226-狼と七人の人質
(いや……いやいやいやおかしいだろ……こんなこと、起こるはずが……)
青年がそれを知ったのは、家で暇を持て余して偶然見たテレビのニュース番組だった。
大勢の警察官が待機し、遠目に建物を見詰めている。何処にでもある建物だ。ただの雑居ビルである。その一室で事件は起こった。
ニュースによると、犯人がビルの中に立て籠っているらしい。何を犯したのか、それは報道されていない。されているのは、人質がいることだけだ。
人質はおそらく七人。ビルにある店の従業員と客だろうとのことだ。
不運なことに、青年の恋人がそのビルに入居している店で働いていた。先程から恋人に電話を掛けているが、何度掛けても繋がらない。何らかの別の理由で電話に出られないのだと思いたいが、絶望的だ。今日も恋人は出勤してしまった。
(警察は……警察は何を……)
ニュースを見ることしかできない彼は焦燥に駆られる。こういう時、人間は二種類に分かれる。動ける者と動けない者だ。
嘗てないほど集中して画面を見ていた彼の目に、ビルの出入口から出て来る何かが映った。
それは一台の台車だった。
ビルの前は緩やかな坂になっており、手を離すと台車が勝手に転がる。その台車には人が載っていた。カメラが遠くて性別はわからないが、人は台車の上に丸められ、台車が進むと後ろに赤い軌跡を引いた。
(血だ……)
ニュースに速報が流れる。
犯人の要求は知らないが、これから一時間に一人ずつ人質を殺していくらしい。もし人質の数がニュースの通り七人なら、七時間で一体何を要求すると言うのか。一人殺されてしまったので残り六時間だ。
青年の恋人が殺されずに最後まで残っている保証は無い。次に殺されるのは彼女かもしれない。
それでも警察に動きは無い。犯人を刺激しないよう離れて待機しているようだが、青年には知ったことではない。
(何をもたもたと……ああ……オレに何かできないか!? 何か……)
藁にも縋る思いだった。青年の頭にふと噂話が浮かんだ。願い事を何でも叶えてくれる獏がいると。そんなよくわからないものに縋ろうとするほど、彼は追い詰められていた。
考える時間も無い。急ぎ震える手で手紙を書き、近くのポストへ走った。
(それから……これからどうするんだ……? 待つ? どれくらい待てばいいんだ!?)
獏の噂話を教えてくれたのは恋人だった。そんなものいるはずないと適当に遇らい、最後まで聞かなかった。それを今更悔やむ。
(本当にいるのか……? 獏って何なんだ……)
ポストの前で立ち尽くし、こんなものに縋ることしかできない自分を呪った。自分の影が覆う爪先が停止していることに焦燥が募る。
「お迎えに上がりました」
心臓の音が頭に響いて煩い程だったが、その声は全ての音を押し退けて青年の耳に届いた。青年ははっとして振り返る。雨が降っていないのに灰色の傘を差して立つ灰色の女が視界に入った。その手には先刻青年が投函した手紙が握られていた。
「あ……貴方が獏ですか!? お願いです! オレの……」
藁にも縋る思いで青年は灰色の女に駆け寄る。腕を掴もうとし、だが黒い腕が横から伸びて制した。
青年はその手に押され、灰色の女に近付けなかった。黒い袖を伝って隣にいた長身を見上げる。至極色の青年が無感動に彼を見ていた。人間には、無表情で見詰められる経験があまり無い。笑うでも怒るでもない、精巧な人形がこちらを見ているようだった。青年もまた居心地の悪さと不安を感じるが、それよりも恋人のことが気懸かりだった。
「獏が……二人……?」
