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透明街の人喰い獏 (第三幕)  作者: 葉里ノイ


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228-曖昧な脅威


 用を済ませた獏(ばく)と灰色海月(クラゲ)は静寂に満ちた小さな街に降り立ち、明かりの灯る古物店のドアを開けた。

「!」

 誰もいないと思っていたが、その目の前に印象的な白銀色が立っていた。正確には、ドアが開く間に跳ね寄ってきた。上着の裾がふわりと下りる。

「獏」

「な……何……? 来てたの? 蒲牢(ほろう)」

「炭と……海と醤油の匂い」

「鼻がいいんだね……」

 何も考えず飛び出した蒲牢は三歩下がった。

「何か食べてきたのか?」

「覇下(はか)に呼ばれてね、前に助けた御礼にって栄螺を貰ったんだよ。それから、新しい変転人の死体を見つけて、宵街(よいまち)に送った」

「覇下……」

 感情を映さない蒲牢の顔が陰る。彼はまだ過去に殺してしまった妹への接し方で悩んでいる。

「……俺は獏に御土産を持って来た。花街(はなまち)の人がたくさん御菓子をくれたんだ。それから……少し見ない内に、ここは人が増えたんだな」

「えっと……狴犴(へいかん)から聞いた? それとも会った?」

「報告ついでに聞いたけど、牢と言うより保護施設になってるな。俺がここに来たのはついさっきだ。黒葉菫(クロバスミレ)以外は顔は合わせてない」

「それに伴って善行免除とか、ある?」

「? 無いよ」

 即答され、獏は残念そうに眉尻を下げた。期待はしていなかったが、無いとは言い切れない。

「話したいことがたくさんある。花街で聞いたことも」

「僕に言ってもいいって許可は貰った?」

「聞いてないけどいいよ」

「良くないよ。罪人に知られたくないこともあるでしょ」

 聞いてはいけないことなら後で怒られるのは獏である。蒲牢も注意はされるだろうが、罪人は痛い御仕置きを受ける可能性がある。

「獏は心配性だな。獏の所に行くって狴犴に言ったけど、何も言われなかったから大丈夫だ」

「それならまあ……。君は随分とお喋りになったよね」

「友達だから?」

 蒲牢は首を傾げ、獏を店の奥へ促す。机の上には両手では持てない程のたくさんの箱が積まれていた。

「それ全部、御土産?」

「そう」

「こんなに持って来てくれるなんて……でも一人じゃ食べ切れないし、皆で分けてもいい?」

「…………」

 この小さな街は時間が停止しており、何日放置しても食べ物が腐ることはないが、現在ここには保護している者が複数いる。折角なので皆で食べたい。

 そう考えて獏は提案したのだが、蒲牢は沈黙してしまった。

「……あれ? 駄目かな?」

「獏のために持って帰ってきたのに」

「駄目かぁ……それなら食べるよ。僕が少食だって知ってる?」

「そうだっけ? ……あ、悪夢を食べないといけないからか。ごめん、気付かなかった。それなら分けよう」

 獏は罪人なので自由に悪夢を探して喰うことはできないが、周囲に被害を及ぼす危険な悪夢は喰っても良いと許可が出ている。そんな危険な悪夢は滅多に無いが、あればかなりの質量ですぐに腹が膨れる。悪夢は形の無い特殊な食料だが、人が普段食べるような固形の食事と同じ胃で消化する。そのため別腹というわけにはいかない。

「御土産は御菓子ばかりかな?」

「獏は御菓子が好きだよな?」

 箱を順に開け、名前のわからない菓子が次々と姿を現す。蒲牢が花街の食事会で食べた物ばかりだ。最初に持ち帰りたいと話したことを覚えていたアルペンローゼが余分に作っていた。

「好きなだけ食べて。マカロン、メルヴェイユ、クレムシュニテ、ドボシュトルタ、シャルロット、トプフェンオーバーストルテ――」

「え、何!? 呪文?」

 色取り取りのマカロン、三人の獣が勧めてくれた菓子、ふわふわのスポンジが巻かれたババロワ、トプフェンと言うチーズを使用したウィーン風のレアチーズケーキなど、他にも様々詰まっている。蒲牢はその菓子の名を連ねた。

