221-主役交代
誰もいない常夜の小さな街に、今日も芳しい紅茶の香りが漂っていた。
石畳の脇に並ぶ石造りの家々の内、一つにだけ明かりが灯っている。それは瓦落多が並ぶ古物店だ。その隣家にも気配はあるが、部屋の明かりは点いていない。古物店で借りた古いランプを隅で灯している。
古物店では黒いマレーバクの面を被った黒衣の獣が、黒猫と白黒猫に毛糸を垂らして振っていた。猫達は毛糸を目で追い、時折素早く手を伸ばす。
その穏やかな雰囲気の中、敏感な猫達は一足先にぴくりと音も無く駆け出し、棚の陰へ隠れた。
古物店のドアが開き、灰色の女と、俯いて瞬きをしない男が入る。男は四、五十代といった所か、目は震え、忙しなく焦点が揺らいでいる。
灰色の女は拾った手紙を奥の机に置き、いつもの通り台所へ入る。
震える男は視線を落としたまま簡素な椅子に座った。椅子に足が掛かり、床を擦って甲高い音が鳴る。その音に男はびくりと肩が跳ねた。
動物面は古い革張りの椅子に座り直し、深く腰掛けて脚を組んだ。机に置かれた手紙――茶封筒を手に取って中を確認する。開いた手紙に目を通し、指先がぴくりと動く。
「……詳しく聞かせてよ。君のしたことと、願い事を」
感情の籠らない中性的な声に、男の肩はまたびくりと跳ねる。男は目を合わせるのを躊躇うように、将又目を合わせると死ぬとでも思っているのか顔を上げない。
男は手紙にこう願い事を書いていた。
『人を殺した。助けてください』と。
(人を殺した……これがもし変転人を殺した犯人なら、問題も解決ってわけだ。自首してくれて助かる)
男の口元は戦慄き、喉がカラカラに渇いていた。水分補給には適さないが喉を潤すには丁度良い、灰色の女は二人の前に熱い紅茶を置く。男は震える手でティーカップを持ち、陶器が小刻みに打つ音を引き剥がして一気に飲み干した。
「そ……その前に確認なんですが……あ、貴方は通報しませんよね……? 縋れるのは貴方しかいないんです……見捨てないでください……」
「僕は通報しないよ。それにここは人間の街とは繋がってない。当然、電波もね」
「信じていいんですね……?」
「君は信じてここに来たんじゃないの?」
「そ、そうなんですが……貴方が願い事を叶えてくれるって言う獏なんですよね? あまりに人っぽいと言うか……」
「角とか尻尾とかが生えてたらわかりやすいんだけどね。人型だから見た目で判断するのは難しいよね。でも君はここに転送されてきたでしょ? 僕はそれで充分だと思うんだけど。人間はそんなことできないでしょ?」
「そ……そうですね……」
そわそわと落ち着き無く彼は質問しているが、話す決心がまだつかずに時間を稼ごうとしている。獏は根気良く決心を待つ。こういう場合は急かしてはいけない。下手に急かせば気分を害して話すことも話せなくなってしまう。情報を一滴も残らず搾り取るにはとにかく焦らず待つことだ。
根気もだが、体力の勝負でもある。獏は紅茶を啜り、ゆっくりと待つ姿勢を作る。
「…………あの……人間じゃないなら……人間の法律は知ってますか……? 人を殺すのは悪いことだとか……」
「うん。どんな刑が執行されるとか細かいことは知らないけど、人殺しが罪になることは知ってるよ」
「そうです……そうなんです。オレは人を殺してしまったんです……ふ、不可抗力なんです。あいつが悪いんです。正当防衛って奴じゃないですかね……へへ……オレは悪くない!」
「悪くないなら堂々としてればいいんじゃない? 疚しいことなんて無いと思ってるならさ。相手はどんな人だったの?」
「お、女です……夜道を歩いていて……」
(女? クララさんが見つけた死体は男性だよね。変転人殺しとは関係無い……? それとも海に捨てられた方の死体? 他にも殺された変転人がいるのかな?)
