220-途惑い
誰もいない小さく透明な街で、獏は散らかした毛糸玉を片付けていた。黒い石畳を染めていた鮮やかな細い色を拾って巻き、その後ろを黒猫と白黒猫が付いて行く。
巻き終わって建物の前に置いた毛糸玉を猫達が再び散らかしたりもするが、大方片付けられた。
その最中に灰色海月とアルペンローゼが忽然と戻って来た。灰色海月は灰色の傘を畳み、科刑所で貰った重要な情報を獏に早速報告する。
「ただいま戻りました」
「おかえり、クラゲさん。アルさんも?」
「招待に応じるか連絡が済むまで、ここで待たせてもらってもいいですか?」
「うん、いいよ。ゆっくりしていって」
罪人の牢でゆっくり過ごせるかはともかく、快諾はしてもらえた。アルペンローゼは獏が毛糸を片付けていると察して手伝う。
「科刑所で情報を得たので報告します」
「うん」
「クララさんが死体を見つけるより前に、覇下さんの棲む海でも変転人の死体がたくさん沈んでたそうです」
「え? もしかして、あの骨?」
「骨は変転人か人間か区別がつかないみたいです。変転人だと特定できたのは五人で、二人は無色、三人は有色です」
「え!? 有色……?」
「こちらも身元不明です。変転人の死体が相次いで発見されたので、変転人は気を付けるようにと。クララさんにも注意喚起をします」
「変転人が狙われてるの? クララさんは疲れて寝てるから、起きたら話すよ」
「それから……クララさんのこと、話してしまいました……」
「おや」
「事が事なので少しでも情報が欲しいからと……すみません。言わないと獏に仕置印を捺すと言われて……」
素直に白状し、灰色海月は深く頭を下げた。獏は温厚だが、怒るのではないかと覚悟をする。
「成程ね……仕置印は嫌だけど、僕のことは気にしなくていいよ。クラゲさんの身に危害が及ぶ時だけ気にしてくれたらいい」
獏は彼女の心中を汲み取り、肯定も否定もしなかった。彼女の選択を尊重し、葛藤を受け止める。本音は、仕置印を回避できて喜ばしい。
獏とアルペンローゼは回収した毛糸玉を抱えて店に入った。二匹の猫は変転人を警戒して付いて来ないので、ドアを開け放しておく。
椅子を出してアルペンローゼに勧める獏の傍ら、灰色海月は紅茶を淹れるために台所へ入った。
「アルさん、狴犴は花街に行くの?」
「聞いてませんが、行かないのではないでしょうか。宵街の方は死刑の見学より食事会の方に興味があるようですね」
「ふふ……僕も食事会が気になる」
「宵街に配慮したつもりだったんですが、死刑には興味が無いものなんですね……」
「食事会ってどんな料理が出るの? こっそり教えてよ」
「人数が多ければ立食形式にしようと考えてたんですが、少人数になりそうなのでコース料理にしようかと」
「コースって、ナイフとかフォークがたくさん並んでて、一皿ずつ出て来る……?」
「そうです。ヴイーヴル様の御希望で、美しく仕上げます」
「凄いのが出て来そう……」
灰色海月は会話の邪魔をしないように静かに二人の前にティーカップを置く。
「料理人がいるって言ってたけど、君は何を作るの?」
「オードブルとデセール、スープを一種、任されています」
「一種? スープを何杯も飲むの?」
「コースに組み込まれているスープは料理人が作るんですが、メインディッシュと共に戴きたいスープがあると希望を出されまして。サクランボの甘いスープです」
「デザート?」
「いえ。デザートではないです。フェル様の希望で何度か作っている内にヴイーヴル様も気に入ったようで。ピンクの可愛いスープが飲みたいと。先にフェル様御希望のスープを出すので、こちらは少量にしようと考えてます」