 突然現れた蒲牢に気圧されてしまったが、灰色海月も我に返って獏の首輪を外す。そして菓子の山を見て流れるように台所に入った。菓子には紅茶が必要だ。

 獏は古い革張りの椅子に腰掛け、蒲牢にも椅子を勧める。

「そう言えばスミレさんの姿が見えないね」

「二階に行った。珈琲を持って行くとかで」

「寛いでるみたいだね、クララさん」

「狴犴から聞いたけど、例の狙われてるかもしれない変転人か?」

「うん。そうだよ」

「顔を合わせるなら様子を見ておいてほしいって言われた。後で見に行ってもいいか? 獣が嫌いって聞いたけど」

「味方だってことがわかれば大丈夫だよ。獣が怖いだけなんだよね」

 獏は仄かに口元に笑みを浮かべ、慈しむような優しい声で言う。最初に怖い言葉を聞いたことで眩草(クララ)は獣を避けるようになったが、味方になる獣もいると知った。敵ではないことをきちんと説明すれば話をしてくれるはずだ。

「殺気は勿論出さないけど、俺は獏みたいに笑えないからな……」

「いつも通りでいいんじゃない? 手を出さなきゃ大丈夫」

「そうか?」

 笑顔を作れない蒲牢は箱の中の菓子を指差し、呪文を再開する。何を言っているのか獏には一つもわからなかった。

 その最中に黒葉菫が一階に戻り、呪文を邪魔しないよう足音を潜める。

 全ての名前を言い終えると、全て覚えていたことに蒲牢は胸を撫で下ろした。二度目は言えないかもしれない。

「お勧めはある?」

「全部」

「全部か……」

 灰色海月は淹れた紅茶と空の皿を出し、フォークを配っていく。

「スミレさん、クララさんが嫌がらなかったら、好きな御菓子を取りに来てもらえるかな?」

「わかりました」

 頭を下げて階段を戻る黒葉菫の背を見ながら、蒲牢は不服そうだ。分けるとは言ったが、ごっそりと持って行かれるのは嫌だ。飽くまで獏のために持ち帰ったのだから。

「話は変わるけど、フェルはどうだった? 落ち着いてた?」

「……落ち着いてたと思う。もうすぐ首輪を外して外を出歩けるようになるって言ってた」

「凄いね。一気に進展したね」

「カトブレパスが水責めされながら薬を作ってるらしい」

「想像できないけど器用だね……」

「それから、花街は身元不明の変転人に心当たりが無いみたいだった。他の街絡みかもって」

「他の街……? 他にも獣が棲む街があるの?」

「花街は知らないみたいだ。可能性の一つとして挙げたらしい」

「ああ……そっか」

 花街と言う街が存在したのだから、他に街があってもおかしくない。

「小さな空間ならここや宵街の花畑みたいにあちこちありそうだけど、獣や変転人が秩序を持って暮らす大きな街って幾つもあるのかな」

「花街の城下町も案内してもらって、変転人の暮らしを見た。宵街より賑やかだった」

「僕は城下町はあんまり見学できなかったんだよね。いいなぁ」

「今度行く機会があったら獏も行こう。狴犴から許可を貰う」

「貰えるかなぁ……」

 幾ら兄弟の頼みでも罪人の扱いは変わらないだろう。獏は期待せずに微笑んでおく。

「――あ、来てくれたね」

 階段から視線を感じ、獏は微笑んで手招く。灰色頭の青年が警戒しながら覗いている。菓子の誘惑には勝てなかったようだ。

「また知らない奴……」

「蒲牢は味方だから、警戒しなくても大丈夫だよ。しかも強いよ」

 自慢げに紹介する獏を一瞥し、蒲牢は少し嬉しくなった。友達に褒められると良い気分だ。

「獣の『強い』は不安要素しかないんだが……」

 もし獣に敵意が少しでもあれば、変転人なんて赤子の手を捻るように簡単に殺せてしまう。

 距離を置く眩草に、灰色海月は空の皿を渡す。不安はあるが、味方なら心強いのかもしれない。獏はそう言いたいのだろう。