獏は刺激しないよう緩慢な動きで人差し指と親指で輪を作る。
「オレはただ後ろを歩いてただけなのに、ちらちらこっちを気にして早足になって……付いて来ないでって叫びやがった。鞄で殴ってきやがったんだ。オレは何もしてない。なのにあの女は暴力を振るって逃げやがった!」
「それで追い掛けて殺しちゃったの?」
「そうだ! 不可抗力だろ? 正当防衛だろ!?」
「君、もう少し言葉を学んだ方がいいんじゃない? 助けてほしいのはその女の人だっただろうね。君はただ『違う』とだけ言って距離を取るべきだった。只の勘違いでしょ?」
「なっ……オレが悪いって言うのか!? 人間じゃないお前は……冷酷で……無慈悲で……残酷で……」
「知ってる言葉を頑張って並べなくてもいいよ。言いたいことはわかる。獣が殺しを非難するなって言いたいんでしょ? 確かに僕は人のことを言えない。けど今は君の話を聞くのが一番の目的だから、僕のことは気にしないでよ」
「オレの……オレの願いは……」
「ああ、非難したからって願い事を叶えないわけじゃないよ。誤解させちゃったね。願い事は叶える。助けてほしいんでしょ? 具体的に何をしてほしいの? 助けるって言っても色々あるでしょ?」
「あ、ああ……そうだな……安心した。警察に捕まらないよう助けてくれ! 牢屋なんて御免だ!」
「それでいいの? それなら簡単だね」
「簡単!? 本当か!? 手紙を出して良かった……ありがとな! 獏!」
「急に親しげになったね」
「――あ! 一生このよくわからない不気味な場所で過ごせ……ってのは無しだからな」
「うん。ちゃんと人間の街に送ってあげるよ。……って不気味なって失礼だな。僕は棲んでるのに」
「悪い悪い! ハハハ!」
助かるとわかって気が大きくなったようだ。まるで長年の友人のように笑い飛ばす。獏も合わせて笑い、代価の話はしなかった。
「じゃあ願い事を叶えようか。まずはね、君が殺した人を確認しておきたいんだけど」
「え?」
「大事なことでしょ? 君を容疑者から外すために、相手の死んだ場所、どんな容姿の人か、あと凶器とかね。知っておく必要がある」
「あ……ああ……そうか? オレはそういうのはよくわからないから……全部任せていいっすか?」
「うん。いいよ。任せて」
獏は要求を素直に全て呑む。台所から覗く灰色の女――灰色海月は、あまり良くないことを企んでいるのではないかと心配だ。この人間は明らかに悪いことをしている。獏は悪い願い事でも叶えるが、その時はいつも後味が良くない。
(悪いことをした人でも、悪い願い事でも、叶えないといけない善行……悪いことを叶えるのは本当に善行なんでしょうか?)
「クラゲさん。転送、お願いできる?」
睫毛を伏せて考える彼女に、獏は声を掛ける。目の前に立たれていることに気付かなかった。灰色海月ははっとして慌てて獏に首輪を掛け、掌から灰色の傘を抜いた。
来た時とは正反対の顔になっている男を連れ、店を出てくるりと灰色の傘を回す。男が手紙を投函したポストの近くの路地へ転送し、暗い道に顔を出す。二車線の道路で街灯は等間隔に立っているが、人も車も走っていない。生温い空気が肌に纏わり、人間は寝静まる時間だ。
「この近くなの?」
「おう、すぐそこだ」
男の態度は喋る度に横柄になっていく。最強の味方を手に入れたと大船に乗っているつもりのようだ。
「こんなに静かなら、死体はまだ見つかってないんだね。人が通らないと発見も通報もできないもんね」
男が前に立ち、車一台が通れる幅の道へ入って行く。脇の家々の窓は何処も真っ黒だ。
「あそこの街灯の所だ」
等間隔に並ぶ街灯をスポットライトのように、光の下に女性が横たわっていた。照らされている御陰で、夜目が利かなくても地面に広がる黒い染みが視認できる。
「…………」
「誰もいないな。警察もいねぇ。こりゃ逃げ切れるな。ハハ、あんたの言った通り『簡単』だ」
男の声には耳を貸さず、獏は歩きながら違和感を覚える。街灯の明かりが途切れる闇に何かが動いた。
(何かが下がった)
足を止めずに前へ進むと、様子を窺うように停止していたその違和感は蝋燭の灯火を吹くように闇に消えた。
死体の前に立った時には、周囲に違和感は無かった。
(もしかして変転人? 狴犴の命令で人間の街を監視してるみたいだし)
獏は闇を注視するが、違和感が戻って来ることはなかった。
「ちょっと下がってて」
男を一歩下げ、獏は女の死体の傍らに蹲む。俯せになって長い髪で顔が隠れている。大きな革鞄が投げ出されていた。この鞄で男を殴ったのだろう。中身が詰まっていて痛そうだ。
女の指先を確認する。爪は水色でキラキラと光っていた。
(無色の変転人の色じゃない)
躊躇無く手を持ち上げ、長い爪を観察する。
(二重になってる……付け爪って奴かな? じゃあ変転人じゃないね。……はあ……安心した。これを確認するまでは被害者が人間か変転人かわからないからね……)
無色の変転人の爪は白、黒、灰色の三色に分けられる。髪の色もそれに近い。だが例外が無いとは言い切れない。髪なら爽やかな青色の髪の浅葱斑と言う例外がいる。
(……ん?)
手を下ろし、女の首筋から顎の辺りに手を滑らせる。
(契約者が僕の所に来てから一時間以上は経ってるはず……この人、死後硬直が始まってない?)