「メニューの取り合いになってる? 他のメニューは決まってるの?」
「オードブルは花街で採れた野菜でテリーヌを予定しています。野菜を花に見立てます。デセールはまだ決定してませんが、ヴイーヴル様の御希望で大きなマカロンタワーを作ります。フェル様とロク様からも御希望を頂いてるので、他にも作りますよ」
「聞くだけで御洒落!」
「料理人には遣り過ぎだと注意されてしまったんですが。ハードルを上げるなと言われてしまいました」
「その料理人の気持ち、わかる気がする……。メインディッシュは何なの?」
「豪快に牛肉のフィレステーキにすると言ってました。真っ赤なベリーソースの血の海に沈めると」
「料理人と君の方向性が違い過ぎない?」
「確かに意見は分かれてますね。ベリーソースにエディブルフラワーを添えると言い出したので、変転人は植物系が多いと言うのに縁起が悪いと揉めました」
「料理人は変転人じゃないの?」
「変転人ですが、植物系ではないです。彼女はハトです」
「へぇ、ハトさんか」
「鳥類には鳥類の悩みがありまして、鳥肉と卵の調理が苦手なので僕がよく補助に当たってます。スイーツは卵を使用することが多いので、今回も僕が受け持ちます」
「そっか……他人とは思えないよね……」
獏はその光景を頭に浮かべつつ紅茶を飲む。アルペンローゼは相変わらず獣の前では飲食物に口を付けようとしない。
「僕の前では飲んでくれたし食べてくれたのに、また飲んでくれなくなったの?」
「あれは無理矢理……今回は何日も滞在するわけではないので、飲まず食わずでも大丈夫ですから」
そんな遠慮はいらないのにと思いながら、今回は強要する理由が無い。獏は少し口を尖らせるが執拗に勧めはしなかった。
「話は変わりますが、この大量の毛糸……編み物をするんですか?」
「偶々ここにあっただけだよ。僕は編めないから、持って帰ってもいいよ」
「僕も編む時間は無いので……ロク様が以前、編んでいたことを思い出しました」
「えっ、ズラトロクってキャンプが趣味じゃないの?」
「そうですよ。編み物は偶々興味が湧いただけのようです。五段ほど編んで放っていました」
「諦めが早いけど一段も編めない僕からすれば凄いね」
一人で紅茶を飲む獏の前に、灰色海月は焼き上がった菓子を盛った皿を置く。ジャムやチョコレートが真ん中に載った大きなクッキーだ。
「アルさんも食べなよ。クッキーだよ」
「ロシアケーキです」
台所へ戻ろうとした灰色海月が振り返って訂正した。獏はきょとんとし、クッキーを見下ろす。掌ほどの大きさの円い形や花の形がある。クッキーだ。
「クッキー……」
「ロシアケーキです。ちゃんと二度焼きしてます」
ロシアケーキは日本発祥のクッキーの一種だ。獏は初めて聞くその名を噛み締めるために一口頬張った。美味しいクッキーだ。
「クッキーも色んな種類がありますからね。僕も初めて見ます。綺麗ですね」
「食べてください」
「それはちょっと……」
「なら袋に詰めるので、持って帰ってください。たくさん焼いたので」
獏とアルペンローゼは台所を窺い、大きなクッキーが山盛りになっている光景が映る。何人分なのだろうかと考えながら、二人は黙って視線を机上に戻した。
その直後に獏は視線を上げ、アルペンローゼの背後を見る。開け放していたドアから猫が入って来たのだろうとアルペンローゼは推測するが、微かに床が軋むような音が聞こえて振り返った。猫の体重で床は軋まない。
「!」
彼の視界を埋めてすぐ後ろに白い服が立っていた。恐る恐る視線を上へ、その顔を見上げる。氷のような目が合ったので立ち上がって挨拶しようとするが、近過ぎて立ち上がる空間が無い。そこまで接近されたことに気付かなかった。
