224-知らない存在
静寂に包まれた小さな街の古物店で、獏はやや落ち着かない気持ちで湯を沸かしていた。散々不器用だと言われた獏だが、湯くらいは沸かせる。焜炉に置いた薬缶を見下ろし、時折蓋を開けて様子を見る。
灰色海月が作ったロシアケーキはまだ少し残っている。獏は無言でロシアケーキを一つ抓み、何も無い壁を見詰めた。
「ただいま戻りました」
聞き慣れた声が古物店の静寂を終わらせ、獏ははっと振り返る。台所から顔を出し、狭い通路を歩く二人の姿を見て安心した。
「おかえり、クラゲさん。クララさんもお疲れ様」
「台所から……と言うことは、何かしてましたか?」
「お湯を沸かしてただけだよ。クララさんが来たら紅茶を出してあげようと思ってね」
「クララさんが来るとわかってたんですか?」
獏と交代し、灰色海月は台所を覗く。薬缶から湯気が溢れ、沸騰していた。
「物凄く沸騰してます」
「何処まで熱くしようかなって」
「何を言ってるんですか?」
灰色海月は焜炉の火を消し、茶葉の缶を棚から下ろす。
「鴟吻が連絡をくれたんだよ。クララさんが負傷した変転人を見つけたって。クラゲさんも一緒に宵街に転送したから、知らせてくれたんだ」
灰色海月は獏の監視役だ。監視役を罪人から長時間引き離すことになるため獏に知らせたのだ。勿論、彼女は狴犴にも連絡している。
「クララさん、宵街に連れて行かれて大丈夫だった?」
「……ノーコメント」
「え?」
過呼吸を起こしたとは言えなかった。獣にそんな弱味を見せられない。
獏は首を傾げ、眩草の前に簡素な椅子を置く。そして獏も古い革張りの椅子に腰掛けた。
「それより、ついでだ。僕の手紙は見たか?」
「うん、見たよ。よくわからなかったけど」
「何でだよ。自分のしたことだろ」
「えっと……高度な冗談?」
「? いや……コンビニで会っただろ。ハンバーグとスイーツを奢れって」
「え……何それ? 本当に僕?」
獏は罪人で、自由に人間の街を往来できない。それに最近コンビニエンスストアに立ち寄ってもいない。
「お面はしてなかったが、獏って言っても否定しなかっただろ」
「僕がお面を外して人間の街を歩くかなぁ……」
「じゃあもう一度お面を外してみろよ。今度は顔を覚えておく」
「嫌だけど……濡れ衣も嫌だし仕方無いか……」
人間が相手なら意地でも外さないだろう。相手が変転人だから気を許す。黒いマレーバクの面を外し、不機嫌そうに口を結んだ。
「目の色は同じだ」
「え……それじゃあ、僕の顔を知ってる人の犯行……?」
「別に悪いことはしてなかった。犯行じゃない。顔は少し違うな。似ているが」
「顔が違うなら別人だよ! 僕の名を騙って営業妨害してるの!? ……営業はしてないけど」
「闇に紛れてよく見えなかったから断言できないが、転送したように見えた。ただ闇に紛れて走り去っただけかもしれないが」
「うーん……でも何で僕なんだろ。僕の噂を知った人が面白がって遣ってるのかな?」
さっさと動物面を被り、緊張を解して椅子の背に凭れる。
「さあな。僕には関係ない。ただ……もう巻き込まれてる、って言われたのは気になる」
「巻き込まれてる? 何だろうね。意味の無い言葉かもしれないけど、気味が悪いね」
落ち着いて会話をしている眩草に安心し、灰色海月は淹れたての紅茶を二人の前に置く。沸騰した湯は少し冷ました。残っていたロシアケーキも皿に盛って出す。
「善行の妨害なら今後支障が出るかもしれないので、宵街に報告します」
「うん。捕まえないとね。人間の仕業なら殺していいよね?」
「確認しておきます」
