225-落とし物
常夜の小さな街の古物店で、獏と黒葉菫と眩草は小さな直方体の木を積んでいた。直方体を三本横に並べ、そのセットを九十度回転させて積む。それを繰り返して塔を作り、順にその塔の一本を引き抜いて一番上に載せる――という玩具だ。バランス感覚が試される。もう既に穴だらけの塔は今にも崩れそうだ。
台所からは甘い香りが漂い、灰色海月は生地を薄く伸ばしている。焼きながら次の菓子を作っている。
生地を伸ばし終えた灰色海月は親身にしている人間から貰ったクッキー型を手に取る。灰色海月が大量に作る焼き菓子を販売している、小さなカフェを経営している人間だ。
「見てください。このマレーバク型でバク科バク属のマレーバクを量産できま……あっ」
台所から飛び出した灰色海月はうっかり机を蹴ってしまった。脆い積木の塔は派手な音を立てて呆気無く倒壊した。
「すみません……」
「ふふ……いいよ。全然勝負が付かなくて、途中から積木を立てて積んじゃってたからね」
「何でこんなに熱中したんだ……」
「次があれば、立てて積むのはやめましょう……」
息すら止まるほど無言で集中していた三人は漸く息を吐いた。
人間が想定しない積み方は、変転人にとっても難易度が高い。獏が積木を立てた時に指摘すれば良かったが、挑発に乗ってしまった。
「横向きに立つマレーバク型とお座りマレーバク型があります」
「はいはい」
自慢げにクッキー型を見せ、灰色海月は台所へ戻って行く。当分おやつはクッキーになりそうだ。
三人は崩れて散らばった積木を拾い、もう一度最初の塔の形に積んでいく。黒葉菫は『次があれば』と言ったが、すぐに次があるようだ。
塔が完成する前に、間を縫って灰色海月は机上に大皿とティーカップを置いた。塔を立てると、崩れた時に皿やカップが割れるかもしれないため、出す機会を窺っていた。皿にはカップに入った焼菓子が山盛りだ。おやつはクッキーではなかった。
「マフィンです。甘いだけのマフィンとチョコレート入りとブルーベリー入りです」
「わあ、美味しそうだね」
「これを食べて待っていてください。手紙を拾ってきます」
「手紙の投函があったのか? 俺も同行する」
「え?」
眩草の護衛をしている黒葉菫は返事を待たずに立ち上がる。灰色海月と眩草は同時に声を上げた。眩草の護衛が何故、彼の傍を離れてしまうのか。
「眩草はここにいれば安全だ。人間の街にクラゲを一人で行かせる方が危険だから、俺も行く。宵街では、人間の街に行くなら最低でも二人以上でと命令が出た。クラゲの立場は特殊だが、例に漏れるはずがない。今回は偶々俺が近くにいるから一緒に行く。手紙を拾う勝手もわかってるからな」
「そうなんですか……命令なら仕方無いですね。私は頼りなくないんですが」
「譬えマキでも一人で行ってはいけない命令だ」
半獣の白花苧環ですら二人以上でと言うなら、灰色海月では二人ですら足りないかもしれない。納得せざるを得ない。
「スミレさん、ありがと。助かるよ。僕もクラゲさんを一人で行かせるのは心配だったんだよね。留守の間、こっちは任せて」
「はい。お願いします。二人なので転送待ちをせず、すぐに戻って来られると思います」
灰色海月と黒葉菫は頭を下げて古物店を出る。獏はにこやかに見送るが、眩草は少々心配だ。
「ここは安全って……犯人が人間ならここには来られなくて安全かもしれないが、獣が犯人なら簡単に来られるんじゃないのか?」
「ここは特殊な場所だからね。一度誰かに導いてもらわないと入ることができない。鍵の掛かった部屋みたいなものだね。変転人を殺すような獣は――来たことがないから大丈夫だよ」
「それなら安全か……」
獏は変転人を殺す獣が一人頭に浮かんだが、彼を怖がらせるのは本意ではない。今回は黙っておく。フェルニゲシュは変転人を殺したことがあるが、彼は簡単に宵街圏を訪れることができない。それに正常時なら危険ではない。
