223-夜の届けもの
(はあ……僕は今年、厄年なのかもしれない……八歳は厄年か? お祓いにでも行くか……)
変転人の眩草はとぼとぼと一人で帰路に就いていた。人間の八歳に厄は無い。
夜でも街灯が照らしてくれる道は明るい。店や住宅にもまだ明かりがある時間だ。
同僚と共に変転人の死体を発見してその同僚が殺された一件は、人間の街では話題に上がっていなかった。情報を発信するテレビ局さえ、まるで禁忌だとでも言うように話題にしない。明らかに異様だった。だが話題にならないなら彼から話すつもりはない。何も訊かれないなら都合が良い。
(同僚が飛び降りた時はニュースになったのに……今回は警察も来なかった。獣が揉み消したのか?)
それでも同僚が射殺されたことは事実なのだから、出勤していなければ誰かが言及するはずだ。なのにそれも無い。まるでこの世界には最初からそんな人間などいなかったかのようだ。
(獣に係わると碌でもないな……)
眩草はひっそりと営業しているコンビニエンスストアに寄り、夕食と翌日の朝食を調達する。
(新発売の御弁当……は、いいか。いつも通りおにぎりで)
『新』と言う文字が見えると、買う気が無くても一度は見てしまう。だが新商品は高い。目立たず質素な生活を心懸けている彼には、有り触れた具材のおにぎりが丁度良い。
(鮭と昆布……新商品の……こんな所にも罠が)
新商品は避け、おにぎりを四つ手に取る。そんな彼の食事を、飛び降りてもういない同僚は『つまらない』と言っていた。
(つまらないかどうかで食事をしてるわけじゃない。生きるために必要だから仕方無く食べるんだ。水だけで生きられればな……)
植物だった頃が時々恋しくなる。植物も厳密には水だけで生きているわけではないが、水さえあれば当分は生きていられる。
おにぎりを取る彼の隣で、新商品の弁当を手に取る華奢な手が伸びる。人間は新しい物が大好きだ。
目的の物を手に取ってレジに向かおうと方向転換した眩草は、新商品の弁当を取った人と目が合った。
「チーズまみれのでっかい贅沢煮込みハンバーグ弁当、買って」
「……は?」
何を言われたのか理解できず、頭の中で言葉を反芻する。図々しくも他人に弁当を買えと要求しているようだ。
「こっちの新作スイーツも」
「…………」
何と言えば良いか、眩草は言葉に詰まった。図々しいにも程がある。
突然話し掛けてきたのは黒髪を二つに括った少女だった。黒い服に身を包み、ぱちりと大きな金色の目を期待に染めている。つい最近もそんな色の目を見た。
(……何か雰囲気と言うか……獏に似てるな。顔は……一回見ただけだから目の色以外はよく覚えてない。あいつ、女だったのか……)
髪の長さが違うが、髪なんてどうとでもなる。鬘を被れば良いだけだ。気分で髪型を変える女性を眩草はたくさん見た。
わざわざ人間の街で生活する彼の退勤を待って現れるとは、暇な獣である。眩草は図々しい獣を無視し、自分の食事だけをレジに出した。その横に獣は弁当とスイーツを並べた。
「……これとこれ、会計別で」
「!?」
獣は信じられないものを見るような目で眩草を見上げた。眩草はさっさと自分の分だけ金を払い、早足で店を出る。後は傘で転送すれば獣だろうと簡単に撒ける。本当に良い物を貰ったものだ。
だが逃げる間も無く、店を出た所で獣は一瞬で距離を詰めて彼の腕を握った。
「何で払ってくれないの?」
「あのな……奢る義理は無い。自分で買え。この前の僕が払った売り上げがあるだろ」
「何だっけ?」
「惚けるな。僕は目立ちたくないんだ。手を離せ、獏」
「……。つまらないな」
獏はさっさと手を離し、店には戻らず光から遠ざかる。
「君、もう巻き込まれてるよ」
「は……?」