「お前が獣だって忘れてたな……」
簡単に人間を殺そうとする。柔和な獏さえこんな性格だ。きっと眩草が知らないだけで、人間の街で揉み消されている獣の犯行が幾つもあるのだろう。
「クララさん。その偽者は他に特徴がありましたか?」
「あー……黒い服を着てる所は同じだな。髪も黒くて、でも長かった。二つに括ってた」
「僕の髪じゃ括っても小鳥の尻尾程度だね。これで潔白かな」
「鬘かもしれないだろ」
「では宵街に行ってきます。こういうことは急いだ方がいいと思うので」
携帯端末は所持しているが、大事な話は直接報告するよう定められている。これは大事な話に該当する。
「うん。行ってらっしゃい」
休む間も無く転送する彼女を送り、獏は淹れてもらった紅茶を一口飲む。今日は少し苦い。冷ましたとは言え茶葉にはまだ熱かったようだ。
「僕の噂が広まり過ぎたのかな……」
眩草も紅茶を飲み、視線を感じて置棚を見る。棚の間から覗く金色の双眸と目が合った。陰に紛れて何かがいる。金色は目を逸らさなかった。
「何がしたいんだ? お前は」
「僕がって言うより、宵街が、だね。善行をさせたいんだよ」
「獣の趣味は知らないが……いつから遣ってるんだ?」
「二年くらい前だね」
「割と最近なんだな。獏と会って、気になったから局内で認知されてるか少し調べたんだが、ネットで結構広まってて、それを見た人が結構いるみたいだ」
「ああ……ネットはね……予想外の広まり方をするよね。散々な目に遭ったよ。――って、嘘でしょ!? 変転人に近寄ろうとしない猫が何で君の膝に!?」
ロシアケーキを齧りながらぼんやりと答えていた獏は勢い良く前に乗り出した。棚の中で置物と化していた黒猫が音も無く眩草の膝に跳び乗ったのだ。白黒猫なら黒葉菫が世話をしていたこともあって変転人にも慣れているが、黒猫は灰色海月にすら近付かない。なのに最近初めて来たばかりの彼に懐いてしまった。
「そんなに驚くことか?」
「その猫、変転人には近付かないんだよ。すぐに逃げて行っちゃう。君……木天蓼でも持ってる?」
「持ってない。……が、人間の街で暮らしてるから、人間の気配でもあるのかもな」
「ああ……わかるようなわからないような」
「とにかく、ネットの情報を見て巫山戯てる奴がいるのかもな。結構広まってるから、テレビでも都市伝説として取り上げようとしてる。その辺、手を打っておいた方がいいぞ。結構広まってると言っても今は局所的だ。でもテレビでなんて流されたら急速に広まって手を付けられなくなる。面白がって手紙を出す人がポストをパンクさせたり、獏を騙った詐欺が流行る」
「だから人間は嫌いだ……ひっそり静かに暮らして、偶に善行するくらいがいいよ」
「僕は取り敢えず知らないフリを続けてやる。あれから何度か訊かれることがあったが、獏なんか知らないと答えてる。身近にいる人が知らなかったら、そんなに有名じゃないって思うだろ?」
「そんなに僕のことを考えてくれるなんて……ありがとう、助かるよ」
「傘を貰ったし、色々教えてもらったからな。意図せず有名になって大変な目に遭う気持ちは僕にもわかる」
人が足りずほんの少しエキストラ出演したばかりに有名人になってしまった彼は、獏のことが他人事とは思えなかった。獏の噂を撒いているのは宵街の方だが、人間の街に棲んでいないとわからないことは多い。長命な獣は、刻一刻と変化する人間の世界に付いて行けない。特にインターネットは人間の街に行って専用の端末を使用しないと閲覧できない面倒な物だ。獣はそんなものを逐一見ない。