「いや、でも、善行で人間を連れて来るんだよな? 前みたいな子供ならともかく、変な人だったら……」
甘いだけのマフィンを手に取り、獏は美味しそうに頬張る。
「ここで待つのが不安なら二階か、他の建物に行ってもいいよ。スミレさんが戻って来たら伝えてあげる。もし変な人が来たら僕がここで止めるよ」
獣なら簡単に人間を止められる。眩草は獣が嫌いだが、味方だと思えばこれほど頼もしいものもない。獏になら眩草も少し肩の力を抜ける。
「じゃあ二階に」
人間なら眩草にもある程度は動きが読める。獣のように天井を突き破ったり建物を破壊したり、予想外のことはしないだろう。
眩草は皿にマフィンを何個か取り、紅茶のカップを持った。寛ぐ気である。
「……棚にあったノート、貰っていいか? 暇だから」
「うん、いいよ」
「タダで?」
「仕方無いなぁ。今回だけだよ」
命を狙われているかもしれないと震えるより、少しでも気が紛れるならノートの一冊や二冊、幾らでも無料で提供する。
階段を上がる彼の後ろを黒猫と白黒猫も付いて行く。随分と懐かれたようだ。
眩草が二階へ行って間も無く、灰色海月達は戻って来た。二人で行くとやはり帰りが早い。
二人に連れられて来た人間は痩せ型で覇気が無い男で、大きな鞄を大事そうに抱えて背中を丸めていた。獏は通路の奥からその大きな鞄を凝視する。重そうな鞄だ。
マフィンの皿を横へ置き、獏は座り直した。
男はきょろきょろと置棚の間を見回し、そわそわと落ち着かない様子だ。椅子を出されてびくりと後退り、座ろうとして椅子を蹴って床が鳴る。またびくりと後退った。
「大丈夫? 凄く怯えてるけど。別に取って喰ったりなんてしないよ」
「えっ……あ……はい」
灰色海月は机上に手紙を置いて台所へ、黒葉菫は獏の脇に立つ。
獏はその手紙を手に取り、願い事を確認する。
『助けてください』
手紙にはその一言しか書かれていなかった。線が蹌踉けていて少し読み難い。
(『助けて』……こういうのは初めてじゃないけど、急ぎじゃなければもう少し詳細が欲しいね)
簡潔な手紙を置いて指を組み、獏はかくんと首を傾ける。
「君は何を助けてほしいのかな?」
「あ……あ、あの、貴方が獏ですか……?」
「うん。そうだよ」
「人間……?」
「証拠を見せろって言われると難しいけど、人間じゃないよ」
「じゃ、じゃあ……秘密の話って、できますか……?」
「秘密? 内緒にしてってこと? それならできるよ」
「よ、良かった……」
自棄にすんなりと信じる依頼者だ。
「まずこれを見てほしいんです」
男が机に大きな鞄を載せようとするので、獏は慌ててティーカップとマフィンの皿を持ち上げた。重そうな音を立てて鞄が鎮座する。
彼はそのファスナーを開け、よく見えるよう口を開いた。
何が入っているのかと獏は恐る恐る覗き込む。
「……お金?」
札束が幾つも、鞄にみっちりと詰まっていた。
「そうなんです。僕は落ちてたこれを拾って……家に持ち帰りました。よく見てください」
札束は一万円札の束のようだ。何百万円あるのだろうかと目で数えてみるが、途中で面倒になった。
「大金だね。落とした人は困ってそうだね」
「僕は自分の物にしようとしました」
「これだけあれば目も眩むねぇ」
「そうなんです……でもよく見てください」
「見てるよ」
「これ、偽札なんです!」
「え?」
獏はもう一度顔を近付けてよく見てみる。人間の金をあまり使用したことがない獏にはそれが偽物なのかどうか判別できない。もし偽物ならとてもよく出来ている。
「……スミレさん、わかる? 比較できる物があればいいんだけど」
「すみません。人間の金は科刑所が管理していて、買物の仕事が完了すると金も返却してしまうんです。俺も見ただけではこれが偽札なのかわかりません」
「そっか……」
黒葉菫から札束へ視線を戻し、視界の隅に灰色が映る。
「……クラゲさん?」
彼女は獏からカップと皿を受け取って下げ、一万円札を一枚、取り出した。