「どうしたの? 蒲牢。アルさんのお迎えかな? 気配を消して来るからアルさんが驚いてるよ」
「……色々言いたい」
「僕に? 何?」
「覇下のこと……花街の招待とか……何で美味しそうな御菓子を食べて御茶会してるのか、とか……」
「罪人は御茶しちゃいけないって言うのかな? 狴犴に何か言われた?」
「言われてない。何で俺を呼んでくれなかったんだ。友達なのに……」
「アルさんがここで連絡を待つから、御茶を出したんだよ。御茶には御茶菓子が必要でしょ? ここに来たら皆、紅茶を飲んでもらうよ。アルさんは飲んでくれないけど」
「そうなのか」
「友達だからっていつも一緒にいる必要は無いしね。蒲牢も堅苦しく考えなくていいよ」
「友達はまだよくわからない。難しいな」
「覇下のことを話すなら、すぐに宵街に戻るわけじゃないんだよね?」
獏は簡素な椅子を一脚出して蒲牢に勧める。彼は黙ってそれに座り、やや躊躇ったが口を開いた。
「……覇下の化生を待ち望んでたはずなのに、化生したらどうしたらいいかわからなくなった。死んでから時間が経ち過ぎて……」
彼は何百年も悩んでいた。彼女が化生せず、過去の記憶も相俟って悪夢に冒されていた。その悪夢は獏が処理したが、蒲牢の中の罪悪感が消えたわけではない。
「何百年も経ってたら待つことに慣れるだろうしね。会いに行くなら場所を教えるよ」
「今はいい……花街に行った後でいい」
「花街に行くんだ?」
「死刑は興味無いけど、食事会は気になる。獏は行かないのか?」
「狴犴は何か言ってた?」
「許可する……」
「言ってないよね? 内緒で行ったらお仕置きされるから、そういう冗談は無しだよ」
「……わかった。じゃあ何か持って帰る」
花街の許可を得ずに勝手なことを言ってやしないかと獏はアルペンローゼに確認の視線を向ける。アルペンローゼは穏やかに快諾した。
「構いませんよ。全ては難しいですが、持ち帰るための用意をしておきますね」
「……フェルニゲシュは死刑にならないんだよな?」
穏やかな空気が、その唐突な問いで凍り付いた。形ばかりとは言えフェルニゲシュは花街の王だ。
「何故そのようなことを?」
アルペンローゼも慎重に問いを返す。滅多なことは言えない。
「フェルニゲシュは花街を滅茶苦茶にしただろ。アイトワラスと同罪だ。首輪とか何かの所為にして罪を免れてるだけだよな? 王だから死刑にできないのか?」
「嘗てなら首が物理的に飛びそうなことを言いますね……。僕個人の考えで良ければ話しますが、如何ですか?」
「君はよく仕事ができるらしいし、それなら頭も回るんだと思う。参考に聞いておく」
蒲牢は目の前にあったロシアケーキを一つ抓み、緊張感無く頬張る。表情の変わらない彼は感情が読めない。アルペンローゼは慎重に言葉を選ぼうとするが、回りくどい言い方はせずに素直に答えることにした。花街も変わったのだ。以前より柔軟になった。
「フェル様の命を絶ってしまうと、後に問題が起こります。今は首輪で制御できていますが、化生するとそれが無くなります。化生後に以前のような荒々しい性格を持っていれば、昔とは比べ物にならない程の被害が出ます」
獣は死ぬと幾らかの時間が経過した後に化生する。繁殖する獣は稀だ。化生すると、例外はあるが前世の記憶は無くなる。
「現代では局所的な情報も一瞬で世界中に広まります。獣は元々人間に知られていますが、多くは架空の存在だと思われています。明確な情報が流れてしまえば、他の獣にも不都合が生じます。今でも稀にいる蒐集家が更に増えるでしょう。討伐を企てる者も現れます。他にも様々な問題が発生するはずです」
フェルニゲシュはドラゴンだ。龍属は漏れなく強力な能力を持つ。暴れられては一溜りも無い。