「……結局、あれだけ避けてた宵街の世話になるんだからな。護衛を付けてくれるみたいだが、頭の悪い奴は嫌だな……幾ら強くても、頭が悪いと何をするかわからない。最低限、人間のルールを知ってる奴がいい」
「頭は悪くなくても、若い変転人だとまだ勉強中だから、人間のことはよく知らないね」
「不安になってきた……」
紅茶の匂いを嗅ごうとカップに頭を入れようとしている黒猫の顔を押さえ、眩草は紅茶を飲む。膝に乗るどころか触っても逃げない黒猫に、獏は無意識に口が開いていく。眩草も立派な毒草だ。つまり黒猫は有毒生物だから無色の変転人を避けていたわけではない。他に理由があるようだ。
ゆっくりと紅茶を味わってカップが空になる頃、灰色海月は戻って来た。その背後に一人増えていた。
「クララさんの護衛と鉢合わせたので、一緒に来ました」
「こんにちは」
護衛はよく知る背の高い至極色の青年だった。彼と会うのは慰霊祭以来だ。
「スミレさん! こんにちは」
黒葉菫はゆったりと丁寧に頭を下げる。
「護衛対象は灰色の……隣の人ですか?」
狭い古物店を見回し、聞いていた灰色の男を視界に収める。
「うん。眩草さんだよ。クララさん、彼は黒葉菫さん。良かったね、希望通りだよ」
「希望通り? ってことは、頭が良いのか?」
何気無い二人の会話に、黒葉菫はきょとんとした。灰色海月は二人のティーカップが空になっていることに気付き、黒葉菫のために簡素な椅子を出してから新しい紅茶を淹れる。
「俺はそんな、言うほど頭が良くは……」
「この場合の『頭が良い』は、空気が読めるってことだよ。スミレさんは人間の街に何度も行ったことがあって最低限のことは知ってる。慎重な面もあるし、気遣ってくれるし、頼りになるし、武器は拳銃」
「この人の武器、銃なのか? いいな……僕も銃を持ちたいんだ」
「急に褒められると言葉が出ませんが……。銃は、まず適性を見てみないと。最初の武器の生成には時間が掛かるので、焦らず長い目で見よう」
椅子に腰掛け、黒葉菫は簡単な質疑応答を始める。彼が依頼されたのは眩草の護衛で、変転人の死傷者のことも科刑所で知った。眩草は二度もそれを発見し、自宅から怪しい物音も聞こえたので保護された。
護衛のために彼の生活を制限はせず、普段の生活の中で護衛を行う。眩草は住んでいる場所や仕事など、必要な情報を語る。黒葉菫の武器が銃と聞いて、心を少々開いているようだ。落ち着いた黒葉菫の性格の御陰もあるだろう。
簡単な情報収集を終え、黒葉菫は置かれた紅茶を飲む。普段は珈琲を飲んでいるが、紅茶も美味しい。
「スミレさんが護衛に立候補したの?」
「いえ。今回は科刑所から何人か候補を挙げ、その中から都合の良い人を選びました。俺は丁度、買物の仕事を終えた所だったので」
「捕まっちゃったんだね」
「それだと悪いことをしたみたいですが……。もし俺だけでは心許無いなら、追加で誰か派遣されます。対象の安全と安心、どちらも蔑ろにできません」
「ね、クララさん。スミレさんはいい人だよ」
「みたいだな。ちょっと銃を見せてくれないか?」
「見せるくらいなら」
護衛は信頼も大事だ。信じて護られてもらわないと素早く動けない。新人教育にも携わっている黒葉菫は武器の生成の相談にも乗っている。眩草も同じだ。生成の一助となるならと見本を見せる。
慣れた手付きで掌に指を掛け、フリントロック式の拳銃を引き抜く。
「思ってた銃とは違うが……そういうのも格好いいな……」
眩草が手を差し出すので、引き金には触れないよう念を押して両手に載せる。引き金に触れないとしても、銃口は人には向けない。手に載った鉄の塊は冷たく、ずしりと重い。