獏はふふと笑い、闇に身を翻す。気配はそれ切りで、戻ってはこなかった。
「何なんだ……?」
眩草は首を捻り、物陰へと身を隠す。掌から傘を抜き、転送するためだ。
(巻き込まれて、って何だ……? 巫山戯るなと後で手紙を出しておくか)
獏の居る街に行く気は無い。苦情は手紙で充分だ。
* * *
誰もいない小さな街の古物店で茶葉の缶を整理していた灰色海月ははっと無表情を上げた。
「手紙を拾いに行ってきます」
「うん。気を付けてね」
置棚の奥で見つけたジグソーパズルを机上に広げていた獏は、顔を上げて彼女を見送る。パズルは半分ほど仕上がっている。美しい景色が見られそうだ。
「あ」
だがそう上手くは行かなかった。黒猫が机に跳び乗り、繋がっていたピースを散らしてしまった。黒猫は為て遣ったりという顔をしている。
「もう……駄目だよ、そんなことしちゃ。遊んでほしいの? でも遊んだら、僕の大作を引っ繰り返したら遊んでもらえるって覚えちゃうかもしれない……僕は相手しないよ!」
黒猫は一つ鳴き、ピースを一つ咥えて棚の陰へ滑り込んだ。
「え……もしかして言葉が理解できるのかな? 賢い子だねぇ……じゃない。悪戯は駄目だよ」
見失わない内に獏は棚に頭を突っ込み、黒猫からピースを返してもらうべく奮闘する。眠っていた白黒猫も目を覚まし、マレーバクの面の鼻に驚いて跳び退いた。
「……何をしてるんですか?」
そうこうしている内に、手に手紙を持った灰色海月が戻って来た。尻を突き出して這い蹲る獏を訝しげに覗き込む。
「あ、おかえりクラゲさん。猫が悪戯するんだよ」
「そうなんですか? 私には近付いてもくれないので羨ましいです」
猫達はどうにも有毒の変転人が苦手だ。近付こうとすればすぐに逃げてしまう。灰色海月はそれが寂しい。
「それより拾った手紙なんですが。見てください。封筒に『迎え不要』と書いてます」
「不要? 只の御手紙ってことかな?」
立ち上がって手紙を受け取り、封を切ってみる。中には簡潔な言葉が綴られていた。
「……『自分の食事は自分で買え。巫山戯るな』? ……え? 何これ?」
「誰からですか?」
「クララさんみたいだけど……ここでは食事の必要は無いって言わなかったかなぁ。強請ったことなんて無いのに。それとも僕が強請る未来が見えた? 今度強請ってみようかな」
「巫山戯るなと書いてあるんですよね?」
「高度な冗談なのかな……人間の街で流行ってるとか? クラゲさん、お迎えはいいから、ちょっと話を聞いてきてくれる? 冗談は相手に通じないと意味が無いんだよ」
「わかりました」
「でも元気に過ごせてるみたいで良かったよ。目の前で同僚が殺されて、気にしてるんじゃないかと思ってたけど。僕にこんな手紙を出すんだから、平気ってことだよね」
「或いは構ってほしいのかもしれないです」
「ああ、猫みたいに?」
好き勝手に想像し、獏はふふと笑う。灰色海月は傘の充填を終え、頭を下げて再びくるりと転送した。
* * *
灰色の傘をくるりと転送し、ひっそりと佇む古い二階建てのアパートの陰へ降り立つ。家賃は安く、無駄な詮索もされず、近所付き合いも無い。眩草のような身寄りの無い変転人にはありがたい物件だ。部屋の全てに入居者がいるのかさえわからず、滅多に顔を合わさない。
急いでいる時は自棄に足音が大きくなる鉄の階段を上がり、二階の廊下を静かに歩く。
「……?」
彼の家の前に大きな物が落ちていた。廊下は外の街灯の光が仄かに差すだけで他に明かりが無く、暗くてよく見えない。眉を寄せて目を細める。
(荷物……? 何か注文したか?)
配達された荷物だとしても家の前に放って行くのはやめてほしいものだ。
「…………」
二つ手前のドアの前で眩草はぴたりと足を止めた。
(おいおい……本当に厄年か……?)