「私達は獏ではないです。これから獏の所に行きます」
「獏の所に……? 獏が迎えに来るんじゃないのか!? 時間が無いんだ! 一人目が殺されてもう二十分も経ってる! オレが手紙を出して十分も経ってる!」
「十分ですか。早いですね。優秀です」
「早いわけないだろ!」
「数日待たせてしまうこともあるので」
「十分で良かった……い、いや良くない! 早く獏に願いを聞いてもらわないと!」
「急いでるみたいです。スミレさん」
「みたいだな。俺が転送する」
至極色の青年は何も無い掌から手品のように黒い傘を引き抜く。人間の青年は目を疑った。
灰色の女は自分の傘を閉じ、こちらは掌に刺すように吸い込ませる。
「何で急に手品を……?」
黒い傘をぽんと開き、至極色の青年がくるりとそれを回すと、転瞬の間に景色が変化した。
「!?」
明るかった空は月も星も無い黒になり、足元のアスファルトは石畳に変わった。目の前にあったポストは消え、住宅は石造りの洋風な建物に擦り変わっていた。
「こちらです」
灰色の女と至極色の青年は石畳に高い踵を鳴らし、明かりの灯る建物へ向かう。
何処か遠くへ連れて行かれて二度と戻って来られないような不安が滲み出す。
(何だ……ここ……)
まるで夢でも見ているかのようだった。もし夢なら、恋人が人質に取られていることも夢であってほしい。
「ここにいるのか……?」
二人が入って行く建物に逡巡しながらも続き、圧迫感のある置棚に迎えられる。幾つか並んだ置棚には、用途不明の瓦落多が詰め込まれていた。
導かれるまま人間の青年は部屋の奥まで歩く。奥には机があり、少し鼻の長い黒い動物の面を被った黒衣の人物が古い革張りの椅子に凭れていた。
「貴方が……獏……?」
「うん。僕が獏だよ」
柔和で穏やかな声だ。青年はもっと怖いものを想像していたが、想像とは違って優しそうな印象だ。
やっとだ。漸く目的の存在に会えた。青年は顔に安堵を浮かべ掛け、まだだと引き締める。
「助けてほしいんだ!」
「うん」
灰色の女から受け取った手紙を広げ、獏は詰まらなさそうに相槌を打つ。手紙にも同じく『助けてほしい』と一言だけ書かれている。
「それで?」
よくある願い事だ。また『助けて』とだけ書かれた手紙だ。もう少し手紙に詳細を書いてほしいものだ。そうでないと、手紙を受け取った時に願い事の依頼を受けるか蹴るか早期の判断ができない。
「時間が無いんだ! 犯人が……要求はわからないけど人質を取って立て籠ってて……一時間に一人、殺されるんだ! もう一人殺された! ……あ……ああ……あと三十二分だ!」
「切迫してるみたいだね。人質の数は?」
獏は台所の灰色の女に目配せし、彼女は湯に入れた茶葉を早々に引き上げた。そのほんのり色付いた紅茶と呼べない飲み物を急いで青年の前に出す。
「薄い紅茶ですみません」
最早白湯と変わらない薄さだ。茶葉が開くのを待つ時間が無い。
「七人だ。一人殺されたから、あと六人……その中にオレの恋人がいる! 助けてほしい……」
「取り敢えずそれを飲んで。まだ三十分もあるんでしょ?」
「三十分も、じゃない! 三十分しか、だ……一時間がこんなに短いなんて、今日ほど思ったことがない……」
搾り出すように声を出し、カラカラに渇いた喉に薄く色付いた湯を流す。舌が貼り付いてしまったら助けを求める言葉も出せなくなる。
「間に合わせるから、もう少し質問するね」
「叶えてくれるんだな……?」
「うん、いいよ。まず犯人の数は?」
「わからない……ニュースでは言ってなかった」