「これが本物の銃……この重さを片手で撃つのは難しそうだな」
「慣れるまでは手を添えて両手で撃ってた。今は片手でも撃てるが、標的が小さい時は両手で撃つ方が安定して安心だ」
「たぶん……この人、強い?」
眩草は銃を返しながら獏に確認する。微笑ましく見ていた獏は口元に笑みを浮かべながら黒葉菫を見る。
「ふふ……強いよ」
「煽てないでください。俺より強い人はたくさんいます」
「一番は誰かなんて決められないよ。色んな状況があるし。でも君は状況を見てちゃんと動ける」
「……あまり褒めないでください。もっと強くなりたいと思ってるんです。他にも銃を使う変転人がいれば教えを乞えるんですが……」
獏と眩草は同時にとある変転人の顔が浮かんだが、口止めされているため言うことができなかった。今度会う機会があれば、黒葉菫が悩んでいることを伝えておこうと頭の隅に置いておく。
「珍しい武器を持つ人の悩みだね」
「つまり僕が銃を武器にすれば、黒葉菫から教えを乞えるんだな」
「銃を選べるなら、切磋琢磨してくれるとありがたい」
既に銃を武器にしている変転人がいるのに、当人はそれを隠す。明かせばいつでも切磋琢磨できるのに、と獏と眩草は思うが口止めされている。
三人はカップを傾け、二人は口を滑らせないよう静かに紅茶を堪能した。
* * *
宵街の科刑所では新たな問題の発生に、方々への情報提供を急いでいた。
変転人の死傷者が看過できないほど発見されている。一人でも勿論看過できないが、複数人となれば今後も続く可能性が高い。人間の街に出入りする無色の変転人に警戒を促すため、武器をまだ生成できない一歳未満にも周知させる。
鴟吻と黒種草には引き続き人間の街を監視してもらう。鴟吻が眩草と負傷者を見つけたのは偶然だ。彼女がいつも好んで千里眼で見ている贔屓が現在は花街へ遠征していて、千里眼の範囲外にいる。そのため鴟吻は暇潰しに人間の街を見ていた。
タイミングが良いのか悪いのかわからないが、宵街の戦力は現在、花街へ遠征中だ。贔屓と蒲牢と鵺がいつ帰るかわからない。
兄弟には先に情報を共有するため、宵街にいない饕餮と椒図、覇下には、鴟吻が伝達した。芋蔓式に窮奇と蜃の耳にも入っているだろう。覇下はまだ宵街や兄弟について知らないことや慣れないことが多いため、負担を掛けないよう、海底の死体と関係があるかもしれない死傷者が見つかったとだけ伝えた。
「十歳以上には伝えたが、十歳未満の無色にも通達したい。苧環、これを下層に貼り出しておいてほしい」
「わかりました」
急ぎ紙に書き起した伝達を白花苧環に預け、狴犴は机上に広げている資料に目を落とす。これまでの情報の中に見落としが無いか洗い直し、必要な情報を抜き出していく。
「苧環、帰りに病院にも寄ってくれるか? もし負傷者から話が聞けそうなら、犯人や状況、動機などを聞いてほしい」
「はい」
既に扉を開けて一歩踏み出していた白花苧環は振り向いて頭を下げる。彼は迅速で、あまりに行動が早いので忙しない。追加の注文をしようと思った時にはもう部屋からいなくなっている。
(早いのは良いことなんだが……私の指示が追い付かない)
優秀な変転人を持ち、贅沢な悩みだろう。益々前世の彼に似てくる。
科刑所を後にした白花苧環は石段を軽快に数段飛ばして跳ぶように駆け下りる。中腹を過ぎると店を開いている変転人や近隣に棲む変転人が何事かと顔を向け、それが彼だと知るとある者は恐ろしいものを見たとばかりに顔を引っ込め、ある者は頬を紅潮させて身を乗り出す。今の白花苧環は何故自分が怖がられているのか知らない。白に属する変転人は『ハズレ』であり、前世の白花苧環が規格外の強さを持っていたからだと言うことも彼には教えない。