化生した獣は名前だけを継ぎ、容姿も性格も異なる存在が生まれる。能力は殆どが変わらず発現するが、死ぬ前にあった能力が無くなったり、新たな能力が付加されることもある。性格は、それがその獣の性質ならば化生しても引き継ぐ。
「フェルニゲシュが死ぬと面倒臭いってことか。俺の腕を吹き飛ばしたことはともかく、獏を虐めたのはな……一発殴っていいか?」
「あまり刺激しないでいただけると……」
「僕のことはいいよ。僕一人の所為で花街が大変なことになったら生きた心地がしない……」
獏も花街を案じて宥めるが、蒲牢は納得が行かないようだ。花街に行かせて良いのか不安になってきた。
「獏も怒った方がいいよ。ああいうのはちゃんと言った方がいい」
「う、うん……花街に行くのは蒲牢だけなの?」
「? 贔屓と鵺も行くらしい」
獏は胸を撫で下ろした。蒲牢が道を誤りそうになれば贔屓が助けてくれるだろう。
「獏は全然気にしてないみたいだな。虐められたのに寛容過ぎる。大物って感じだ。俺も見習う」
「そう?」
寛容とは少し違う気がするが、獏は彼の解釈に乗っておく。
「覇下のことも、もっと大きく構えてみる。俺が狼狽えてたら、記憶が無くても何かあったって不安にさせそうだし」
「うん。それがいいね。不安にさせたくないなら、いつも通り接すればいいんだよ」
「ありがとう。……今の感じ、友達っぽい気がした。この感じでいこう」
まるで映画かドラマでも撮影しているかのような言い方に獏は苦笑する。自然体で接してくれれば良いのだが、一人の時間が長かった蒲牢は他人との接し方にも頭を悩ませる。
凍り付いた空気が弛緩したので、紅茶を出すタイミングを窺っていた灰色海月は素早く蒲牢の前にティーカップを置いた。
それを飲み、蒲牢も落ち着いた様子でロシアケーキに手を伸ばす。
「もう花街に行かなくていいか。これも美味しいし」
「アルさんが御菓子をいっぱい作るって言ってたよ」
「やっぱり行こう」
あまり待たせるわけにもいかないので蒲牢はロシアケーキを咥えながらアルペンローゼを連れて宵街へ戻った。管狐のことも聞きたかったが、獏と話している内に忘れてしまった。
灰色海月は中身が減っていないカップと飲み干されたカップを下げ、思念の羅針盤を確認する。
「手紙の投函があったので行ってきます」
「一人で大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
掌から灰色の傘を抜いて出て行く彼女を獏は心配そうに見送る。発見された変転人の死体は皆身元不明だが、宵街の変転人が犠牲にならないとは限らない。犯人が何人かもわからない。知り合いが狙われない保証は無い。
「クッキーはたくさんあるし、飯綱にもあげようかな」
灰色海月より獏が心配をしてどうするのだと気持ちを切り替え、新しい皿を出してロシアケーキを盛る。この牢は時間が停止しており、賞味期限というものが存在しない。山盛りの菓子もいつかは食べ切れる。
店の隣の建物をノックするが返事は無い。いつも通りだ。彼はノックがあろうと呼ばれようと返事をしない。そっちが来い、という態度だ。
それも慣れたので獏も遠慮無くドアを開ける。ノックをするのは癖のようなものだ。
管狐は大体二階にいる。そして偶に窓から外を見下ろしている。物静かな獣だ。
「飯綱さん、クッキーの御裾分けを持って来たよ」
二階の一室のドアを開けると、管狐はベッドに腰掛けて鴟吻が置いて行った少女漫画を読んでいた。
「ありがとうございます。客人はお帰りになられたんですか?」
「うん。善行とは関係無いから、どっちも人間じゃないよ」