「……御菓子と聞いたが、スイーツビュッフェだな」

 馴染みの無い菓子が多く、傍らに控える黒葉菫に尋ねる。黒葉菫は先程聞いた呪文を紡ぎ、眩草はきょとんとした。

「蒲牢、彼がクララさんだよ。狴犴からどんな風に聞いた?」

「人間の街に棲んで、宵街を知らなかった変転人。死体の第一発見者で、瀕死の変転人の発見者でもある。もしかしたら目を着けられてるかも、って聞いた。灰色だったんだな」

「じゃあ僕から言うことは無いかな」

「獏を騙る偽者も現れたって聞いたけど」

「ああ……それも気になるけど、取り敢えず被害は無いから、狴犴は大事だと思ってないんじゃない?」

「瀕死の変転人を発見した直前にそいつに遭遇してることから、関連性がないか調査してるって聞いたけど?」

「えっ……まさか死体遺棄事件と同時に調査してくれてるの? 狴犴、頭でも打った?」

「それはわからないけど、五日前のサンドイッチなら口に捩じ込まれてた」

「何でそんなことに……?」

 狴犴はいつも獏に黙って裏で考え動いている。罪人なので表立って特別扱いはできないが、こうして巡って特別扱いが筒抜けである。

 スイーツビュッフェを楽しむ眩草は二人の会話に耳を傾けながら獏を一瞥する。黒葉菫に呼ばれて部屋を出た時から、二人の会話が聞こえていた。

 一旦会話を切って紅茶を飲む二人を横目に、眩草はぼそりと呟く。

「……他の街って、月街(つきまち)……か?」

「!」

 獏と蒲牢は傾けたカップを口に付けたまま微かに目を見開く。聞いたことのない名前が聞こえた。

「月街……?」

「何だ? 月街って」

 明らかに空気が変わったことに、変転人も気付いた。緊張感が走り、肌がピリと痺れる感覚だ。

「いや……別に……」

 菓子を載せた皿を手に後退し、眩草は黒葉菫の後ろに隠れようとする。

「蒲牢、少し殺気が出てる。抑えて」

「ごめん。反射的に」

「クララさん、月街って?」

 獏はできる限り柔和で穏和な空気を出して微笑む。動物面で顔は隠れているが、穏やかな雰囲気は伝わる。

 その柔らかい空気に眩草も、表情を強張らせながらも小さく口を開いた。

「……変転人になった時に聞こえた言葉だから……聞き間違いかもしれない。変転人になった直後は記憶が曖昧で」

「元は植物だもんね。急に脳が出現したら混乱するよね」

「記憶がぼやけてると言うより、穴があるような……」

「穴?」

 獏が変転人にした灰色海月にはそんなことはなかった。少しぼんやりすることはあっても、記憶に穴があるなんて聞いていない。

 その疑問には長命な蒲牢が答えた。

「稀にある。獣が注ぐ力が少なくて、足りない時に起こる。人型を形成して充分に体を動かせる程の動力と脳への栄養、これを獣の力で行う。不充分だと何かが欠ける。最も欠け易いのが脳の機能だ。特に記憶が欠ける」

「僕は不完全なのか……?」

「別に脳が欠けるわけじゃない。最初に発条を巻くのが獣の力で、その後は変転人自ら成長することができる。今、普通に会話ができてるなら大丈夫だ」

 動物も生まれる前は母体から栄養を分けてもらい、生まれると自身で食事を摂取し成長する。それと同じだ。

「自分より下の変転人に充分な力を与えない獣は割といる。大抵、小物で下衆だ」

「下衆……」

「大抵の変転人は、誰が自分に人の姿を与えたかなんて知らないし気にしてない。下衆な獣かどうかも」

「そうなのか……」

 同じように下衆に姿を与えられた変転人がいたとしても、人からこうして聞かなければ欠けているだのどうのということはわからない。眩草は偶々こうして話したから発覚しただけだ。