「あれ? そのお金どうしたの?」
「私の御菓子の売上げです」
灰色海月は大量に菓子を作り、カフェを営んでいる人間に預けて販売している。その売上金は科刑所に提出する必要が無く、彼女が自由に使用して良いとされている。
「本物です」
「比較対象があって良かった。ありがと」
「役に立てました」
誇らしげに彼女は胸を張る。小さなことでも役に立てたことは嬉しい。
獏は灰色海月が翳すそれに偽札を一枚横に並べて見比べる。灰色海月の持つ札は折り目が付いていて使用された痕跡があるが、偽札の方には折り目が無く使用された痕跡が無い。
「んー……箔の輝きがイマイチだね。紙質も違うかも……あと透かしが無いね。確かに偽物っぽい。お金って凝ってるんだねぇ」
判定が終わり、本物を灰色海月に返却する。鞄の中の札束はどれも同じようだ。
それを聞いて人間の男は改めて肩を落とした。
「やっぱり偽物なんだ……そっ、それ、どうしたらいいですか!?」
「どうしたら? 警察に渡せばいいんじゃないの? 落とし物は警察に届けるものなんでしょ?」
「そうなんですが……本物だと思って持ち帰ってしまったんで、僕がそれを作ったって思われるんじゃないかと……」
「かもね」
獏はけろりと言い放つ。男を慰めも庇いもしない。寧ろ微笑みすら浮かべる。
「大金を拾った時は警察に届けず欲を出して自分の物にしようとして、偽物と知った途端に警察を頼りたくなった、ってことだね。都合のいい時だけ頼ろうとする。人間は浅はかだね」
「ど……どうしたら……」
「君はどうしたいの? 僕は正直に話せばいいと思うけど」
「話すのはちょっと……」
「じゃあ偽札をただ手放したいだけ?」
「そ、そうですね……手放して、僕と関係無いって思ってくれれば」
「それなら簡単だよ。その辺に捨てればいい。元の場所に置いてもいいね」
「でもそれだとぉ……誰かに見られたりとか……」
「これを拾った時は誰にも見られてないの? 拾った瞬間だけじゃなく、これを持って歩いてる間、誰とも擦れ違ってない? 建物からの視線はなかった? 監視カメラは?」
「ぅ……」
獏はわざと可能性を列挙して男を追い詰める。何も無い更地を歩いていない限りは何処に人の目があるかわからない。
「擦れ違ったかも……誰か見てたかも……カメラがあったかも……!」
獏はけらけらと楽しそうに笑い、灰色海月は大きな鞄を少し押し遣って二人分のカップを置いた。契約の刻印を施す紅茶だ。熱い湯気が立ち上り、良い香りが漂う。
「君の家は? 同居してる人はいないの?」
「それは大丈夫です。一人暮らしなので」
「この鞄には札束以外は入ってないの?」
「え? 札束以外……?」
「確認してないんだね。札束を全部出して確認してみようか」
「は、はい……もしかしたら本物もあるかもしれないですよね」
「ここまで来てまだ欲が残ってるなんて」
管狐に聞かせてやりたいものだ。彼は最近の人間は欲が無いと不満そうだったが、こんなに欲深い人間がまだいるのだから捨てたものではない。
鞄を床に下ろし、男に中身を出してもらって机上に並べさせる。偽札の束が机に山となる。
「束一つが何枚なのかわからないけど、三十束かな? 一つ百枚だとしても三千万円だね。三千万円で何が買えるかな?」
「家が買えます」
傍らに立っていた黒葉菫が静かに口を挟んだ。
「家か。それは大金だね」
人間が使用する金について疎い獏は漸く納得した。そんな大金なら目が眩む。
「……あ、あの、鞄にこんな物が……」
札束を全て取り出した鞄の底から乾燥した二枚の葉の欠片が出て来た。
「スミレさん、同定できる?」
「見てみます」
「それなら私が……」
台所から様子を窺う灰色海月は小さく訴える。獏の監視役は彼女だ。役に立つのも彼女の仕事だ。
「クラゲさんには難しいんじゃないかな。植物のことは植物に訊くのが一番だからね」
灰色海月は元は海に棲む海月であり、黒葉菫のように植物系の変転人ではない。植物系の変転人でも全ての植物を知っているわけではないが、植物以外の変転人よりは詳しい。