「あれほど気配を消すのが上手な人間がいたら見てみたいですね。こちらは丁度、失礼な男の顔に平手打ちが飛んだ所です」
「うん?」
何が丁度なのかわからないが、読んでいた漫画の話だ。彼の表情を見るにすっきりと爽やかな気分になる場面のようだ。
「憑き殺しても良いと思える程の失礼な男です」
「へぇ。その本は読んでないなぁ。何をしたの?」
「三股です」
「それは酷いね」
「三人の恋人は友人で、交尾中に残りの彼女が現れて修羅場です」
「本当に少女漫画?」
ベッド脇の机に置こうとした皿を落としそうになった。少女と言うくらいなのだから十歳にも満たない幼い少女も読む本だとばかり思っていたが、随分と過激な内容のようだ。
「鴟吻なら千里眼で本物の修羅場を見られそうだね。僕は興味無いからその本は読まなくていいかな」
「そうですか? 焦る男の顔が秀逸ですよ」
「開き直らないだけマシなのかな? 楽しんでるみたいだし、邪魔しないでおくよ」
灰色海月が戻って来た気配を感じて獏は部屋を後にする。建物を出た所で鉢合わせた。その傍らの、髪を二つにちょんと結んだ幼い少女と目が合った。
「未就学児?」
「いえ。確認した所、小学二年生のようです」
「おや。これは失礼」
小柄な少女は勝ち気な目をして獏の黒い動物面を見上げた。吟味するように凝視する。
「お前が獏!?」
「そうだよ。お店に入って話をしよう」
願い事の代価の話をしても理解できないだろう未就学児は招かないように決めている。それは宵街からも理解を得られている。罪人の善行に罪無き幼い子供を巻き込むわけにはいかない。小学生ならば多少は代価の説明を理解してもらえるが、それでも獏は優しさを見せる。大人に対しては理解していなくとも容赦はしない。
二人を促して獏は店に戻り、奥の古い革張りの椅子に腰掛ける。灰色海月は願い事の手紙を置いて獏の前のカップを下げ、小柄な少女は椅子には座らず立ったまま踏ん反り返って獏を睨み付けた。全く迫力が無い。
「獏は今日から私の下僕になる!」
「ん?」
獏は笑みを作ったまま首を傾けた。
「それが私の願い事だから! よろしくね! 下僕!」
「え?」
獏は慌てて手紙を確認する。
『獏は私のげぼくになれ』
「命令!?」
これは願い事とは言えないのではないだろうか。それでも獏は真摯に話を聞こうとした。相手は小学生だ。言葉の意味を理解していないかもしれない。
「下僕って……何か知ってる?」
「何でも言うことを聞く人のこと」
「んー……まあそうなのかな。じゃあ君は僕に何をしてほしいの?」
「下僕」
「んっ……えっとね……下僕に何をさせたいの?」
「おやつを買って来るとか、一緒に遊ぶとか」
「ちゃんと子供で安心したよ」
要は買物と遊び相手だ。それなら願い事として簡単に受理できる。
「それくらいなら御安い御用だよ。期間や回数は決まってるかな? 長くなるとそれだけ代価が膨れ上がるよ。代価は君の心の柔らかい所をほんの少し――」
「一生」
「一生!? 人間だから百まで生きるとして……九十年も!? 君の心がすっからかんになっちゃうよ!」
それよりも、後九十年も罪人としてこの牢で過ごしたくない。獣には明確な寿命は無いので普通に過ごしていれば何百年も千年でも生きてはいるが、九十年以内に釈放されたいものだ。
「一生は無理ってこと? じゃあいつまでだったらいいの?」
「君はまだ幼いから、心もそんなに育ってない。大人に比べたら払える代価は少ないよ。それに空っぽにして廃人にしちゃったら僕が怒られる。廃人にしない程度なら……精々半月かな? これもサービスして多く見積もってるから、もっと短いかもね」
「半月か……」
「短いかな?」
