「僕は罪人だから、用が終わったら早く牢に戻らないといけないんだ。覇下はその後……何もないかな? 人間のこととか変転人の死体のこととか」
「人間は捕まえに来ないよ。私の居る所まで潜ってこられないと思う。漁船が上にある時は気を付けてるよ。変転人は……あっ、昨日また一つ落ちてきたよ。拾う?」
「それは僕より宵街に渡した方がいいね。何でそんなに変転人が死ぬのかな……捨ててる所が見られたらいいんだけど」
「獏は捨ててる所が見たいの?」
「捨ててる人がわかれば話ができるでしょ? 何で変転人の死体を海に捨てるのか。その人が殺してるのか、捨ててるだけなのか……」
「そうなんだ。じゃあ、今度は見ておいてあげる! 捕まえて見せてあげるね」
「危険なことはしちゃ駄目だよ。もし君に何かあったら兄弟全員に何を言われ……いや、されるか……」
特に狴犴には何を言われるかわからない。刑が重くなるかもしれない。睚眦には拷問されるだろう。今は友達だと言っているが、蒲牢もきっと幻滅する。
「私の意志だし、獏は気にしなくていいよ。私も捨てる人が気になってきた」
「無茶は駄目だよ。兄弟には全員会ったの? 狴犴は怖いよ」
それは罪人にとってはだが、覇下は興味が無さそうに聞き流す。
「贔屓と鴟吻と饕餮と椒図には会ったよ。狴犴と睚眦と狻猊は仕事が忙しいんだって。私が宵街に行ったら会うって言ってたかな。蒲牢は……知らない。蒲牢も仕事かも」
「蒲牢は君と似てるかもね。自由に行動してるよ」
「似てるんだ? それなら会ってみたいかも。あ、ついでだし昨日落ちてきた死体を宵街に持って行くよ。丁度暇だし、ちょっと行ってみたかったんだ、宵街。送って、獏」
「僕は転送できないんだよねぇ。兄弟から聞いてない?」
「力が使えないんだっけ?」
「うん。だからクラゲさんに連れて行ってもらうことになるね」
「海月か。海月はいいね。海で見たことある。ふわふわ流されてて。それじゃ取ってくるね。待ってて」
人間に捕まっていたと言うのに覇下は微塵も警戒心など無いかのように跳ね走り、海へ飛び込んだ。地面を蹴った瞬間に脚が魚の尾の形になった。
「便利な能力だなぁ」
「宵街に行くんですか?」
「うん。ラクタに死体を届けたら、僕は牢に戻るよ。後はラクタに任せる」
「わかりました。科刑所には行かないんですね」
「行くわけないね」
獏は乾いた笑みを浮かべた。用も無いのに烙印を捺した統治者の顔など見たくない。
程無くして覇下は水の滴る土気色の死体を担いで現れる。一日経ち、少し潤けている。
「……有色の変転人みたいだね。服も今までと同じ……靴も履いてない」
「変転人って靴を履かないの?」
「そんなことないよ。クラゲさんは履いてるし、黒種草さんも履いてたでしょ?」
「死体の服とは違って、綺麗な服を着てる。変転人の服は狻猊が作ってるって聞いた」
「うん。そうだよ。服も靴も傘も作ってる。杖だって修理してくれるよ」
「獏、杖は壊す物じゃないよ」
覇下は哀れむように眉を顰めた。
「知ってるよ」
壊したくて壊すことなんてない。体内から召喚する杖は勿論だが、手製の杖だって壊して使えなくなると不便だ。獣は皆、杖を壊さないよう大事に扱っている。
会話が途切れたので、灰色海月は一言声を掛けて灰色の傘をくるりと回した。
転瞬の間に酸漿提灯の並ぶ石段の上に降り立ち、中腹にある病院へと登る。灰色海月はなるべく死体を見ないよう心懸ける。動かなくなってしまった生物を見ていると不安になる。この不安は、漂う海月の姿から人の姿へ変化したことにより芽生えたものだ。彼女の表情はまだ乏しいが、変転人になったことで感情の数が増えた。良い感情もあれば、不要だと思う感情もある。
垂れ下がる蔦を避け、獏達は病院へ死体を運んだ。音に気付いた受付の姫女苑は顔を上げて息を呑む。水が滴っていて生きている肌の色をしていない物が真っ先に目に入った。
「急患……ではないですよね……」
「うん。死んでるよ。ラクタに渡したいんだけど」
「は、はい。安置室に……」
「僕は戻るから、死体と覇下は任せるね」