黒葉菫は葉を一枚拾い、眺めたり鼻を近付けたりと観察する。僅か数秒ほどで彼は答えを出した。
「わかりました。麻……大麻草と言った方がわかりやすいですか?」
「え!?」
男はいよいよ顔が青褪める。麻薬なんて、持っているだけで罪になる。
「へぇ……茎の繊維なら布にされて使われるけど、葉は不味いね」
「千切れた葉ですが、縁の大きなギザギザがわかります。そして匂い……他にもありますが、間違い無いです」
獏はにやにやと、頬杖を突いて男を見る。
「犯罪詰め合わせセットみたいだねぇ。他には何か入ってる?」
「ほ……他……? は、入ってるわけないじゃないですか!」
「スミレさん、見てくれる?」
手伝いたいという顔をする灰色海月を制し、獏は黒葉菫に指示を出す。
黒葉菫は鞄に手を突っ込み、何も入っていないことを確認する。
「…………」
ポケットも開けて探り、何かが指先に当たった。
「本当に詰め合わせかもしれません」
「え」
冗談のつもりだったのだが、本当にまだ入っていた。
「何があった……?」
「少々……刺激の強い物が」
「クラゲさん、目を隠してて」
灰色海月は不満だったが、両手で双眸を覆った。指に隙間を開けようとして獏に掴まれ、指を揃えられる。
黒葉菫は透明な袋に入った物を机に置く。そこには人の指が何本も入っていた。指にある皺や爪の形を見るに、同一人物の指ではなさそうだ。確かに少々刺激が強い。
「君……もう警察に行ったら?」
「えっ、ちょ、みっ、見捨てないでくださいよ!」
「見捨てるわけじゃないんだけど、僕に縋ったらこの指の持ち主はわからずに捨てることになるから、どうせなら警察に特定してもらった方がいいんじゃないかと思ったんだよ」
「ど……どうでもいい! そんな誰かもわからない指なんて気持ち悪い! 僕は……、僕が警察に関わらないようにしてくれるだけでいいんだ!」
「……じゃあ捨てるけど。捨て方に希望はある? 場所とか」
「何処でもいい……捨てられるなら……」
「ふぅん。『何処でもいい』、『何でもいい』って言葉は便利だけど、本当にそれでいいの?」
「いい……」
男は疲れた顔で、青褪めて呼吸が浅い。
「それじゃあ、君の家の前に捨てるよ」
「!? いや駄目だろ!」
「だって『何処でもいい』って言ったでしょ?」
「何処でも……良くない……」
獏はふふと笑い、自分の紅茶を飲んで、男にも紅茶を勧める。目の前に突き出すと男は震える指先でカップを掴んだ。
飲めば契約成立だ。黒葉菫は腰を屈め、獏の耳元に囁く。獏は小さく頷き、カップを傾ける男に人差し指と親指で作った輪を向けた。
「山奥とか……谷底とか……そういう見つからない場所に……」
「一つ確認なんだけど、それを拾ってから、君が鞄に入れた物はある?」
「あっ!? あるわけないじゃないですか! 札束を見ただけで……何も……」
「ふぅん。ま、いっか。じゃあ山奥の谷底に捨ててあげる。捨てた所を見る方が安心できるよね? 一緒に行こう」
山奥の谷底に捨てた所で、何れ見つかるだろう。人に見つからない場所など中々無いものだ。
「そこに行く途中で見つかったら……」
「大丈夫だよ。人間と違って僕は一瞬で目的地に行くから。目的地に人がいない限り誰も見ないよ。人がいる場所に捨てるわけじゃないから見られる心配は無い。僕だって見られたくないからね」
「よ……良かった……獏がいて……」
「クラゲさん、人がいない山奥に転送してくれる?」
鞄の中に札束と乾燥した葉と人の指が入った袋を放り込み、灰色海月を指名する。彼女はちらりと指の間から覗いた。
「目隠しはもういいんですか?」
「うん」
両手を下ろして机を見るが、綺麗に片付けられてしまった机と、きっちりとファスナーを閉められた鞄しか無かった。だが会話は聞こえている。『指』が入っていると聞こえていた。
「スミレさん、行ってくるね。留守番よろしく」