「短い! せめて小学校を卒業するくらいがいい」
「小学校はえっと……六年だよね? 後四年か……サービスしたとしても無理だね」
「下僕の癖に!」
「もう下僕になってるの?」
「やだぁ! 私も下僕欲しい!」
「私『も』? 学校で流行ってるの?」
「ママが下僕を飼ってる」
獏は彼女の家庭環境が心配になった。
「そ……その下僕は何してるの……?」
「椅子になったりしてる。でもママはあんまり帰って来ない。下僕はママの下僕だから私の言うことは聞かない。だから私も私の言うことを聞く下僕が欲しい」
「つまり……もしかして君は、寂しいの?」
「!」
「図星だね。一人ぼっちで寂しいから遊び相手が欲しいんだね。友達はいないの?」
勝ち気だった少女の顔が一気に曇る。あまり聞かれたくないことのようだ。
「友達は……あの子のママはおかしいから一緒に遊んじゃ駄目って言ってるの、聞いたことある」
「ああ……君くらいの歳だと親の存在が大きいよね。成程ね。じゃあ君の願い事を叶えてあげるよ。但し、長くても三日だ」
「三日!? 凄く短い! 短くなった!」
「理由はね、君が友達を作るためには色んな心が必要だから、代価で取っちゃうと今後、友達作りが難しくなっちゃうからだよ。友達を作るためには、僕なんかに心を渡しちゃ駄目だ。僕が与えられるのは束の間の夢だけなんだから」
「夢……? 寝るの?」
「うーん……ちょっと難しかったかな?」
立ったまま座ろうとしない少女の前に、灰色海月は幼い顔を窺いながら紅茶のカップを置く。
「紅茶は飲めますか?」
「馬鹿にしないでくれる?」
少女は自信満々に鼻で笑い、湯気の立つ紅茶を見下ろす。
「……砂糖とミルクは?」
「少々お待ちください」
何も入れずには飲めないようだ。灰色海月は台所へ戻ってミルクを温める。その間にシュガーポットを出しておく。
温めたミルクをミルクピッチャーに注ぎ、少女の前へ出す。少女は漸くガタガタと椅子に座り、砂糖とミルクをたんまりと入れた。それをティースプーンでぐるぐると掻き混ぜる。
「紅茶牛乳みたいだねぇ」
「何言ってるの? ミルクティーだよ」
「僕はブラックで飲むね」
「大人ぶってるの? 下僕の癖に!」
「ふふ……珈琲は無理だけど、紅茶ならミルクと砂糖無しで飲めるよ」
何故張り合っているのだろうと思いながら、灰色海月は傍らに下がった。
「獏! 下僕だから椅子になって! ……あつっ」
砂糖とミルクをたっぷりと混ぜ込んだ紅茶を飲もうとし、少女は慌てて口を離す。猫舌のようだ。
「気を付けて。あと椅子にはならないよ。ちゃんと椅子があるからね」
「確かに……椅子が無いから椅子になってもらうんだよね。ママもそう。じゃあおやつ買って来て!」
「おやつなら……クラゲさん、クッ……ロシアケーキを持って来てくれる?」
「はい」
「ケーキ!? ケーキがあるの!? 気が利く下僕!」
灰色海月が皿に盛ったそれを机上に置き、少女が落胆したことは言うまでも無い。表情も含め、全身で残念を表現している。
「クッキーじゃん……」
「ロシアケーキです」
「見た目に惑わされず食べてみなよ」
「味はケーキってこと? ケーキ味のクッキー? 全部ケーキがいいんだけど」
そうは言いつつ、少女は赤いジャムが載った大きなクッキーを頬張った。
「クッキーじゃん!」
「ふふ」
「じゃあケーキ買って来て」
「嫌だよ」
「下僕の癖に拒否した!」
「下僕にだって拒否権はあるよ」
「ないよ!」
怒鳴って喉が渇いたのか、少女は紅茶に口を付けた。必死に吹いて冷ましながらだ。
「下僕の……癖に……」
その顔が見る見る内に歪んでいく。
「うわああぁん!」