「最低一人、だね。人質は残り六人だそうだけど、助けたいのは君の恋人だけ?」
「ああ」
「じゃあ残り五人は死んで良し、と」
「ちょ、ちょっと待て! わざわざ見殺しは……もし……助けられるのに助けないのは……」
「全員助ける? 一人増える毎に君が払う代価は増えるよ。君の心の柔らかい所をほんの少し――を人数分」
「え? 代価……?」
「タダじゃ叶えないからね。助ける人数分、君は目に見えない自分の何かを失わないといけない。まあ痛くも苦しくもないから、そこは安心してよ」
代価は明言されない。曖昧な言葉が不安を煽る。見知らぬ誰かのために自分の何かを削ることができるのか、青年にその善と度胸は無かった。
「何かって何なんだ……教えてもらえないのか? 何かわからないなんて無理だ……他の人は諦めるしか……」
「じゃあ恋人だけだね。犯人はどうする?」
「犯人はどうでもいいだろ……」
「でも一応聞いておかないと。犯人がもし知り合いだったら?」
「知り合いなわけないだろ……恋人が助かるならいい……」
「わかった。クラゲさん、行こう」
「はい」
「スミレさんも来てほしいけど……」
襟の釦を外して首の烙印に重く冷たい首輪を掛けられながら、獏は上目遣いで尋ねる。そんなことをしても、動物面で顔は隠れている。
「すみません。護衛が優先されます」
「だよねぇ」
至極色の青年――黒葉菫は申し訳無さそうに深く頭を下げる。獏に同行できるのは灰色の女――監視役の灰色海月だけだ。
「代価の詳細を伏せて叶えるんですか?」
灰色海月が青年を連れて店を出る姿を見ながら、黒葉菫は気になっていたことを最後に尋ねる。獏は口元に笑みを浮かべた。
「うん。詳細を話す時間は惜しいだろうし、濁しておくよ。詳細を話したら、全員助けてって言い兼ねないし。追い詰められた人間は冷静を欠いて螺子が飛ぶ。その程度の代価なら、ってよく考えもせずに差し出すんだよ。彼も、その程度なら、って思うかも。最初に迷いがあったからね。でも人質六人は多いよ。この説明、君ならすぐにわかるよね。何度も聞いてるし見てるんだから。でもあの人は初めてだ。一回で理解できるかな?」
待たせるわけにはいかないので、獏は小さく手を振って灰色海月を追った。黒葉菫は理解し、獏へ頭を下げる。人質六人分の代価は契約者を廃人にし兼ねない。
灰色海月の転送で、三人は立て籠り事件の現場近くの暗い路地へ降り立った。
「……ここは何処だ……?」
「現場の近くだよ。本当は見晴らしのいい屋根の上に行きたいんだけどね。ここじゃ現場が見えない」
「じゃあ屋根の上に! オレは高い所でも平気だ!」
「そういう問題じゃなくてね。聞こえないかな? 上空の煩い音」
「音……? ヘリ?」
路地から見える空は細くて姿までは見えないが、頭上から喧しい音が降ってくる。事件の様子を伝えようとヘリコプターが飛んでいるようだ。青年が見たニュースも上空からの映像だった。
「そう。上から撮影してるんでしょ? 撮られたくないんだよね。もし犯人がテレビを見てたら、屋根の上に何かいる! って刺激しちゃうだろうし」
「そ、そうか……確かに」
「クラゲさん、ここってどういう位置?」
転送したのは灰色海月なので、獏も正確な位置は知らない。彼女は灰色の傘を仕舞い、路地の先を手で指した。
「ここから見える坂道に面して、人質がいる建物があります。警察が待機してるのはもっと向こうの……私達は警察と人質のいる建物の中間辺りにいます」
「警察は随分遠い所にいるんだね。近付くなって言われてるのかな?」
「わかりません」