「わかりました。預からせていただきます。覇下様、こちらへ」
「もう行っちゃうの? 獏は忙しいね、またね。また話したくなったら呼ぶね」
「うん。頻繁に手紙を出して狴犴に小言を言われないようにね」
言われるなら獏の方だろうが、覇下にも釘を刺しておく。
二人の背を見送り、獏は病院を後にする。本当は安置室まで付き添いたかったが、損傷のある死体を見て目を逸らす灰色海月の目が不安そうなので、長居はしないことにした。
酸漿提灯の並ぶ石段を見上げ、すっ飛んで来る人がいないことに安心する。今回は首輪を付けているので咎められることはない。
「あ。獏」
まさかすっ飛んで来たのかと、声がした後ろを振り返る。石段の下りに見慣れた黒い少女が立っていた。
「ウニさん?」
彼女が誘拐されてからは初めて会う。元の生活に戻って、感情は乏しいが元気そうだ。
「また何かした?」
「またって……いつも問題を起こしてるみたいな……」
問題を起こしているつもりは無いが、問題は勝手に起こっている。
「人を運んだだけだよ。すぐに戻る」
「クラゲ、何か持ってる」
「栄螺です」
「いっぱいある。料理できるの?」
「それは……」
菓子作りは得意だが、灰色海月は料理のことはよく知らない。貝をどうすれば料理になるのか想像もできない。
「だったらケマに料理してもらおう。私も食べられる」
どうやら彼女は自分も食べたくて提案しているようだ。灰色海月は獏を一瞥し、獏は苦笑しつつも頷く。
「こっち来て」
許可を得た黒色海栗は軽い足取りで石段を下る。真っ直ぐ帰るつもりが少し寄り道をすることになってしまった。
「いいんですか?」
「少しならいいんじゃないかな。持って戻っても確かに持て余すし。焼くくらいなら僕にもできるけど、美味しく調理してもらえるならその方がいいでしょ」
「貴方の『焼くくらいなら』は信用できません」
「えぇ……」
獏は自信満々に火の前に立ち、今まで何度も失敗を冒してきた。灰色海月はそれを忘れていない。貝を焼かせても真っ黒に焦がすだろう。
黒色海栗に続いて細い横道に入り、茂みを分けて奥へ進む。四角い石を積んだような景色の中に、ドアの横に『閉』と書かれた建物が現れた。
「ここ」
「ここ? 『閉』って書いてるけど」
「開いてる方が少ない。でも中にケマがいる。今日は掃除してる」
「閉まってるのに入っていいの?」
「いいよ」
彼女はまるで自分の家のように躊躇無くドアを開けて中に入った。鍵は掛かっていないようだ。明かりも点いていて、落ち着いた割烹料理屋のような内装だ。奥のカウンター席の向こうで物音がする。
「今日は閉めてるって……ん? 何だウニか」
「ケマに栄螺を料理してもらいに来た」
「何? 持ち込み? そっちの二人は?」
「獏とクラゲ」
獏は挨拶代わりに小さく手を振る。ケマと呼ばれている少女は目を丸くした。
「獏って……獣よね? 獣がこんな所に来るなんて珍しい」
「獏はいい人」
「本当にいい人? それならその目立つ首輪の趣味を疑うわ……」
目立つ大きくて重い首輪を見て彼女は眉を顰め、箒を置いた。カウンターから手を伸ばし、物を出せと掌を向ける。灰色海月はビニル袋を差し出し、少女はまた眉を顰めた。
「海臭い」
「海は臭いですか……」
「海はいい匂い」
灰色海月と黒色海栗は透かさず反論した。海が臭いなど心外である。二人が育った海は良い匂いだ。
「ああごめん。植物にはわからない感覚だったわ」
「君は植物なんだね」
「私は華鬘草」
ビニル袋から栄螺を取り出し、台に置く。
「炭火で焼いてあげる。栄螺ならやっぱり壺焼きよね」
下処理をする間、三人はカウンター席に座った。席数の少ない小さな店だが、誰もいないと広く感じる。
「こんなお店があったなんて知らなかったよ」
「開いてる方が珍しいから、たぶん変転人でも知らない人がいる」
熱い茶の入った湯呑みをカウンターに置かれ、三人は自分の前に運んだ。獏は寛ぐ黒色海栗に目を遣り、茶を一口啜る。
「ここは華鬘草さんが遣ってるお店なの?」