「それで、月街って?」

「わからない。ただ……月街に連れて行くだの、何日で死ぬかだの話してた」

「何日で死ぬかっていうのは前も言ってたね。前は月街のことは言ってなかったけど」

「……別に、言う必要があると思わなかった。声が聞こえただけで、話してた奴の顔も姿も見てない。僕は……地面に転がされてた気がする。だから逃げた」

「賢明な判断だったかもしれないな」

 選択を認める蒲牢に獏も頷く。

「そうだね。最初に月街のことを聞いたから、宵街のことも危険だって思った」

「宵街に危険があれば狴犴が対応してくれる。宵街に棲む変転人を見れば、君も安心できるはずだ」

 菓子を抓み、獏と蒲牢は記憶を手繰る。やはり月街なんて名前は聞いたことがない。蒲牢は自分が持って来た土産を無意識に食べている。

「もし実在するなら、宵街に知ってる人がいないかな? 宵街や花街も周知されてるわけじゃなく噂で知るようなものだし、月街の噂もあるかも」

「わかった。後で狴犴に報告しておく。……報告か……報告書を書かないと」

 徐ろに折り畳んだ白紙を取り出し、ペンを持つ。蒲牢はここで報告書を書くつもりだ。

 獏は眩草に微笑み、彼も察して二階へ戻る。菓子を載せた皿も一緒だ。

 黒葉菫は獏に袖を引かれて身を屈める。その耳元に動物面は囁いた。

「二階でクララさんの様子はどう? 寛いでくれてたらもう少し探りを入れてみてよ。詰問にならない程度に。変転人相手の方が話し易いでしょ」

「わかりました。ベッドに寝転がって鉛筆でずっと絵を描いてるので、寛いでると思います」

 黒葉菫は頭を下げ、眩草が寛ぐ部屋へ向かった。

「絵を描くのが好きならノートがもっとあった方がいいかな?」

 白紙を睨み、蒲牢はペンの先をぴたりと止める。

「絵が上手いなら、生まれた時の景色を描いてくれれば何かわかるかもしれない。描くことで何か思い出すかも。ノートは後で届ける」

「偶々かもしれないけど、クララさんの周りで最近色々起こり過ぎてる気がする。クララさんが狙われてるのか、巻き込まれてるのか……」

 そこまで言って獏は思い出す。眩草は獏を騙る偽者に『巻き込まれてる』と言われた。

(まさか本当に何かに巻き込まれてる……?)

「花街の用が済んだし、鵺(ぬえ)がまた巡回するって。手が足りないなら贔屓も手伝うかも。俺に手伝えって言われるのは最後だな」

「だからこんなにのんびりしてるんだね」

「俺は科刑所で働いてるわけじゃないから」

 紅茶と菓子があれば報告書も捗るだろう。蒲牢は口と手を同時に動かす。獏はその報告書を眺め、花街での出来事を知る。蒲牢の報告書は簡潔だが、余計な言葉が削られているため要点がわかりやすい。獏も報告書を書いたことがあるが、雲泥の差だ。獏は余計なことを書いてしまう。