「取り敢えず様子を見てみようかな。建物を覗いて、犯人の数とかを確認して戻って来るね。恋人の特徴を教えてくれる? 知らないと誰を助けていいかわからないから」
「あ、ああ……写真がある」
青年は急いで携帯端末を取り出す。手が震えて落としそうになり、空中で何とか掴む。今まで何度も行ってきた操作なのに、今日は自棄にもどかしく、時間がゆっくりと流れているような気がした。
二人が笑顔で一緒に写っている写真を確認し、獏は目に焼き付ける。長い黒髪で飾り気も無く、地味な印象を与える恋人だ。
「金目の物を売ってる店じゃないんだ。オレも行ったことがある。お菓子を売ってる店なんだ」
「御菓子……」
獏は目を伏せ、数秒間黙ってから地面を蹴り、路地の塀を跳び越えた。
(御菓子屋さんなら、子供が人質になってる可能性もあるな……)
人間嫌いの獏とて、子供を見殺しにするのは抵抗がある。年齢が低ければ低いほど抵抗がある。
頭上に遮蔽物のある物陰に隠れながら移動し、住宅や店が並ぶ中に雑居ビルを発見する。
(四階建て……何階に店があるか聞いてなかっ……あ、あそこか)
窓が不自然に覆われている所がある。棚や積んだ段ボール箱が見える。外から中の様子が見えないよう隠している。二階で立て籠っているらしい。
獏はビルを観察し、四階の窓が一つ開いているのを見つける。警察のいる場所からは死角になっている窓だ。頭上のヘリコプターの位置を確認し、獏は気配を消してその窓に飛び込んだ。
音も無く廊下に着地し、耳を澄ませて二階へ下りる。ビルの中には何も書かれていないドアが並んでおり、人の気配は無い。四階と三階に入居者はいないようだ。
(寂れたビル……)
二階は二つだけ、名前の書かれたドアがあった。一つは『ヘアサロン』と書かれている。そちらにも人の気配は無い。逃げ出したか、菓子の店で人質になっているのだろう。
菓子屋だろう閉ざされたドアに、人差し指と親指で作った輪を向け、中の様子を探る。この店以外に人はいないと安心しているのか、犯人らしき気配は落ち着いている。
(犯人は……二人? 人質は……ん? 人質っぽい人は七人? 一人死んだんじゃなかったっけ? 一人、ちょっと幼い感じが……これは夢かな? 寝てるみたい。幼児かな? 人質に数えられてないのか。何処か覗ける場所は……)
指の覗き窓で見えるのは感情や気配だけだ。感情の動き方で性格や大凡の状況を推測することができるが、どんな顔をしているかなど、目で実際に見なければわからないことは多い。
廊下の奥に目を向けようとした時、ドアの向こうから幾つもの悲鳴が上がった。一際大きかった悲鳴はぷつりと消えてしまう。
ドアに接近する気配を感じ、獏は近くの部屋に隠れようとしたがドアが開かなかった。鍵が掛かっている。
だが獏には何の障害にもならない。手を翳して鍵を開け、するりと中へ滑り込む。ドアに少しだけ隙間を作り、菓子屋のドアを注視する。
菓子屋から出て来たのは代車だった。上には女性が一人、丸くなって載っている。それを中年の男が押し、エレベーターを使用して一階へ下りた。おそらく犯人の一人だ。代車の上からぱたぱたと血が零れていた。
ドアはすぐに閉められたが、一瞬見えた店内は確認できた。契約者の恋人はまだ生きている。
(もう時間が経ってたんだね……普段は時間なんて気にしないから、時間の感覚が曖昧で。恋人が無事で良かった。……けど、写真と雰囲気が違い過ぎる! 髪は茶色だしピアスはしてるし、爪はキラキラしててすっごく長い! あれいつの写真なの!?)