石段脇にある下層の掲示板に、狴犴から預かった紙を貼り出す。
その様子を窺っていた有色の変転人が恐る恐る確認に出て来た。無色に対する貼り紙だと気付くと、首を捻りながらも去って行く。
「苧環、それ何?」
有色に声を掛けられるのは珍しい。だが問いたい気持ちはわかる。白花苧環は振り向き、予想とは違う少女と目が合い頭を切り替えた。
「ウニでしたか」
そこに立っていたのは無表情の黒色海栗だった。彼女は十歳未満の無色だ。この貼り紙の対象者である。
「詳細はここには掲示できないので、質問のある人は科刑所にと下に書いてあります」
「ここに掲示できないなら、面倒臭いこと?」
「そうなりますね。今はここに書かれているように、人間の街へ行く仕事は控え、行く場合は最低でも二人以上で、を守ってください」
「科刑所に行くのも面倒臭い。こういう時、科刑所は忙しい」
「忙しいですが、説明の時間は作りますよ。狴犴の義務です」
だが折角ここに白花苧環がいるのだから、科刑所に行けと言うのも回りくどい。彼は腰を屈め、周囲に声が漏れないよう彼女の耳に囁く。
「人間の街で身元不明の変転人の死傷者が複数見つかりました。まだ被害が続くかもしれないので、警戒してください」
「!」
黒色海栗は白花苧環を見上げ、瞠った目を無表情に戻す。
「わかった。気を付ける。苧環も気を付けて」
「はい。気遣いありがとうございます」
「今の苧環は少し危なっかしい。ってスミレが言ってた」
「……そ、そうですか。気を引き締めておきます……」
心配されている内は未熟だ。肝に銘じて白花苧環は頭を下げ、病院に向かう。有色の変転人はまだ不安な顔をしていたが、宵街で獣が暴れることはないと彼が伝えると安堵を見せた。
白花苧環は急いで中腹へ戻り、蔦を払って病院を覗く。受付の姫女苑が顔を上げて頭を下げた。
「運ばれた負傷者の容体はどうですか? 目を覚ましましたか?」
「すみません、ラクタヴィージャ様はまだ手術室で……」
「まだ? 随分時間が掛かってますね。それだけ厳しい状態なんでしょうか。集中治療室ではなく、手術室なんですよね?」
「はい。もし移すなら一旦報せてくださると思います」
「ドアは開けないので、近くまで行ってもいいですか?」
「構いませんが、中の音は聞こえないと思いますよ」
集中して手術を行うため、外部の音が入らないよう手術室は防音されている。姫女苑は微笑みながら彼を見送った。
白花苧環は廊下の奥の手術室まで行き、ドアに耳を近付けてみる。姫女苑の言う通り、何も聞こえない。それを姫女苑は受付カウンターから身を乗り出して見守っている。
(やっぱり何も聞こえない。少し待つべきか、科刑所に戻るか……)
迅速な彼でも判断に迷う。少し待てば手術が終わるのか、まだ何時間も掛かるのか。前者なら待つが、後者なら科刑所に戻るべきだ。
(……あと五分、待ってみましょう)
待合室で五分待たせてもらうことに決めて踵を返した瞬間、手術室から聞こえないはずの大きな物音が響き渡った。
「!?」
振り返ると数センチメートル程の距離にドアがあった。咄嗟に腕を翳して頭を守るが、何かに突き飛ばされた。
「あああああああああ!!」
かなりの速度を出す大型トラックに突き飛ばされたかのような衝撃だった。白花苧環の体は廊下の直線を飛び、見守っていた姫女苑が悲鳴を上げた。
「きゃああああ!?」
何かが来る。浮いた足を着地させ、それでも勢いが止まず廊下を滑る。