そこに落ちていたのは人だった。荷物であってほしかった。
「こんばんは」
「!?」
背後から声を掛けられ、眩草は跳び上がりそうになった。心臓の鼓動が一気に速度を増す。
「やっ……ち、違う……から……」
弁明しようと慌てて振り返り、そこに見覚えのある人物が不思議そうな顔をして立っていた。
「驚かせてしまいましたか。すみません」
「海月……?」
「はい。灰色海月です」
「良かった……」
眩草は否定のために振ろうとして行き場を失った手を顔に当てた。アパートの住人が出て来たのだと思ってしまった。もしアパートの住人なら通報されていただろう。
「お迎え不要と書いてましたが、実は会いたかったんでしょうか?」
「……迎えは不要だが、来てくれて良かった」
「獏に伝えておきます。獏に行くよう言われて来ました。冗談は相手に伝わらなければ意味が無いそうです」
「? ……まあいい。それより僕の家の前に人が倒れてる。どうすればいい? 面倒事は御免だ。揉み消せるか?」
「殺ってしまいましたか?」
「僕じゃない。帰って来たらここに倒れてたんだ。触ってないから僕の指紋は付いてない。只の酔っ払いだといいんだが……」
「少々お待ちを」
灰色海月は臆せず倒れている人物に接近する。先日、獏が倒れている人間に遣っていたことを思い出す。特別な力を使わずに獏は生死を確認していた。それなら灰色海月にもできるはずだ。
「……血痕があります」
「酔っ払いがフラフラと一人で転んで頭でも打った感じか?」
「そんな感じではないです」
自棄に具体的に述べるが、灰色海月は否定する。眩草は頭を抱えた。
足を向けて倒れている人物は黄緑色の髪の女だった。見覚えのある襤褸を纏い、薄汚れて傷だらけの裸足だ。その首筋に指を当て、顎に触れる。
「…………」
「……どうだ?」
「生き……てる、ような……死んでる……ような……」
「わからないってことか。呼吸は? 心臓はどうだ?」
「お待ちを」
口元へ手を遣るが、灰色海月は眉間に皺を寄せて考える。獏のように上手くできない。
「……体温は? 眼球とか……」
「……む、難しいです」
灰色海月よりも眩草の方が見分け方に詳しそうだ。灰色海月は死体ではないと自分に言い聞かせているが、もし死体ならまた気分が悪くなる。悔しいが匙を投げ、彼女は立ち上がった。その瞬間ふわりと甘い香りが漂った。
「確認する」
眩草の背後の闇に忽然と今度は黒い少年が現れた。首や耳に装飾品を付け、黒髪を一つに纏めた少年だ。
「え……?」
忽然と現れた気配に眩草は警戒し、跳び退くように道を空けた。
「黒種草さん……?」
灰色海月は彼に見覚えがあった。鴟吻の護衛をしている無色の変転人だ。
黒種草は倒れる女に淡々と、灰色海月がそうしたように指を添えた。
「……生きてる」
見知らぬ少年の言葉に、眩草はどれほど安堵したことだろう。この少年が何者なのかということより、その言葉の方が重要だ。
「そこの灰色の。……ああ海月じゃなくて男の方だ。宵街に一緒に来てもらう」
「!?」
安堵が瞬時に動揺に塗り潰された。
「この人は変転人だ。宵街の病院に連れて行く」
「ちょ、ちょっと待て……僕は何もしてないからな!? 家に帰って来たらこの人が倒れていて……」
「お前を疑ってるわけじゃない。ただ、ここにいるとお前がどうなるか、わからない」
「は……?」
「ここで時間を潰す暇は無い。この人の状態は一刻を争う」
黒種草は虫の息の女を抱き、黒い傘を開く。その音に混ざって、眩草の家の中から小さな物音が聞こえた。
「な?」
「…………」
ドアの向こうに何かがいる。
この虫の息の女を襲った誰かかもしれない。眩草を襲おうと待っているのかもしれない。
そう考えている最中に、眩草の返事を待たずに黒種草はくるりと転送した。
夜の闇から宵の薄闇へ、三人は酸漿提灯が並ぶ石段に降り立つ。
「海月、引き摺ってでもその男を連れて来い」
「は、はい」
一刻を争う虫の息の女を抱いた黒種草は即座に駆け出す。石段を上がる彼に続こうと灰色海月は振り返り、表情を強張らせる眩草の腕を掴む。彼は抵抗する選択肢も浮かばず、腕を引かれるまま石段を駆け上がった。その足は糸で繋がって、ただ引っ張られているだけのようだった。呆然として何も認識できない。