別人なのではと疑ってしまったが、顔は写真と同じだった。華やかな化粧をしているが造形は変わっていない。他の人質の中に長い黒髪はいない。
(……とにかくあの人を助ければいいんだよね。一人助けるだけなんだから、普通に入って連れ出せば善行完了だよね)
悲鳴が上がった時、銃声は聞こえなかった。犯人の凶器はおそらく刃物だ。刃物だろうと銃器だろうと、もし襲われたとしても避けることはできる。獏は人間ではなく獣なのだから。
二人くらいなら相手ができるが、減るなら減ってくれた方が良い。出て行った犯人の一人が戻って来る前に獏は如何にも妖しいお面をサングラスに替え、客が来店するかのように何の警戒も無く菓子屋のドアを開けた。
「!? 何だお前!? 警察……じゃないな?」
残っていた犯人の手には赤黒く濡れた包丁が握られていた。出て行った犯人よりも少し若い男だった。
「こんにちは。御菓子を買いに来たよ」
「嘘吐け! ニュースを見てないのか?」
「ニュース?」
獏はわざとらしく、こてんと首を傾げた。
「見てないのか……」
獏はわざとらしく足元に転がっていた籠を蹴り、躓いたように見せる。
「僕はねぇ、匂いで御菓子の位置がわかるからね」
そう言って菓子の棚へ歩き、籠や透明な箱に入った菓子を覗く。透明な箱に入った菓子は量り売りをしているようだ。
「目が見えないのか……? 杖無しで歩けるのか……?」
「耳がいいからね」
「…………」
犯人は途惑っている。盲目の客ならこの状況も見えていないはずだ。なら放っておくか、このサングラスも人質に加えてしまうか。
「これにしようかな。御会計お願い。店員さん?」
犯人は考える間、契約者の恋人へ目配せをした。
ベビーカーに乗せられた幼児を除いて人質は五人。その中にエプロンを着用している人は二人いる。一人は契約者の恋人だ。彼女は恐る恐るゆっくりと立ち上がり、レジへ向かった。
(幼児は助けてあげたいけど、母親がいなくなったら悲しいかな? 誰が母親だろ?)
人質は全員女性だ。しかも年齢も似たり寄ったりだ。幼児はすやすやとよく眠っており、この状況に全く気付いていない。泣かないので母親もあやす必要が無い。母親が誰なのかわからない。もしかしたらもう殺されているかもしれない。
「く……クッキー一枚、百五十円です」
「うん」
獏はうっかりしていた。罪人は人間の街の金など持っていない。失念していた。
「……どうしよう……お金、無かった……」
「えっ」
予想外の言葉に、契約者の恋人も途惑う。犯人は無言で契約者の恋人に目を遣り、顎をくいと動かした。
「……あ……ああ……な、なんと今日は、来店されると一個無料で……なので、それ……タダです」
「えっ、いいの? やったー」
喜ぶ振りをするが、獏は心中で首を傾げる。
(あれ? 人質に加えないんだ……盲目の客は帰しても問題無いの?)
獏は首を傾げながらも、もう一人の犯人が戻って来る前に退店した。そして一階からは外に出ず、入って来た四階の窓から出て灰色海月と契約者のいる路地へ戻った。
灰色海月はいつもの無表情で頭を下げ、焦燥で疲弊する契約者は獏の姿を見るや飛び付いた。
「見て。クッキー貰った」
「何しに行ったんだよ! また一人、殺されただろ!」
「君の恋人じゃないでしょ?」
「それは……そうだけど……」
「それより、恋人の容姿が変わり過ぎてて、恋人かわからなかったんだけど! 情報提供は正確にしてよね」
青年に背を向けてサングラスから動物面へ戻し、獏は頬を膨らせる。
「え……? 三日前の写真……」
「三日であんなに変身しちゃったの!? 男子三日会わざれば刮目して見よ、とは言うけど……女の子も変わるものだね」
「その言葉ってそういう意味……? あいつはこの写真の通りで……いつもこんな感じだ。もしかして、服が変わっただけで見分けられなくなる……?」
「そんなわけないでしょ。服以外も変わってたよ。髪は茶色だし派手な化粧で爪はキラキラで長くて、御菓子を刺して食べられそうだったよ」