 会話の合間に灰色海月は黒葉菫を呼び、頭を下げて店を出て行く。それを見送り、獏は紅茶を啜った。

「クラゲさんが手紙を拾いに行ったけど、蒲牢も一緒に願い事を聞く?」

「人間に鉢合わせるのは嫌だから、階段の方に行く。変な願い事だったら殴ってやる」

「狴犴に怒られないようにね……」

 蒲牢は狴犴と兄弟なので強気でいられるが、力を封じられている罪人は御仕置きされるのではないかと戦々兢々だ。

「あ、そうだ。この御菓子、後で飯綱(いづな)にも持って行ってあげよ」

「飯綱?」

「管狐(くだぎつね)だよ。狴犴から聞いてない?」

「ああ……病を振り撒くから首輪で絞めてるっていう?」

「それだと首を絞めてるみたいなんだけど」

「調子はどうなんだ? 近くの変転人にも異常が見られないし、そろそろ宵街に送ってもいいんじゃないか? ここにいても邪魔だろ?」

「何か棘があるね」

「別に。俺には常駐許可は下りないのに、って思ってるだけ」

「ここ、牢屋だよ?」

「ここにいたらいつでも獏と遊べる。友達だから。友達はいつも一緒にいて遊ぶもの。って椒図(しょうず)が言ってた。どう遊べばいいかはまだわからないけど」

「椒図と蜃(しん)は仲がいいもんね。二人は何して遊んでるんだろうね」

「俺に話せる範囲だと、人間の食べ物を食べたり釣りをしたり、って言ってたよ」

「話せない部分が気になるんだけど」

「人間を脅かしてるんじゃないか? 二人は神隠しをして大問題になったから、そういうことは言い難いんじゃないか? 俺は別に気にしないんだけど。獏の罪も気にしてない」

「それは気にした方がいいんじゃない? 僕が言うのもだけど」

「俺は気にしない」

「蒲牢ってちょっと覇下に似てるよね」

「そうなのか?」

「マイペースで無頓着な所」

「! 無神経だったか……?」

 蒲牢の雪の様な顔から更に血の気が引く。機嫌良く話していたが、不快感を与えてしまったのかと手に持った菓子を置いて言葉を探す。

 あまり見られない狼狽っぷりに、獏は彼とは反対に笑みを零した。

「そこまでじゃないよ」

「他人の気持ちを理解するのは難しい……」

「じゃあ蒲牢も少女漫画って奴を読む? 鴟吻(しふん)がたくさん貸してくれたんだけど」

「少女漫画?」

「人間の恋愛感情を理解するために飯綱と僕が読んでる本だよ。今の所、理解できてない」

「読む。君が読んでるなら読む」

「二階の僕の部屋に積んであるから読んでいいよ。僕の部屋は今クララさんが使ってるから、驚かせないでね」

「わかった」

 本は何度か読んだことがある。蒲牢は話題を共有するため二階へ向かったが、彼は漫画というものは見たことがない。

 入れ違いに灰色海月と黒葉菫が戻って来たが、二人は誰も連れていなかった。

「あれ? また覇下の手紙? それとも未就学児?」

 代価を理解できない未就学児の願い事は叶えないと決めている。もし手紙を投函したのが未就学児なら、二人が誰も連れずに戻って来たことも納得できる。

「……それはわかりません。思念が辿れませんでした。スミレさんもです」

「え?」

 思念は生者が垂れ流すものだ。獣なら断つこともできるが、人間には不可能である。それが辿れないとなると、死んでいる可能性が高い。

「また死んじゃった人かな……手紙を確認するよ。悪夢絡みだったら処理だけでもしないと」

 以前の手紙を思い出し、獏は手紙を受け取る。白い封筒には絵と文字が印刷されていた。

「これ、あれでしょ……銀行で貰える封筒。初めてだよこんな封筒が届いたの」

 以前善行で銀行へ行った時に見た覚えがある。引き出した金などを入れて持ち帰るための封筒だが、ポストに入れる物ではない。

「まあ封筒の指定は無いけどね」

 封筒は獏へ願い事を届けるための只の容れ物だ。人間達に流している噂の中に、封筒や便箋の種類の言及は無い。

 糊やテープも無く口を折っただけの封を開け、逆さに向けて中身を取り出す。ひらりと二枚の紙が滑り落ちた。

「っ!?」

 視線を向けてすぐに、その一枚を両手で叩き付けるように覆った。瞬き程の短い時間だった。

「……クラゲさん、見た?」

「?」

「良かった。見てないね。君は見ない方がいい。スミレさんは?」

「すみません。見てませんでした。護衛に戻ろうとしてたので」

「謝ることじゃないよ。見てなくて良かった」

 灰色海月は不信感を混ぜ込んだ目で獏の手を見る。監視役に言えないことなら、疚しい物ではないだろうか。

「どうしたんだ? 獏。大きな音が聞こえたけど」

 本を持って下りてきた蒲牢は、二階にいても聞こえる大きな物音に怪訝な顔をする。

「蒲牢! 変な物が届いた……」

「殴るか? 何処だ?」

「思念が辿れなかったみたい。だから誰も連れて来てないよ」

「辿れないことなんてあるのか?」

「あるんだよ……」

「見せて」

 蒲牢になら見せられる。灰色海月は見ないよう台所の中へ下がり、黒葉菫も獏に指示され護衛へ戻る。もし罪人にとって疚しい物なら、蒲牢が宵街に報告するだろう。譬え友達でも、宵街に被害が及ぶような物なら報告するはずだ。

 獏は灰色海月を一瞥して見ていないことを確認し、手をそっと持ち上げた。蒲牢は本を置いて手元を覗き込む。

「…………」

 それは一枚の写真だった。

「……酷いな」

 写っていたのは余りに凄惨な、死体の山だった。

 目を背けたくなるほど痛ましい。殴られたような痣や裂傷、手足は擦り切れて汚れている。即死ではなく、長時間じわじわと甚振られて死んだようだ。

「人間が嫌いな僕でもこんな殺し方はしないよ」

「この死体、身元不明の死体の格好と似てる。狴犴に報告する」

「ま、待って、これ……」

 写真を持ち去ろうとする蒲牢の袖を掴む。封筒から出て来たのは一枚ではない。もう一枚は何かを破いた紙切れだった。


『あなたは獏? それとも灰色の男の子?』


 そこに書かれていたのは、限られた人しか知らないことだった。

 宵街で灰色に所属する男は二人しかいない。その内の一人は髪が青く、灰色とは言い難い外見をしている。明確に灰色と言うと眩草しかいない。眩草をここで保護していることを知るのは、この場にいる者達と宵街の科刑所だけだ。