「はい。お気を付けて」
大きな鞄は男に持たせ、灰色海月を促して獏は店を出た。灰色海月は慌てて重い首輪を取り出して獏の首に掛ける。
ドアが閉まると黒葉菫は一つ咳をした。
(花の香りとは違う……煙草もだが、同じ植物系なのに苦手な匂いだな……)
くるりと灰色の傘を回して灰色海月が転送した場所は真っ暗闇だった。
「わ、暗い」
夜目の利く夜行性の獏でも暗いと漏らしてしまう程の闇だった。鬱蒼と茂る木々が空を覆い、月が出ているかもわからない。足を動かすと枯れ葉が擦れる乾いた音がする。
「何も見えないんですけど……」
「ちょっと待って。まだ目が慣れてない所為もあるけど、明かりが無いと人間は歩けないよね」
獏と灰色海月は常夜燈を取り出す。細い硝子の筒を振り、中の夜燈石を擦り合わせて反応させる。石は仄かに光を発し、辺りをやんわりと照らした。
「足元に気を付けてね。鞄と一緒に君まで谷底に落ちないように」
「ひっ」
自分で枯れ枝を踏んだ音に驚いて男は声を上げた。そんな小心で、よく拾った大金を自分の物にしようと思ったものだ。
「谷……崖はこっちかな? 確かめてくるから、君達はここで待ってて」
幾ら元は暗い海の中に居たと言っても灰色海月は夜目が利かない。二人を残し、獏は一人で木の無い場所を探した。
然程離れていない位置に、木々の途切れる場所があった。端まで行くと枯れ葉と共に滑落しそうだ。常夜燈では下まで照らすことができず、底に何があるか全く見えない。
(少し水の音がするから、川でもあるのかな。音が遠いからかなり高さがありそう)
動物や人が下にいたとしても気配に気付けない高さだ。
獏は二人の所へ戻り、崖まで案内する。
「さ、鞄を貸して。投げるから。それとも自分で投げる?」
「……お、お願いします……」
弱々しく震えながら差し出された鞄を受け取り、獏は間髪を容れずに崖の下へそれを放り投げた。その内、通り掛かった別の人間が鞄を見つけて警察へ届けるだろう。
「はい、御終い。話しそびれてたけど、代価を戴くね」
「え? 代価……? ま、待って……財布、持って来てない……」
「安心して。欲しいのはお金じゃないから。君の心の柔らかい所をほんの少し、戴くだけだよ」
獏は優しく囁いて微笑む。
「心……? な、何か食べるってことか……!?」
「食べるけど、体の何処かを食べるわけじゃないよ。目に見えない心、感情、記憶とか。痛くないし苦しくもないよ。もし嫌なら捨てた鞄を拾って来るけど」
「鞄は捨てたままでいい……。心とか感情とか、曖昧過ぎて……僕はどうなるんだ!?」
「どうもならないよ。ただいつも通り生活する。生活できる。何も変わらない。ただ僕がほんの少しお腹が満たされて満足するだけ」
「……? それなら……別にいいか……。警察に連れて行かれないなら……」
「ふふ。決断が早くて助かるよ。じゃあ、戴くね」
獏は灰色海月に常夜燈を預け、一歩前に出て男の両目を手で塞ぐ。そして動物面を剥がし、月の見えない闇に二つの月を咲かせる。
「君からは……うん、あれを戴こう」
途惑う男に獏は口付け、代価を喰らう。
戴く代価はほんの少しだ。短い口付けを終えると獏は顔を離し、動物面を被り直す。両目から手を離すと、男は一歩二歩と蹌踉めく。代価を食べられると少し惚けてしまうのだ。
「それじゃあ後は家に帰るだけだね。クラゲさん、転送できる?」
「はい」
「家から少し離れた所に転送して」
「わかりました」
灰色海月から常夜燈を返してもらい、それを仕舞う。灰色海月も自分の常夜燈を仕舞って灰色の傘をくるりと回した。
次に現れたのは暗い住宅街だ。等間隔に街灯は立っているが、それが照らしたい人間は歩いていない。
角に隠れた位置に転送され、徐々に正気を取り戻した男はへこへこと頭を下げて角を曲がり家へ帰った。幾ら世話になった獏でも、得体の知れない存在であることは変わらない。獏の傍から早く離れたい、と言うように早足だ。