「そう。ケマが一人で遣ってる。余った食べ物が集まったら店を開ける」
「へぇ。そういうお店もあるんだね」
「クラゲは元気?」
唐突に声を掛けられた灰色海月は冷ましていた茶を口から離す。
「元気です」
「人間の街で変転人が殺される事件があったって聞いた。クラゲはよく人間の街に行くから」
「それなら大丈夫です。スミレさんが同行してくれます」
「最近見ないと思ったら、獏の所だったんだ」
「変転人の事件は皆さん知ってるんですか?」
「少し聞いた。掲示板にも、人間の街に行く時は二人以上で、って張り出されてる。だから人間の街に行く仕事も減らしてる。でも調査組は一人で行動することもあるって」
「調査組……とは何ですか?」
「事件に関する痕跡とかを探す人達。黒だとレオ先輩とナガが行ってる」
「白の方も行ってるんですか?」
「行ってるはず」
身元不明の死体について、宵街も動いている。獏も湯呑みを傾けながら静聴する。危険と接触する可能性が高いため、派遣される変転人は一人前とされる十歳以上だ。
「だから私は最近とても暇。獏の所に行ってもいい?」
「僕の所は最近人が集まってるからねぇ……」
「皆で遊んでるの?」
「各々好きなことをしてるよ。本を読んだり書き物をしたり」
「私も知ってる人?」
「知らないんじゃないかな。ずっと人間の街にいたみたいだから」
炭火で焼ける海と醤油の香りが漂ってくる。食欲を唆る香りだ。自棄に漂ってくると思えば、華鬘草が団扇で仰いでいた。
「こんな匂いを嗅ぐとお腹が空いてくるね」
団扇を動かしながら、華鬘草は会話の間に思い出したように口を開いた。
「先に言っておくけど、酒は無いわよ。変転人向けの店だから」
「僕は飲まないよ」
変転人の多くは元々が脳や内臓の無い植物だった。そのため酔うという感覚を処理できずに倒れてしまうことがある。植物以外の変転人も注意が必要で、ならば飲まない方が賢明だ。強い獣ほど酒にも強いが、獏は苦手である。
「稀にだけど獣が来ることもある。酒は無いのか、って訊いてくるの。無いって言うとがっかりするわね」
「お酒の美味しさは僕にはわからないなぁ」
それ以前に罪人が酒を飲んで楽しむなど許されない。
話をしていると栄螺はあっと言う間に焼けた。醤油の香りが弾けて湯気を纏う六つの栄螺を皿に載せ、カウンターに置く。手慣れたものだ。
「ケマさんも一つどうぞ。折角焼いてもらったからね」
「いいの? 貝って食べる機会が無いのよね」
小皿を配り、華鬘草も一つ皿に載せる。大きくて重い貝だ。爪楊枝を二本抓んで蓋の裏の身に突き刺し、回しながらずるりと引き摺り出す。
「内臓を引き摺り出すと考えると惨いよね」
「今は貝の変転人はいないけど、いたら発狂するわね」
「私も仲間が内臓穿られて食べられるけど、私も食べられる」
人間は海栗をよく食べる。食べられているあの橙色の部分は生殖巣だ。
「気にしない人は気にしないわよね」
「食べ辛くなったんだけど……」
獏以外の三人は気にせずに栄螺を頬張った。変転人と獣では感覚が異なる。生まれた時から言葉を話せる獣は、言葉を話さない知能の低い生物だった頃がある変転人にはわからない感覚がある。
三人が気にしないのならと獏も躊躇いつつ頬張り、大きくて歯応えのある栄螺を堪能した。
「二つ余ってるけど、どうする? 持ち帰るなら袋に入れるけど」
「どうしよ。冷めちゃうよね? 二人で食べてよ」
「いいの?」
「うん。お休みの日にごめんね、ってことで」
「獏いい人」
黒色海栗と華鬘草は大きな栄螺を一つずつ皿に取り、遠慮無く爪楊枝で刺した。
「それじゃ、僕達は行くね。狴犴に見つからない内に……」
獏はそそくさと食堂を後にする。灰色海月も頭を下げ、獏を追った。
二個目の栄螺を頬張り、華鬘草は何気なく黒色海栗に尋ねる。
「獏って何か遣ったの? 狴犴って」
「遣ってるけど、いい人」
「本当に……?」
獏は特別な罪人だ。宵街の地下牢ではなく、別の場所に特別な牢がある。それはあまり他言するものではない。黒色海栗は話して良いのか悩んだが、今は噤んでおくことにした。