唐突に目から大粒の滴を零し、少女は大声を上げた。俄雨のようにあまりに突然で獏も面喰らった。まるで山の天気だ。
「煩い……」
掠れた声でぼやきながら、階段から灰色頭が顔を出した。迷惑そうな顔で欠伸を噛み殺している。
新たな声に少女は泣きながら彼を視界に入れ、時間が止まってしまったかのようにぴたりと泣き止んだ。
「佐藤クララ!?」
「!」
人間がそこに居るとは知らず、寝起きの眩草の顔は一瞬で青褪めて棚の陰に引っ込んだ。その棚を少女は覗き込もうとし、獏は慌てて制止した。
「そっ、そんな有名人がこんな所にいるわけないよ。他人の空似だよ」
「そらに……?」
「そうだよ。只のそっくりさんだよ」
「こんな所に本物がいるわけないか……佐藤クララは王子様だから森の中のお城にいるもんね」
人間からはそういう認識なのだろうかと獏は横目で眩草を窺い、彼は『何を言ってるんだ?』と怪訝な顔をしている。
「この際そっくりさんでもいい。私の夢は佐藤クララにお姫様抱っこしてもらうことだから!」
駆け出しそうな肩を両手で押さえ込み、獏は少女を椅子に押し付ける。眩草は、人間の街では本人の意思とは無関係に有名人だ。こんな所で人間に接触してしまえば変な噂が立ってしまう。獏の噂も妙な広まり方をしてしまうだろう。以前とある有名人が広めてしまった件が脳裏を過ぎる。獏の噂は大きく広まると危険だ。
「下僕! 佐藤クララを捕まえて!」
「そっくりさんだよ」
「そっくりさんでもいいから捕まえて!」
「えっと……君はそんなに彼のことが好きなの? 偶々見た……気がするから、声を掛けよう、っていうミーハーかな?」
「大好きだよ! ポスターがあったら壁一面に貼りたいくらい!」
眩草は有名人だが、芸能人ではない。当然、写真を撮影して販売などしていない。
キラキラと目を輝かせる少女から目を逸らし、獏は隠れている眩草の方を見る。彼は首を横に振りながら両手で大きくバツ印を作った。
「君がここに来たのは僕を下僕にするためだよね? 余所見は許さないよ」
「佐藤クララを下僕にして家で飼う」
「ママの言葉をそのまま外で使っちゃいけないよ。道徳的に問題があるからね」
「獏も道徳を気にするの?」
「僕は気にしないけど君は気にした方がいいよ」
「ママはおかしいの?」
純朴な目で純粋な質問をする少女に、獏は僅かに答えを迷った。幼い子供の世界では親の存在が大きい。最も信頼できる大人だ。
「おかしいよ」
だが獏は正直に答えた。嘘を吐いてしまったら、この少女までおかしくなってしまう。
「薄々思ってたけど、やっぱりおかしいんだ……」
少女はまだ道を引き返せる。獏は利口な少女に微笑む。
「じゃあ下僕じゃなくていいから佐藤クララを連れて帰る」
「うーん……もうちょっと改めてほしかったな」
獏は眩草を見、彼は首を振る。今にも舌打ちをしそうな顔になっている。
「出て来ていいよ。会った記憶は僕が食べてあげるから。このままだとこの子はずっとここにいそうだし」
眩草は首を捻り、声は出さずに口を動かす。獏はそれを読み取った。
『記憶を食べると僕に会ったことを忘れるのか? 何だそれ。僕に何かするんじゃないだろうな』
「君には何もしないよ。記憶を食べるのは初めてじゃないし、安心して」
「…………」
「早くお姫様抱っこしてあげてよ。話を聞いてくれない子供は僕もお手上げだよ」
「……ちっ」
眩草は今度こそ舌打ちし、渋々棚の陰から姿を現した。少女は目を丸くし、驚きのあまり停止ボタンを押したように微動だにしなくなった。
「王子様……」
「君のファンって皆こんな感じなの?」
「知るか」