「……海月、指示があるまでここから出るな。勿論、獏もだ。上にいる二人も」

「うん……」

「狴犴に報せてくる」

 写真と紙切れを封筒に戻し、蒲牢は足早にドアへ向かいながら杖を召喚する。律儀に店を出てから転送した。

「……どうしたんですか?」

 台所から様子を窺っていた灰色海月は、微かに漏れていた殺気には動じずに問う。微量の殺気なら、無色の変転人ならすぐに慣れる。獏と蒲牢の顔は強張っていた。獣にそんな顔をさせる物などそう多くはないだろう。悪い予感がする。

「クラゲさんが持ち帰った封筒に写真が入ってた。変転人の死体が写ってた。手紙には『灰色の男の子』って書かれてた。おそらくクララさんのことだ。クララさんにはこのことは言わないで。折角寛いでくれてるんだから」

「! 脅迫状ですか……?」

「まだわからない。思念が辿れなかったことも気になる……」

「もう一度辿っ……あ……宵街に持って行かれたんでした……」

「ふふ、大丈夫。蒲牢に任せて指示を待とう。前の牢ならともかく、ここは知らない人が迷い込むような場所じゃないから、クラゲさんも安心して」

「はい……」

「――じゃ、飯綱さんにも御菓子を届けてあげようかな」

 彼女を安心させるために明るい声で腰を上げた直後、見計らったように古物店のドアが開いた。蒲牢が戻って来るには早過ぎる。

「どうしたんですか? そんな、鳩が豆鉄砲を喰ったような」

「飯綱……? どうしたの?」

 ドアを開けたのは、二十冊の本を抱えて体勢を整える管狐だった。

「まさか同じ質問を返されるとは。こちらを読み終えたので、次の本を貸してもらおうと思ったんですが。タイミングが悪かったですか?」

「タイミング……そうだね、タイミングだ。蒲牢が出て行ったばかりだから、びっくりしちゃった」

 本当は、誰も来ないはずのここに誰かが侵入したのかと焦ってしまった。獏は胸を撫で下ろす。もし危険な獣が入って来てしまったら、烙印で力を封じられている獏では太刀打ちできない。獣相手なら無色であろうと変転人の手には負えない。

「でもタイミングは良くもあるよ。丁度君に御菓子を持って行こうと思ってたんだ。折角来たんだから選んでよ。たくさんあるから」

「これはまた随分な量ですね。どれも捨て難い……迷ってしまいますね」

 灰色海月から皿を受け取り、管狐は気になる見た目の物を幾つか見繕う。

「選んでる間、続きの本を取って来るね」

「お願いします」

 本を預かり、獏は二階へ本の交換へ行く。鴟吻から借りた本はまだまだある。

 管狐は無意識なのか意識的なのか尾を振っている。ビュッフェを楽しんでいるようだ。左右に振られる尾を、灰色海月は無感動に見詰める。

 幾らか時間は掛かったが、同じ数の本を持って獏が戻る。適当に積んでいるので、続きが散らばっていた。

「飯綱、これでいい?」

「ありがとうございます」

 本の上にハンカチを置き、菓子を取った皿を上に載せる。それを受け取り、管狐は踵を返した。

「恋愛感情は難しいですね」

「そうだね。……所で飯綱」

「はい?」

 管狐は怪訝な顔で振り向く。

「月街って、聞いたことある?」

「さあ……」

 管狐は再び前を向き、店を出て行った。

(何……? 今の顔……)

 尋ねた瞬間、彼の目が温度を失ったように見えた。全ての色が抜け、まるで石のように無機質な表情になった。

 だがそれは一瞬のことで、彼が口を開いた時にはもう元に戻っていた。

 追って肩を叩く気にはなれない表情だった。狐に摘まれたようだ。背に嫌なものが流れる。

「……クラゲさん。この店から出ないようにね」

 もしかしたらもう、厄介な獣を招き入れてしまったかもしれない。


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