黒種草より僅かに遅れて灰色海月と眩草も病院に到着する。虫の息の女を誘導しようとしていたラクタヴィージャが眩草を見て訝しげな顔をした。
焦点が揺れ動く。眩草は水から揚げられた魚のように呼吸を求めていた。
「え……この子、大丈夫!? ヒメ、過呼吸の対処はできる?」
「はい! できます!」
受付で様子を窺っていた姫女苑は力強く頷いた。
「任せるわ。私はこっちを治療しないと」
黒種草を促し、ラクタヴィージャは廊下を駆ける。
託された姫女苑は受付から飛び出し、眩草をまず待合室の椅子へ座らせる。酷い汗だ。
灰色海月も彼の豹変に困惑する。つい先程まで普通に会話をしていたのに、今はそれもできそうにない。
「クララさんはどうしてしまったんですか……? 走って来たので、息切れですか?」
「過呼吸を起こしてます。とにかく息をたくさん吸おうとしてるんです。何らかの要因で精神的にかなり追い詰められたのかと……」
姫女苑は眩草の隣に座り、優しくゆっくりと背中を撫でる。
「大丈夫ですよ。ゆっくり息を吐いてみましょう。ゆっくりで大丈夫です」
「…………」
彼の焦点は朧げで、相当な不安を感じていることは手に取るようにわかった。言葉は辛うじて届いているようで、眉を寄せて息を吐く努力はしている。
「もしかしたら……宵街に連れて来てしまったからこんな風に……」
「この方はここに来るのが嫌だったんですか?」
「人間の街に棲んでいて、獣のことを良く思ってないみたいで……」
「そうだったんですか……」
丸くなっている彼の背を撫でながら、姫女苑は再度声を掛ける。
「撫でる速度に合わせて、息を吐いてみましょう。そんなに吸わなくても大丈夫ですからね。私は変転人です。ここにいる方々は皆、優しい人ばかりです。誰も貴方を傷付けません。安心してください」
優しく穏やかに声を掛け続け、眩草も次第に落ち着きを取り戻していく。額の汗をハンカチで拭われ、眩草は虚ろな目で爪先を見た。足が生えている。植物の根ではない。失ってもいない。二本の足でまだ歩くことができる。
「僕は……何処に行けばいい……。家に帰れない……宵街にもいたくない……」
虚ろな声で、か細く呟く。先程までとは打って変わって弱々しい。
「それなら獏の所にいるといいです。獏は拒みません」
「…………」
眩草は一度目を閉じ、漸く落ち着いてゆっくりと深呼吸をした。
「獣は……」
まだ声は掠れている。姫女苑は灰色海月に彼を任せ、受付カウンターの奥へ行く。
「病院にいる獣はラクタさんだけです。皆の怪我を治してくれる獣です」
「医者か……。さっきの白衣の獣か?」
「そうです」
灰色海月が相手をしている間に、姫女苑は白と青の花弁が浮いたコップ一杯の水を持って来た。
「これは薬水です。気持ちを落ち着かせてくれます。レシピ通りなので足りない部分があれば調合し直しますが、それはラクタヴィージャ様でないとできないので……」
姫女苑でも薬水が作れるよう、ラクタヴィージャが記したレシピがある。よくある症状を例に記したレシピのため、もっと酷い症状や他の症状が出ている場合は細やかに調合しないといけない。それは助手の姫女苑には難しい。
眩草は初めて聞く、薬なのか水なのかわからない物を受け取る。嗅いでみるが無臭だ。元が有毒植物である変転人の特徴とも言えるが、眩草もまた多少の毒なら消化できる。ならばと試しに一口飲んでみた。
「……甘い」
「花の蜜が入ってるんです。美味しくて元気になる薬です」
「美味しいとまでは言わないが……薄味だな」
「カフェに行くともっと甘い飲み物がありますよ。下層にあるので、獣は滅多に訪れません。変転人が開いているカフェなので、獣が苦手なら安心できると思います」
「さっきの黒い奴は……」
「黒種草さんですか? もし用があるなら、カフェに行ったと伝えます。用があればカフェに行ってもらいますよ。ここは病院なので、患者さんが第一です」