「嘘だろ……? いつも週末の休みにしか会わないけど、髪なんか染めてたことないし……爪は……付け爪って奴か? マニキュア? そんな爪、見たことない。他の人と間違えたんじゃないか?」
「でも髪が黒くて長い人なんていなかったよ」
「え……? ……あっ、もしかして、あいつは人質になってない……!?」
「可能性はあるけど。連絡は取れないの?」
「取れない……全然返事が無いんだ」
「僕は同じ顔だと思うんだけどねぇ」
獏は灰色海月を手招き、契約者と少し距離を取る。契約者はハラハラと不安そうな顔をしているが、その場から動くなと手で制した。話し声が聞こえない距離まで離れ、灰色海月に囁く。
「たぶん……なんだけど、恋人が犯人の仲間って気がする。共謀者かも」
「え? 仲間なのに人質になってるんですか?」
「僕は目が見えないフリをして近付いたんだけど、見えないと思い込んで色々見せてくれたよ。犯人と人質の関係で、目配せしただけで察して行動すると思う? 僕は怖くて竦んじゃうと思うなぁ。目の前で人を殺した犯人だよ?」
「成程……」
「それから妙なこともあってね。最初に外から気配を探ってみたんだけど、犯人は二人で人質は六人、なのに恐怖を感じてない人が一人だけだった」
「犯人もどちらか一人は怖いと思ってるんですね」
「犯人だったらね」
「?」
獏は灰色海月を手招き、契約者の方へ戻る。契約者は時間を確認しながら路地の向こうの坂道をハラハラと見詰めていた。
「ねえ君、ちょっと確認したいんだけど」
「! な、何だ……? はや、早く……あと一時間でまた……」
「君の端末、少し貸してよ」
「……? 何に使うんだ……?」
「写真。見せて」
「またあいつの写真か? 今度はしっかり覚えろよ。見間違えないように……」
「うん」
契約者は携帯端末を操作し、先程見せた恋人の写真を表示する。その端末を獏は奪い取った。
「あっ」
「クラゲさん、その人押さえてて」
「はい」
手を伸ばす契約者に両腕を広げ、灰色海月は手首に腕輪を生成した。腕輪から細い触手を伸ばし、契約者の手足を縛り上げる。
身動きを封じた隙に獏は端末を操作する。操作する所を見ていたので、他の写真も確認できる。撮影された写真を遡っていく。
その画面を契約者の目の前に突き付けた。白魚が泳ぐように細く嫋やかな指をするすると動かし、写真を表示させる。
「この人とこの人……それからこの人、こっちの人も。人質になってるよ」
「…………」
「最初に殺された人は顔を見てないけど、さっき殺された人は、この人。皆、君の知り合いなんだね」
「…………」
「凄く仲が良さそうに写ってるし、部屋で寛いでる写真もあるね。元恋人? それとも浮気かなぁ?」
「も……元恋人だ」
「へぇ。一気に事件の中心に躍り出て来たね。でも犯人の写真は無いね。犯人は君の恋人と知り合いっぽいんだけど、君とは面識が無いのかな?」
「は……?」
「改めて訊くけど――僕への願い事は『恋人を助ける』でいいかな?」
契約者は唾を呑んだ。事件が引っ繰り返ってしまった。
「た……助けたら、オレはどうなる……?」
「君? 代価を戴くよ」
「そうじゃなくて……オレは、あいつに何をされる……?」
「さあ?」
「オレも殺されるのか……!?」
「そんなこと訊かれてもわからないよ。君の恋人の気分次第じゃない?」
「!」
契約者は悩んだ。悩んでいる内に一時間が過ぎ、また一人、死んだ人質が載った代車が走り抜けて行った。
そして契約者は答えを出した。
「願い事を……破棄する……」
追い詰められて出した答えは、手放すことだった。
「勝手に破棄されても困るんだけど。僕をここまで動かしたでしょ? 完遂より少なくしておくけど、代価は戴くよ」
契約の刻印は代価を戴かないと消すことができない。願い事を破棄しても刻印は消えない。
「代価って……」
「そうだね……僕に会ったこと、この記憶を代価とするよ」
「記憶……?」