正確に一時間経てば変化が現れ始めると言うわけではないが、皺の無い綺麗な手をしたこの女はまだ若い。若い方が硬直は強く現れる。そして今は夏だ。気温が高い方が早く変化が現れる。
首と手首、そして体を横に転がして胸に耳を当てる。
「……この人、まだ生きてるよ」
「!?」
正面から腹を何らかの刃物で突き刺したようだが、まだ息がある。
「意識は無いけど、もしかしたら助かるかも。救急車を待つ時間が惜しいから、これくらいなら転送サービスしてあげ」
「何だと!?」
突然大声を出した男に、獏はびくりと顔を上げた。大きな声を出せば、眠っている近所の住人が目を覚ますかもしれない。
「生きてるのか……? だ、だったら殺し切らないと……殺さないといけないよなあ!」
「……何言ってるの?」
「死んでないなら殺すしかないだろ!? オレの顔を見てるんだぞ、この女は!」
「君はうっかり殺しちゃったって後悔してたでしょ? 生きてるなら殺したことにはならないよ?」
「後悔? 何の後悔だよ! オレは捕まりたくねぇんだ! こいつが生きてる限り、オレは不安で仕方ねぇだろ! 顔を……顔を見られたんだぞ!」
「……。この人を殺し損ねた凶器はまだ持ってるの?」
「も、持ってるさ! ああ持ってる! これで殺し切ればいいんだな! これくらいオレでもできる! お前に頼らなくても、オレにもできる!」
男は懐からナイフを取り出す。本当はこの女を見つける前から殺す獲物を探していた。そうでないと、そんな物を持ち歩かない。無意識だろうが、ナイフを持っているのは事実だ。
男は鼻息を荒く、どかどかと歩み寄ってナイフを振り上げた。倒れている女を狙っているのか、その前に蹲んでいる獏を狙っているのか、眼球が忙しなく動いて狙いがわからない。
振り下ろされるナイフに獏は手を上げ、触れずにその手からするりとナイフを奪う。男は手からナイフが抜けたことにも気付かず、宙に浮くナイフがすとんと胸に刺さった。
「!」
獏は手を触れずに鍵を開けられる。その要領でナイフを引いてくるりと回し、挿しただけだ。
狙いは外さず心臓を突いた。男は目を見開き、獏を見る。裏切られたことに気付いただろうか。男はよたよたと蹌踉めいて道路に倒れた。
「うん。これぞ正当防衛」
「殺したんですか?」
距離を取って近くの電柱の陰から見ていた灰色海月に、獏は慌てて弁明を始める。
「まっ、まだ生きてるよ……。それに、こう願い事を叶える予定はしてたからね。絶対に警察に捕まらない方法。死体を牢屋に入れる法律は無いでしょ?」
「…………」
「ま、まあとにかく、こんな所で喋ってる余裕は無いよ。この女の人を病院に連れて行かなくちゃ。サービス転送するって言ったからね」
「そこの男から代価は貰わないんですか?」
「貰えないと思うんだよね……完全に死なないと死体とは言えない。死んだら心も無くなって空っぽ、代価は貰えない。だから代価の話をしなかったんだよ」
「死が確定してるなら、貰えるんじゃないですか?」
「! 食べていいの?」
「救急車代としましょう」
罪人の我儘ではなく、監視役が良いと言っているのだ。怒られることはない。
「サービスって言っちゃったけど!」
獏は嬉しそうに笑い、もう見えていないかもしれないが死にそうな男の両目を手で塞いだ。動物面を脱ぎ、早速口付ける。早くしないと死んでしまう。
その間に灰色海月は灰色の傘をぽんと開き、横たわる女の傍らで待機する。
今にも消えそうな心を戴き、獏は動物面を被り直してうきうきと灰色海月へ駆け寄った。
「とどめ刺しちゃった」
「何を食べたんですか?」
「殺意だよ。殺意で一杯になってたから、殺意を食べたら何も残らなくなっちゃった」
灰色海月はくるりと灰色の傘を回す。倒れた女も含め三人は忽然と姿を消す。街灯のスポットライトは照らす対象を変え、男の死体を闇に浮き上がらせた。
大きな病院の前に転送された獏は急ぎ看護師に虫の知らせの如く死角から囁いた。早く外に出ないと大変なことが起こる、と眠そうな耳にそっと囁いた。
人間の足だと外に出るまで少し時間が掛かる。獏は横たわる女に最後に声を掛けた。
「もう少し、頑張って。君は悪いことをしてないんだから」
「……あり……がと…………獏……」
立ち去ろうとした背に、小さな声がぼそりと聞こえた。獏は振り向くが、女は動かない。いつからか意識を取り戻していたようだ。
病院の中から足音が聞こえ、獏は灰色海月を抱き上げて病院を離れた。転送は連続で行えない。充填時間が必要だ。
(あの人の前で僕の名前……言ったかな?)
獏は首を捻りつつ、マレーバクの面で察したのかもしれないと嚥下した。獏の噂を耳にしたことがある人間なのだろう。
闇に消える二人の姿は、女の目には見えなかった。目を開ける余力は無かった。