岩のように固まってしまった肩を軽く叩き、面倒はさっさと終わらせようと眩草は華奢な脚を掬い上げる。小柄な少女は抱かれると言うより、荷物を持ち上げられるかのように抱えられた。
「よし、終わりだ」
「わ、わわ私、こんな幸せでいいのかな……」
「良かったねぇ。代価を貰うね」
余韻に浸る少女の両目を手で塞ぎ、獏は動物面を外す。露わになった金色の双眸と眩草の目が合う。至近距離なので彼がこくりと唾を呑んだことがわかり、獏は怖がらせないよう微笑んだ。人間の中で暮らす彼は月のような獣の瞳なんて見たことがない。
人形のように整った顔で少女に口付け、記憶を戴く。少女は興奮が頂点に達したこともあり、糸が切れたように首を垂らした。記憶は食べたが、幸せな気持ちはそのまま残しておいた。
「クラゲさん、この子を家に帰してあげて」
「わかりました」
眩草から少女を受け取り、灰色海月は灰色の傘を手に店を出る。獏は笑顔で見送った。
「そうそう。クララさん。起きたついでに話を聞いて。君が見つけた死体以外にも変転人の死体が人間の街で複数見つかってるみたいだから、君も気を付けてね」
「ついでに話す内容か……? 獣同士の抗争に巻き込まれたのか? 迷惑だな」
「派手な抗争があったら宵街が把握してると思う。でも宵街は認知してないし、死体も身元不明」
「僕みたいにひっそり暮らしてる変転人が狙われてる……?」
「わからない。でももし何かわかったら、クラゲさん経由で僕にも情報が入るはず」
「前にも何度か獣の仕業っぽい事件はあったが……殺しの瞬間がカメラにがっつり映ってるのに犯人はわからないまま有耶無耶でニュースから消えた事件とか、住宅街が瓦礫の山になって竜巻の所為だって片付けられた件とか……」
「さすがだね。テレビ局で仕事してるだけある。それは前者が渾沌で後者はヴイーヴルって獣かな。後者は窮奇の可能性もあるけど」
「やっぱり獣か……お前達が揉み消したのか?」
「獣の存在が知れ渡らないよう調整はしてるはず。名が大勢に知れ渡ると個人差はあるけど獣は力を増して、性格によっては危険になるから」
「僕は他言しない。巻き込まれたくないからな」
「賢明だね。もし巻き込まれそうになったら、今回みたいにここに逃げ込んで。僕が保護する」
「他の獣もお前みたいな奴なら……」
「ん?」
「……。寝足りないからもう少し寝る」
「もう結構寝てるけど、出勤しなくて大丈夫?」
「え? そんなに寝たか!? ここ時計が無いから……」
ポケットから慌てて携帯端末を取り出して時間を確認する。圏外でも時計は動いている。
出勤時間は疾うに過ぎていた。転送で一瞬とは言え、時間を遡って転送はできない。
「早く起こせ……誤魔化せない程の遅刻だろ……」
「疲れてる時は寝るといいよ」
「くっ……仕事しない獣は気楽でいいな。容疑者になるのは御免だから出勤する」
「朝食にロシアケーキを持って行く? クラゲさんが作ったんだよ」
「もう昼なんだよ。朝食の時間じゃない」
それでも獏はロシアケーキを紙袋に詰め、眩草に持たせた。ずしりと重い袋を彼も受け取った。文句は言ってもここを出れば腹は減る。
言い訳を何としようか考えながら、眩草は灰色の傘を掌から引き抜いた。傘の出し入れももう随分と慣れた。
「……あ。武器の……作り方、でいいのか? 後で教えろ。護身用に」
「一生使う武器だから、よく考えておくといいよ。人間が使う刃物や銃だけじゃなくて、思い通りに色々作れるから。クラゲさんは海月の触手を生成するよ」
「考え甲斐があるな……じゃない。早く出勤しないと」
獏の牢には人間の街の電波は入らない。誰かが眩草の端末に電話を掛けていても繋がらない。無断欠勤か失踪か、死体になった同僚の所為でちょっとした騒ぎにはなっているだろう。