外れた手術室のドアを弾き、視界に入った何かは白花苧環の頬に爪を掠る。彼は目を閉じず、その何かの腕を引いて勢いのまま床に引っ繰り返した。軽い体は簡単に床に叩き付けられ、今度は手術室から慌てて駆け出したラクタヴィージャが悲鳴を上げた。
「ああああ!? それ患者!」
「!?」
反射的に叩き付けてしまったが、改めて押さえ付けたそれを見る。傷だらけの変転人だった。何なら床に血を擦り付けている。
「すみません!」
「でも丁度いいから押さえ付けてて!」
とどめを刺してしまったかもしれないと血の気が引きながらも指示通り四肢を押さえ付ける。負傷者はぐったりとしていて、押さえ付けずとも動きそうになかった。
ラクタヴィージャは急いで注射器を用意し、動かない負傷者に薬を打ち込んだ。
「効果が出るまで少し掛かるからそのままでね、苧環」
「あの……元気な負傷者なのか、死に掛けてるのか、どっちですか……?」
「あは……驚いたね。麻酔は打ってたんだけど部分的だったから……全身麻酔にしておけば良かった。急に目を開けて叫び始めて、飛び出したのよ。自棄に怯えてた。相当な目に遭ったんだと思う」
「走れる程の負傷なんですか?」
「火事場の馬鹿力って奴かも。どちらかと言うと疲労で倒れてたみたいだけど、内臓も一部負傷してる。外から思い切り殴られた……みたいな?」
「暴行を受けたんでしょうか?」
「かもね……あの傷だらけの体を見るにその可能性が高いけど、一人で転んでぶつけて……って可能性も無いとは言い切れない。決め付けないで色々考えないといけないのよ。医者だから」
「成程。狴犴に報告しておきます」
「苧環は負傷者を見に来たのよね? 患者はこの通りだけど、もし次に目を開けた時に落ち着いてたら話せるはずよ。声帯は無事だから」
「良かったです。唯一の手掛かりを仕留めてしまったかと……」
「あれは誰だって驚くよ。気にしないで。即死じゃなければ助ける」
ラクタヴィージャは戯けるように親指を立てて見せた。白花苧環が深刻に落ち込まないよう配慮している。
「ヒメも驚いたよね? 手術室のドア、もっと頑丈にしてもらおうかな」
「錯乱する患者さんは初めてではないので……でも手術室のドアを飛ばした変転人は初めてです」
「有色の変転人でも火事場の馬鹿力でドアを吹っ飛ばせるみたいね。今度から気を付けないと――よし、そろそろいいかな。苧環、ついでだから患者を手術室まで運んで」
「わかりました。ドアの修理もすぐに手配します」
「あ、そうそう。傷口はもう縫い留めたから大丈夫よ。さっきので開いたけど」
「そうですよね」
床の赤黒い染みに視線を落とし、白花苧環は動かない患者を抱き上げる。罪悪感を覚えながら歪んだドアを跨ぎ、ラクタヴィージャと共に手術室へ戻る。
「何か新しい情報は得られましたか?」
「本人に話を聞かない限り何とも。でも前に見つかった死体と傷の感じが似てるし、同じ襤褸を着てるし裸足……繋がりがある。もしかしたらこの二人は知り合いかもね」
「知り合いなら一気に進展しそうですね。また後程伺います」
「そういう報告も電話でできればいいのにね。一々往復しなくて済む」
「連絡は電話で構いませんが、報告は対面と決まってるので」
「まあね。私も対面には賛成。狴犴を一人にしておくと知らない内に倒れて発見されなさそうだから」
「一人ではなくオレもいます」
「忙しくても食事は摂らせておいてね。書類を窓から捨てていいから」
「捨てるのはちょっと……取り上げて食べさせます」