「クラゲさん、暫く気配を消して待機するよ」
「? はい」
小声で指示し、獏は蹲む。灰色海月も傘を畳んで獏の後ろに蹲んだ。気配を消すのは、気付かれたくない対象がいるからだ。角の向こうを覗く獏に倣って灰色海月も恐る恐る向こう側を覗く。
契約者だった男は背筋を伸ばしてしっかりとした足取りで道を歩いていた。古物店に来た時とは別人のようだ。その前方に人影が現れる。獏は人差し指と親指で作った輪を翳す。
距離があるので顔は見えないが、現れた人影は男と擦れ違った。その瞬間に人影は振り返り、男から悲鳴が上がった。男の手から何かが落ち、人影はそれを拾って駆け出した。獏は灰色海月を手で下げ、獏自身も角へ身を潜める。その前を人影が走り抜けて行ったが、二人には気付かなかった。人影は帽子とマスクを着用しており顔が見えなかったが、体格からして男だろう。
「クラゲさん、僕達も戻ろう。善行は終わりだよ」
「今の人は……あの人はどうしますか? ずっと叫んでますが」
「痛いから叫んでるだけだよ。声を聞いて近所の人達が起きるだろうから、騒ぎになる前に離脱しよ」
何が何やら灰色海月にはさっぱりだったが、長居していると人間に見つかってしまう。灰色海月は灰色の傘をぽんと開いて転送した。
誰もいない小さな街の石畳に転送された獏は一仕事終えたと伸びをする。
「あの……何が起こったんですか?」
「ん? んー……何から話そうかな? スミレさんも気になるだろうし、一緒に話すよ」
二人は黒葉菫の待つ古物店へ入り、奥で簡素な椅子に座っていた彼は立ち上がって頭を下げた。
「御無事で」
「もう、大袈裟だなぁ。僕達が狙われてるわけじゃないんだから」
獏は笑い、古い革張りの椅子に腰を下ろす。灰色海月はカップを台所に下げ、すぐに戻って簡素な椅子に座って聞く態勢を作る。
「じゃあ話すね。鞄の中に葉っぱが入ってたでしょ? あれはあの男が入れた……たぶん偶々、うっかり入っちゃったんだろうね」
「偶々……? あの人は知らないみたいでした」
「そりゃあ、しらばくれるよ。自分のだって言ったら警察行きだもん」
「そうなんですか」
「スミレさんがこっそり教えてくれたんだ。あの男からも微かに同じ匂いがするって。遣ってる、ってことだよね。普段からお金を見る機会がある人間が、あの出来損ないの偽札を持ち帰る前に一目見て偽物だって気付かないのは変だし、カップを持つ手も震えてた。恐怖とは違う震え方だった。禁断症状ってやつかな?」
「遣ってる……?」
「麻薬を使用してるってこと。使用すると気分が良くなるけど、束の間の夢みたいなものだね。不安になったり、幻覚を見るようになったりとか、後は悪夢みたいなものだよ。僕は代価に『中毒症状』を戴いた。厳密には症状じゃないんだけど……症状が食べられるなら医者はいらないからね」
「では家に帰る時には症状が無くなってたんですか?」
「うん。あの擦れ違った人は誰だか知らないけど、おそらく偽札入りの鞄を落とした人だね」
「えっ」
「わざと落としたんだと思う。覗き窓で見てみたけど、大金をこっそり自分の物にしようとする欲深い人間を狙って、指を切り落としてる」
「指を……」
擦れ違った時に契約者の手から落ちたのは、切り落とされた指だ。
「鞄に入ってた指は、今まで切り落とした欲深い人間の指だね。鞄は捨てちゃったからどうなるかわからないけど、まだ続けるのかなぁ」
腕を組んで天井を仰ぐ獏に、黒葉菫も口を挟む。
「何故、代価に症状を?」
「正気で味わう恐怖の方が恐ろしいかなぁって」
「成程……」
「また薬に頼るだろうけどね。症状を抜いても依存は消えないから。一瞬の幸福、永遠の悪夢だよ」
指を切り落とされて叫んでいた男は今頃病院だろうか。獣にも色々いるが、人間にも色々いるものだ。
話を聞いて溜飲を下げた灰色海月は新しい紅茶を入れるために席を立つ。人間は変転人には考え付かないような行動をする。恐ろしい生き物だ。