「病院は獣がいなくても落ち着かない。何か用があるならそのカフェに来てもらってくれ」
「わかりました。伝えておきます。海月さん、カフェに案内してもらってもいいですか?」
「はい」
薬水を飲み干してコップを返す眩草に手を差し伸べるが、彼は灰色海月の手を借りずに立ち上がる。気分はそれなりに落ち着いたようだ。
眩草はまだ調子が戻らないものの足早に病院を出て行く。一秒でも早く獣のいる病院から出たい。
灰色海月は頭を下げ、道を知らない眩草のために急いで追った。
宵の空が見下ろす薄暗い街に伸びる石段は所々に蔦が這い、人気も無く気味が悪い。石段は直線ではなく、緩く曲がっていて先の方が見えない。
「病院の周りに店はありませんが、もう少し下に行くとたくさんあります。上に行くと獣の家、下に行くと変転人の家があります」
「分けられてるのか。それはいいな」
案内のために灰色海月は前に立ち、振り向いて確認をしながら石段を下る。彼が逃走しやしないかと言う心配より、また倒れやしないかと言う不安で振り向いている。
「……悪いな。醜態を晒した」
「? 醜態でしたか?」
「あんな風になるとは思わなかった。獣が嫌いで、獣が棲む街も嫌いだ。でもそこに連れて行かれた途端、あんな風になるなんて……」
「余程嫌だったんですね。きっと心の準備ができてなくて驚いたんです」
「そうだな……」
「悪い獣もいますが、良い獣もたくさんいます。悪い獣は地下牢に入れられて一生出て来ないです」
「獣が言う『悪い』って何だよ」
「一番多いのは、無闇にたくさん人を殺してしまうこと、だそうです。人を殺すのは悪いことです」
「殺さなかったらいいわけか。死ぬ寸前まで甚振るのはいいんだな」
「人間はわかりませんが、変転人にそんなことをしたら地下牢に入れられます」
「……?」
眩草は怪訝な顔をする。想像していた街の姿と違う。もっと血も涙も無い陰惨な場所だと思っていた。
「宵街の他に、こんな街はあるのか?」
「西洋に花街があります」
「西洋……は遠いな。そこも宵街みたいなものか?」
「私は写真でしか知りませんが、とても明るくて空が青い街です。規則は宵街とは異なる所もありますが、獣が統治してるのは同じです。先日のアルさん……アルペンローゼさんは花街から来ました」
「ああ……思い出した。花街って言ってたな。アルペンローゼって奴は、獣の下僕って感じではなかった……暗い顔はしてなかった」
「アルさんは超絶仕事ができるので、獣にも慕われてます」
「……何かわからなくなってきた……僕を人にした獣だけ異常だったのか……?」
「そういうこともあります。宵街は怖い所ではありません。統治者の狴犴さんは変転人のことをよく考えてくれます」
「じゃあ、僕を人にした獣も今頃その地下牢に入れられてるかも……?」
「可能性はあります。確認が必要なら、地下牢への立ち入り許可を貰うこともできます」
「いや……地下牢は行きたくない」
「そうですか」
きっと罪を犯した獣がひっそりと動物園の檻のように並んでいるのだろう。そんな場所に進んで行きたくはない。眩草は丁重に断った。
話している内に幾つかの小さな店の前を通ったが、店を開いている変転人は各々休憩していたり談笑していたり自由に過ごしていた。眩草が目を合わせようとしないので、無理に話し掛けない。知り合いでもないので、誰も声を掛けなかった。
眩草の整った顔は人間の中では目立っていたが、変転人の中だと馴染んでいる。変転人――特に美しい花を咲かせる植物系は見目が整う。この中では眩草は『普通』なのだ。
石段の横の茂みに灰色海月が入り、眩草もそれを分けながら進む。本当にこの先に店があるのか疑いたくなるほど草や蔦が絡んで行く手を阻んでいる。
「こちらです」
茂みを分けると、奥に本当にカフェが現れた。狭いが開けた空間に机と椅子が置かれている。
石を四角く繰り抜いたような窓から、カフェの主である有色の変転人、薺が顔を出した。
「こんにちは、クラゲさん」
「こんにちは。こちらの方に甘い飲み物をお願いします。病院のツケでお願いします」
「甘い飲み物ですか? どれがいいかな……」