折角集めた情報を捨てるわけにはいかない。頭にまだ入っていない書類や資料もある。
「狴犴は今日、何を食べた?」
唐突な問いに、白花苧環は記憶を手繰るが、狴犴が口に物を入れる所は見ていない。
「え? ……知りません」
「苧環が知らないなら食べてないでしょ。適当に食べ物を捩じ込んでおいて。医者命令よ」
「わかりました。買って戻ります」
外れたドアを邪魔にならない待合室の隅に置き、白花苧環は忙しなく病院を出る。予定にはなかったが医者命令ならば仕方無い。下層のカフェで食べ物を手に入れる。
路地の茂みを分けて顔見知りの薺のカフェへ駆け込み、彼女は彼の勢いに面喰らった。
「苧環さん……? びっくりした……」
「何か……その……食べ物……食事をください。片手で簡単に食べられそうな……」
料理にはまだ詳しくない白花苧環は辿々しくそう言うことしかできなかった。我ながら不親切な注文だ。
「それなら、気紛れ食堂に行ってみてはどうでしょう? ここは御菓子と飲み物が殆どなので。食事なら気紛れ食堂がお勧めですよ。今日は開いていたので、無駄足になりません」
「気紛れ……?」
「すぐ近くなので、行って損はありません。無色の方が開いてる食堂です」
「無色が……? それなら行ってみます」
無色が店を開いているなど初耳だが、白花苧環が生まれる以前にできた店なら知らなくて当然だ。宵街の店はまだまだ知らない所が多い。
店を営業しているなら掲示板の貼り紙を見ていないかもしれない。内容を伝達しておいた方が良いだろう。
薺に教えてもらった通り茂みが塞ぐ細い路地に入って曲がるとすぐに店が現れた。薺のカフェのように外に机は無く、他の家と比べて少し大きい四角い石の塊だけがある。入口の脇に『開』と書かれた札が下がっている。
躊躇っている暇は無い。白花苧環はドアを開けて店内を覗く。割烹料理屋のような店内だった。
(あれは……)
客は一人しかいなかった。見知った顔だった。つい先刻、会ったばかりだ。
「あ、苧環? ケマ、お客さん来た」
「好きな所に座って」
カウンター席に座って御喋りに興じていた二人は来客を優先する。先刻会ったばかりの黒色海栗はカウンター席に座ったままだが、もう一人の少女は持ち場へと戻る。頭にピンク色のカチューシャを付けた黒所属の少女だ。
「ウニの店なんですか……?」
「私じゃなくてケマ。私は料理できない」
「今日の献立はこちら。焼き魚と味噌汁の定食か、余り物ぶっ込みチャーハン。魚はランダムよ」
カウンターの上の小さな黒板に書かれたメニューを指し、カチューシャの少女は注文を待った。
「店名に恥じない献立ですね」
気紛れ食堂の名は伊達では無い。だが白花苧環は食事をしに来たわけではないので、席には座らずカウンターへ向かった。
「誤解があるみたい。気紛れなのは開店日の方。仕事が無い時に開けてるから、休みの方が多いの。貴方、苧環よね? 科刑所の仕事、もっと減らしてくれない?」
「人手が足りないので難しいですが、狴犴に伝えておきます」
「まあ一応、狴犴には許可を貰って遣ってる店なんだけど。買物の仕事で、食材が余ることがあるの。セット販売とか、複数買うと割引されるお得な物とか。そういうので余った食材を使って、ここで食事を提供してる。同じ料理を何人前も用意することはできないから多少ランダムにしてるの」
「そうなんですか? 食材を無駄にしない良い試みですね」
「本当だ。この苧環、何も知らない。ここに来たこと、覚えてない。店の許可を貰った時、苧環もいたのに」