願い事を叶えていないのに獏に会ったなど、いらぬ情報だ。獏に関する噂は、願い事を叶えてもらった幸せな事実だけで良い。一方的に破棄されて終わりなど、気軽にキャンセルできると噂を流されたら面倒だ。普通の獣なら人間に舐められないよう殺してしまうだろうが、獏の立場は普通ではない。科された善行で気軽に殺しはできない。監視役が見ている。
科刑所としても善行のキャンセルは宜しくない。灰色海月は契約者が逃げないよう手足を縛る。獏は契約者の両目を手で覆い、動物面を外す。そして口付け、短い記憶を喰う。あまり美味しくはなかった。
獏は灰色海月に目配せし、彼女は青年の拘束を解く。動物面を被り、獏は地面に座り込む青年に目もくれずに灰色海月を抱き上げて跳び去った。
青年はもう獏に手紙を投函したことも、不思議な夜の街に連れて行かれたことも、獏達に会ったことも忘れてしまった。立て籠り事件のことは覚えているが、どう記憶が補完されたか、そこまで面倒は見ない。
「このまま帰ってもいいけど、一応最後まで見届けようか。いい? クラゲさん」
「はい。破棄と言われたのは初めてですね」
「そうだねぇ……狴犴に怒られないよね?」
「貴方が悪いわけではないので大丈夫じゃないですか? 一応簡易報告しますが」
「簡易……? 最後の一言で一気に緊張感が増すよ……」
獏は震えながら物陰に潜んだ。人間には強気だが、獏に烙印を捺した宵街の統治者には強く出られない。
「メールでの短文報告です。善行での罪人のおかしな行動や、今回のような人間側のちょっとした行動は、わざわざ対面報告しなくてもいいことになりました」
「罪人のおかしな行動って……」
「私が判断します」
「そんな曖昧な……」
人間の目の隙間を縫い、雑居ビルの出入口が見える路地で待つ。辛うじて顔が見える距離だ。
きっちり一時間置きに人質は殺され、台車に載せられ坂道を転がされる。空は暗くなり、坂には赤い跡が増えていく。なのに警察はまだ動かない。
「……元恋人って言ってたけど、元ってだけでこんなことするかな? 要求はわからないままだし私怨かな。本当は浮気だったりして。後ろめたくなって願い事を破棄した、って所かな。……もう少し近付いてみようか」
六人目の人質が台車で転がっていき、獏は灰色海月を抱いて四階の窓から再び中へ入った。廊下の明かりは消えたままで暗い。二階の菓子屋の前へ行くと、指の輪を構えずとも声が聞こえた。
「ああ――すっきりした! これであんた達が、もう殺すのやーめたって出て行ったら完璧! これで浮気相手はみーんないなくなった!」
「そ、そうだな……」
「良かった……」
「浮かない顔ね。前祝いでたくさん遊んであげたでしょ? 夜はお店でいっぱいお酒入れてくれてありがとぉ」
「そ、そうだな……」
「へへ……」
「ほら見て、こんなに着信が入ってる。気付いてもらうためにテレビに映るよう派手な事件にしてみたけど、こんなに上手くいくなんて。警察の偉い人もお店に来てくれてたから、利用できて良かった。浮気するからこうなるのよ。私を馬鹿にするとこうなるの。こんな赤ちゃんまで作って……これどうしよう? 殺して――きゃっ!?」
店の中の窓が一枚、何の前触れもなく割れた。店内に残った三人はぴたりと口を閉じ、錆び付いた機械のようにゆっくりと冷や汗を流しながら砕けた硝子を見る。何かがぶつかったわけではなく、独りでに割れた。
それを合図にしたかのように、警察が漸く雑居ビルに乗り込んできた。
(幼児が殺されるのは可哀想だからね。全て終わるまで眠っててね。これはサービス)
獏はドアに当てた手を離し、灰色海月は灰色の傘をくるりと回した。一瞬でその場から消え失せ、何も知らない警察が遣って来る。女に唆され、それでも最後の一人を救おうと遣って来た。
あの中で只一人恐怖を感じていなかったのはあの恋人だった。
(お腹に石を詰めて坂を転がしてもいいけど、目立つからね)
窓を割る音で幼児が目覚めてしまわないかと心配したが、杞憂だった。残酷な現実は、今はまだ知らなくて良い。