メニューを見ながら、薺は考える時間に入る。眩草は後ろから灰色海月を突いた。
「病院のツケって、いいのか? そんな勝手に」
「病院が支払うか狴犴さんが支払うことになるかはわかりませんが、私は特殊な立場なんです」
罪人の監視役は常に罪人の傍に、牢の中で過ごす厳しい仕事だ。そのため、ある程度は財布を持たずに宵街で自由に買物ができる。厳しい仕事への労いだ。
「何だか知らないが、凄い人だったんだな」
暫く考えた後、薺はカップに透き通った金色の液体を注ぎ入れた。鼻腔に粘り付く甘い香りが周囲に漂う。
「蜂蜜多め林檎ジュースです」
出された黄金色の飲み物にストローを差し、眩草は早速味見をしてみる。
「あま……」
「甘過ぎましたか?」
「ほぼ蜂蜜……」
「そんなに? ではホットケーキは如何でしょう? それを掛けて食べるときっと丁度いいです」
「水浸しになるだろ」
「では水を足しますね」
「え、ちょ、溢れる!」
並々と水を注がれ、眩草は慌てて飲む。減った分、薺は水を注ぎ足す。まるで椀子蕎麦のようだ。そんなに注がれても飲み切れない。堪らず眩草は手で蓋をしてカップを守りながら空いている椅子へ座った。客は他に誰もいない。
灰色海月も飲み物を注文し、それを持って眩草の向かいに座る。
「……凄いの持って来たな」
「私は凄い人なので、凄い飲み物をください、と言いました」
「そんなので注文が通るのか……?」
色から察し、チョコレートの飲み物だろう。底が赤いので苺でも入っているかもしれない。一番上には白いホイップクリームが山となり、チョコレートソースの線がくるくると舞い踊り、カラフルな小さくて細長いチョコレートが塗されている。
「人間の街にはこんな飲み物は無いでしょう。宵街は凄いです」
「ある」
「!?」
「たぶん……慰めようとしてるんだよな? ここで恐れてるのは僕だけみたいだ。顔を見ればわかる。テレビに映る作り物の笑顔じゃない。ここの変転人は自由で、楽しそうだ。君は無表情だが、感情は見える。宵街は僕が思ってるような恐ろしい場所じゃないんだろ……体はまだ拒絶してるけどな」
「クララさん……」
「後は武器を作れたら安心だ。こういう銃器はどうだ?」
ポケットに丸められていた紙を取り出し、開いて机に置く。厳つい銃器が描かれていた。灰色海月は、それが拳銃ではないことだけしかわからなかった。
「若いですね。若い方は銃が好きなようです」
「え? 八歳だから若いが、銃は駄目か?」
「わ……私の方が若かったです……」
最近変転人になった一歳に満たない新人を思い出して言ったのだが、眩草の方が年上だった。灰色海月はまだ二歳だ。
「私は二歳です……」
「二歳でよく煽ろうと思ったな」
ペンを取り出し、眩草は銃以外の武器を考える。刃物なら腕力や握力が必要だ。銃なら離れた場所から攻撃ができる。獣に接近せずに攻撃できる銃なら安心だと考えたのだが、現実は甘くない。
「海月はどんな武器なんだ? 触手だと聞いたんだが、触手って? 参考に見てみたい」
「わかりました」
灰色海月は黒葉菫や白花苧環に武器の使い方を教えてもらったことを思い出す。自分にも教えられる後輩ができたのだ。無表情ながら彼女は意気揚々と腕輪を生成した。
「そういう出し方なのか。腕輪も格好いいな」
水を固めたような無色透明の腕輪だ。意識していなければ見落としてしまう。
その腕輪から同じ色の細い触手を幾本も射出し、近くの草へ払う。草は鋭利な刃物で切られたように地面にはらりと落ちた。
「……人間の街にいると偶に見るが、草刈りは複雑な気持ちになるな」
植物系変転人の眩草は素直な感想を漏らした。海の中で育った海月である灰色海月は慌てて謝罪する。
「すみません……」
「いや、言ってみただけだ。気にしなくていい。僕も野菜は食べるからな」
「私も海月を食べられます」
「それはどうなんだ?」
草を刈るのは止め、近くの小石に触手を巻き付けて引っ張る。彼女の匙加減で切ることも掴むこともできる。
「こんな感じです。変転人になる前の生物から連想して考えた武器だと扱い易いようです」