カチューシャの少女は鼻で笑い、黒色海栗を一瞥する。白花苧環は無言で同様に彼女を見た。白花苧環が死んだことは十歳以上の無色の変転人には話したが、十歳未満には話していない。親しくしている灰色海月と黒色海栗しか知らないことだ。
「……ごめんなさい。苧環に違和感があるって詰め寄られて話した。他の人には話してない」
「そうですか……そんなに違和感がありますか?」
カチューシャの少女は威圧感の乏しい彼に拍子抜けしながら、小さな黒板を引っ張って前に立てる。変転人に怖がられていた彼は、今や毒気を抜かれたように見える。有毒植物なので毒はまだあるが。
「頭が空っぽみたい。記憶が詰まってないから。前は高い空から見下ろして飛ぶ鷹みたいだった。今は……うーん……人懐こい鳩? 私の個人的な感想だけど」
「あ、忘れてた。苧環、この人は華鬘草。ケマの作る料理は美味しい」
華鬘草はピンク色や白のハート型の花を連ねて咲かせる植物だ。可愛らしい花だが全草に毒があり、食べると吐き気や心臓麻痺などを起こす。
既に会ったことがあるのなら、白花苧環は彼女の名前も知っていたはずだ。だが彼にその記憶は無い。名乗ることを忘れていた華鬘草は彼の記憶が本当に無いことを確信する。
「……今日はオレが食事をするわけではないんです。片手で食べられそうな……あと栄養もあるのが望ましいんですが、そういう食べ物はありますか?」
「持ち帰り?」
「はい」
「じゃあ名物の雲形パンのサンドイッチを作る。余り物を挟むだけだからすぐできる」
「ではそれをお願いします」
二種類の献立の他に、持ち帰りに適した雲形パンとサンドイッチがこの店の定番だ。
「パンはケマが焼いてる。ふわふわの雲の形のパン。カチカチのもある。何も入ってない時もあれば、木の実とかが入ってることもある。余り物次第。私もよく持って帰ってる」
「二人は仲がいいんですね」
「うん。私が変転人に成り立ての時、色々教えてくれた。釣りとか」
「釣り……?」
釣りは宵街の生活に必須ではない。魚なら店で買えば手に入る。娯楽として嗜んでいるのだろうと彼は解釈する。
「偶に釣ってケマにあげる。私は料理できないから」
「もしや献立のランダムの魚は……?」
「私が釣ったのも入ってる」
黒色海栗は無表情だが、自信に溢れた顔をする。生活に必須でなくても得意なことがあれば自信になるようだ。白花苧環も参考にする。
先の言葉通り、華鬘草はすぐにふわふわのサンドイッチを載せた木の盆をカウンターに置いた。片手と言ったが両手で掴んだ方が良さそうな大きなサンドイッチだった。もくもくとした雲の形をしている。
「何が挟まってるんですか?」
「どうせ食べるのは狴犴でしょ? 狴犴は食べ物や味に拘りが無いから、色々入れたよ」
「ありがとうございます」
「今回は鰯のマリネと玉葱、ミニトマト、レタス、チーズ、檸檬ね。ある物を適当に入れたけど、栄養はこれでいい?」
「栄養素には詳しくないのでお任せします。たくさん入ってるので栄養がありそうですね」
「ふ、ふふ……ウニ、苧環って面白くなったわね。前はもっと寡黙で冷たい感じだったけど、今は口を開けば面白い。やっぱり鳩だ」
「苧環はいい人」
白花苧環は釈然としなかったが、ケーキでも入れそうな白い箱に入れられた雲形サンドイッチを受け取り、科刑所へと踵を返した。彩りは良く、美味しそうなサンドイッチに見える。味気ない色の栄養食品よりも美味しそうだ。
(鳩は人間の街でよく見掛ける警戒心の薄い鳥……それがオレですか。厳しい評価だ)
サンドイッチを狴犴の口に捩じ込むため、白花苧環は鳩を振り払うように石段を駆け上がった。予定よりも時間が掛かってしまった。