「僕はマメ科だから……豆? 節分みたいな?」
「節分?」
「豆を投げる人間の行事だ」
「豆を……? 奇怪な行事ですね」
「僕は遣ったことがないが、自分の数え年の数の豆を食べるらしい」
「年の数の豆を……? 獣だと大変ですね。何百個も食べないといけません」
「鬼を追い払う行事だから、鬼側の獣は食べなくていいだろ」
「成程……獣を追い払う行事ですか」
ゆっくりとストローを啜りながら、眩草もここが宵街だという意識が薄れてきた。人間の街の何処かのオープンカフェのようだ。廃墟のような草の茂り方をしているが、それに目を瞑ればオープンカフェだ。
「ああ……いた」
気持ちが落ち着いていたのに、伝言を受け取った黒種草が角から覗く。灰色海月はストローを離して顔を上げ、眩草の顔は強張った。宵街へ無理矢理連れて来た彼に、眩草は反射的に拒絶が出る。
「人命優先で手荒くなって悪かったな」
「…………」
「さっきの変転人はどうなりましたか?」
眩草が返事をしないため、灰色海月が代わりに尋ねる。虫の息だった変転人は助かったのか、最も重要なことだ。
黒種草は少し離れた隣の机の席に座り、眩草を一瞥する。彼がもう過呼吸を起こさないか注視する。
「最後まで治療を見てたわけじゃないが、助かるそうだ。話せるようになったら、何があったか話を聞く。……で」
過呼吸を起こさないよう気は遣うが、折角連れて来たのだから話は聞く。黒種草は眩草の様子を窺い、前にあるコップを見る。中身は半分ほど減っている。薬水はともかく、ジュースが喉を通るくらいは落ち着いているようだ。
「服装……と言う程の服じゃないが、ボロボロの服と傷だらけの裸足。お前が少し前に見つけた変転人の死体と酷似してる。犯人は同一人物、或いは同じ組織、仲間、協力関係……である可能性が高い。しかもどっちもお前が第一発見者だ。犯人だと疑うわけじゃないが、何か心当たりはないか? 犯人の方じゃなくても、被害者の服装とか」
「……知らない」
俯きながら、眩草は何とかそれだけ絞り出した。もう関わりたくない。何で自分なのかと、眩草の方が聞きたい。
「この後、家に戻るか?」
「いや……誰がいるかわからない家は……。獏の所に暫く居させてもらう」
「ん。そこでいいのか。俺達がこっちに来てから、家の方を一応確かめてもらった。もう誰もいなかったそうだ。荒らされた形跡も無い。少なくとも泥棒じゃない」
「そうか……」
「暫く家を見張っておいてやる。もし怪しい奴が現れたら、捕まえれば話を聞けるからな」
「…………」
「それと、お前に心当たりは無くても、向こうは狙って遣ってるかもしれない。脅かすわけじゃないが、犯人と接触する可能性が無いとは言い切れない。お前に護衛を付けようって話が出てる。護衛がいればお前も安心だろ? でもお前は獣が嫌いなんだよな? 獣の方が安心なんだが、変転人の中で強そうなのを回す」
「護衛……? 強い変転人と言われてもよくわからない。僕は武器も作れないが、武器があるとそんなに強いのか?」
「個人差はあるが、強い奴は本当に強い。科刑所があいつを回すかはわからないけどな」
きっと白花苧環のことだ、と灰色海月は察する。だが黒種草の言う通り、狴犴が彼を危険な所へ送るとは思えない。犯人の手掛かりが全くない内は無闇に動かさないだろう。
「……よし、今はそれだけだ」
黒種草は他には追及せず、あっさりと席を立つ。
「また何か聞きたいことがあったら行くかもしれないが、暫くゆっくり休め。死体とか死に掛けの人を見ると堪えるだろ。――海月、後は頼む。何かわかったら知らせる」
「はい」
鴟吻の護衛をしている彼は、彼女の所へさっさと帰る。黒い傘をくるりと回し、早々に離脱してしまった。
「飲む時間はあるので、クララさんはもっとゆっくりして大丈夫です」
「僕よりそっちの方が時間が掛かりそうだが」
「私もゆっくりして大丈夫です」
その間、獏を牢に一人にしてしまうが、獏は自力の転送はできない。少しくらいゆっくり寛いでいても咎められない。獏は今頃、灰色海月と眩草はゆっくり話しているとでも思っているだろう。




